第六話
お久しぶりです。更新が遅くなりすみません。ウィアードの嘆き第6話となります。オランダに着いたセオドア一行の物語となります。物語の根幹に繋がるような話であり、この6話が非常に重要な部分になりますのでぜひじっくり読んでいただきたいと思います。
また、最終回までの目途がつき後2,3話で完結予定です。最終回までよろしくお願いいたします。
第六話
「僕は、死体を愛するウィアードです」_
それはアリスの心に氷柱を突き刺されるような衝撃であった。
信じるか信じないかという分かれ道を彼女に提示したらならば、問答無用で彼女は必ず目の前の男が安心をする道を選ぶ。なぜか、それは彼との信頼、そして男のわずかな仕草である。
いつもよりもずっと穏やかだが枯れる手前の花のような弱さを含む声をアリスが信じないわけがないのだった。
息が詰まり、答えようと声を発する前に無意識に鉄のカーテンが2人の心に降りてきた。
「…すいません、何も聞こえなかったことにしていただけませんか。悪魔の手を借りても、貴方を暗闇に連れていくことはできないようです。」
セオドアはアリスから腕を解き、そっとその生ぬるい体温を放していった。横顔を拝もうとするが、髪の陰によって何も見ることはできなかった。
ただ小さい声と卑下と共に漏れているその笑い声は小さい少女に焦りをもたらしているのだった。
室内では布が擦れ今日の自分の舞台が終幕したのだと告げている。小さくなった蝋燭がか細く光を出している。壁、天井、床をそれぞれ弱いオレンジ色に照らしてはいるが隅を見ればそこは焦げた材木のように黒く染まっていた。
アリスは目の前でスーツを脱ぎ、トランクに少し乱暴にしまい込んでいるセオドアを見た。その背中は自分から離れていないのに、遠いように思えた。そして何より小さく、子供のように見えた。
残された掌には何もない。なのに、砂が零れ落ちてしまっているような気がした。
「ねぇ、セオドア。私はきっと今の貴方の言葉を何もなかったことにはできないの。だって、やっと私貴方に会えたと思うんですもの。
…私は今、セオドアの心がどうして荒れてしまっているのかを断言することはできないけれど、貴方にちゃんと言葉を伝えることはできるわ。」
「…荒れた海の王に僕はなった覚えはありません。そしてアリスもその海で航海をし、王の心を理解する必要はないでしょう」
「いいえ!!きっとあるわ!!だって、もう、貴方のことを知るチャンスをセオドアはもうくれないでしょう?!
どうして私の目を見てくれないのかしら、セオドア!」
立ち上がったアリスは肩で息をしていた。初めてのことだった、こんなにも自分の心が焦っていると理解したのは。もっと言うのであれば、どうして焦っているのだろうかと少し俯瞰的になることもできなかった。
夜だというから潜めていた声はいつの間にか荒々しい声になった。棘を男の喉元に突き刺しているかのようだった。
アリスは焦っている、というより怖くなったのだ。あと少ししか共にいられない自分が、彼のことを部分的にしか知らない、という今の現状が。
近くにいて一生を共にすると約束したはずの自分が、周囲の人間よりも何も知らない、そしてそのまま死んでいく。
無知は時に武器になるが、時にそれは未練という遺物となる。
そんなアリスの言葉にセオドアは静かで波のない平坦な声で返していた。私の目を見ろ、というアリスの言葉にセオドアはゆっくりと振り向いた。
その顔は大怪我をしているかのように傷ついていた。涙が出てもおかしくはないのに、涙の流し方を知らないから流せない。気持ちの冷まし方を知らないから、どうすればいいのかがわからない。
「どうかしましたか」
男の声は泣いている子供だった。初めて名前を呼んでほしいと頼まれた日と同じようだった。あの時は純粋に拗ねていた。
『チェーロのことはチェーロと呼び、マーレはマーレと呼びます。僕には何が足りませんか』と。
