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第四話 ②

 第四話②


  煌びやかな演劇場。金色の装飾は周辺の建物さえも飲み込み、それは人の心さえも飲み込んだ。

 ここでは皆が自分を何か特別な存在と、自分のためにこの舞台が開かれているのだと誤解している。

 そして、あの有名な脚本家と対等な存在だと自身を拡大評価し、まるで自分もあの女優だと思うのだ。

 劇場へと繋がる建物前は何台もの馬車が入り乱れ、男女問わない声が騒がしい。それに比べて空はやはり灰に濁りどうしても気が晴れるものではない。それにも関わらず、皆これに慣れているのだ。


 それをパルフェは劇場の窓から見ていた。

 だが彼は全ての鼻高な人形を認識しているわけではない。言うなれば全てがそこに存在していない塵と同じだ。ただ、自分の中で輝く鉱石を探している。


 「お、やっと来たか。やはり、貴様らに馬車は似合わん」

 紅茶を揺らすと、彼は高笑いをこぼした。まるで彼を具現化するような、身分の嘘を隠すその部屋の豪華さは目が灼かれるほどの眩しさと、美しさである。

 座りの良い椅子に腰掛け、慣れた手つきで煙管を吸えば白く少々濁りを含むその煙は天井へ向かって絡み合った糸のように流れながら、ついに空気の流れに乗り窓の外へ向かっていった。

 自分が書いた脚本を手に取ると、どうしても面白くないと思えてきた。飽きたというよりも、今の自分にとっては道端に捨てたはずの石を気まぐれに磨き続けた結果、鉱石紛いのそこそこに美しい石ができたのだ。それに満足し捨てるか、はたまた棚で飾るか…もちろん後者である。飾らなくして、どうしてくれようか。


 馬車が入り乱れる中で、平然と徒歩でどこか疲れたように演劇場の入り口に集まった四人組は見る人から見れば気になる人々ではある。(人に興味がある、周囲の風景に価値を見出せる価値観があれば、だが)


 銀髪と黒を基調とした衣服を纏い、手元の中には白い毛皮を着たフクロウの人形と紫の光のない兎の人形を持つ男、その男と同じ黒いコートと彼女らしさを含むドレスの女性。

 そして、赤黒いスーツに帽子に灰色のコート。片眼鏡、癖っ毛というだけでは擁護ができない髪のハネに、右端に綺麗にまとまった三つ編みの男。その男に片腕で抱き上げられた、白い肌が目立ち赤いドレスを纏う少女。

 男の腕の先には高価な絵の具が入ったトランクがぶら下がっている。


 パルフェは一瞬だが、その男と目が合った。本当に合ったのか?と言われれば、彼は「俺が合ったと思うことの何が悪い?」と返すだろう。

 くたびれた様子の男を見ると、パルフェは自分の正装に身を包むと口元の上がり具合を治せなかった。

 

 「こんな凄い所に呼んでいただけるなんて、本当に光栄だわ!何か、お礼をするべきかしら」

「やめておいた方がいいでしょうね、あの男そういうの受け取らないから。」

「ランス〜マーレ〜、俺やっぱり帰りたいんだけど。ねぇ、オリバーもそう思うよね!」

「チェーロ、私は喜んで見させてもらうから帰っていただいて結構よ。ランスとオリバーは私が連れて行くわ」

「マーレ〜!!」


 いつもよりも値の張る服に腕を通し、いつもは適度に粧しこんでいた髪型も今日は一級の貴族と大差ないほどに手を込めた。


 アリスは自分の背を偽ってくれるその靴で歩くことを三日前からオドアに言い続けていた。

 子供らしさのある言動にある一種の感動と、面白さを抱きながら家でこっそり履かせてみれば、バランスも取れず一歩歩けず、さらに怪我など目を離した、いや瞬きのうちに二、三個は作れるだろうと言うほどの拙さである。

 結果、アリスは家からチェーロたちの家までの距離しか歩くことは許されなかった。

 もちろん誰もが彼女は頬を膨らませ、愛らしいその口で皮肉を吐き出すんだろうと思ったが、満更でもないようだった。


 あの一件以来、アリスも自分の体調を過信しすぎないようにしているのかもしれない。

 それを好都合と思っているのが画材と少女を軽々と持ち上げる実は筋肉質なセオドアであるが、ここでは割愛としよう。


 セオドアは王様がいた部屋を不敬にも見上げるとそこには罠にかかった鳥を見るような捕食者の顔があった。

 無邪気な子供と言ってもいいかもしれない。

 自分の腕の中で会話に夢中な少女が気づかなくて良かったが、あの男こそ自分を見習うべきではないのか。と、何度目かもわからない考えを漏らすのだった。王に民衆の中限定の慣習法を習わせて、それを実行し反映する王などこの世にいるわけがないのだから。


 「セオドア?マーレたちは先に行ってしまったわ、私たちも行きましょ」

 頭を優しく撫でられる感触に頭を覚ますと、そこにはいつもよりも美しく芸術品に近い、妻がそこにいた。

 不安という言葉を体現しているようなその顔を見つめると、どうやらそれだけではないということがわかる。楽しみなのだろう。


 「アリスは、楽しみですか?」

「えぇ、とても!脚本家さんが特別に用意してくれた席から見る舞台はきっと楽しいはずね!

