第五話その二 自信家と真面目な商人
いつもご愛読いただきありがとうございます!五話その二です。
ついにオランダへ着きます。そこで出てくる新しい人物たちとの出会いやまさかの展開をお楽しみください。
1800年代 オランダ8月_
オランダで一番有名な港にて、とある男性2人が商売相手との交渉を終えどことなく何をすることもなくただ海を見ていた。
厚い雲に覆われ、太陽が顔を見せることもないただの海である。土地が浅いこのオランダにおいて、海は何よりの恐怖でもある。だが、あの17世紀の繁栄を共にした仲間でもありこの貿易業をしている男たちにとっては腐れ縁でもある。
海が彼らに微笑むことはない。
1人は特徴的な赤毛の長髪で、その髪を男性には縁がないはずのポニーテールといわれる髪型をしていた。セオドアと同じくかなりの癖毛のようで、鳥の羽のようにいくつも飛び出ている。
そして、航空機もなければ、この男が目に当てる必要もない、彼の思い付きで作られたゴーグルを頭の上でファッションの一部としてつけている。
彼は奇抜な服装を好むのである。いや、彼のためにより忠実に言うのであれば”時代の最先端を着ている”のだ。
それほどの度胸と自分自身への信頼がかなりあるのだ。ゆえに、彼の立ち方はいついかなるときであろうとも仁王立ちであり、胸を大きく張っている。その声はおそらく天にさえも届いていることだろう。
もう1人の男性は対照的である。自信というものを持ってはいるが誇示をせず、あくまで彼の傍にいるだけの同僚であると思わせるだけのかたい立ち方。足は拳1つ分のみを空け、背骨は根からの真面目を象徴するようにしっかりと伸ばされている。腕は後ろで組み、胸は張りすぎない。
隣に立つ男性とは違い、黒髪で短髪。遊びどころも何一つ感じられないいたってシンプルな髪。
ゴーグルの男性は動きやすそうなシャツにベストに脛の真ん中あたりまでのブーツに、ブーツまである白いズボン(馬にでも乗るようなズボン)なのだが。
スーツ一着のみとは、全くセンスがないというか、つまらない男性であるとカフェに集まったジェントルや、貴族の女性は扇で口元を隠しながら細い目で後ろ指を指すのだろうが。
「…アルデベルト、ご存じかと思うがおそらく明日の午前中にはイギリスからアモーア御一行がいらっしゃる。少しは身なりを整えていただきたい」
低く地を這うようなその声でアルデベルト、つまり自信家の名前を呼び伝える。
だがその男性は聞こえていないようで、情緒も感性も何も感じられない海を見続けていた。
そしてやっと口を開いた時、その発言に真面目な男はため息を漏らすのである。
「アモーアが来るだって!?そういうのは一週間前から教えてくれよ、ファース!!
どうしたものだろうか!こんな姿のアルデベルトを見たら彼女は奈落の下に落ちるような心地を1人味わうことになってしまう。
あぁ、Mijn vriend!!《友よ!》どうしていつも僕はこうなんだ!!
アモーアが明日来るなんて、心の落ち着きを失ってしまいそうだよ!ゴーグルの曇りは今のうちに拭いておかないと。彼女が失望してしまう!
ファース、レッドカーペットを用意しよう!!」
ファース_真面目な男はやはりため息をついた。額にそっと当てた手のひらに汗がにじんだ。明日はもっと大変になるのだと、自分に言い聞かせると足元が歪んでいくような心地もするのだ。
「とりあえず、今ゴーグルを拭おうとも意味はないだろう。それに、レッドカーペットは絶対に要らん。アルデベルト、それよりもあのセオドア・コーマンも今回は来られるらしい。彼をもてなす準備のほうが重要ではないのか?」
ファースは服で拭おうとしているゴーグルを彼の手から抜き取ると、スーツの胸ポケットから出したハンカチで拭いた。一応曇りを確認してみるが、やはりそんなものはなかった。
気が動転した人間の心配性からきた虚言である。
手持ち無沙汰も感じず、腰に手を当てこちらを向いたアルデベルトは人が変わったように大人の顔になりファースからゴーグルを受け取り付け直し歩き出しながら言うのだ。
「セオドアへのもてなし?
ファース、君は親しい友人へ頭を垂れる趣味があるのかい?残念なことに僕にはないのさ。
それに今回彼が来るのはあの完璧主義者からの亡命をするためだ。
あぁ、多分ね、waarschijnlijk!!
彼は僕に無を求めているんだ!だから、僕は何もしないんだよ。
さ!ファース!!アモーアのために100年物のワインを買いに行こうじゃないか!!」
「さすがは社長だ。
ん?アモーアのために100年物のワインを買いに行く?だと?
おい、ちょっと待てアルデベルト!!100年物のワインだと!!!?経費でそれを買うつもりじゃないだろうな!!」
オランダに着く約3時間前 アモーアの船にて__
「セオドア!!太陽だわ!」
「アリス!走らないでください、危ないですよ」
「だって、太陽が顔を出しているんですもの!心が躍って仕方がないわ」
船の上を白いドレスの裾を持ち上げ年相応に走るアリス。頭には青く太いリボンが巻かれた麦わら帽子が揺れている。少々大きめなその帽子を片手につかみ、船の甲板へと走る。
帽子の下から揺れるその銀髪があの日の朝日に照らされた髪を思いださせる。
声は走る振動につられて息を上げながら揺れている。ただ、いつものどこか大人のような口調からはかけ離れているのである。もう2,3日にもなる船旅であるのにもかかわらず、彼女はいつまでたっても初日のような反応をするのである。
まさに、ネズミを見つけた猫のように。
後ろを走るセオドアはいつもの青いスーツであり、少々熱がこもっていそうである。青いシルクハットを彼も押さえながらアリスを追っている。
朝早くに目が覚めたアリスによって強制的に起こされたのだが、どこか彼も浮足立っているような気もしなくはない。
あと数時間で港に着くということもあり船内は慌ただしく移動する船員であふれていた。手を引く時間もくれなかった小さい少女はすぐに行方をくらましてしまった。前後から来る人の波に押されながら、何とか進もうとするがたまに用のない部屋に入ってしまう。
「失礼、出ますので。道を空けてください」
と、何度言っただろうか。
狭い廊下をなんとか通り抜け、スーツの皺を伸ばしたり帽子を被りなおす。
何とか落ち着いてみたはいいが、甲板に踏み入った時彼女の姿はなかった。どこを探しても顔も知らない船員しかいなかったのだ。
恐ろしくなってきた。彼女の好奇心旺盛な性格は出会った時から何も変わりはない。もし、知らぬ間に海に落ちてしまっていたら、変な男に連れ去られていたら…。
あの廊下を思い出すと、一歩踏み出すのが億劫になりかけるがこれも彼女のためを思い踏み出そうとしたとき横から「ボスー」と少々息が上がったようだが平常を取り繕うとしている彼女の声が聞こえた。
「何かありましたか」
「なんだかボスが死にそうな顔をしていらっしゃるからねぇ、お助けしようかとリードを渡しに来たって言えばーわかる?」
「なるほど。今は糸一本でつながっているリードを巻かれた猛犬の手でさえ借りたいところです。
アリスを知りませんか、はぐれてしまったのです」
それだけ言うと、昨晩のアモーアの部屋ではなく航海士としての船を動かす主要部屋へと移った。とりあえず、邪魔にならない場所でいったん落ち着けということのようだ。
舵を握っている彼女の横で窓越しに下を見つめるが、アリスの姿を見ることはできない。
甲板に行ったのではなかったのか。
「お嬢なら大丈夫だと思うけどねぇ。
これはマーちゃんとかパルフェとかチェーロとか策士の言う通りだよ。
ボスはちょっと過保護すぎる。彼女をまるで1歳の赤ん坊とでも思っているみたいだぁ。
お嬢はボスが思っているよりも大分大人さ。逸れた時にどうするべきか、何をしたらいけないのかくらいは、わかるよぉ?
