第35話 待つという行為
その夜、街に雨が降った。
強くはない。
だが、止まる気配もない、粘るような雨だ。
宿の裏手、軒下に人が集まっていた。
誰かが倒れたらしい。
担ぎ込まれてきたのは、若い女だった。
昼の職人とは違う。
身体はまだ強い。
だが、顔色が異様に悪い。
「……息が、苦しい……」
か細い声。
治療官がすでに来ていた。
祝福の光が、弱く灯っている。
「詰まりは、ない……」
「だが、動かない……」
治療官の声が揺れる。
俺は、少し離れた場所から見ていた。
触れない。
だが、目は離さない。
(……急ぎすぎだ)
祝福が、流れを押している。
だが、身体が受け取る準備ができていない。
焦って押せば、
閉じる。
「もう一度、強める!」
治療官が言う。
「待て」
思わず、声が出た。
全員が、こちらを見る。
「今は、待て」
「……何を根拠に」
「今は、動かさない方がいい」
治療官は、苛立ちを隠さなかった。
「待っていたら、死ぬぞ!」
「動かしても、同じだ」
空気が、張りつく。
俺は、近づかないまま言った。
「呼吸を、見る」
「脈を、見る」
「流れが、戻ろうとしてるかを見る」
「……戻ってなど」
治療官の言葉を、途中で止めた。
女の指先が、わずかに動いた。
誰も、気づかない程度。
「……今だ」
俺は、低く言った。
「触らない」
「押さない」
「祝福も、止めろ」
「正気か!」
「今、動かしたら閉じる」
治療官は、歯を食いしばる。
だが、祝福の光を弱めた。
――待つ。
時間が、重く流れる。
一秒。
二秒。
三秒。
女の胸が、かすかに上下する。
治療官が、息を呑む。
「……動いた?」
「まだだ」
俺は、首を振る。
「これは、始まりだ」
さらに、待つ。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
やがて――
女が、浅く息を吸った。
それは、はっきりとした一回目。
「……は……」
治療官が、言葉を失う。
俺は、そこで初めて、一歩近づいた。
触れない。
ただ、位置を変える。
「……ここからは、任せろ」
治療官に、そう言った。
「祝福は、今はいらない」
「身体が、自分で戻ろうとしてる」
治療官は、しばらく迷った後、頷いた。
雨の中、
誰も動かない時間が続く。
十分ほどして、女の呼吸は安定した。
浅いが、持続している。
完全ではない。
だが――
戻れる場所には、戻った。
俺は、そこで離れた。
これ以上は、余計だ。
「……何もしなかった」
治療官が、呆然と言う。
「それが、仕事だ」
静かに答えた。
ルドが、帳面に書き込む。
【待つ=治療行為】
その一文に、俺は首を振った。
「違う」
「違う?」
「待つ“だけ”じゃない」
俺は、雨の中で言った。
「待つと決めることだ」
できない人間の方が、多い。
だから、待つことは、
技術になる。
宿へ戻る道すがら、
俺は息を吐く。
吐く方を、長く。
待つという行為は、
何もしないことじゃない。
一番、我慢が要る仕事だ。
この世界で、
それを仕事だと思える人間は、
ほとんどいない。
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