それに、セオドアが描く世界を見れるのよ。これ以上嬉しいことはないわ」

「つまり今日僕は、貴女を僕の船に招くわけですね。前にも言いましたが、僕を大きな額縁の中に入れて考えてしまうと、額縁から外された後にただの紙切れだったと落胆されますよ。」

 それだけ告げると彼女の返答など受け取る気もないように見せ、やっと建物へ入って行った。レッドカーペットがこの前の出来事を彷彿させ、あぁ皮肉だなぁと思うのだ。それをあの男に言えば「じゃあ、青い絨毯でも敷いてやろう。そうすれば、何を思い出すのかなど手に取るようにわかるがな。」と、意地悪を言うのだ。


 そして、あの男はきっと自分を嘲笑うんだろうと噛み締めれば腹立たしい。あのチケットを暖炉の塵に埋もれさせてしまえば良かったのだ。だが、アリスに三枚のチケットを真面目に見せてしまったこの哀れな男は、王の思惑通り謁見し、余った一枚はこれまでの物と一緒に額縁の中である。


 アリスに見せたのが運の尽き、そして彼女と見たいと思ってしまった自分の欲のせいでもある。

 しかし、好奇心と探究心が舵をとる船に乗っている彼女だ。それを追随する自分が止められるわけがないことは明白である。見せなくとも、きっと同じ運命を導くレッドカーペットの上を歩いていた。そこまであの男が考えているとは思えないが、未知数を冠とするあの人だ。

 

 パルフェが用意したという席は毎回、舞台を俯瞰的に全体的に傍観させる為の席というのが一番しっくりくる。舞台の完成度や凡夫が語るような感情論の評価を、彼は求めていないというのを暗黙の了解として飲み込ませているのだ。

 では、彼は何を求めているのか。

 わかりやすく説明すれば_

 ダヴィンチの『最後の晩餐』を見て、一般人が言う「うまい」「すごい」という評価ではなく。

歴史家が見た「中世との違いが明確化されている」「遠近法発見後か」とか、芸術評論家が見た「色のバランス」「遠近法により中心のキリストに芽が集まるな」「この手の位置、何か意味があるのではないか」とか。

 その知識がなければ、視点がなければ言葉にできない感想という名の考察と、評論を求めているのだ。


「パルフェの演劇俺は流石って言うよりも、だろうなって思うんだ。彼は無神論者だから、それがよく主張した舞台が前面に見えているなってさ。

 ある意味彼ってイギリス正教会の教会に潜む悪魔もいいところだろうね。

 世間はキリスト教から意識だけは逃れたと思っても、まだ足が絡みとられている。彼はそれを嘲笑っていたいんじゃない?自分はその道の上をただ歩いているだけって思ってそうだよね〜。

 彼にとっては自分が神みたいなものだし。だから、彼は神話も童話も全て馬鹿げた無駄な物にしか見えない、感じられない、そしてそれを基に脚本を書けないってわけだ。

 もっと言うなら、わざと彼の劇で出てくる悪魔とかは全部自分の足元で騒ぐ俺たちを満足させて、黙らせるための道具なんだろうね。

あ〜あ、悪趣味だなぁあいつ。」

 チェーロは隣で瞬きを繰り返すマーレを横目で見ると、意地悪に笑った。


 急な饒舌な言葉にマーレは困惑を隠しきれなかったが、どこか不機嫌さを醸し出した彼の顔を見てどこか心で「あぁ、なるほど」と納得してしまったのだ。

 例えばそれは、自己理解ができない小さい子供だった自分へ、親から手を差し伸べられたように答えを教えられた時のあの安心感だ。

 「チェーロは羨ましいのね。パルフェが」


 人形を抱えていない方の小さいが大きい片手をそっと触れると、その子供はまるで銃で撃たれた鳩のような間抜けな顔を浮かべた。


「人って皆、他人には言えない秘密とかあるものよ。でも、それを自分の美徳として堂々と示しているパルフェが、ずっと隠して生きるチェーロにとっては羨ましいのね。

 スラム街に生きる人々がジェントリを羨むのは当然でしょ?それと同じなんじゃない?

それって、子供みたいでいいじゃない。何かとウィアードなんて言って自分を卑下したり、大ききく見せたりしているけれど、私からしてみればセオドアもパルフェもチェーロも」

『大きい子供で、全部貴方本人じゃない』


 その時チェーロの仮面がやっと、マーレの手元で砕け散る音がした。

彼女はずっと自分を見ていたのだ。冷たくあしらい、思い切って人形への愛を表現しても、わざと振ってみても、作り笑顔で接しても彼女はわかっていたのだ。チェーロもセオドアと同じように廃人であるのだと。


 初めてチェーロは、仲間以外に自分を見せようと思えた。ただ、詐欺師と称された彼の無数にある仮面の一つが壊れただけに過ぎないのかもしれない。その仮面は“恋人用のチェーロ“。


 仮面の割れ目から見えた彼女の横顔はこれまで見てきたどんな女性よりも美しかった。正面を見つめるはずの瞳が自分を射抜いた時、あぁ、風が吹いているのかと。思えた。

 驚きと共に宥めるように微笑む彼女に彼はもう一度惚れ直すのだ。今なら、言えるだろう。


「俺、やっぱ君のことが好きだ」

 場違いだろう。要らない茶番かもしれない。だが、やっぱり必要なのだ。

いつ、自分たちの人生の旅路が終わるかなどわからない、それにいつ別れるのかもわからないのだから、思ったことは思った時に言わないと、手紙も声も届けることなく、消えてしまうから。