人を信じられないなら、まずは信じる努力をしてみないと。
片務的な依存はいつか関係の崩壊を招くよ、ボス。人間、一方的な愛を信頼とは呼ばないからねぇただの”支配”だよ、君が一番嫌うもの。
それに、ずっと一緒にいるんだから羨ましい限りだよ…本当に」
アモーアはセオドアの瞳をまっすぐ見ると、それだけ伝えた。そのあとは港に着いた後の仕事の話を喉が詰まるほどするばかりである。
アルデベルトとファースがいるはずだとか。今回の取引はおそらく本物ばかりが並ぶだろうとか。1日で帰るのは惜しいから少し停泊しようとか。
港に着いたら、少し野暮用があるためすぐいなくなるから取引は頼んだとも。
立場の上下を一瞬にして変えてしまうようなその物言いは出会った時から何も変わらない。それを許せる寛容さが男にあるのではなく、能力に見合った対応をしているだけなのである。
人間の心に興味はなく、技能にのみ価値を見出すのがセオドア・コーマンの会社での生き方である。
その間もセオドアはおちついていないようで、ずっと窓から見える甲板を見ていた。帰ってくる言葉も生返事が多く、アモーアでなければ会話を続ける人間はいないだろう。
パルフェであれば、一瞬で終わっている。チェーロも黙り始め、マーレは「帰ったらどう?」と勧められる。
セオドアという何かと癖の強い人形の用で自我が案外あるこの面倒な男の周囲に集まる人間も、大抵自己中心的な自我の強い癖のある者ばかりなのである。
だがアモーアだけはそういうところが他とは違うのだ。
言いたいことは言うし、相手が興味なくとも自分の話は必ず話す。聞いていなければ、それも自由であるというだけである別段彼女が叱叱責を加えることもない。飴と鞭などは与えず、相手に向けるのは責任と無関心だけなのだ。
それゆえに今回のアリスやセオドアへの干渉はかなり例外的であり、前代未聞と言っても過言ではない。
ただ、1つ彼女に関して言えるのであれば彼女は冷酷なだけではない。
生返事の裏側で、セオドアはずっと先ほどのアモーアの叱責が頭で回転していた。
セオドア自身がアリスを信頼していないのか、周囲はなぜそこまで言うのか。子供の年齢であるのだから、大人扱いしないことの何が悪いのだろうかと。
もし、彼女から目を離し大人の扱いをするということになった時、それはアモーアや策士などと同じ扱いをすることだ。そうすればあの妹の事件のようになるのではないだろうか。
アリスの代わりを探すなど、到底無理なことだ。人形のように美しい彼女を再現できる、人などいないのだから。
いや、待て。妹の事件のようにアリスの代わりを探す…?妹は生きているはずだ、助けたのだから。違う違う違う…あの女にとられて今は孤児院にいるんだ…いやでもアリスには家にいると…あれは嘘だ。違う、どれがほんとうだ ?
待て、ならばいつ、セオドアはウィアードに目覚めてしまったというのだ。何がきっかけだったのだ。
なぜ両親は死んだのだ。いや、汽車に乗ってどこかへ…。それが葬式…?
記憶が鮮明に思い出せなくなる。どんどん、渦のように歪み始めた。妹と記憶していた少女の顔はいつの間にかアリスへと変わってしまった。
湖でともに船に乗っていた少女ですらアリスの顔に見えてくる。湖へと沈んでいく彼女の顔はまさしく”彫刻品”のように美しく、あぁそうだその顔に惚れたのだ。誰の__
そのあと、妹をアリスを?セオドアとあの女は助けた、そう助けたはずなのだが。
「ボス、汗がひどいよぉ?大丈夫?船酔い…ではないなぁ。何か嫌な思い出でも蘇ってきた?」
「い、いえ。何も、ないですから。アリスは、どこです、か」
震えた瞳を開いたその男の顔はまさしく死んでいる。震えているその手を触れれば凍るほど冷たかった。その冷たい手で自分の喉から何かを退けるように何度も触っている。
だが、アモーアの目には何も見えなかった。
セオドアの瞳はより深い深淵へ落ちているようであった。帽子へやっと伸ばされたその手はいつまで経っても震えてばかりいるのである。
それを見ていた女は1人で腑に落ちたのだ。「かわいそうに、”あの人”と同じだねぇ」と。
窓から見える海の景色と羅針盤を確認し、このままで大丈夫なことを確認すると舵の前を離れ男の前にしゃがみこんだ。
今日のために買ったそのドレスが微かな音を奏でながら床を滑った。
耳の近くに垂れた髪を掛けなおし、セオドアをただ見つめる。
「ボスは多分何かを忘れている、でも欠けたピースに気づかず自分で作った歪なピースを当ててしまった。だから全体図を見たときにふと違和感を感じる、細部を見れば見るほど強烈な不安に追いかけられる。誰かに後ろ指をさされるのが怖いから。
アモーア・ソレダッドが教えて差し上げようか?」
「何を、ご存じなんですか?欠けた記憶など、僕にはありません」
「あるねぇ、でもそれをボスが見て見ぬふりをしているからだよ。
何をご存じかって?全部。ぜーんぶアモーアは知っているんだ、ボス。君を助ける方法も、君の無くした物も、そして過去も。そしてそれが何を意味しているのかも。
でも、ボスはそれを望んでいないんだろう?甘い幻想の中で眠りたいから。
最悪なバットエンドの先で、君は初めて知ることになるんだと思うとかわいそうだ。本当に、皆、性格が悪いねぇ」
アモーアは帽子で顔を隠そうとするセオドアの腕を片手で掴み耳元に近づくとそっと呟いた。
『妹ちゃんは本当は汽車に一人で乗っていたりして…』と。
「…どういう!、ことですか?」
「さぁ?君の悪魔は恥ずかしがり屋なんだね、私には何も見えないなぁ。
それだけ言っておくよ。君たちの幕が閉じたとき、きっと君は深淵で1人叫んでいるよ、だって君の本当の悪魔は_ま、言い過ぎてもおもしろくはないか。
あ、窓の外をみてごらんボス。君の姫が寂しそうにしているよ」
アモーアは窓の付近に立つと、それだけを告げた。少し大きめに手を振ると自然に微笑んでいる。そして、ゆっくりと舵の前へと戻った。
現実に戻ることができていないセオドアと最後に目が合ったが、彼女はあれ以上の干渉をすることを放棄したようで何も言わなかった。
男は帽子を整えると紳士の仮面を拾い上げるとドアに手をつきながら振り返らずに別れの言葉を紡いだ。
子供のようにいじけているだけのかわいい言葉であった。
「先ほどの言葉の真意は測りかねますが、面倒をかけました。失礼いたします」
木製の戸が静かに閉じた。室内には静寂が訪れた。警戒心の強いリスがそそくさと去っていたかのような寂しさである。アモーアは息を吐いた。
