第二話:知らない君、知ってる私
「陽翔くん……またひとりで帰っちゃったね」
放課後の廊下、窓の外に見える後ろ姿を目で追いながら、美月はそっと呟いた。
その背中は、異世界で何度も見てきた頼もしくて優しい彼のものと、寸分違わなかった。だけど――彼は、もう自分のことを「美月」として見ていない。
数日前、全員で元の世界に戻ってきた時のことは、今でも鮮明に覚えている。全身が光に包まれ、気づけば教室の床に倒れていた。ざわめきの中、陽翔が動かないことに気づき、真っ先に駆け寄った。
でも――彼の目が、美月を見ても何も反応を示さなかったあの瞬間。胸が冷たくなった。
(記憶が……全部、なくなってる)
彼が今持っているのは、転移前――クラスでもほとんど誰とも話さず、いじめまではいかなくても軽く扱われていた頃の自分の記憶だけ。美月と目が合っても、「あ、うん……こんにちは」と、曖昧な笑顔を返すだけ。
(あんなに一緒に過ごしたのに。命をかけて戦ったのに。手を握って、キスもして……)
涙が出そうになる気持ちを、何度も飲み込んだ。
でも――それでも、美月は決めていた。
「もう一度……やり直そう。今度は現実の陽翔くんと、ちゃんと向き合いたい」
それは、自分自身のわがままなのかもしれない。でも、彼がまた一人になってしまうのを、放っておけなかった。
彼は人と関わるのが苦手だ。家のことも、昔から孤独だったのも知っている。
だからこそ、今度は無理をさせない。押しつけない。ただそばにいて、少しずつ……記憶じゃなくて、今の「関係」を育てていく。
「なぁ、美月、今日もダメだったのか?」
後ろから、同じクラスの男子――三原健太が声をかけてきた。魔王戦で陽翔と共に前線に立った仲間の一人だ。
「……ううん、少しだけ話せたよ。『ありがとう』って言ってくれたの。あいまいだったけど」
「そっか。それなら進歩だよ。あいつ、すごい不安なんだと思う」
「うん。……でも、きっと大丈夫だよ。あの陽翔くんだもん」
それは信じているというよりも、祈りに近かった。
美月は鞄を肩にかけ、再び窓の外に目をやる。校門の先、小さくなっていく彼の背中を見つめながら――静かに、歩き出した。
(今度こそ、ちゃんと支えるから。忘れてしまっても、私は、あなたを覚えてるよ)