では、今回はどうなのだろうか。これは単純に拗ねているという一言で片づけることはできるのだろうか。少女は目を見つめながら考えた。背の高い目の前の男はベットに腰かけたままこちらを壊れそうな瞳で見つめている。
黄金に輝くその瞳は琥珀のようで、琥珀から涙が生まれるようだった。
その瞳にアリスは夢中になってしまった。
アモーアが見せてくれたあの宝石を思い出した。大事な人からもらった大切な宝石だと言っていた。アリスにとっての宝石は彼の瞳だったのかもしれない。一瞬たりともその瞳から目線がずれなかったのだから。
「ねぇ、セオドア。ちゃんと話してほしいの。貴方のこと」
それがアリスの出した答えだった。
セオドアは目を小さく伏せるのだった。
きっと彼はその言葉を振り払い鉄のカーテンを閉め切り、暗闇の中で生きる選択を取ることはもうできないのだろう。
セオドア・コーマンが変わった瞬間、いや、ウィアードの世界に光が差し込んだ瞬間は今だったことだろう。出会ったときではない。今なのだ。
今でなければならなかった、それだけである。
「やぁ!アモーア!おはよう~!今日も君の天使のような顔を見ることができるなんて僕は幸せ者だ。今日の君との時間を深海へ沈めるつもりなどないさ、だからまず、僕の手を取ってくれるかい?」
オランダの港にはまたもや昨日のように騒がしい様子が広がっていた。そう、アルデベルトである。
相棒である堅物のファースの姿はなく、アモーアの船の前には昨日よりもめかしこんだ自信家が早朝から大声で女性を口説いているだけであった。
そんな嫌でも起きるような目覚まし時計を止めるため、アモーアはふわりと揺れる花のようなドレスを持ち上げつつ船から降りて来るのだった。
利き手に持っているその日傘により顔全体に影が生まれたことにより、さらに顔の表情が読めなくなってしまっている。
隠れているその顔は微笑むばかりであるが、どことなく青筋も見えないような気もしなくはない。
いや、気のせいではないようだ。相も変わらず、この男性は女心をわかっているようで実際はわからないのだろう。
そういう単純な人間なのだろう。
「おはよう、アルデベルト。ちょっと声の大きさ、考えられるかなぁ?朝から私の耳を壊すつもりなら今日は私は船に戻ってしまおうかな」
「え!?それは困るな…君とのこの時間のために僕はこの数か月を生きてきたんだ!君が望むなら僕の喉を海に捨てるよ。だからお願いだ!今日だけは僕と共にいてくれ!」
アルデベルトはそう言うとアモーアの腰を片腕で抱きしめ自分に急に寄せ付けた。日傘の中に二人の世界は広がり、瞳の中には互いの顔がはっきりと映っている。
いたずらに吹いた風がその男性の熱い視線をわざとらしく遮った。
髪の間から見えるその眼差しは獲物を追っている獣のようだった。
そしてわざとらしく笑った。
そしてそっと腕を引くとアモーアのドレスのしわを伸ばし、日傘を自ら持ちアモーアのために差してあげた。乱れた髪を最後に手慣れた様子で直し、アルデベルトはアモーアのほうを横から見つめた。
アモーアを見下ろすその瞳はあの本国で自分のことを見下ろすあの男とは違い、優しい笑みだった。太陽のようであった。
「さ、行こう。アモーア。君の時間は世界で一番貴重なんだ、僕にとって」
「…またかっこつけているんだねぇ。随分と手際が良くなってて私は驚いたよぉ。次はどこの女性に教えてもらったのさ」
アモーアは自由に歩いた。わざわざアルデベルトに歩幅を合わせる必要性もないからだ。
そのたびに隣の男性はわかっているかのように滑らかについていきた。まるで、子猫のいたずらをなだめる飼い主のように。
少しとげのある言い方をされたが彼は変わらず「?なんのことだい?」とかなり驚きを含んだ声を出す。
まるでアモーアの言い分がすべて間違っている、とでも言いたげなほど純粋な声だった。
「何か勘違いしているようだから、この際弁明してあげよう。