「セオドアの悪魔は近くにいる。それも君がずっと警戒心を解かない相手、なのに君はその悪魔にどこかで安心している。まさに、相手の思うつぼだね。
…まさか、過去の思い出は鉱石のように石の中で眠ったままにしておくつもりなのかなぁ。
もしくは、昔から鉱石を見る目がなかったか。
室内に綺麗に飾っていた宝石がまさかただの人口の石って知った時の君はどんな顔をするんだろうなぁ…かわいそうなボス」
アモーアは天井を仰ぐと、あの女の顔を思い浮かべた。いつも淑女を気取って腹の奥まで見せず、机上では手を優しく取り机の下では足で相手を蹴落としているのだ。
そして小さく飛ぶことを知らない雛の前では正しい親鳥であろうとするのだ。
アリスがあの晩漏らした”ママは私がセオドアのところに行くのを渋っていたのよ”というあの一言を聞いた時は、彼女の幻が自分を背後から抱きしめているのではないかというどこか”懐かしい”記憶が渡ってきた。それと同時にどうしても感じてしまう嫌な寒気というものも感じていたのだ。
あぁ、気持ち悪い。ウィアードという変人の仲間でなければ、殺していた。
彼女の彫刻品をすべて剣で叩き割っていたことだろう。
”当時”はできなかったことの一つだ。
セオドアは犬のように馬のように走った。廊下で何人もの人間の肩にぶつかったのかなど記憶にはない。あったとしても微かに聞こえた怒号が倍速で過ぎただけである。
甲板には荷物が並び始めている。強制的に速度を落とさざる負えなくなるが、それを好都合と捉え少し早く歩きながら進み周りを見渡した。たまに木箱の角に足をとられ倒れそうになるがそこは衣服の下に隠れた筋肉で免れた。
人の頭を抜け、船の先頭に立った時あの絵画のように美しい姿を見た。まさに絵画が動いているようだった。
彼女の朧気であった顔がやっとはっきりと見えた時は不安気な顔をしている。鼻の形や顎までの線がまさに黄金比以外に例えようがない。
人形のように太陽によって輝くその青い瞳が映しているのが瞳と同じ空であり、より一層青く見えた。
銀髪も光線のようになびいている。不規則な波をつくり流れるその髪が麦わら帽子との色の愛称が美しい。
帽子から流れる青い線も美しかった。
何よりも白いドレスのフリルが花のように揺れるのが神のいたずらかと思うのだ。
風と彼女が会話をしているかのようであった。
今、彼が絵画のセットを持ってこなかったことを何よりも悔やんだ。オランダに降りずこのまま彼女を額縁の中に閉じ込めておきたいという欲望に駆られた。これには喉の苦しみが静かに退場をうながされるのも無理はない。
「アリス…」
乾いた喉から出たその声は彼女に聞こえたのかさえ怪しい。こんなにも騒がしいのだから聞こえなくとも仕方がないのだが。
弱い足で一歩と歩き出し、また一歩と歩き出すと彼女の横にやっと立った。
麦わら帽子で隠れていた彼女の顔がやっと見えた。不安気な顔が消えいつもの眩しすぎるほどの目が焼かれるほどの笑みがこちらを照らした。
「セオドア!」
子供のかわいいその高い声に人形のようなあの姿との対照的な雰囲気は言葉に表すことさえできない。
思わず肩の荷が下り、顔の筋肉さえ緩んだ。彼女が自分の方を向いた瞬間に跪き片手を取った。
「見つけましたよ、僕の姫。
セオドア・コーマン、お迎えに参りました」
恥ずかしさと安堵が入り混じった笑みであった。その言葉の柔らかさにアリスも「お待ちしてましたわ」とリンゴのように真っ赤な顔で答えるのだった。
初めて会った時のような強い風が2人の間に通り過ぎた気がした。その一瞬だけ周囲の音が聞こえなくなった。完璧なタイミングでスポットライトが当たる。
セオドアは決めたのだ。この一瞬の出来事を忘れないように歪なピースで埋めてしまうことがないように絵画に収めようと。
そしてその絵はこれまでと違って光が満ちていて誰が見ても美しいという作品にしようと。
これが約100年後セオドアの展示会で唯一の作品となる”少女と海”の秘話になるのだとは、セオドアとアリス以外は知らないのだ。
セオドアがアリスを描き始めたのは8月からであり、現在合計で4作品が見つかっている。だが、アリスの日記にはあと1作品あるはずなのだ。
その行方は彼の死体のようにどこかへ消えている。
アモーアの船はその後突然の嵐に見舞われることも沈没の危機に陥ることもなくオランダの港へと辿り着いた。その港にも太陽が来訪している。
港に集まっている商船の数は最盛期と比べるといくばくか少なくなっているようだが、そのようなことを思わせないほどの数である。
倉庫なのかどうかは定かではないが1階建ての低い建物が整列している様は本国の港と変わりがない。
港にいる者たちが手を貸し、船を止め荷物を下ろすためのスロープなどを取り付けている。
これまでの船旅ではいつも何かと騒がしく酒をよく飲んでいるという印象だった男性たちがこうも俊敏に働いているのを先に降りて、地上から見ているアリスは純粋に驚いていた。
先ほど王子のふりをして珍しく焦っていたあの男に肩をやさしく掴まれながら隣に立っている。
初めて他国へ足を踏み入れる瞬間の少女といえば、セオドアに先を譲られた瞬間犬のように走り出しまた度肝を抜いたのはいい笑い種であろう。
それを船上から見ていたアモーアがまた馬鹿にするように高笑いをし、セオドアも走ってアリスの手を取り結果的に2人で地上に降りたのだ。
あの船の女王は一向に笑いを止めなかったため、呆れ果てた男が「仕事してください」と叱責を加えるまで荷物が異国の土地に踏み入れることはなかった。
セオドアとアリスが異国の地へと足を踏み入れたのを確認するとアモーアは他の船員へ指示を飛ばし、オランダへと荷物を運んだ。
その荷物の中身はアモーアの審査を通った本物の品ばかりだが、たまに偽物も混ぜている。それを承知の上での取引というわけである。
船から見える木箱の数が減り、甲板にてダンスを踊れるほどの余裕が生まれたときやっと港の奥の方から2人組の男性が歩いてくるのが見えた。
少しは身だしなみを整えてくるかと思っていたがそんなことはなく、この前との変化を探す必要性すらもないその自信家商人と、おそらく服装についての説得をぎりぎりまで粘ったが結果として白旗を上げざる負えなかった真面目商人である。
後者の顔には疲労の文字が筆記体で書かれている気がした。
「アモーア!!やぁ、元気だったかい!