 彼女は口元に手を当てると、肩を軽く揺らしながら目を閉じた。困ったように眉を歪めながら口元の手をチェーロの手に重ねた。

「私もよ、ずっと愛しているわ。」

マーレも心の中で苦しげに言った。

『たとえ、私を私と見てくれていなくても』と。


 あんなに大きなことを言っても、彼は彼であるならその本性の根は変わらない。女性になりたい男が、男性への恐怖心や妊娠への不安などを理解した精神面も兼ねた本当の女性になれないように。たとえ仮面が何枚割れたとしても壊れても、その奥で眠る本性は本当の普通を知らない。


 その後、二人で無邪気に談笑し合う様子の横でセオドアは画材を用意しほとんどの人が座っている劇を一人立ちながら見る羽目になっている。

 アリスが椅子に座ることを勧めてくるが、観賞用の椅子はどうしても嫌な記憶が蘇るのだ。


 そんな記憶が蘇り、なんとなくあしらう笑みを浮かべればやはりそこに横槍を入れるのがあの男だ。

 「一回座って描いたら、観ることに集中しちゃって。絵の出来がパルフェが激怒するくらいに悪くなってさ、同じ物を二回観ることになったんだもんね〜」

「そのおしゃべりな口を縫い付ければ、貴方もパルフェの劇団で今よりも輝けるでしょう」

 人形を顔の前に持ってきて、その偽物の腕をそれの目元に当て、揶揄えばセオドアは「やめてください」とだけあしらった。

 二人の女性が困ったように微笑み合った時、劇が始まる鐘の音が響いたのだった_

 

 劇の話をしよう。つまり、誰かの人生の一片を語ってあげよう。


 人は誰もが心に悪魔を背負っている。その悪魔は空から光が消える時、そっと出てきてはその人の陰と自分の足をつなげようとするのだ。

 時に人は陰をなくすために自分の過去を殺そうとする、時に悪魔と縁を切る人もいる。だが、時に人はその陰を自分自身としてしまう者もいるのだ。


 その少年は普通の人間と思われていた。親への愛を忘れず、隣人愛を掲げ、妹へも純愛を注ぎ、皆から「聖人」と言われた。

 朝から日が暮れるまでは畑の仕事を手伝い、夜は読書に努めた。

 だが、満月がなくなる時彼の本性が脳内に響くように耳元で囁く。

 「偽善者のふりは楽しいのか?」と。

 少年は本を持つ手を振るわせながら言う。

「あぁ、怖いよ」と。


 見せかけの幸福な日々は遂に崩壊することになった。たった一つの出来事でだ。それまで少年が破片が落ちぬように必死に両の手で守ってきた聖人の仮面が、壊れ崩れ悪魔の顔がバレてしまったのは。


 事の発端は、妹と湖へ散歩しに行った事だった。

両親は村へ出かけるようで、留守を頼まれた。彼には妹がいた。美しい妹であった。

 白色の肌に、太陽の微笑みのように輝く金色の髪。その緑色の瞳は森のようであり、落ち着いた印象を与えた。

 聖人の兄と並び、聖母であるかのようであった。


 「兄上、あの湖へ行きませんか。今日は太陽も顔をお出しになって、きっと美しいものが見れるかと思いますの」


 兄の部屋を訪れ白い肌を赤く染めた妹に連れられ、湖へと出かけた。

 確かに、美しかった事だろう。自然な太陽が反射する水面の輝きも、光が照らす彼女の姿も。雲が見えない青い空も、美しかった。

 悪魔が耳元で舌打ちをする声が聞こえなかったわけではない。その時、少年は「眩しいな」と呟いた。


 「日傘を持ってきましょうか?」妹は兄に聞くが、兄は困った顔で返す。

 「いや、俺は大丈夫。お前には眩しいだろう」と。それを妹へ言ったのか、悪魔へ言ったのか今となってはわからないことだろう。なぜなら、その少年は今や消え去ったからだ。


 妹は岸辺にあった船へ兄の手に支えられながら乗り込んだ。

 湖の真ん中へ進み切った後、二人は静かなひと時を楽しんだ。談笑もかわしただろう。日夜忙しくしている兄との穏やかな会話を妹は楽しみにしていたのだ。言うまでもない。


 だが、悪魔はやはり面白くないと思っている。どうにかして、この少年を陥れてやりたいと思っていた。いつまでも太陽を嫌い、少年の背後で隠れるのは自分のプライドが許さない。


 それを少年はわからないほど馬鹿でない。だが悪魔が掴んだ左腕は妹へと手を伸ばしている。

 「兄上?私の顔に何か付いておりますか?」

「逃げてくれ、逃げてくれ!」兄はそう言うしかないが、その顔に妹は初めて兄に恐怖をしたことだろう。


 目元の下まで上がっているんじゃないかと言うほどの口に、犬よりものびた八重歯。瞳は兄の美しい金色の瞳は消え去り赤い瞳だった。

 兄ではない、聖人もいないのだ。


 さて、気づけたはいいが腕は妹の首を掴み締め始めているではないか。逃げ場などありやしないのだ。もし、逃げ道があったならばおそらく兄を誘わなければよかったのだ。最初から。

