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第5章 苦しみの先に




教育実習・残り3日




翌朝。


青はどうやって寝たのかを思い出せなかった。




ただ、身体はいつものように


午前5時50分に勝手に目を覚ました。




(……起きるんだな。こんな状態でも。)




教育実習は今日を含めてあと3日。


今日は体育授業の“通し”を担当する大事な日で、


休めるはずもない。




重い身体は、悩むより先に支度を始めてしまう。




(……こんな状態で行かないと、いけないのか。


 蒼太を置いて……


 俺はやっぱり無力だ)




(もう……行かなきゃ)




玄関に向かうと、


寝室からゆっくり蒼太が出てきた。




「……先輩?


 ……いってらっしゃい」




その声は驚くほど冷静で、柔らかくて、


でも、どこか“諦め”が混じっていた。




こんなにも苦しい


「いってらっしゃい」があるだろうか。




胸が押し潰れるような痛みを抱えたまま、


青はアパートを出た。





どうやって登校したのか覚えていない。


気がつけば、青は体育準備室に立っていた。




先に角石と高橋が授業の準備をしていた。




「佐伯、おーっす!」




「おはよ……眠い……無理……」




「智也、昨日10時間寝たろww」




ふたりのいつも通りの掛け合いのあと、


表情が一変する。




「……おい佐伯。


 お前……大丈夫か?」




「ほんとだよ。


 今日、体育授業の通しだろ?


 持つ?」




「あぁ……おはよう。


 大丈夫だよ」




「いや、どう見ても大丈夫じゃねぇって……」




そこへ佐々木コーチが入ってくる。




「おはよー!


 昨日はゆっくり休めたかぁ!?——」




ピタッ。




青の顔色を見た瞬間、


佐々木コーチの声が止まった。




「……おい佐伯、顔どうした?」




高橋が静かに一歩前へ出る。




「コーチ……


 今日の体育の通し授業、


 佐伯の代わりに俺がやります」




「……!」




「佐伯、今日は……無理です。


 明日でも授業は組めますよね?」




少しの沈黙のあと、


佐々木コーチは深く頷いた。




「……おぅ、大丈夫だ。


 高橋、お前がやれ。


 佐伯、今日はお前はいいから」




「……はい。


 すみません……


 高橋……ありがとう」




角石


(……佐伯……マジでやばい)




* * *



夕方。


高橋の“通し授業”は無事に合格点で終わった。




「今日は試験前で野球部の練習ないからな。


 このまま解散にするぞー」




「助かるー!」




「コーチありがとうございました……眠……」




「お前は寝ろ」




そして佐々木コーチは青を呼び出し。




「——佐伯。


 お前は残れ」




空気が変わった。




角石と高橋が心配そうに振り返る。




「……わかりました」




重い足取りのまま、


青は準備室に残った。






夕陽が差し込む体育準備室。




いつもなら、外には野球部の掛け声や


ブラバンの音が響いているはずだった。




だが今日は試験前で部活動が休み。


校内は静まり返り、


どことなく切ない空気だけが漂っていた。




青は机に座り、力なく俯いたまま。




佐々木コーチは黙って電気ケトルを動かし、


カップにゆっくりとコーヒーを注ぐ。




その香りだけが、


夕暮れの空気にじんわり染み込んだ。




「ほい」




青の前にカップが置かれる。




「……ありがとうございます」




その手はわずかに震えていた。




向き合う人二人




「佐伯、今日はどうした?」




その声は、優しく、でも本質を逃さない声だった。




「昨日帰ってから、……何かあったか?」




「…………」




言葉が出ない。




「岡谷と、何かあったな」




青はビクリと肩を揺らした。




「ただの喧嘩じゃねぇな。


 ……失恋したか?」




「い、いえ……」




「お前、今日一日中ずっと


 “失恋しました”って顔してたぞ」




「……そうかもしれません」




その静かな告白は、


青が限界ギリギリで立っている証だった。




佐々木はふっと微笑む。




「昔、俺が言ったこと……覚えてないか?」




「え……?」




――記憶がよみがえる。




夏のキャンプ。


心地よい朝もやの中、


コーチは確かに言っていた。




“困ったら……まあ、相談くらいは乗るぞ”




「あれ、時効なんてねぇからな。


 話せる範囲でいい。


 ……話してみろ、佐伯」




青は唇を噛んでいた。


言えば崩れてしまう気がした。




でも──


その沈黙を、コーチは静かに待ってくれた。




だから、


青はゆっくりと口を開くことができた。




堰を切ったように


青の言葉が静かに溢れていった。




全てを語ったわけではない。


でも、核心は伝わった。






「……だから……俺は……


 本当に……無力で……」




最後の言葉は涙でかすれた。




準備室に沈黙が満ちる。




「……佐伯」




佐々木は机に肘をつき、


青の目線に合わせるように身を乗り出した。




「苦しかったな。


 ‥‥辛かったな」




青の肩がわずかに震えた。




「まずな……


 お前は無力なんかじゃない」




「……でも……」




「いいか、佐伯」




その声は、


まるで“心に手を添える”声だった。




「お前はまだ学生だ。


 大人って言ったって、


 責任全部背負える年じゃねぇ」




「こんな状況……


 誰だって難しい。


 お前みたいな、


 学生じゃあ、なおさらな、、」




「だからな。


 自分を責める必要はない」




青の呼吸が、かすかに整っていく。




「お前は……


 無力なんかじゃない」




その言葉がやわらかく響いた瞬間、


青の胸の奥に、


少しだけ温かいものが流れ込む。




「——大丈夫。


 大丈夫だ、佐伯」




その言葉は、


慰めでも励ましでもなく、


青の存在そのものを肯定する言葉だった。




(あ……胸の奥が……ほんの少し……軽くなる……


 この苦しみが……溶けていくみたいだ……)