僕はアルデベルト・ビーシェーヴェル!君の顔をもう一度見れることを心から喜び申し上げようじゃないか!
一日前の空と言えば太陽も君に会うために装いを準備していて、雲という幕を下ろしていたんだが…あぁ、今日は君のために輝くスポットライトになっているようだ!
レッドカーペットでは君が歩くのに相応しくないと思ったんだが、君が歩くのにふさわしい物を探したんだが、僕では見つけることができなくてね。靴が汚れることをお許し願いたい」
港中に聞こえるほどのその口説き文句のようなまるで劇のセリフのようなその言葉は、周囲の方が顔を赤くするほどのものであった。両手を翼のように大きく広げ船を見上げながら逆光によって見えないアモーアに向けてアルデベルトは訴えた。
ファースがその斜め後ろにて侍り、深々と頭を下げているのだがそれは謝罪なのか挨拶なのかはわからない。
しかし1つ言えるのはさすがの自信家も自分の会社まで続くレッドカーペットを1日で用意することはできなかった、ということである。
船で点検などをするために残っている船員にアイコンタクトを取り、ゆっくりとスロープを降りる。今日のドレスもこの航海のためにわざわざ用意したものであるが、目の前で輝かしいほどのライトのような視線を送ってくれる男性には自分と会うため。という素晴らしいほどの幻想が見えているのだろう。
いつもの長い髪を一括りにまとめ、最近巷ではやっている華やかなへアドレスを頭にとりつければ彼女はただの旅人か、はたまたセオドアの妻がお似合いなのだが。まさか彼女が商人で船長であったとは犬ですら思わないことだ。
「お久しぶりだねぇ、アルデベルト。本当に君と会えるのは嬉しいけれど、それによって鼓膜が破れそうになるのは本当にご勘弁していただきたいなぁ。
ファースもお元気そうじゃないねぇ。子犬の子守は大変そうだ、お疲れ様」
「えぇ、日々疲労との闘いですな。とはいえ、アモーア・ソレダッド殿お会いできて光栄です。
数日間ではありますがどうぞオランダをお楽しみください」
「アモーア!今回はどれくらい留まるんだい?
よければ明日を僕に売ってみない?もちろん君の時間と記憶を、ね!!
そうだ!君のために僕が選び抜いた素晴らしい観光プランの候補は沢山あるんだ。ねぇ、どれにしようか!服選びに、靴、帽子、絵画、カフェ、レストラン、それに劇の鑑賞。
君と船の上で海を見ながら語り合うのも素敵さ!!
さぁ、何をしようか!君の望むままに僕の手をとってくれ!」
アモーアが書類を片手に話そうとする素振りを見せるも、アルデベルトの口は閉じることを知らないようで延々と話を続けている。これにはそんな上司の隣で頭を抱えているファースト目配せをして呆れるしかないのだった。
しかし、言葉をしっかりと聞いてみると確かに目の前の女が好み、心を惹かれることを口に出していることに気が付くのだ。ラテン系の男であれば納得できるが、彼はそうではないためおそらく根からの純愛といったところだろう。
盲目的な恋愛に見えるが案外淡白な性格のこの男性だ、今回は久方ぶりの再開と数日間しか停泊しないことによって熱が入ってしまっているらしい。
よく舌が回らなくなることもなく、口説けるものだと少々飽きてきたアモーアは思うのだった。
今回唯一彼を誉めるならばここで100本のバラの花束を出さなかったところだと、後にファースはセオドアに愚痴っている。
「はいはい、明日の気分と君の服装によってはその誘いを乗るよぉー。毎回ありがとうねぇ。
そういえばボスには声、かけなくていいの?」
やっと話の句切れが生まれたところでわざと指をさすとアルデベルトも「ん?」とそれまでの声量から一気に急降下した声が出ている。
顔のみをセオドアの方へ向けると、小さい少女と共に海の前で談笑しているあの男が見えた。腕に抱きかかえた少女の方を大切そうに見つめるあの男の顔はあれは恋をする顔以外に言葉に言い表すことができない。
アルデベルトがアモーアへ向ける思いも近いが、咲いた花が見せるその内なる美しさに勝てるはずがなかった。
彼が会社を設立し、初めて自分と取引をしだし糸が緩み酒を飲み合う仲になり、プライベートも話すようになったこの数年間の気の遠くなるような関係の中でも見せたことがないほどの優しい笑みであった。
それに人のことを抱きかかえるなど、あの冷たい男がするとは思えないのだが。
「…変われたじゃないか、君。
ま!2人で海を眺めている、水入らずの最中に分け入るような真似をするのは紳士じゃないじゃないか!
…それに、君にそんな子供のような馬鹿な真似をして嫌われたくはないんだ。アモーアが僕に木箱の中で埃を被らせたとしてもね」
『惚れた弱み、というのはこういうことを言うんだろう。恥ずかしい限りだ!』
アモーアの方を振り返りもせずにアルデベルトはそう告げた。その背中は少し小さく見えた。いつも垂直なその背中が少し曲がった。両足に均等に預けられたはずの重心は左に偏った。
「ところで、あのまるで妖精のように美しく聖母と神が生み出した天使のような少女を僕に教えてくれないか?アモーア」
「アリス・コーマン。ボスの妻だよぉ、アルデベルト。粗相がないようにしてあげてね。案外あの少女に関してはボスも警戒心を解いていないようだからさぁ。
まるで番犬みたいだよ」
「あのセオドア殿がですか?
んんっ、失礼。セオドア殿も何かご事情がおありなんでしょう。しかし、お似合いの御夫婦かと思います。
アルデベルトもそう思うことでしょ…ア、アル、アルデベルト!!?なぜいない!?
