五 過去 余震②
ここがどこなのか、一瞬わからなかった。
床にはロウソクが点々と灯されていて、部屋全体がセピア色に染まっている。
ぼくはやっと、自分がいつも使っている簡易ベッドに横たわっていたのだと知った。
目をこらすと、デスクと椅子、螺旋階段の踊り場に通じるドアが見えた。
ドアの向こうで、階段を誰かが上がってくる気配がした。足音と声の感じから、二人いるようだ。
ぼくは混乱した。ここはぼくの聖域だ。一階エントランスの電子ロックをこじ開けて侵入してきたのか? いったい、誰が?
「とても気の毒だわ」
螺旋階段の踊り場で、透き通った憂いのある声がした。
「まだ小学生なのに、独り暮らしをさせておくなんて……。あの余震でどんなに怖かったことか……」
「ふん、お人よしだね。あいつはどうせ胡忠功のわがまま息子だ。すぐ父親が保護するだろうぜ。なんだっておれたちが、介抱しなきゃならないんだ」
「そんな風に言わないで。天才児といっても和国に慣れていない、ただの子どもよ」
兼平樹奈……だ。そしてぶっきらぼうなあの声は……サカキバラ。
「龍華の人間に和国民がどれだけひどい目にあわされたか、姉さんだって知っているだろう」
やはり、二人は姉弟なんだ。
「大震災からまだ三カ月だぜ! ヤツらは救助と称して上陸し、宣戦布告もナシに戦闘を仕掛けやがった。おれたちがどんなに憎んでいるか、思い知らせてやりてえよ。あのガキを基地に連れ去って、胡忠功を慌てさせてやる!」
基地? ぼくをそこへ連れ去る?
和国の富士山麓に、まだ戦力を保持している旧和国軍の残党が集結しているらしい。そこだろうか? それとも三沢?
いや、三沢はここから遠すぎる。検問に引っかかるのがオチだ。それとも別に基地があるのか?
「せがれを人質にすりゃあ、胡忠功は和国人をむやみに逮捕しなくなるはずだ。でなきゃ、あのガキの片腕を切り落として送りつけてやる!」
サカキバラの声には憎悪がたぎっていた。背筋が凍る。
思念の「かけがね」を外せば、いま耳にした会話を保安局のパソコンに入っている「群衆HD」というアプリに送信することができる。
密告奨励のためのアプリで、オンライン通報サイトに直結している。
とっさにぼくは、通報しようかと思った。自分の身を守るためなら……。
思いとどまった理由はいくつかある。
もしぼくをサカキバラが「基地」へ連れ去るとしたら、その場所を特定すべきだ。通報はそれからでいい。
あともう一つの理由は、ぼくをベッドに運び、濡れタオルで顔をぬぐって介抱してくれた人物の親切を仇で返したくなかったからだ。
それからもう一つ。胡忠功に頼りたくない。
このまま様子を見ようと判断したぼくは、レイブンの姿を探した。
肉眼で視線をさまよわせていると、すぐ目が乾いて来る。枕元にスマートゴーグルがあることに気づいて、すぐそれを装着した。
「ねえ、やめて」
苛立った口調で兼平樹奈がサカキバラをなじる。
「あなたがするべきことは子どもを拉致したり、傷つけることじゃない。一人でも多くの和国人を安全な土地へ逃がすことよ。そのための基地でもあるんだから」
基地、安全な土地へ逃がす……。
空港か港に近い場所に二人が言う「基地」があるのだろうか?
船なら一度に大勢の人間を運べる。
だけど、台湾と尖閣諸島を奪取した龍華連邦共和国は、海上ルートを掌握している。
台湾と尖閣、そして琉球は和国の国防上、もっとも重要な拠点だった。
特に尖閣には海底に豊富な石油資源が眠っているから、ぜひとも龍華連邦共和国が欲しがっていた海嘯だ。
和国はそのどれをも守り切ることができなかったのは、軍事力が弱かったわけじゃない。
国内の世論が「尖閣のような孤島のために、軍人の血を流すことはない」「和国が防衛力を保持しているから龍華がケンカ腰になるのだ」「龍華と友好を深めるためには軍事拠点を手放そう」と、平和憲法を持ち出して国会に圧力をかけたせいだ。
馴染んだスマートゴーグルのおかげで、ぼくは落ち着きを取り戻した。
とはいえ、危険が去ったわけじゃない。兼平樹奈は妊婦で、非力だ。弟のサカキバラが本気を出せば、あっさりと屈してしまうだろう。ぼくは身柄を拘束されてしまうに違いない。