僕が今君にしたことすべては君が教えてくれたことだよ、アモーア。
僕は出会った時から死ぬ時まで、君のこと一筋だ。
どうだい?この僕の目を見てもまだ、信じられないかい?」
立ち止まり、その顔を見れば確かにいつも通り何考えていない能天気な顔が見えた。そしてアモーアの疑うような目線が顔中を駆け巡れば少し眉が顰められ、「あ、あれ?」と冷や汗を流し始める。
そこでやっとアモーアは花が咲くように笑った。口元に手を当てながら「ふふっ」と。
それがアモーアの自然な笑い方であった。
「でしょうね。もし君が私以外を見ているなら、その頭の上のゴーグルも取るようにお説教をいただいているからねぇ。
どうやら本当に私にしか君の目は向かないみたいだ。なんでそんなに私に興味が沸くのか、理解に苦しむねぇ」
アモーアはまた歩き出し、ヒールの音が朝の港から少し離れた海岸沿いの歩道に響いた。
海のさざ波にかき消されることを望んでいるかのようなその小さい声を隣の男性が拾わないわけもなく、「そうだな!」とまた勢いをつけなおした。
「君に宝石を見たからだ!」
アルデベルトは隣の女を見ることはなくただそう言った。叫んだに近いかもしれない。心の感情をそのまま押し出すような言い方である。
その顔には嘘をつくことが苦手な彼の証拠がしっかりと刻まれていた。
耳が赤くなっている。
「宝石を私に見たの?」
「あぁ。アモーアは君は美しいさ。それは見た目だけじゃない、君の心は美しいんだ。
ウィアードなどと自分のことを卑下する必要はないほどに、君は優しく美しい心を、持っているんだ。
だから僕は君に惚れてしまったんだろう。この恋は何回生まれ変わろうが僕は同じ結論を出すだろう。
君が好きと言う結論だ」
男はアモーアの隣で平然とした様子で語った。それまでの赤く染まった耳などは無くなり、ただ自分の意思を持った男がそこにいた。愛する女性にただ言葉という花束を贈るだけの男がそこにいるのだ。その笑みはまるでひまわりであり、その言葉はバラである。
その全てがアモーアのために用意された物であり、他の人間が見ることはない。
だからこそアルデベルトは彼女のために奔走し、彼女のためにと言葉を紡ぐのだろう。純愛、それは彼のことではないだろうか。凡人が羨む恋の結晶、それが純愛であろう。
もう1つ付けくわえるならば、この男には好かれたいから言っているのではないということだ。愛だの純愛だのと述べた、だが、彼はただ思ったこと、それを言っただけにすぎないのだろう。
アモーアはその時アルデベルトとは反対の思いを抱いていたことだろう。そして目の前の男から日傘を奪い取り、そっとその手を振り払い、胸を押しのけ船へ走ってしまいたかった。
どんな天才であろうとも、アモーアとアルデベルトの方程式にて同じ結果を算出することは不可能である。方程式の中の数字が違うのに、結果を同じにすることは不可能だからだ。
ただ、それだけである。
だからこそ彼女は歪な笑みを浮かべる。目の前の男を否定することも、自分すらも騙している幻想のような現状を終わらせることを拒んでいるからだ。
彼女は世界のスポットライトをすべて浴びたいのだ。1人とのラブロマンスを追いかける純粋な女にはなれないのだ。
どうか伝われ、そう願った彼女の指の震えは誰にも気づかれないことだろう。
「それは嬉しいなぁ。ありがとう、アルデベルト。君の心も美しいけどねぇ」
「僕の心がかい?アモーア!あぁ、君から褒められるなんて神から天国行きの片道切符をもらえるよりもうれしいことさ!もう今日は君とこのまま港で語り合うのも素晴らしく思えてくるものさ」
親に褒められた子供のようにその男性は喜んだ。あまりの喜び具合に周囲から目を向けられたことだろう。だが、アルデベルトには関係がなかった。今、彼の視界には彼女以外が見えていないのかもしれない。
あえて断定するのは避けておく。理由はとくにはない。アルデベルトの世界などわかるわけがないのだから。