コーチは青が落ち着くのを待ってから、


PCを開き、何かを黙々と調べ始めた。




その背中は、


“守る大人”そのものだった。






「……そうだな。


 岡谷はいま大学3年か」




パソコンを操作しながら、


画面を覗き込みつつ低くつぶやく。






「たしか国立の……S大学だったよな。


 ……ふむ。


 いま自主退学は……


 そりゃ、勧められねぇな」




青は黙って、その背中を見つめていた。




「よーし。佐伯。


 ちょっと電話してくるから待ってろ」




スマホを片手に、


佐々木はすっと準備室を出て行った。




数分後


扉が開き、佐々木が戻ってくる。




「佐伯。


 いま、S大学の学生課で働いてる友達


 に電話してきた」




「……え?」




佐々木は椅子を引き寄せ、


青の前に座ると、真っ直ぐに言った。




「岡谷は……奨学金を申請すればいい」




「え?


 大学3年からでも……大丈夫なんですか?」




「大丈夫だ。


 むしろ最近は途中からの申請も多いらしい。


 事情が事情だし、


 岡谷なら問題なく通る可能性が高い」




青は息を飲んだ。




佐々木は、


そこから一つひとつ噛み砕くように説明を始めた。




「いいか、佐伯。


 まず国立大学ってのは、


 そもそも学費が私立より全然安い」




「S大学なら、年間の授業料は約54万だけだ。


 私立なら100万超えるところも普通なのにな」




「……そんなに違うんですか」




「それに国立は“無利子の奨学金”が多い。


 いわゆる“日本学生支援機構(JASSO)”の


 第一種ってやつだ」




「成績も悪くないなら、なおさら通りやすい。


 で、岡谷なら……家庭の事情もあるだろ?


 両親いなくて、仕送りも途絶えてる」




青は黙って頷く。




「こういう“緊急採用”って制度があってだな。


 家計が急変した学生は、


 年度途中でも申し込めるんだよ」




「……じゃあ、本気で……?」




「あぁ。


 岡谷は絶対に申請したほうがいい。


 生活費もサポートできる制度がある。


 国立はそのへん、


 サポートがめっちゃしっかりしてる」




「……そんな制度……あったんだ……」




「あるんだよ。


 だから、まずはそこだ」




青の顔に、うすい光が差す。




「……佐々木コーチ……


 本当に……ありがとうございます」




「俺……どうしたらいいか……


 全然分かんなくて……


 何も見えなくて……」




佐々木は、ぽん、と青の肩を軽く叩く。




「仕方ねぇよ。


 一人で背負ってたんだろ?


 こんな状況、学生ひとりじゃ


 “糸口を探す”のも難しいもんだ」




「でも、もう大丈夫だ。


 ほら——」




佐々木は優しく笑ってみせた。




(……胸の奥が……


 少しだけ……暖かくなる……)






「……佐伯。


 今日はもう遅いし、寮に泊まっていけ」




「……え?」




「昨日の今日だろ。


 お前は、


 岡谷と今日は顔合わせにくいだろ。


 お互い頭、冷やしたほうがいいさ」




そう言いながら、


Tシャツの上にジャージを適当に羽織る。




「ほら、佐伯。


 メシ行こーぜ。


 今日は奢ってやる」




「コーチ……」




胸の奥が熱くなり、


何かがじんわりと動き始めた気がした。




青はスマホを取り出し、


蒼太に「今日は寮に泊まる」とだけLINEを送る。




数秒後、すぐに返事が来た。




『わかりました』




その簡素な言葉に胸が痛む。


それでも、今は……動くしかない。




「……コーチ。


 どうして……俺に、


 こんなに良くしてくれるんですか?」




佐々木は一瞬きょとんとしたあと、


ふっと優しく笑った。




「お前はな……


 何歳になっても、かわいい生徒だしな」




「……!」




「それに……俺は、気に入った生徒には


 とことん指導する性格なんだよ」




青の口から、久しぶりに自然な笑顔がこぼれた。




「……ありがとうございます」




「教師になったら分かる。


 生徒が困ってたら……ほっとけねぇんだよ」




「……勉強になります」




「よし、行くぞ。腹減ったろ」




準備室をあとにして、


夕暮れの廊下を並んで歩く。




その日の夕食。


青は箸を持って、ふと気づいた。




——“味”がする。




久しぶりに、


ちゃんとご飯の味がした。




胸の奥の痛みはまだ残っている。


けれど、それでも確かに感じた。




苦しみの先に、


わずかな光がある。




青は、ゆっくりと息を吸い込んだ。



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