第1話 治療魔法が効かない理由
治療所の扉が、今にも壊れそうな勢いで開いた。
「先生! 先生ぇっ、早く!」
血と土埃の匂いが一気に流れ込んでくる。担ぎ込まれた男は、鎧の隙間から滲んだ血で胸元を黒く染め、喉を鳴らすように浅い呼吸を繰り返していた。唇は紫がかり、焦点の定まらない目だけが、必死に生を掴もうとしている。
村の治癒師はすでに術式を展開していた。掌に淡い光が宿り、男の胸へと押し当てられる。治療魔法だ。この村では、それが「正しい治療」だった。
だが――光は何度重ねても、男の呼吸を深くはしなかった。
「……なぜだ。こんなはずは……」
治癒師の声がかすれる。周囲の村人たちがざわめき始めた。
「神殿仕込みの治療魔法だぞ?」
「英雄の部下だ、助からないはずがない」
「じゃあ、なんで……?」
俺は少し離れた位置から、男の様子を見ていた。胸の上下ではなく、首、腹、肩――呼吸の“通り道”を追うように。
……ひどい。
「どいてもらえるか」
俺が言うと、治癒師が信じられないものを見るように振り向いた。
「お前、何をするつもりだ。詠唱もできないくせに」
「今は、魔法を使わない方がいい」
その一言で、空気が凍った。
「使わない?」「治療を放棄するのか?」「時間がないんだぞ!」
当然の反応だ。この世界では、治療とは光を当てることだ。光らない治療など、治療と呼ばれない。
俺は男の手首を取った。皮膚は冷たく、脈は速いが弱い。まるで途中で引きちぎられそうな波だ。
胸元の鎧を外すと、肋の下が不自然に腫れている。深い傷。だが問題は、そこじゃない。
「血が戻ってない」
「何を言って――」
「今ここを光で塞いだら、完全に詰まる。そうなったら終わりだ」
説明しても、理解されないのは分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。
俺は男の肩にそっと手を置いた。
「聞こえるか。息をする。吸って……吐く。吐く方を長く」
反応はない。それでも声をかけ続ける。こちらが焦れば、相手の中の“流れ”はさらに乱れる。
「やめろ! 苦しんでるじゃないか!」
「拷問みたいだぞ!」
周囲の非難を背中で受けながら、俺は腫れた箇所の周囲を探った。指先に伝わる、石のように硬い抵抗。ここが塞き止められている。
乱暴に押せば、破れる。破れれば、助からない。
だから、ゆっくりだ。
指を一点に当て、じわりと圧を沈める。男の眉がわずかに動いた。
「……う……」
声が出た。生きている。
「大丈夫だ。今だけだ。吐け。吐く方を長く」
さらに圧を深める。周囲のざわめきが大きくなる。
その時、男の喉がひゅっと鳴り、浅く切れていた呼吸が、一本につながった。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
吐く息が、少しずつ長くなる。胸の動きが、わずかに深くなった。
俺は位置を変え、同じことを繰り返す。塞がれているのは一か所じゃない。順番を間違えれば逆流する。だから、焦らない。
「……先生、俺は……」
「喋らなくていい。息だけだ」
治癒師が、迷いを滲ませた声で言った。
「……本当に、治るのか」
「治すんじゃない。“戻す”だけだ」
俺は男の胸に手を当てた。冷たかった皮膚が、少しずつ温もりを取り戻していく。遅れていた流れが、ようやく巡り始めた感触。
――ここで光を入れたら、全部台無しだ。
「誰も、治療魔法を使うな。今は絶対に」
命令のような口調になったが、譲れなかった。
次の瞬間、男が大きく息を吸い込み、深く吐いた。吐息に、はっきりと熱が混じる。唇の紫が薄れ、目に焦点が戻る。
「……生きてる」
誰かの呟きが落ちた。
俺はそのまま、男の腹に手を置き、待った。ここから先は、急げば壊れる。待つことが、最善になる。
沈黙が伸びる。やがて、男の呼吸は安定した。
「水を。少しでいい。温いのを」
慌てて娘が走り出す。村人たちの視線が、俺に集まる。さっきまでの疑念とは違う、別の色を帯びた視線だ。
それが、正直言って嫌だった。
「……魔法を使わずに、どうやって」
治癒師の問いに、俺は肩をすくめる。
「理屈は後でいい。生きただろ。それで十分だ」
男が、かすかに笑った。
「……助かった。先生……」
「先生じゃない」
即座に否定する。
「ただの、通りすがりだ」
その言葉は、自分に言い聞かせるためのものだった。
この世界は、効くものを求める。効くと分かれば、囲い込み、使い、そして――都合が悪くなれば捨てる。
男の呼吸を確かめながら、俺は小さく息を吐いた。吐く方を、長く。
外で、鐘が鳴る。英雄の隊が戻った合図だ。つまり、次はもっと酷い状態の者たちが運ばれてくる。
俺は立ち上がり、手を拭った。
「次が来るなら、すぐ連れてこい」
そして、誰にも聞こえないように心の中で呟く。
(……頼むから、光で塞ぐな。それをしたら、終わる)
この世界で、その“当たり前”が通じる日は、まだ遠い。
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