貴方という人は!なぜ毎回大砲のように突発的に動くんだ、アモーア殿がおっしゃられたことを聞いていたでしょう。
それに、先ほど子供じみた真似をしたくないと言った貴方の紳士はどこに投げ捨てたんだ!」
ファースが隣で静かに笑っている女から視線を移したその一瞬のうちにアルデベルトは脱兎のごとく、あの睦まじい夫婦のもとに走り出していたのだ。小さくなった背中、ではなく彼の姿を見ながらファースも一先ず走り始めた。
アモーアも「お気になさらず行ってくるといいさ」という始末である。そして彼女は港から姿を静かに消すのだが。
そんな彼女のその後を知るのは彼女自身である。彼女が歩きだしたその後ろにはレッドカーペットが意図せずに敷かれていることだろう。そしてその終わりには誰か知らぬ人が毎回立っているのだ。
アルデベルトが走り始める数分前_
「この後セオドアは何か予定があるのかしら?私はアモーアにファース?ってお方と一緒にディナーを食べようって誘われてしまったの。もちろん、セオドアもよね?って尋ねたのに、はぐらかされてしまったのよ。
アモーアにも詐欺師の素質が眠っているのかもしれないわ」
「おそらくですが、彼女は眠っているのではなく眠らせているだけです。
一年中花が咲き乱れるのも乙なものかもしれませんが、それでは季節感が薄れてしまい、つまらないと考えた神が冬という雪の花が咲く季節を作り、春を迎えまた愛でる花を作り出す季節を作ったように。全ての物には適したタイミングというものがあるのです。
わかりにくければ、アモーアには様々な技術という花がありますがそれを相手や時によって差し出す花を変えている。と言えば、納得していただけるでしょうか。
あぁ、あとこの後どうせこちらに走ってくるであろう男性と夕食を共にする予定があります。
アリスがマーレとのお茶会にトランプ兵を玄関前に配置させるように、僕も今回だけは騎士に門番を頼もうと思います。」
わざとらしく口が弧を描くセオドアに「あら、トランプ兵は貴方のつもりだったのに」と返してみれば、小さい笑い声と共にあしらわれた。
麦わら帽子が風に落ちないように支え、いつもよりかは視野が狭くなったその風景を静かに見つめる。
スモッグの影響できれいな青空がより見えにくくなった本国を、皮肉るようなその空は旅の宝物へとなっていく。潮風が鼻を通り過ぎる中で、ふと帽子を上げて彼の顔を見る。
どんな顔をしているのかと思えば、そこには柔らかくなった表情で海を見つめる黄昏人がいるだけであった。
(セオドアもそんな顔をするのね)
思考の波が押し寄せると共に感傷的な自分の記憶も運んできたようだ。思い出されるのはあの初めての出会い。
母からは遠回しに別の人にするか諦めてくれと言われていた敗北覚悟の大博打。それを彼は当然のことのように掬い上げ、跪いてみせたのだ。その時は嬉しさとやっと自分の人生にスポットライトが回ってきたのだと思った。
だが、セオドアの顔は張り付けたような人形のような笑みだった。偽物の笑みに心が冷えるのを微かに感じ取ったものだ。
自分の荷物を取りに部屋に戻ったとき、母が静かに最初からそこにいたように戸の前に立っていた。どこか悲しそうに不安そうにでも自分の次に嬉しそうに。八の字に曲がったその眉と何とか弧を描いた口元と、揺れる瞳が何よりの証拠であった。
おそらくこんがらかった糸を飲み込ませてしまったのだ。喉につっかえたその糸を吐き出したかったのだろう。
『もし、帰りたくなったらいつでもドアベルを鳴らしていいですからね、アリス。
どうか貴女の帰る場所がここでありますようにと、意地悪にも思ってしまうのです。そんな母を許してください』
そう言って撫でられた頭の感触はその後何度も触れてきた男の手の感触とは似ても似つかないものだった。
あの母を意地悪と思える少女ではない、何せ彼女自身も他の家族との別れのたびに「帰ってきて」と多少は願った幼少期があったのだから。
それを何十回も過ごし、別れと出会いを繰り返す日々そして人の手を恐れて帰ってくる家族をまた受け入れてきたあの母には、意地悪ではない本心が眠っているのだろう。
それにあの孤児院に拾われるまでの冷たい雨のようなアリスの人生を知っている彼女だから。そんなことを言ったのだろう。あれはウィアードでも孤児院の所長でもない一人の母としての彼女だった。
だが、今なら言えるはずだ。あの時は確信をもって言えなかったが、今なら彼女の目を見てはっきりと伝えることができる。
「私は大丈夫よ」
と。
なぜなら_
「…何か思い出されたのですか?」
不安気にこちらを見つめるセオドア。昨晩見たどんな宝石よりもきれいな目だと思う。
あの彼女の宝物が船の中に隠されているなら、アリスのお宝は彼自身に隠されている。
それだけで今が幸せなのだ。
「えぇ、でもあの人も今は安心していい夢を見れているはずだから大丈夫なの」
「それはよかったですね。」
_何かを見つめるために海へ出たはずのセオドア自身よりも何かを自分自身で感じ取り、いつの間にか自分自身でさえ追い越されてしまっているような気もする。
「あぁ、今回の旅で僕は何を傍観するべきだったのだろうかっ!!
と、黄昏ているとは君らしい!まさしく旅人だ!セオドアよ」
耳の奥で大砲を撃たれたようなその声の大きさに思わず顔を顰めるセオドアとあまりの驚きに「うわぁ!!」と子供らしい声を出すアリス。
息が多少荒れ肩が上下する中海を遮るように立つ。二つの目というライトが当たると同時に息を深く吸い込んだ。大声をだしているつもりはないだろうが、自信家であるために通常の声の出し方でも耳をふさぎたくなるものだ。
息を深く吸い込んでるように見えるのも同じである、そのつもりはない。だが、そう見えてしまう。
「綺麗という言葉では君をたたえることもできないほどに眩しい少女、初めまして、僕の名前はアルデベルト・ビーシェーヴェル。オランダで一番の自信家であり、君の夫の古い友人だ!」
「アリス・コーマンよ!アルデベルトさんはセオドアとお友達だったのね、私もよろしくお願いするわ。貴方ともお友達になれる気がするの。
ちなみに…アルデベルトさんもその、ウィアードなのかしら?」
腕から降りると同時しゃがんでくれた目の前の男性と目を合わせると、驚きながら目を開くと彼はまるで花が咲くようにふわりと笑い声をあげた。
そして、少女の小さく滑らかな髪の上をそっと撫で上げると「残念だが_」と笑いを抑えつつはっきりと瞳の奥を捉えながら慎重に切り出した。
少女は心の中で静かにハッとするのだ。彼は少女の奥に誰も見ず、アリスをアリスとして認識している。
「残念だが、僕は凡人だ。もし、僕が”Vreemd persoon”《変人》であったら君の後ろでつららのように冷たい視線を僕にプレゼントしてくれる男とは、仲良くやれていなかったことだろう。
だが、僕はなりたくはない。
愛している人へ熱い愛を捧げ続ける人間で僕はありたいからさ!