潮風香る港町を離れていけば、アモーアの願いにより徒歩による街の散策が始まった。行き交う人通りが増え、馬車の数もかなり増えた。歩行者の隣をぶつからない際のところで走り去るその馬車に何度心が冷えたことだろうか。
あぁ、もちろん。アルデベルトがである。
しかし、彼も慣れているのだろう。自ら自然と車道側を歩き出すくらいには余裕があるようだ。
少しばかり胸を張るその姿はまさしくジェントル気取りの成金もいいところである。
アルデベルトは隣で小さく口元を隠して笑う女に底が見えないほどの話をするのである。
その内容はかなり馬鹿げており、日々のつまらなくささいなことばかりだ。
昨日は何を食べた、それがおいしかった。だが、アモーアに食べさせるにはもう少し味付けを変えた方がいいかもしれない。
アモーアの船を迎え入れるのを昨日ファースから聞いて驚きのあまり、ゴーグルを今日までに10回以上は拭いた。
ファースに100年物のワインを買うように提案すればすぐさま止められてしまった。代わりによりおいしい店を予約した。
そういえば最近ファースが毎日のように胃のあたりを摩っている、何か病気なのだろうか。
そんなありふれた話ばかりであった。それを何より、大げさともいえる身振りや手振り、そして耳の奥の奥まで入り込んでくるようなその声。飽きさせないための努力ではなく、もちろんこれもすべてこのアルデベルトという男性の全てであり、隠すことのできない彼の顔である。
セオドアがこの男性の元へ来訪したことも、アモーアがこの男性の照り付ける太陽よりも暑さを感じるほどの好意を無視しないのもそこに理由があるのだろう。
たとえ何もない日のことを彼が語ってみたとしても、それはまるでおとぎ話の冒頭のワンシーンのように心を揺さぶるのである。
それはおそらく、この男にとって人生というものを1冊の小説として見ておりかつ、1頁1文字にすら価値があると信じているからであろう。
「眩しいなぁ…本当に」
それは確かに意図を含んでおり、弓矢であれば射るべき相手が定まっていたことだろう。しかし、その相手が悪かったのだ。あと数秒すれば、アモーアの口から出てくる言葉は「いや、なんでもない」だろう。
「?日傘の位置が悪かったかい!?それはすまない、アモーア!!」
「いや、なんでもない。大丈夫だよ、アルデベルト。ほら、君の言っていたカフェはあれじゃない?」
「そうさ!あのカフェさ!!アモーア、早く行こうじゃないか」
男の足はきっと今すぐにでも走りだしたいという気持ちしかないのではないだろうか。この暑苦しい地面を蹴りだして、隣にいる宝石のように美しい女性の手を力強くしかし壊さない程度に握って走り出してしまいたいに違いない。それこそ、まるで映画のワンシーンのように。
だが、それもアモーアに教えられたことだ。自分を連れ歩きたいのであれば、突拍子もないその行動は慎んでほしい。パニエを多く含んだこの衣装を汚されること、壊されることは君との関係性に終止符を打つからと。
一度、たった一度だけアルデベルトは堪えられないこの気持ちのままアモーアと夜を駆けたことがある。街頭の薄明りに、一定に耳の中を流れる波の音、遠くから聞こえる馬の蹄が地面を蹴る音。その中で目を丸くした女の手を震えた情けない自分の細く長い手が掴み、走り出したのだ。
あの時のことを思い出さない日はないだろう。そう、このようにアモーアと並んで歩く日は決して。
「何を思い出しているのかなぁ、君は」
「君はわかっているんだろう?もちろん、君から頬を打たれたあの日のことさ!僕は君の傍にいるときは君のこと以外は考えたことはなくてね!!だって、それはアモーアにとって失礼なんだと君が教えてくれたからさ!」
カフェに繋がる横断歩道を渡り、店の前で日傘を畳みつつアモーアの顔をそっと見つめればアモーアは驚くこともせずまた、嬉しそうにすることもなくまるで息を吸うように当たり前のことだと言うように少し微笑んだ。
