アリア外伝:ご主人様が、好きだった
陽翔と美月が唇を重ねたあの夜。アリアは少し離れた場所から、それを見ていた。
そっと、物陰に身を引く。胸の奥が、じん、と熱くなる。
(……そう、だよね。わかってた)
陽翔は現実でも、変わっていった。人を信じることを覚え、笑い、未来を歩き出した。
そして彼には、隣に立つべき人がいた。異世界で、そして現実でも、彼の心に触れてきた美月という存在。
(でも……私は)
──
異世界に転移して、みんなと訓練で森に行った際にアリアはみんなとはぐれてしまった。運悪く盗賊に捕まり、奴隷として売られる予定だった。目隠しをされ、鎖につながれ、名前も尊厳も奪われたあの地獄で、彼女に手を差し伸べた人がいた。
陽翔だった。
あのときの彼も、仲間とはぐれていて、偶然アリアを見つけた。一瞬のためらいもなく、彼は剣を振るった。
「大丈夫。俺が君を守る」
その声は、哀れみではなかった。同情でもなかった。
ただ、まっすぐに、彼女を“人”として見ていた。
それだけで――心が救われた。
(あのとき、もう……私は)
救われた身として、当然のように「ご主人様」と呼んでいたけど。そのうち、その言葉に別の意味が重なるようになっていった。
ただ仕える人ではなく、ただ命を預けた人ではなく、
好きな人。
──
現実に戻ったとき、すべては夢だったのかと思った。
でも――陽翔のことだけは、忘れられなかった。彼が美月と話している姿。文化祭で笑っている姿。
遠くから見ているだけでも、あのときの温かさがよみがえった。
(そばにいたいな、って思った。けど……それは違うって、すぐにわかった)
美月が彼の隣に立つとき、彼の瞳が向けられるのは、もう自分じゃないと知った。
──
告白の夜。校舎の陰で、こっそり一人、空を見上げた。
「ご主人様、は……今は、いないんだよね」
自分でそう言って、ひとつ笑った。
そして、小さくつぶやく。
「陽翔くん。……私ね、今でも好きだよ。でも、今のあなたが笑っていられるなら、それでいいって思えるの」
恋を諦めたわけじゃない。手放したわけでもない。
ただ――彼の幸せが、自分の願いになったのだと。あの日、泥の中で拾われた少女は、やっと自分の足で歩き始めていた。
──
そして彼女は、心の中で彼の名前を呼んだ。
「……陽翔くん、ありがとう」
その言葉は、風に溶けて夜空に消えていった。
その夜、アリアの瞳に映る月はすごく滲んで歪んでいたけど、とてもやさしかった。
美月は陽翔のそばにいたけれど、アリアのまなざしにも、ちゃんと気づいていた。
だからこそ、文化祭の後、美月はアリアにそっと声をかけた。
「ねぇ、アリアさん。……ありがとう」
アリアは少しだけ微笑んだ。
「何のこと?」
「全部。……あなたの想いも、あなたの優しさも、きっと陽翔くんの力になってたと思う」
アリアは目を伏せたあと、空を見上げた。
「ううん、違うよ。私は……ただ、好きだっただけ。何もできなかった」
「そうじゃないよ。想うことは、届いてたよ。あの人は鈍いから、言葉じゃわからなかったかもしれない。でも、きっと……あたたかさは、覚えてる」
そう言って美月は、優しく微笑んだ。
二人はそのまま並んで歩き出す。
かつて同じ人を想った少女たちは、今、新たな一歩を踏み出そうとしていた。