 ずっと昔に気づいていればよかったのだ。それは不可能なんだと、兄を疑うこと自体が無理なのだ。

 もし兄を疑えているのであれば、なぜ日々欠かさず祈りを捧げたあの唯一神は彼女を助けないのだろうかと、いないのではないかと存在を疑っているはずだ。


 妹の頬に流れたその雫は悪魔の腕を濡らした。だが、意味はなかった。

 そして、悪魔は妹の首を最後に強く握りしめるとそのまま船の下へ放り投げた。


 兄がやっと正気に戻り、自分の手や顔を確かめていれば、湖へ浮かぶ妹に気づかないわけがなかった。

 嘆き、嘆いた、妹を船へ乗せ助けようとした。だが首元へはっきりと残るその手の後が何よりの証拠だった。妹は戻らなかった。


 いや、語弊がある。あの聖母の妹は戻らなかった。ただ、耳元で囁く存在が変わったのだ。

 憎たらしいほどの悪魔は少年の仮面を粉々に粉砕し、やっと自分が主役の舞台へと上がった。代わりに妹に似た魔物か同族か、はたまた呪いかが耳元で囁くのだ。


 「なぜ、助けてくれないのですか。

 なぜ、騙していたのですか。

 許しはしない。絶対に許さない!

あぁ、神よ。貴方も同罪です!この穢らわしき悪魔を兄から守らなかった貴方も!

そして私に救いを差し伸べなかったのですから」と。


 日々を送る悪魔はその声に高笑いをし、教会へ向かい「悪霊が付いているのだ、祓ってくれないか」とさえ頼んだ。もちろん祓えなかった。ただ、その悪魔は恨みを強め、もがき苦しんだ。信仰心が強ければ、強いほど偽物であろうとも力は生まれるのだから。そう、そこでしか力が使えない神様の。


 では、少年はどうなったのかと。

 新月の時にのみ悪魔は力が弱まった、だから、あの聖人の少年は帰り、そして自分を蹴落とし舞台へ上がった悪魔を殺すようその妹に似た者に頼み込んだ。


 「貴方は私を助けなかったではありませんか、今更何を言うのですか」

「神も俺たちを助けることはできないのだ。ならば、君に縋ることしかできない。

 許してほしいとも思わない、ずっと俺の耳元で囁いていてくれ。そのためにもこの悪魔が鬱陶しいのだ。

 そうすれば、お前とずっと一緒にいられる。全ての罪は俺にある、そうだろう」

 根は妹にあるのかもしれない、その者は悪魔を喰らい尽くし、聖人の少年へ新しい仮面を与えた。


 その日から人が変わったように、いや妹の気力が無くなったかのようにそれは呪いのような言葉を吐き続けた。今も、ずっと、彼は呪いで生き、呪いで死ぬのだ。

 誰も愛せぬ、誰も救えぬ彼はずっと孤独に生きることだろう。

 なぜなら彼は死んだ妹へ恋をしている。だから、彼は悪魔が邪魔であったのだ。だから、彼はずっと共にいる道を選んだのだ。

 人であるのに人になれない。悪魔でもない。だから彼は廃人なのだ。



 劇の終了を告げる鐘が響いた。それと同時にセオドアは筆を置いた。自分の絵画は少年とその背後に妹の二人を描いている。美しい人間だった頃の二人だ。


 二人は鏡を挟んで互いを見つめ合っている。黒い背景が二人を目立たせている。周りへ散っている百合と赤い薔薇は何を思ったのだろうか。

 鏡の向こうの妹の背後には意味あり気な赤い煙が広がっていた。兄の背後には白い手袋の小さい女性の手が伸びていた。


 これはいつかの展示会の日、とある男が融資だと言い持ってきてはまた一つ二つと加わった。全てに言えるのは、暗いと言うことだ。光がほぼ入って来ていない。

 パルフェの生み出す劇も光は一瞬で消える。

 

 劇の終わりから少し経ち、マーレとアリスの感想会も終わりを告げた時セオドアはやっと筆を置いた。コートやネクタイを締めると、画材をすぐに片付け始めた。

 その横では小さい妻が第二の楽しみとして待ち望んでいた絵画を見ようと立ち上がっている。


 セオドアはそれを感じた。ここに初めて葛藤が生まれた。

 片方の道には真夜中の湖が、そして片方には朝焼けが広がる海がある。どっちを選ぶべきかなどわかりきっていることだが、選べない。


 初めての感情はセオドアを困惑へと手招きをする。だが、その奥で目を光らせる者たちからは逃げられなかった。

 「どうでしょうか、お気に召されるといいのですが」

 少女のことを抱え、見せてみれば息を呑んでいるのがわかった。それが感動からくるものか、はたまた恐れかなどわかるわけがなかった。

 ゆっくりと下ろせば、彼女は自分の足で一歩だけ近づいた。また乾ききっていないその絵画に触れることはせずただ見つめている。


 セオドアは何もしなかった。芸術品を取り扱う貿易に従事している彼だ、物の見方に対しては理解がある。もし、自分がこの絵を商売で扱うならば、即刻海に投げ捨てている。それくらいの価値なのだ。

