第36話 触れる責任
雨は、止んでいなかった。
夜が更けるにつれて、音だけが残る。
屋根を叩く水音が、規則正しく続いている。
宿の一階で、怒鳴り声が上がった。
「来てくれ!」
「早く!」
俺は、顔を上げた。
嫌な予感が、最初からあった。
担ぎ込まれてきたのは、昼に見かけた若い男だ。
職人の手伝いをしていたらしい。
身体は強そうだが、顔色が悪い。
「……胸が……」
言葉が、途中で途切れる。
治療官は、まだ来ていない。
この街では、雨の日は遅れる。
(……急性だ)
迷う時間は、少ない。
俺は、近づいた。
触れる前に、分かる。
これは――待てない。
だから、触った。
胸に手を当て、流れを探す。
詰まりは、はっきりしている。
(……いける)
そう思った瞬間が、いけなかった。
押す。
逃がす。
いつも通りのはずだった。
だが。
男の身体が、大きく痙攣した。
「……っ!」
周囲が、息を呑む。
(……違う)
流れが、思ったより脆い。
押した瞬間、崩れた。
「離れろ!」
誰かが叫ぶ。
俺は、すぐに手を離した。
遅かった。
男の呼吸が、乱れる。
さっきより、浅い。
(……悪化した)
事実を、飲み込む。
言い訳は、ない。
治療官が駆け込んできた。
「何があった!」
「……触った」
それだけ言った。
治療官は、状況を一瞬で理解し、祝福を流す。
光が灯る。
だが――
男の呼吸は、戻らない。
祝福が、空を切る。
「……くそっ」
治療官の声が、震える。
俺は、下がった。
邪魔をしない。
数分後、治療官は手を下ろした。
「……間に合わなかった」
誰も、俺を責めなかった。
だが、それが一番きつい。
男は、動かない。
雨音だけが、続いている。
ルドが、帳面を持ったまま立っていた。
何も書いていない。
「……書かないのか」
俺が聞く。
「書く」
ルドは、静かに答えた。
「だが、今じゃない」
それだけで、十分だった。
周囲の人々が、散っていく。
誰も、俺を見ない。
俺は、外へ出た。
雨に打たれながら、深く息を吐く。
吐く方を、長く。
(……触れた責任だ)
待てないと判断した。
間違っていた。
それだけのことだ。
完璧なやり方など、ない。
だから、触ることは、常に賭けだ。
それを、忘れかけていた。
宿の軒下で、立ち尽くす。
救えなかった。
それだけじゃない。
悪化させた。
その事実から、逃げない。
ルドが、外に出てきた。
「……君は、間違ったか」
「間違った」
即答だった。
「後悔は」
「ある」
「それでも、やるか」
俺は、少し考えた。
「……やる」
「だが、もっと待つ」
待てない時ほど、
待てるかどうかを疑う。
それが、次の基準になる。
雨が、少し弱くなった。
夜は、まだ終わらない。
触れる責任は、
救えなかった数だけ、重くなる。
それでも――
触れなければ始まらない場面が、
確かに、ある。
俺は、濡れた手を見つめた。
この手は、
救った数より、
失った数を、先に覚える。
それでいい。
忘れなければ、
次は、少しだけ――
遅くなれる。
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