それに、僕としては別に相手が何を好いていようが、どんなに他人が嫌悪しようが、彼ら自身がそれに魅力を感じ人生を捧げられるなら別にいいと思っている。だって、それこそ人間らしいじゃないか!
その好奇心も執着心も、誰も縄で縛りあげることはできないからね。それに僕はセオドアたちのような人間が生れてきてくれたことこそ人間の時代の幕開けに相応しいと思うよ!
神の時代という腐敗の時代が終わった何よりの証拠さ!」
アリスを高々と持ち上げその場で遠心力に身を任せ回った。焦ってとめようとする男の顔など気にしている暇はないため、そのまま回り続ける。
不思議と彼女も楽しそうに笑い始めた。
どうやら警戒心という氷壁を溶かすことに成功したらしい。
後から走ってきたスーツ姿のファースは「あ、アルデベルト!!何をしているんだ!!?」と半狂乱的に止めにかかったことでやっと終わったのだ。
小さい少女はかなり目が回ったらしくセオドアが犯人に呆れ顔を向けながら介抱していた。もちろん、その犯人は見守り役にしっかりと叱られていたのだが港でしかも日中ということもありかなり注目を浴びているのだった。
アルデベルトという男性は彼自身がそう語るように何も持たない凡人である。言い換えれば、何も持っていないという0の極致にいることに誇りと自信を持つ人間である。
何も持たないからこそ何かを持とうとするのではなく、1つに固執するのでもなく、様々な価値観を味わい自分なりの世界をいつか築こうとしているのだ。
そしてその決意の最初に出くわしたのがセオドアであったのだ。
セオドアは最初少女との出会いよりも数十倍以上に無機質な態度であった。まるで産業革命によって生み出された機械たちが人間のまねごとをしているかのようであった。
「へぇ!君あのイングランドの方から来たのか!なんだか紳士的な雰囲気を感じるのはそのせいなんだな。
あぁ、嫌いじゃないよ君の国。昔は同君連合組んでたしね1689年頃の遠い昔の話だけど!あと、アンボイナ島で沈んだ船のことは今は水に流そう」
「そうですか。取引の話ですが」
「お、そうくるか!君、機械って言われたことないかい?世間話とかはもしかしてお気に召さないタイプ?
じゃあまずは普通の対等な人間として話をしよう!今から君と俺は、友人だ。僕は君の過去を知らないし、君は僕を知らない。
でも、今から全てを知ることができる。それこそ人間関係の作り方だからね!」
「そうですか。貴方がそれを望むなら、どうぞ」
肯定も否定も何も意見をしていないのと同じ言葉を放った目の前の男に、自信家は決して眉を曲げることはしなかった。ただ一言いうのだ「それを待ってた!」と。
そうと決まった時、アルデベルトがまず起こした行動はセオドアの腕を引き、会社から走り去ったことだ。困惑と無関心の心が入り乱れた結果、相も変わらずの真顔になっているセオドアを見ることもなく、後ろから焦ったように怒号を鳴らすファースを気にも留めず、ただ走った。
昼間であるにも関わらず薄暗いアムステルダム市内を走っていく。道行く人にぶつかりそうになりながらも、まるで逃避行をする2人組のように歩道を走った。
ろうそくによって灯されたショーウィンドウ、街頭が揺らめく歩道。馬車の渋滞が緩和され蹄がタイルの道とぶつかる音。革靴で歩幅を大きく歩く資本家。
それがすべて海の波のように視界の奥へと消えていくのだ。まるで動く写真を見ているかのようだった。
後ろに繋いだ手を案外しっかりと掴んでくれている機械男は、何も道中話しかけてくることはなかった。ただ、引かれるがまま走るのだ。
とりあえずと言って彼が緩やかに止めた店前に立つと、地面からやっと頭を上げた機械男もといセオドアが「酒ですか」と呟いた。感情の起伏が異常なまでにない。
嫌なのか、好きなのか、驚いているのか、はたまた呆れているのかそれすらもわからない。
それを知るのが今回の来店理由だ。
そう思い、アルデベルトは慣れた足取りで席へと進んだ。オレンジ色の輝きに満たされた店内。アンティーク調な暗い色の木製の壁や家具が並んでいる。正方形のテーブルには濃緑なテーブルクロスが角を合わせずわざとずらして敷かれている。
仕事終わりか、昼飯かよくはわからないがまばらな人数の男たちがいる中で、隅の方のテーブルに座る。
切り出したのはアルデベルトであった。
「普通、商談時にレストランを選ぶのはありえないんだが!まぁでも『世界とは逆向きに歩いてみるのもいいと思わないかい?。皆同じ方向に歩いていても人類は進化しないからね!』」
その言葉はアルデベルトの口癖であった。そしてその言葉通りの人柄にセオドアは心を許そうと10回目の商談で決めたのだ_
「そうそう、それで僕お前に聞いたんだよな~”で、趣味は、何がお好きなんだ!?恋人は!?あ、名前は”ってさ。」
赤ワインを片手に昔と同じ隅のテーブルに座り、アンティークな椅子に背中を預けるように座り込む。
その顔は少々赤くなっており、アルデベルトが酒に弱いことを証明し始めている。まだ1杯も飲み切ってないなのだから。
その隣に座っている元機械男のセオドアも同じワインを嗜みながらその顔が赤くなり饒舌になることもなく、静かに聞いていた。
店内は昔よりかは人が集まり、夜ゆえに多くの人々が酒を楽しんでいた。店内にたちこめる酒気であの少女の妻は酔ってしまうのではないか、といないはずの彼女を心配するほどであり、アモーアの配慮に頭が上がらない。
「で、趣味は絵画。恋人はいません。名前はセオドア・コーマンです。の、典型文だから本当にお前は昔から面白いやつだと思ってたんだよなぁー僕!」
「それで満足する貴方のことを僕はどうかと思いますが。
ピエロが立っているだけでも貴方は子供のように大はしゃぎをしそうですからね、たとえそのピエロがただの仮装であり何もできない素人であろうとも」
ワインを一口口に含み、テーブルへそっと置く。その後にステーキ肉をナイフで切り始め、一口大にカットすると隣で静かに言葉をかみ砕いている酔っ払いを無視し、食事を進めた。
横で「あー、ん?ちょっと待てよー」とあの港での覇気を海に投げ捨てたといわんばかりのその声の緩さにおそらく頭は回っていないに違いない。
もう一口目の肉を口に含もうとしたその瞬間、「あーなるほろら」と呂律の回っていない言葉でセオドアの方を肘で支えた顔で見つめた。