アルデベルトが自分に向けるその心、その真っすぐな心に罪悪感を持てるような平凡かつ普通の人間だったらいかによかったことだろう。そう思えた過去の自分の純粋さを少し妬ましく思えた。アモーアは久しぶりに感じたのだ、妬ましいという嫉妬の気持ちを。
そしてまた思うのだろう。
《あぁ、彼と共にいることにも価値はあるんだねぇ》と。
カフェの中に入れば舞台上で自分を照らす「スポットライト」とはまた違う意味や色を持つ「ライト」を浴びる。そのライトの奥ではきっと様々な感情が入り乱れていることだろう。
アモーアは特段気にしない。なぜなら彼女にはどんな人にも負けないプライドと自信を体中に持っているからだ。歩く一歩にすら価値がある。その一歩で他者を蹴落とす。それがアモーア・ソレダッドの生き方であるからだ。
店主の冷たい目線に静かな瞳を返せば、女の目の圧に耐えられず店主はそっと目を反らしいなかったことにする。他の客はひそひそと目線と口と態度で話し合いを始めるのだ。
それは悪意という嫌な風をまとっている。店内の雰囲気が陰湿なものになったことがわからない人間などいないだろう。そう、わからないとすればとんだ空気の読めないお調子者か、世間の目を気にして生きたこともない子供か、もしくは今周りのことが一切目に入っていない恋愛脳に侵された男性のみである。
店の隅の席に座ろうとするアモーアの手をアルデベルトは優しく包みながら、窓辺の席に先導する。そして慣れた手つきで椅子を引き、女を座らせると自分も目の前の椅子に腰を掛ける。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。肘の上に顎を乗せ汚れ一つない窓越しに見慣れたはずの海辺をその瞳に映す男性。
そしてその前でわざと同じ仕草をする女。だが女の目は気まぐれに男のことを映してもいる。
言葉も流れない沈黙の時間だった。
「…僕は海が好きなのさ、アモーア。でもそれは夢のような物だよ。君のために選ぶ花束と、海に送る僕の言葉はすべて違うんだ。まだ、彼のことが好きなのかい、君は」
「えぇ、マーレみたいなことは言いたくはないけどねぇ…手が届かないからこそ好きなんだよ、彼が」
「そっか、でも僕が君を好きでいることを許してくれんだね」
「君の一方的な恋愛のようだけど?」
「いや、僕はこれこそ恋愛だと言い張るさ。だって君は今も昔もずっと傍にいてくれているし、色々なことを教えてくれたじゃないか。
そして今、彼よりも僕は君と沢山隣に立っている自信があるのさ!」
アモーアは小馬鹿にするように笑った。そっと自然に出た笑い声だったことだろう。「ふはっ」とそっと口元を隠して笑うその彼女は美しかった。
舞台の裏、舞台の外で見た女優の美しさはおそらくアルデベルトしか見たことがないだろう。それだけで、アルデベルトは彼女を愛そうと思えたのだ。いや、好きでいたいと思えたのだ。
たとえ彼女の目線が外れていても。
「なら、恋愛なんだろうねぇ」
__マーちゃんは本当に幸せ者だ。そう思って、唇をかんだ。
その後の二人と言えばまるで音楽に乗せられたかのように軽やかにそしてあわただしく、一日を過ごした。
カフェを出たと思えば馬車にいつの間にか乗り込み、中心部にて様々な店に入る。
路地裏から出てきた野良猫と戯れようとするアルデベルトを今度はアモーアが引っ張る。
呉服屋でアモーアは自分に似合う服を探している。その横で彼の顔が隠れるほどたくさんの衣装を抱えた男性がいる。服の壁の向こうから「全て君に似合うさ!!」と声を轟かせる。そして女は鏡を見つめながら「見えていないのによくわかるねぇ」と皮肉めいた声で返すのだ。
夕暮れ時になったら二人で踊ってみるのはどうだい?_そんなまるでドラマチックな恋愛劇の一コマのようなセリフに乗せられる。買い物の荷物すらも衣装の一部にして風の中の抵抗ですら自分たちの劇に取り組んでしまう。
