第39話 それでも記す
夜明け前、街は静まり返っていた。
灯りはある。
人もいる。
だが、動きがない。
判断を、各自が抱え込んでいる空気だ。
宿の一階で、ルドが一人、机に向かっていた。
蝋燭が三本。
帳面は、すでに何冊目か分からない。
「……寝てないな」
「今は、眠れない」
即答だった。
文字を書く音が、途切れない。
「書くなと言われた覚えはない」
「言ってない」
「なら、続ける」
それだけの会話だった。
俺は、向かいの椅子に腰を下ろす。
帳面は、こちらを向いていない。
「何を書いている」
「失敗だ」
ペンが止まらないまま、答える。
「成功例より、圧倒的に多い」
「触れて悪化した例」
「待って間に合わなかった例」
「言葉を信じて混乱した例」
「……需要がない」
「だから残す」
ルドは、淡々と言った。
「需要がある記録は、必ず歪む」
「だが、不要な記録は、残る確率が高い」
皮肉だが、正しい。
「俺の名前は書くな」
「書かない」
「技術名もいらない」
「そもそも、名付けられない」
ルドは、初めて顔を上げた。
「君のやり方は」
「技術じゃない」
「知ってる」
「判断だ」
「もっと曖昧だ」
ルドは、少し考えてから言った。
「……態度だな」
「悪くない」
それなら、残ってもいい。
帳面の端に、図が描かれている。
矢印は、途中で途切れ、
注釈には「不明」と書かれている。
「分からないまま、残すのか」
「分からないと、分かったから残す」
ルドは、ペンを置いた。
「いずれ、誰かが読む」
「誤解する」
「間違える」
「それでいい」
俺は、頷いた。
「正解に見えなければ」
「考える余地が残る」
沈黙。
蝋燭が、短くなる。
「……街を出るのか」
「ああ」
「いつ」
「今日中に」
ルドは、少しだけ寂しそうに笑った。
「君が去ったあと」
「この記録は、危険物扱いされる」
「だろうな」
「燃やされるかもしれない」
「それでも、いい」
全部消えるなら、
それまでだったということだ。
「だが」
ルドは、帳面を閉じた。
「一部は、残す」
「全部じゃない」
「断片だけだ」
それでいい。
断片なら、
誰かの人生を支配しない。
夜明けの鐘が、鳴った。
俺は、立ち上がる。
「世話になった」
「こちらこそ」
握手は、しない。
触れない。
それで、十分だ。
宿を出ると、空が白み始めていた。
この街には、
記録だけが残る
理論にならなかった断片が残る
正解にならなかった考え方が残る
それは、十分すぎる痕跡だ。
歩きながら、息を吐く。
吐く方を、長く。
誰かが、
この記録を読んで、
何も分からなかったとしたら。
それが、
このやり方の、
一番正しい伝わり方かもしれない。
俺は、振り返らずに歩いた。
背後で、
紙を閉じる音がした。
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