アルデベルトがこの時点でどれほどセオドアが来訪した目的を覚えているのかは定かではないが、まぁおそらく覚えているだろう。能ある鷹は爪を隠すと言うように。この男も腹の底を人には見せない癖がある。
「つまりな?、どんな小さいことでも喜べる、いい男ってぇころらな?んなぁ褒めれもなぁんもでねぇぞぉ~しぇおどあ~」
「…何を言っても貴方には神託のように聞こえのいい言葉として届くのでしょうから、それで大丈夫です。
さて…本題に、入りたいんですが。もうそろそろ、酔ってる演技はよしていただけませんか」
『本当は酔っていないでしょう』
目の前の肉をすべて平らげ、口周りをナプキンで拭きながら横目で細く見た。
驚きもせず焦りもせず、ただ「あ、わかるか!」と平常運転をしている目の前の男の手数の多さと底なしの人間味に、まさしく酒のようであると心の奥で震えた。
アルデベルトはグラスをそっと置くと背中を背もたれに預け、ただセオドアの方を見つめている。彼とセオドアの間だけで見せる寡黙な姿であり、迷える子羊を導く時の姿である。
どちらも何も言葉を発しなかった。店内の騒がしさも耳の遠くで響くようである。糸で繋がっているかのように交差し合うその瞳には互いに静かな顔をする人間が自分を見ていた。
「パルフェが言っていた、”傍観する”とは何を指しているか僕には理解できませんでした。アルデベルトならわかるのではないかと思っているのですが」
グラスを傾け口に侵入してきた赤ワインがのどを潤し、口の中で優雅に踊った。ただ、ワインは踊るが思考は座っているばかりである。
船の上でもずっと頭の中にはあの言葉が渦巻いていた。シャツに付着したコーヒーの染みのように、ずっとだ。ただ、傍観の意味がわからなかった。世界という無駄に広いものと自分を比較しその小ささを思い知ればいいのか。
海と自分を比べて、そしてその懐の小ささに絶句してほしかったのか。
海を久方ぶりに感じたときに、セオドアが感じたのは一つであった。
”広い”だけである。美しいとは思わなかった。
視界の端を通り抜けてもまだ広がりを続けるその海の広大さに嫌気がした。だから限界があってほしい。いつかこれ以上の旅はない。と痛感させてほしかった。何事にも限界点があるのだと、教えてほしかったからだ。
よく、あんな優しい言葉を吐けたものだとセオドアはワインと共に飲み込んだ。
実際はただ、嫉妬していただけとは言えないのだから。
「頼られる存在になれたことを幸福と僕は表そう!でもそうだな。僕も最近のパルフェのことは残念ながら全くわからない、何を意味しているのかを正確に言い当てるのは、金を掘り当てるのと同じくらい難しいかもしれないな!
でも、もしかしたら君の心を蝕んでいる不安という虫のことを指しているのかもしれない。その虫について、第三者目線で考えてみろとか?」
アルデベルトは顔の曇りを見せたセオドアを気にかけることもなく、ただ持論の展開をした。そういう男である。
黄昏人にわざわざ「日が暮れますよ」とか雨に降られるその人に「傘をさしてください」と言うようなことは誰もしないだろう。野暮なことはしないのだ。決して。
お節介、野暮ごとに首を突っ込んだ時、セオドアとの糸のような橋のような関係性が崩れることを知っているからである。
そして結論を真っ先に述べるところも彼の素直というレッテルを支えている。
「もしくは…君の過去とかだったりするのかもしれないな。
…どうやらその顔からするに、いい線を辿れているとみた」
「パルフェは僕に過去をより鮮明に思い出せ、と言いたいということですか」
膝の間で手を組み、うつむいた。タイルが敷き詰められた床と目が合う。
「僕はそう思う。理由はそうだな、君が一番不安そうな顔をしているから。
おそらく、君の不安はあともう一つ。当てて見せよう。
”自分の正体をあの少女に言うべきか、どうか”だろう?」
光のような速さでこちらを向いたセオドアの顔はより一層白くなっている気がした。それほどまでに彼は恐れていたのだろう。何をかなど、アルデベルトには微かにわかる気がした。
”拒絶”である。
すぐにまた床へと顔を下げた隣に座る男は周りの音に隠れてしまいそうなその声で、初めて弱音を吐いた。
これまでの鉄壁を誇り、難攻不落を貫いていたセオドア・コーマンという王の城が遂に崩落の危機を迎えていることに気が付いたのだ。
涙も見せず、ただ光のない瞳がより一層暗くなる中で誰にも相談ができないこの男がどうしても哀れに見えてしまうのは、仕方がないのであろう。
アルデベルトにはわからない。なぜ、ここまでになってしまったのか。セオドアと会うのは約一年間ぶりである、その期間の長さに確かに変化があってもおかしくはないが、手紙の中でさえ何か変化があったということにすら気づくことはなかった。いや、隠していたのだろうか。
そもそも、アリスのこと自体も教えなかったのだから、どこまでこの男に踏み込めているのか今になって不安になるのだが。
「マーレやチェーロは言った方がいいと勧めてきます。そしてロンドンの郊外で暮らせと。それがアリスを少しでも長生きさせる方法だと。」
「僕も、ロンドンに住んでいたらそう助言をするだろう!あのスモッグは最悪だ」
「…わかってはいるんです。ですが、彼女を早く額縁の中に閉じ込めてしまいたいと思う自分がいつも喉を絞めるんです。
糸で操られる人形が迷うことなく幸せな終幕へ進めるようなそんな人生を、彼女には送りたいと僕は最近思うようになりました。ですが、そんな絵を誰かが引き裂こうとしている。
それが何より恐ろしいんです。
僕は彼女の優しく温かいその手で冷たい壁を作ってほしくはない。できることなら、それもいい花だと言い拾い上げてほしい。チェーロやアモーアの時のように…」
セオドアの本音だった。
水の中で肺へ息を送ろうとするのに、視界を覆いつくすその泡に溺れるようなそんな苦しい言葉だった。
水の中に沈めていた顔をそっと上げると、そこには複雑そうな顔をしている友人が背中を擦っていた。
布がこすれる音で呼吸を整えていれば、辺りの客が徐々に少なくっているようで耳の中が静かになり始めた。グラスの中のワインもあと一口といったところである。
「言ってみればいいじゃないか。彼女は君の事を今までの誰よりも綺麗な花をお持ちだと言って、拾い上げる。いや花瓶に挿してくれるだろう。
1人の少女が認めたんだ、それに僕も認める。君はいい美学の持ち主さ!
