1.青き地球を背に
1章 火星航路編
本作は架空の未来世界を舞台としたフィクションです。
登場する国家・団体・人物・制度・事件はすべて創作であり、実在のものとは一切関係ありません。
現実の名称や事象を想起させる場合がありますが、物語上の演出です。
西暦2158年5月18日
神谷レイは、宇宙ステーション・トアの展望デッキを漂っていた。彼がここに来るのは初めての事。
そもそも、宇宙に出ること自体が今回が初めてだ。
宇宙ステーション・トア──テラノバ・インターナショナルパワーズが2135年に建設を開始し、L1ラグランジュポイントに位置する宇宙ステーション。
宇宙各方面への中継拠点として企画され、現在は、軌道エレベーターと、月面都市『ルナ・アーク』、そして、資源惑星向け定期便の発着ステーションとして機能している。
地球圏の宇宙マニアにとって、最遠方の観光地としても知られている──と言っても展望フロアから地球を眺めることが主目的になっている。
宇宙ステーション・トアの土産物として、クレセントロールは定番の一つ。無重力環境でホイップされたクリームは、地球のそれとは異なる性質を持ち、独特のなめらかさを生むとの評判。しかし地球に持ち帰ると、その口当たりは失われてしまうと言われていた。
ラグランジュポイントに浮かぶこの巨大構造体は、神谷にとって新たに踏み込んだ未知の世界だ。
現在のトアは、第二期工事を終えたばかりで、扇状に広がる二枚のフロアが中央の連絡通路「セントラルハブ」を挟み、向かい合うように配置されている。
ゆるやかに回転することで人工重力を生み出しており、その姿はまるで竹トンボのようだ。
ただし、二期工事終了直後のため、一部の内装はまだ仕上げが終わっておらず、むき出しの配管や仮設パネルの箇所が所々あり、通路では誘導作業をしているスタッフの姿や、工具を手に移動する作業員を時折目にする。
遠くからは電動ドライバーの低い唸りや金属を叩く乾いた音が響き、空調に乗って新品の基材と潤滑油が混じった匂いがわずかに感じられた。
二枚のフロアは将来的に円形に接続され、「ミドルフロア」と呼ばれる直径1.2Kmの居住・業務エリアとなり、月重力とほぼ同じ0.6Gを回転により生み出す。
そして、ミドルフロアの上下に同じように1枚づつ発着ターミナルフロアが追加され、串刺ししたハンバーガーの様な形状が完成形だ。完成すればトアは地球圏と深宇宙を結ぶ本格的な玄関口となる。
展望デッキはセントラルハブの両端に位置し、重力フロアから切り離された完全な無重力エリアだ。宇宙船はこの無重力エリアに連結されたフロア――ハンバーガーで言うバンズに接岸する設計だ。
そして神谷は地球側展望台にいる。
上下の間隔があいまいな宇宙空間において、トアでは地球側を上と呼称している。足元全体がガラス張りの展望フロアで、神谷は腕を組み、肩幅に足を開いてゆっくりと漂っていた。
25mプール2枚分ほどの広さの円形フロアには他に誰もおらず、わずかな空調音だけが聞こえ、装飾の少ない壁、全面ガラス張りの床、宇宙空間の暗さが寒さを感じさせる。
展望窓の向こうには、青く輝く地球が浮かぶ。その姿は、子供のころアニメで見た地球と同じでどこか懐かしく感じた。雲の渦がゆっくりと形を変え、消えて・・・そして生まれてくる。暗闇が、音もなく、静かに、ゆっくりと、鮮やかな大地を侵食していく。
神谷はしばらくその光景に見入っていた。
地上では紛争が続き、国境の緊張が絶えず、資源を巡る争いが報道を埋め尽くしている。そんな中でも、こうして宇宙へと手を伸ばしている。
地球さえ1つにまとめることができない人類が、宇宙に進出する事が正しい事なのだろうか?神谷はそんなやるせない気持ちを感じていた。
ふと、彼の脳裏に、トア建設時の反対運動がよぎる。地球から見える月の情緒が損なわれるとして、建設反対運動が起きたことがあった。
「月は人類の詩的象徴であり、夜空の静寂を守る最後の砦だ」と訴える人々の声。
その中には、詩人や画家、天文ファン、そしてただ月を愛する市民たちがおり、彼らにとって、月の手前に浮かぶ巨大構造物は、夜空の美しさを奪う異物と認識されていた。
テクノロジー推進派からすれば誇らしく見えるこの施設も、彼らからすれば月の景観を邪魔する人工物にしか見えないのだろう・・・
満月の中にトアが浮かぶ風景を思い浮かべ、その気持ちがわかるような気がしたのだった。
しかし、トアは今、月の軌道上に静かに存在する。
巨大なこのステーションも地球から見れば、小さなクレーターより更に小さい、よく見れば見える程度の存在だと言う事が分かると、反対運動は次第に消えていった。
それでも、あの反対運動があったからこそ、トアの設計には“透明性”と自然への“最小干渉”が重視された。その直径1.2Kmという控えめなサイズも、反射率の低い外装材も、夜空に溶け込むよう調整された赤い灯も──すべてが夜空への敬意の証だった。
神谷は、そんな記憶を胸に、再び地球を見つめる。
(かつて、ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンの有名な言葉──『地球は青かった』)
「地球は今でも青かった」
(今、言うならこうだろうか?)
神谷は思わず声に出し、照れくささに思わず笑みを浮かべたその瞬間・・・
「ロマンチストなんですね。」
突然声を掛けられ、神谷は驚いて振り返る。そこには、スーツ姿の女性が、浮遊しながら微笑んでいた。