 だからこそ恥ずかしいという思いが初めて心の中で居住権を主張していた。画材道具の入った木箱を持つ手の中に汗が滲んだ。


 少女はただ見つめていた。絵画に触れることもなく、ただ多方面から見つめていた。


 会場の中から人の姿が見えなくなってきている。騒がしさもなくなり始めているのにも関わらず、四人は誰も動かなかった。


 「劇の中の二人はとても悲しい現実で生きるしかなかったかもしれないけれど、セオドアの額縁の中では二人は幸せそうだわ.。

 こういう見方もできるのね。悲しい過去もそれを着飾った見せかけの美しい今も、人の見方によってはそれを幸福というのね」

「…仮面を被った聖人にならされた演者がその結末を美しく色づけをしても、その下にある色は変わりはないでしょう。ずっと、その下には黒しかないのです。黒は何を混ぜても黒にしかならないのです」


 『では、パルフェの方へ行きますから』とだけ、言い残しセオドアは半分乾き始めた絵画を持ち上げ会場を後にした。


 誰も彼の後を追わなかった。アリスはチェーロにその腕を取られてしまった。怪訝な顔で彼の方を見ると、静かに横を振っていた。


 マーレも、彼とアイコンタクトを取るとホールの外へ動き出していた。


 なぜか、近づいたはずの道のりが短くなったはずの糸の先が、今はちぎれ始め道が崩壊し始めているのではないかと思ってしまった。

 普段から詳しいことを言ってくれない彼だが、今日は一段と何も語らない。

 しかも、それに加えて先ほどの発言はどこか突き放すようなひどく冷たい印象を受けた。なぜか今日は本当に彼が初対面時のようであった。

 ホールから去るときに目の端に見えた彼の顔はどうしても、どこか奥歯で何かを噛み締めるようであった。そして、瞳に戻りかけていたあの光はどこかへ消えてしまっていた。

 「ねぇ、セオドアはどこへ行ってしまうのかしら」


 ホールから出て、人がまばらに残っている廊下を抜けて近くのカフェで一旦息をつくことにした。

 持ってこられた紅茶のカップは三杯。軽い茶菓子も添えられている。


 チェーロは一瞬たりともアリスの手を離すことはなかった。もちろん、人形の手もだが。そして、その際誰もまた話出さなかった。アリスの答えには誰も答えなかったのだ。

 「多分、パルフェのところ。簡単に言えば、絵画を届けに行ってるって言えばわかる?」

「あの絵画、あの人のために描いていたのね。

パルフェさんはセオドアの絵画が好きなの?」


 紅茶のカップを小さく細い手で包みながら下を俯いていると、隣に座ってくれていた女性が自分のカーディガンをそっとかけた。

 背中をそっとさすってくれているその優しさが悲しい。


 だが、そうじゃないのだ。ただ、置いて行かれたようなそんな自意識過剰な考えをしてしまう、そんな自分にも嫌気がさすのだった。


 「“舞台の下で這いつくばっているネズミをショーに出して踊らせた時にネズミは自己を認識する、その時の奴の顔やら動きが見たくてたまらない、わかるか?

 もっと言おう。薄汚れたネズミにしか持てない物語を俺は見て見たいのだ。“

 日常的にセオドア語を話している君ならわかるんじゃない?

 ちなみにこの言葉はパルフェは前に俺に話したセオドアに対するもの」


 目の前に座るチェーロはいつもよりも詐欺師に見えた。何も嘘はついていないのにも関わらず、どこか欺こうとしているのではないか。そう思えた。

 紅茶のカップの波紋はまるで自分を映しているようだった。

 ずっと思っていたことがあった、アリスの中には。チェーロやセオドアが言う“仮面・舞台“だ。

 何かの比喩だと確信はしているが、何を言いたいのかなどわからない。

 言うなれば、豪華な燭台の上に飾られた食材や豪華な装飾の下で口にはできない、もしくは拒絶するような泥が敷き詰められている。

 そのことを自分以外の晩餐会への参加者は知っている、思わず足を椅子にからめて逃れようとする人もいる。でも、わかっていても誰もアリスには教えない。嘘の顔で微笑みかけてくるのだ。

 おそらくアリスはまだ身長が足りないからその足元の泥に気づかないのだ。


 「私、貴方たちが言う舞台とか仮面とかがまだわからないの。あの病院の日、私にはわからない言葉で二人で交わした会話の意味を教えてくださるなら、きっと理解できると思うわ」