全ての人とは言いにくいが、あの国もきっと雲の隙間から見える太陽のようにそっと君を照らしてくれるだろう!」
「そうでしょうか、僕はあの国から好かれているとは思えませんが…」
「残念だが僕は英国王室に忠誠を誓ってはいないから、王室がどんな思想をお嫌いなのかは知らないさ。
だが、どんな王室もどんな人間も、好きな人に隠し事される苦しさは一緒だ。人間、苦しい時こそ笑うんだ。その笑いがどこか寂しいと感じられるなら、君はまだちゃんとした人間だ!そこにウィアードなんていう変人はいない。
安心したまえ、友よ。君の妻は我が国と同じくらいに寛容だ。かつての古代帝国のように、君を雪の上で殺すことはない。
それに国に愛されるなんて、どんな栄誉を君はお持ちなんだい?それこそ、アルマダを一人で倒してみないと、好かれないさ。その無敵艦隊の家でさえ、太陽から今は愛されていないんだから!太陽も国も誰も愛していないに決まっているだろ、アッハッハッハ!」
アルデベルトは腹を抱えながら大きく笑って見せた。心の底から笑っているようである。その笑いにかき消されそうなほどの言葉は確かに迷える子羊に救いの手を差し伸べたらしい。
目の前の男に光が少し宿り、悪戯に笑っている。
「…ハハ…残念ですがアルデベルト。
もし17世紀の繁栄を乗せ、どんな物も奢侈品も偽物も乗れる船であろうとも聖母を乗せることはできないでしょう。なぜなら、そのお方は19世紀にてチケットを予約されていたからです。
しかし、もしそのチケットのみが海への旅へ出発なされたときは是非僕を乗せていただきたいですね。今回のように。」
「これはまたすごい癖のある言葉じゃないか!君らしい。
決心はついた、とみてもいいのかい?これ以上の手助けをすることができないのは、残念だが。」
財布からお金を準備しているセオドアを横目で見つつ、あと残りわずかな2杯目のワインを一気に喉に押し込む。少々酒気に煽られそうになるがそれを無視していると、セオドアは楽しそうに微笑んだ。
椅子からおもむろに立ち上がると椅子に掛けていたジャケットを羽織り、シルクハットを被る。
来店時よりも胸を張っているその姿はいつもの自分と似ている。
「僕は唯一太陽に愛された人を知っています。その人に受け入れられるよう精進してみることにしました。
アルデベルトのおかげでたまには、世界とは逆向きに歩いてみるのもいいと思うようになりました。皆同じ方向に歩いていても人類は進化しないんでしょう?」
そう言ってアルデベルトを見下ろすその男はまっすぐで清らかであった。何か嫌なものが剥がれ落ちたかのようなその顔つきは、あの機械かと思うほどの初対面時とは真逆の姿だった。
その言葉を忘れていなかったセオドアへの驚きで、ワイングラスをまさか落としてしまうとは。アルデベルト自身も本当は酔っていたのかもしれない。
「君、本当に、変わったなぁ!」
「えぇ、耳が腐る…いえ、貴方に教えていただき少し自分を受け入れることを学んだからです。
お節介かもしれませんが、パルフェにお伝えしたことがあればお引き受けしますが」
懐からメモと万年筆を取り出したまま感動で涙腺がにじんでいる男性を見ている。
ただ、その男性は涙をぬぐいながらそっと返すのだ。”昔と変わらない。最後の会話と同じ言葉を、男に”。
「”君の舞台で僕はどう映ってる?”」と。
港に戻ると、船の窓から微かにろうそくが揺れているのが見えた。あの部屋はアリスとセオドアの部屋である。先に寝ているはずの少女は健気に待っていたのか、はたまた習慣となっているらしい日記を書いているのか、想像するのは容易いが真実はわからない。
明日は2人でオランダを巡ろう。そして明後日にはまた海の旅だ。その次は会社でまた3人で仕事をしよう。
策士からの皮肉の効いた旅からの帰還を祝うメッセージのパターンは3つほど考えたところで、帽子を深く被りなおすと船へと続く階段を上った。
アリスは別れた後何を見て、何を食べて、何を話したのだろうか。あの2人のことだから、歴史の話か宝物の話だろうか。
「それよりもまず、貴女に言いたいことがあるんでした。」
船へと最初の一歩を踏んだ時、満月輝く夜空に向かって男は呟いた。機械の音も、煙も人の声も聞こえない海の船の真ん中で、吐き出した。手の中に滲む汗が自分の心情を映し出している。
朝は人で埋め尽くされたあの廊下も今は川を流れる魚のように進むことができた。物音がしない客室の前に立ち、数回戸をノックする。
「はぁ~い、どなたかしら?」
眠そうな声と共に何かから降りこちらへ歩いてくる足音が聞こえる。裸足ではないことに安堵しつつ、初日の彼女を思い出した。寝るときはいつも裸足だからと、ここでも裸足で歩こうとする彼女を何とか部屋から出る前に止めたのだ。
そんなことを思い出して、頬が緩んでいると戸が小さくゆっくりと開いた。
「あら、お帰りなさい。セオドア!…あら?何をいいことでもあったのかしら。すっごく優しい笑みだわぁ~」
「えぇ、いいことが今ちょうどあったんですよ。アリス」
部屋へ手を繋がれながら入る。やはり日記を書いていたようで、机には背が短くなったろうそくと、羽ペンにメモ帳が置かれていた。
「アリスが靴を履いて、室内で待っていてくれたことです」
「まぁ!意地悪だわぁ!私もいいことがあったのよ」
彼女は椅子に腰掛け、ベットの方へ向ける。セオドアはベットに腰掛け、ジャケットやハットを取り寝る支度をしている。
「今日もセオドアにお帰りなさいを言えたこと、これだけで私は幸せなの」
そう言ってほほ笑む彼女をセオドアは本能的に抱きしめた。椅子ごと抱きしめるような形になりながらも、優しくだが少しいつもより強く長く抱きしめた。小さく少し何故か冷たい彼女の手がセオドアの背中を中途半端に抱きしめた。
「アリス、今、貴女の下に帰りました」
「えぇ、お帰りなさい」
抱きしめたまま肩に頭を預けたままセオドアは少し深く息を吸った。アルデベルトの前ではあんなにも強がるように心が動いていたのに、船の前でも勇気が足を動かしていたのに。今はその勇気がろうそくの火のように消えてしまっている気がした。
だが、頭の中であの男性の声がする。もう一回息を吸うと、セオドアは口を開いた。
「アリス、僕の話を聞いてくれませんか。ずっと貴女に隠していた、話です」
震えたその言葉はまだ勇気の一文字には遠く儚い。だが、少女は背中を優しく叩きながら小さくうなずいている。
「えぇ、いつまでもお待ちしているわ。セオドアの秘密の話。」
遠い昔に消えていたはずの自分の母を思い出すような穏やかな声だった。だからだろうか、本当は国に帰ってから言うつもりだった言葉が今出てしまったのは。
未来で味わうはずの後悔を今、してしまうのは少女のせいだったのだろうか。
「僕は”死体”を愛する、ウィアードです」
それは、余命一年を過ぎ去り半年ほどで死ぬ少女と、死体を愛するウィアード_変人がこれから再び紡ぐ自由の死角にある話である___
書き忘れたのですが、この物語はフィクションです。史実とは異なる部分がございます。ご了承ください。
次回は6話へまいります。自分の正体を告げたセオドアとアリスの今後をお楽しみください。