歩道を車道を走り、歩きそしてステップを踏んで、時に回って。二人は踊るように町中を駆け巡る。
二人とも互いがどう動くのか、何をしたいのかその全てを理解しているからこそこんなにも優雅な花になれるのだ。
周囲の目なんて忘れてしまうほど、二人はこの一瞬にすべてを尽くしていた。
いつの間にかあの港に戻っていて船からだいぶ離れたところで二人して踊り続ける。音楽なんて要らなかった。ただステージの上で美しさの権化である女とその女の毒にあてられた男性がいればよかった。
オレンジ色の鋭い光が互いの横顔を照らしていた。女の目の中にも男性の目の中にもオレンジの宝石が見えた。髪の毛一本ですら光を放つ。まるで二人とも宝石になってしまったかのように。
互いの顔以外何も映らない位近くなった。そしてその時日が暮れた__
港の街灯が薄暗く光りだした。まるで蛍の光のように淡かった。ただ相手の顔だけは見えた。
ほんのりと頬を赤くし、肩で息をするアルデベルト。その反対にただ艶やかにほほ笑むアモーア。
息を整えつつ、アルデベルトが船へとアモーアをまたエスコートする。
さきほど傘で飛ぶように踊っていた二人とは思えないほど静かであった。冬の日のようで。
「意外だなぁ、君は」
最初に声を出したのは意外にもアモーアだった。その声はただその言葉の通りである。なんとなく興味が沸いたから出た言葉だったのかもしれない。
「何がだい?アモーア」
「パルフェの近況を問い詰めてくるのかと思っていたからさ。昔の君は彼の一番の観客だったからねぇ」
「…僕にとってのパルフェは学生の時で止まっている、というよりも止めておきたいんだ」
どこか寂し気な声で語っていた。その時だけ、今日初めてアルデベルトは愛する女の方を見なかった。真っ黒な空を見つめて目を細めている。何かを思い出し、噛みしめまた喉奥に脳の奥にしまってしまいたいからだろうか。
「私はあまり野暮なことを聞くのは趣味ではないんだけど、聞いてもいいのかな?」
「アモーア、君を楽しませることができるほどの理由はないさ。それでも?」
「うん、それでも」
少し静寂の間が帰ってくる。船は徐々に近づいている。足音が少し遅くなった。肩に添えられた彼の手は暖かい。
「ただ、あの頃のパルフェしか僕は知らないからさ。イギリスに行ってしまった後の彼を僕は知らないし、アモーアの前での彼を知る方法はあるとしても僕は知ろうとは思わないんだ。
…あまり説明になってないか…。学生の頃の自分の才能の可能性に酔いしれて日が暮れるまで僕に話をして、僕の前で一番星のように光り輝くように演技をしてくれた彼を忘れたくないんだ。
そう、だから僕は今の完璧主義だとか、独裁者だとか言われている彼を知りたくないのさ」
それはウィアードであることよりも、ウィアードであることを自負し誇らしげに掲げるパルフェへの否定の意思だった。
もしここに彼がいるならばそれを「オピオイド」と呼んだことだろう。もしくは「過去の王に縋る兵隊病」とも呼んだことだろう。
過去の脚本家の姿、それはこの男性しか知らぬことだろう。
「それも素晴らしい意見だ、アルデベルト。パルフェは君の思い描くその姿を演じることも戻ることもないだろうけれど、君の中でその脚本家は輝いているならいいんじゃない?少なくともそう思うねぇ。
そして君はあの《帝国》に近づかないほうがいいよ。きっとその時君の船は海の藻屑となるのだからね」
「あぁ、僕もそう思うさでも君に会えないのがまるで処刑台で見世物になるくらい辛いさ。
アモーア、また次はいつ出会えるんだい?手紙を待っているさ、君のために僕は毎朝早起きをして、気だるそうな配達員に挨拶をして君の手紙の封を開けるナイフを用意するよ」
「いつ会えるのかわからないからこそ、この一瞬が大切なんだじゃないかって思わないかい?私はそう思うなぁ。手紙は嫌いだよ、私。なるべく自分の足跡を残したくないんだ」
「そうか…なら、またすぐに会えることを願うことにするさ!
