第32話 説明できない
翌朝、宿の扉を叩く音で目が覚めた。
静かな音だが、迷いがない。
逃げるための猶予を与える気も、驚かせる気もない叩き方。
嫌な予感は、当たる。
「……誰だ」
「神殿ではない」
低い声だった。
だが、柔らかい。
扉を開けると、見知らぬ男が立っていた。
法衣ではない。だが、学者のような外套を羽織っている。
手には、革表紙の帳面。
「昨日の件で、話がしたい」
「治療官か」
「違う。記録係だ」
その一言で、理解した。
一番、面倒な相手だ。
「入れ」
断っても無駄だと分かっていた。
男は、礼儀正しく頭を下げ、部屋に入る。
椅子に腰掛ける前から、帳面を開いていた。
「私はルド。都市連盟の医療記録官だ」
「昨日の事故、現場に居合わせた」
「見てただろ」
「見た」
即答だった。
「そして、理解できなかった」
正直な言葉だ。
「だから、聞きに来た」
ルドは、帳面をこちらに向けた。
細かい文字と図。
魔力循環の仮説。
神殿式治療の流れ。
――そして、空白。
「ここだ」
彼は、その空白を指す。
「祝福を使わず、回復反応が起きた部分」
「説明が、できない」
「できないだろうな」
俺は、椅子に腰を下ろした。
「俺にも、できない」
ルドの眉が、ぴくりと動く。
「……冗談か?」
「本気だ」
帳面を見ないまま言う。
「状態が違えば、全部違う」
「昨日の女と、今日の誰かは、別物だ」
「だが、何かをした」
「触れた」
「待った」
「それだけでは、説明にならない」
「説明できるものは、再現できる」
「俺のは、できない」
ルドは、しばらく黙り込んだ。
帳面に何かを書き足し、また消す。
「……呼吸か?」
仮説を投げてくる。
「呼吸も、違う」
「圧か?」
「圧も、違う」
「では、流れ――」
「“流れ”も、結果だ」
その言葉で、ルドの手が止まった。
「原因じゃない?」
「違う」
俺は、ゆっくり言った。
「流れは、戻った後に見える」
「戻す前には、分からない」
ルドは、額を押さえた。
「それでは……」
「理論が、立たない」
「立たなくていい」
即答だった。
「立てようとした瞬間、嘘になる」
ルドは、苦笑した。
「君は、自分が何を言っているか分かっているか」
「分かってる」
「それは、医学の否定だ」
「違う」
俺は、首を横に振る。
「医学は、平均を見る」
「俺は、今を見る」
「平均は、多くを救う」
「今は、一人しか救えない」
沈黙が落ちる。
ルドは、帳面を閉じた。
「……それでも」
真っ直ぐ、こちらを見る。
「記録させてほしい」
「意味がない」
「意味がなくてもいい」
彼は、はっきり言った。
「分からなかった、という事実を残したい」
その言葉に、少しだけ考えた。
拒否する理由は、ない。
「好きにしろ」
ルドの顔が、わずかに明るくなる。
「ありがとう」
「誤解されるぞ」
「承知の上だ」
帳面を抱え、立ち上がる。
「君のやり方は、広まらない」
「だが……消えもしない」
それは、呪いにも祝福にも聞こえた。
扉が閉まる。
部屋に、静けさが戻る。
俺は、窓を開け、外の空気を吸った。
街は、いつも通りだ。
昨日の事故など、もう話題にもならない。
それでいい。
奇跡は、説明された瞬間に商品になる。
商品になった瞬間、使い潰される。
説明できないままでいい。
戻れた理由が、分からないままでいい。
俺は、息を吐く。
吐く方を、長く。
分からないことが、守ってくれるものもある。
そのことを、
俺は、少しずつ言葉にし始めていた。
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