「つまり、俺に解説をしろって?」

「そうね、セオドアは教えてくはくれないもの」

「ん〜じゃあ、君は詐欺師の言う言葉に体を預けられる可愛いお鴨ちゃんになっていいの?」

 ランスで顔を隠し、彼の右手を掴むとわざと手を振らせる。その下に見える彼の瞳は遊んでいる無邪気な子供のようであった。


 そして隣のマーレは頭を抱えているのだ。だが、決して自分は干渉はしないと不干渉を唱えているのだ。


 アリスはそれを確認すると、自分の心を机の中心へと差し出した。

 つまり、賭けに出たのだ。詐欺師に取られる命などないとはわかっているが、ここで賭けに出なければきっと彼に近づくことはできないだろう。

 元々の時間が少ないのだ。戸惑うことなど子ウサギがするくらいがちょうどいい。

 その瞳は迷いなどない綺麗な矢であった。


 「そう、いい趣味だね。でも、嫌いじゃない。

 人はみ〜んな仮面をつけてる、その仮面の下で子供の顔を隠してる。そして表の仮面は?なんの意味にあるのか?それはもう、君にもわかっているはず。

 舞台、それはこの世界だよ。神からしてみれば、瞬きの瞬間に現れた謎の生物という名の新キャスト、それが俺たち人間。

 つまり、舞台は?そう、ここロンドンであり、地球という短編集まみれの薄汚れたこの社会のこと。

 さぁ、お気に召したかな?対価は不要だよ、だって未来でもらう予定だから。君が思っている以上に君には価値がある」

「あら、ありがとう。なんとなくわかったわ。

 さっきの言葉、私なりの解釈だときっと“セオドアをあの劇に立たせた時。彼を仮面無しでこの世界を見せた時に、自分というものを認識させて、その時の彼の感情を見たい“そう言っているのかしら?

 そうだとしたら、私は悪趣味だと思うわ」

 「そうだね〜まぁ、いくら仲良くなったとしても詐欺師って君の男が言う人間の言葉を信じるのはどうかと思うけどね。」


二人で和やかとも思えない会話をしていれば、途端にアリスは背中を丸め口元に手を添え始めた。そして勢いよく息を吸うと、咳をし始めた。

 周囲の音がなくなってしまったかのような違和感に陥ってしまうほど、唐突でそして不自然なことだった。だが、当然のことなのだ。今までが不自然だったのだ。

 そう自覚したとしても、受け入れらることではない。


 「うっ…ケホッケホッ、ん、ゴホゴホッ」

「アリス!やっぱりロンドン中心部は空気がよほど悪いのね、セオドアには言っておくから家に帰ったほうがいいわ」

 マーレが慌てたように背中をさすり水を差し出せば、軽く息を整えた彼女は水を震えながら飲んでいた。


 その顔は誰から見ても死人である。色白すぎるその顔色に、濃い赤のドレスにより銀の髪がより引き立たされ、全体として見ると今朝よりも儚さが増している。


 チェーロは「俺からセオドアに言っておく、安心してよ。そこは詐欺しないから」と冗談混じりにいうと、あぁこれが死ぬ運命にある人間の笑みなのかと思うほど、弱々しい笑みだった。なんとか笑うために丸くなった瞳に力はない。うまく上がらない口角は言葉にする必要性もなかった。

 

 「ごめんなさい、楽しい時間だったのに。

 この前お医者様がおっしゃっていた通り、スモッグの影響で実際の余命よりも短く、なっているのでしょうね。でも、ここにいる決断をした、自分を、責めたことはないわ、本当よ。

 それに、彼の言う汽車への切符を車掌さんに頼むにはお金が足りないもの」


 『ほら、もう大丈夫よ。でもまだ動けないからごめんなさい』


 その謝罪の後の言葉がわからないほど、鈍感であればどれだけ良かっただろう。机に落ちた血の破片をチェーロが布で回収すれば、そっと感謝を伝えてくれる。

 どうして彼女がこんなにも謙虚で大人らしくなくてはいけないのだろうか。マーレがずっと思っていたことだ。だが、それに踏み入る勇気がなかった。

 最初に会った時のあの元気さは毎回会う度に花弁のように散っている。後何枚残っているのだろう。

 マーレはアリスの背を摩り続けながら苦し紛れに言葉を出した。斜め上にいる彼を見れば困った顔をしている。


 「アリス、悪いことは言わない。それにこれは意地悪じゃないの。お願いだから、ロンドンを出て。私はまだ貴方といたいの、どんなに遠くても会いに行くから。お願い」

 周りのことなど気にせず、優しく胸の中に閉じ込めれば彼女は軽く咳をした。そっと離れると少女はマーレの頬を撫でた。

 時折、チェーロやセオドアが彼女を聖母と呼ぶ理由が見えた。確かに彼女は聖母である。

 ただ、その聖母は未来を見ていない。まるで花弁が落ちるのを当然のこととして、見ていないのだ。

 ただ、今咲いている花を愛でていた。雪の上に落ちた花弁を白い地面に埋めて見えなくして。

 

 「えぇ、それが一番いい方法だと思うわ。

 でもね、マーレごめんなさい。私はきっと耐えられないわ。彼が窓辺から見える黒煙を瞳の奥で追いかけて燻らせていることを、側で見続けることが、きっと。

 それに、愛している人の横に私が立って、私の横に彼がいる。共に支え合って、同じじゃないけれど道を歩くの。それが夫婦っていうものの、生き方じゃないかしら。」

「なんで、本当に貴方って…こんなに大人になっちゃったの…

セオドアといられる時間が少ないなら、これ以上少なくしたら支え合うどころじゃないわ。アリスが一生を貰い受けたなら、アイツも一生を捧げなさいよ…不平等じゃない!」


 アリスの手の甲に落ちた水滴はそのまま重力に従って、ドレスを濡らした。布に広がった感情は淡く広がり、徐々に消える。


 目元も鼻も赤く染まった時、反対にアリスが彼女を抱きしめた。身長など足りないが、肩に頭を預ければ温もりなど感じられるのだ。

 マーレは人の為に泣けるのだ。それはアリスと同じ、人であろうとしたからだ。

アリスの心の湖にに罪悪感が広がり、黒く濁った。だがその遥か上にある太陽輝く空では、幸福の気持ちが漂っては、白く飛んでいる。


「そんなこと言わないで、マーレ。彼は最初から全てを私にくれているの、だって私がいなくなっても毎晩ホットミルクでもてなしてくれるって、言ってくれたのよ。一人じゃミルクすら口にしない人なのに。