アモーアは本当に美しい人だと僕は思う。その美しさを無くさないでほしいよ、今のパルフェが君をどのように使って何をさせているのかは文面上でしか僕は知らないが、それでも君が君であることを祈らせてほしい」
隣に立つ女性の手を両手で包み込み、そっとほほ笑んだ。彼女についていくことも、海の向こうでの彼女の姿を見ることができないからこそ、彼は毎回毎回祈るのだ。まるで支配者から彼女を守るために。
本音を言えば、彼はきっとオランダから彼女を送り出したくはないだろう。それに、船の後ろ姿に手を振りたくもないはずだ。
だが、子供じみた自分の心を押しつぶして彼はそっと手を振るのだろう。複雑な気持ちに気づきませんようにと祈りながら。帰り道の足取りは毎回世界中の鉛が彼を引き留めようとするようになるのだ。
「難儀な生き物だよ、人間って。おめでとう、人類。かわいそうに、神様。貴方が嫌う人間の世界はこんなにも、惨めだからね。
もちろん、私もね。はは…かわいそうなのは私たちなんだけどねぇ」
アモーアは小さくなった背中を丸め港を後にする男性の影を甲板の上から眺めていた。あたりには静かな海の音が流れている。静かなBGMだった。そして小さな罪悪感と淡い期待と、最後には無感情を飲み込んだ。
美しさのウィアード、アモーアが1人の人間にだけ美貌という光を向けることはできない。それはアモーアの求めるものではない。
惨めだった。
この2人は永遠に、きっと同じ道を歩むことはない。月と太陽のように二人が互いの顔を見ることはない。
それを望んだのは結局、アモーアでありアルデベルトであった__
昨日 夜
「何を貴方に話せば、貴方は満足し僕を貴方の世界に入れてくださりますか」
ベッドにまた腰かけたセオドアは一切、アリスの方を見ることはなかった。ただ自分の下で崩れることはないように見えた床をただ見詰めていた。だが、男には床に大きな亀裂が入っている気がしたのだ。
目の前には果てしない壁がいつのまにか作られていて、セオドアは検問所で異端とされそうになっている。まるで処刑台の上で首を垂れることしかできないあの王のように。
室内の明るさは徐々に薄まりつつあった。ろうそくの炎は小さくなり、暗闇が部屋の隅から徐々に姿を示し始めた。ふと窓の外を見てもただ今は夜であると告げるだけであった。静寂だけが二人を包んでいる。それしかなかった。
目の前の少女はずっと考え込んでいる。銀髪の髪の毛が今はオレンジ色に見えた。深く閉じられた瞳は一向に開く気配がない。そのまま寝てしまえばいいのにと大人気なく思った。この夜のことが無くなればいいと思った。
「死体ってことは死んだ人が好きなのね、セオドアは」
「…はい」
「じゃあ、セオドアの絵はその人たちをモデルにしているの?」
「その通りです」
アリスの声はいつも通りだった。冷たいわけでもなく、軽蔑しているわけでもない。ただ、疑問をなげかけているだけなのだ。わからない世界に足を踏み込んだ鳥が木の枝にとまり、周囲を眺めたり、空を飛び周囲を把握しようと警戒したりするように。
「あのね、セオドア。1つだけ教えてほしいの。私を貴方はどうするの?私はもうすぐ死んでしまうわ。セオドアとさようならをしないといけないの、その時に、セオドアは私を殺すの?それとも死体として絵を描いたら捨ててしまうの…?」
アリスの方が未来を見えていたのだろう。彼女は何も知らない少女ではなかった。自分がこれから辿る道の先を知り、人生という旅の終点が早いことを理解して生きていたのだ。
だからこそ、彼女は好奇心を持って空を駆けるあの鳥のように生きていたのだ。
いつまでも道を歩まず、羽を休め空を眺めていたのはセオドアの方であったのだ。
男はただ俯き、地面を見つめた。頭の中では様々な言葉が流れては消えていく。最初のあの孤児院へ向かう馬車での自分の気持ちこそ、伝えるべきなのかもしれない。それよりも、あの甲板で美しい少女を見たときの感情を?劇場から解放され、少女の元へ走った時の感情を?