 それに、私の最後の夢を額縁にしてくれた彼の絵画に私が色を付け始めたら、それは汚しているのと同じじゃないかしら。それは失礼であり、私は嫌なの。

 どんなに運命を同じにする人同士でも、その人の絵画はその人だけよ。マーレもチェーロも。

 マーレ。私のことを心配してくれてありがとう。大好きよ。でも、気にしないで。私は私の意思でここにいるのだから、飛べない鳥が歩くことを学んで、世界を知った。その歩きを止めることは貴方はしないでしょう」

 肩で鼻を啜る女性の頭をそっと撫でながら、アリスはチェーロに微笑んだ。彼の顔もふと見れ見れば、どこか苦しそうに眉を顰めている。机に座っているランスも、どこか悲しそうに見つめてくれている。


 カフェの外では第二公演に向けて次なる客と、帰ろうとする人の混雑で賑わい始めている。

 馬車が地面を蹴り、歩き始める音に車輪の回転する音。カフェの中の人の話し声ですら、今は心地がいい。

 まるで、自分は大木にでもなったのではないかと思える。何が腕の先に止まろうが気にせずに、迎え入れては消えていくそれらを見つめることもない。

 ただ、この場に足りないのはあの晴れやなかな日差しだけであった。薄暗い空の下を鳥が飛んでいても、気が滅入るのだった。



 「今回の劇は第二公演を中止してもいい、俺には傑作の中に埋もれた原石でしかない。それに目的も達成した。

 この有頂天になり、目下の出来事すら気づけない愚者どもに見せることへの意味があるか?いや、ない。そうだろう、セオドア」

 彼の控室、革の反射も座り心地も王様に相応しいソファに座っていれば、自分の絵をただ静かに見つめる男がいた。その男は光がないのに、眩しいと思うのだ。だから、会いたくない。


 もし今、無茶苦茶な税法を作れるならば招待税を作り、自分を招待するごとに破格の金をとってやろう。そして、それに対する会議では決して招待してやるものか。

 そう思うが、言葉にできない。

 反論を繰り出せば、この男こそ有頂天になるのだ。たまにいるのだ、討論を趣味とする生物が。


 などと考えているが、壊れかけと揶揄される仮面を付け直し彼の方を向いた。あぁ、うまく笑えているに見えることだろう。

 「これを商売として見るなら、突然の中止は痛手ですから僕ならしません。

 航海途中で気分に任せて港に引き返す貿易会社はいませんから。」

「はっ、俺がこれを商売としてやっているとまだ思っているお前の愛らしい頭には、敬意を示しておこう。

 まぁ、いい。今回の劇はお前からしてどう価値をつける?」

 彼はまだ絵から離れなかった。だが、煙管を吸いながら自分の方を見るその姿は獅子に睨まれたかのようだった。


 首元に剣を添えられているか、牙が鋭い獅子が控えているかの違いだ。言葉の選択を間違えればこれはまた面倒になりかねない。


 聞いていればわかるのだが、今回の劇は彼の中での点数自体は低いのだろう。彼の点数など、自分の興味と完璧さが九十を占めるのだから、そこの欠落が今回は大きい可能性は捨てきれない。


 ため息が出そうになったのを堪えるように口を追おうと、彼がニヤリと笑った気がした。一歩ずつ初めて近づいてくると、眼前でまさかししゃがみ込んでくる。


 「要らぬことを考えているとはなぁ…お前の自由に答えてみろ、セオドア。そこに価値がある」

 冷たい手で頬を触られた。わかりやすいほどに細められた瞳が仮面を射抜く。貼り付けた笑みが壊れていく。


 あぁ、今日は最初から間違ってしまっていたのか。そう陰で呟いたあと、震える手で彼の腕を掴んだ。

 「僕はあの劇が嫌い、です。だから価値など付けたくはありません」


 「そうだ、それでいい。俺も同じだ。

 だが、お前の絵画には価値が生まれている。それは俺にとっては喜ばしいことであり、それこそが俺の財宝の一つだ。」

「それは貴方の船で眠る財宝であり、海から引き上げてしまわれては、貴方というベールからの庇護を失った粗悪品です。」

「はっはっはっは!お前は本当に面白い男だなぁ、セオドア。卑下もここまで来ると自分を誇張する銘になってもおかしくはない。」

 頬に添えた手を頭に移し、小馬鹿にするように見下すように頭を軽く叩けば彼はまた絵画に戻るのではなくその絵画の横にソファを自ら運び、そこに膝を組んで座った。


 そこにはまだこの会談に終止符が打たれないことを意味しているのだった。現に男は、煙管を吸い始めた。吐き出されたその煙は空中へと自由気ままにだが、美しい足跡を残して消えていくのだった。