どれも違うだろう。それはウィアードではない、セオドアの感情が入っている。もっと、自分の感情の根底を見つめなおすべきだった。恐れることなく、見つめればよかったのだ。策士の、チェーロの、マーレの、アモーアの、パルフェの全ての言葉を聞いて受け止めておけば少しは良かったのだろうか。
後悔だけが心に住み着いていた。
深く息を吸った。後悔さえも飲み込んだ。
そっと頭を上げ、不安そうなに瞳を揺らす少女を見た。少女の瞳の奥にいる自分を見た。泣きそうなほどに壊れた笑みを浮かべていた。まるで、壊れたブリキの人形のようだと思った。それが、それこそがセオドア・コーマンだったのだ。仮面の下でもがき苦しみ生きた結果、何もできず何も残らないという虚無の中で生きることを強いられたのが”廃人”、セオドアだ。
「…僕は、貴方を額縁に収め、絵の中で永遠に息をしていてほしいのです。汽車の向こう側でまた貴方と出会うまで、僕は額縁で眠る貴方に心を瞳を奪われたいのです」
それが答えだった。死体を愛するウィアードであるセオドアが出した結論。アリスが死んだ後の死体で絵を描き、額縁に収めただアリスに恋をしていたい。それだけなのだ。
「マーレに言われたことがあります。死んだ人を額縁に収めてもそれは僕自身のエゴであり、そこに感情はないだろうと。絵は人に語りかけることはできませんが、人は絵に語りかけ物語を導きだすことはできます。その時には筆が絵具が僕の声を代弁することでしょう。そしてその物語を聞くカギは必ず人間が持っています」
そこでセオドアは黙った。つまりは、たとえアリスがいなくなったとしても死体であれ甲板の上で笑みを浮かべる彼女の絵であれ、セオドアから見ればアリスが自分の隣にいたという証拠になり、記憶を呼び戻してくれるだろう。だから、アリスが死んだあと絵を描きたい。それが、ウィアードとしても1人の人間としても生き、少女の一生分の恋を受けとった男の結論だ。
静かな時間がまた訪れた。か細い呼吸音と手の間に流れる汗の気持ち悪さと、胃が絞られているかのような気持ち悪さがこみあげてきた。静かな空間がこんなにも嫌なものであったかと何度も思った。
おそるおそる少女を見ればなんとも嬉しそうに幸せそうにこちらを見つめていたのだ。
まるで幸せを嚙みしめて、感情に震えているようだった。
「じゃあ、私はセオドアの中ではいつまでも生きていられるのだわ。それは、それはねセオドア、私、すっごくうれしいのよ。とっても嬉しいわ」
少女は椅子から降りるとただ静かに流れるようにセオドアの方へと近づきそっと抱きしめた。まるで、それは天使が聖母が包み込むかのようであった。
「セオドア、私もう1回貴方に恋をしちゃったわ。だって、私は今改めて貴方を知ったんですもの。貴方が何を好きでも、どんなにみんなから後ろ指をさされても私は大好きなのだわ。
あの日、貴方に私の一生をあげてよかったと思うの。ありがとう、セオドア。大好きなのよ!」
少女の涙が肩に落ちていく。肩が湿っていく中、セオドアも少女の肩に顔を乗せ背中にそっと腕を回した。策士の言っていた言葉を思い出す。
『家族に恵まれていない過去をお持ちの愛らしい少女。そしてそこに都合よく来ては、夫になると宣言した自分の愛を抱きしめる紳士』
彼女のことを抱きしめながらセオドアは思うのだ。彼女が涙を流すのは、愛する人に出会えたという嬉しさだからなのだろうか。最初は自分ですら、彼女を自分の欲を満たすための道具としてしか見ていなかった。彼女も自分の夢物語を叶えさせるためだったのではないだろうか。
なるほど、これが人間として生きるということか。感情のままに生きてみるということなのだろうか。
その時、セオドアは笑った。小さく自然に「はは」と。
「セオドアが笑ったのだわ!お顔見せてほしいの!」
「?大したこともないでしょう。しばらくこのままでもよろしいですか、アリス」
「セオドアが笑ったことなんてないんですもの!」
「では、また今度貴方の前で笑って見せましょう。終わりを告げる時計塔にはまだ誰もいませんよ、寝ているのですから」
その日は二人ともただ静かに眠った。スーツがしわだらけになろうともそのまま二人で眠った。
翌日、セオドアはメモ帳にラフを描き始めた。その前に鉛筆でアリスの横顔を描いていた。窓辺にてその少女はセオドアの方を横目で見て小さく笑い、そしてノート1枚に自分が存在していることをこの上なく嬉しそうに噛みしめていた。
その日、1つの恋が新しく花を咲かせる反面で誰も知らない場所で1つの花が地面に落ちた。ただ世界はそのまま動き、明日を迎える。
船は静かに港を後にする。港で手を振る男は小さくなる。船の上で手を振る少女はどこか憑き物が無くなったように笑みを浮かべる。その隣で少し晴れやかな笑みを浮かべた男もシルクハットを抑えながら小さく手を振らされている。どうやらまだ、人間にはなれないのようだ。その隣で女は日傘をさしながら港を見つめる。その瞳は寂しそうな顔していた。
船は帝国へ戻った。
帝国では王が告げた。舞台を第2幕へと進めようと、物語の根幹へ嘆きの鐘を鳴らしに行こうと告げた___続く
読了ありがとうございます!7話も必ず更新しますのでお待ちください。