 片方の男は内心、目の前で胸を張る自分の作品に黒い筆で塗りつぶしてしまいたかった。これまでの絵画の行方など知らないが、もしまだ男の手の中で夢見心地のまま眠っているならば、自分がその夢に終止符を打ってやりたかった。

 なぜか、それはただ一つである。これは自分の求める芸術ではないからだ。

 思わず顔が歪んでいる。いや、パルフェと会話をする時に微笑んだことなどないのだからこの顔であっているのであろう。

 それよりも何をこれ以上話したいのか、そこが問題ではないのか。なるねく早く戻りたい。会いたい。


 「ここに来る前に嫌気をそのままぶつけてしまったあの少女の元へ早く帰りたい、か。

 お前は本当に変わったなぁ、嬉しいことだ。それでこそ作品は輝く。」


 ふと耳に舞い込んできた声は心の底から面白がっているようだった。だが、何年もの付き合いを指定れんば眉を顰めてばかりの顔からでもそんな感情の起伏を理解できるものなのか。

 はたまた彼が脚本家であり監督であるからか。


 思わず目つきがより酷くなれば、男はまた笑った。

 心臓にまで響く低く、そして響く笑い方だ。悪魔の笑い方である。

 「俺と話をしてはくれないのか、ダーリン?」

「貴方のような反吐が出るほど憎たらしい妻を迎えたつもりはありません。

 まだ何かあるんですか?」

「あぁ、ある。チェーロが言っていたぞ、セオドア、貴様、妻の病弱な姿を見て欲に浸ったそうだなぁ。どうだった?」

「…そんなこと、どうでもいいでしょう…!」


 焦った顔に肩を揺らせば、目の前の変人は黙った。あのおしゃべりな詐欺師をなぜここまで信じてしまったのだろう。あの時彼が来た時に追い返すべきだったのに。


 実際、アリスにあの顔を見られたのかどうかと聞かれればおそらく見られていない。だが、今の状況のようにあの男が少女に語った可能性もある。

 そしたら、彼女は自分を罵り軽蔑し、帰ってしまうのだろうか。

 少しずつ築かれていた白の壁が、神が指で軽く弾いただけでこれほどまでに綻びが見え始めた。壁の中で花園をいつの間にか作り始めていた道家が、そこにいたのは酷く怯えた亡命者になったのだ。


 「前は、生きるかどうかは彼女が決めるから自分は関係ないと不干渉の旗をこれみよがしに掲げた男が、今となってはその側に縋るとは…哀れだ。

 お前の背後にいる悪魔殿はまだお前を口説いているのに、お前は聞こえぬふりを続けている。その健気さは非常に面白いが、お前も湖に落としてみればこの茶番も終えられるか?それはそれで結構だが、それをどう面白く脚本にしたものか。


 もしくはお前の妻をお前の前で湖に落としてみるのもいいかもしれん。お前を口説く者が二人に増えて嬉しいだろう?チェーロの仕事も増えて俺たちにとっても面白い。次はいつ壊れるのか楽しみだ。最初は食事、次に服装。そしてこの前は感情。さぁ、次は当ててやろう。秩序だ。

 まぁ、自分の本当の価値を値踏みできない凡人どもにはそれくらいがお似合いか」

 有頂天に立ち、最盛期の王であると言わんばかりの彼はいつもチェーロのように饒舌になり、その本性が現れる。

 光のない瞳に、淡々とした口調。少し早口。宙に浮いた足は一定の速さで上下に揺れる。肘掛けに置かれた手の先も同じ速さを刻む。

 理性と本能の間で彼はやや本能に迫りながら、理性の台座で自分を見ているのだ。

 それが気に食わない。あぁ、腹が立つ。


 腹の底から燻られるこれまでの男への感情という感情の炎が喉を焼いてしまうことだろう。

 これまでであれば、こんなにも感情は出てこなかったはずだ。そう、あの男の言う通りセオドアは感情を欠落している。だというのに、今彼の中には複雑に絡み合った糸が一本の糸になった時のように、怒りを感じた。


 そう思った時、彼は立ち上がり、筆と悩むこともなくペインテぅングナイフを掴むとあの憎たらしい絵画へ歩みを進めた。彼は左利きだ。

 左腕を上げ、右手で掴んだキャンパスの鏡の部分を目掛けて腕を振り下ろそうとした。

 その時、また破片が落ちた。目元の部分か口元かなど気にしている暇はないが、落ちた。それは花弁のようだった。

 だが、その顔は笑っていた。なぜ笑っているのかわからない。自分は憤怒で満ちていたはずなのに。

 そしてこの左腕は、ナイフは刃物は、数秒後には男のあの平然とした顔を絶望に変える、面舵となる!!

 

 だが、いつまで経ってもキャンパスにナイフも腕も近づかなった。宙で止まったままの自分の左腕。男の角張った手に後ろから掴まれ、痛みから床へ落ちる自分の希望。笑みが消え、まさか自分に絶望が降りかかるとは。


 「ほう、財宝に傷をつけるほどの抵抗力はお前にもあるのか。これは面白い。

 ずっと椅子にお座りをしている従順な完璧な犬と思っていたが、何が引き金になったんだろうなぁ?あぁ、あれか。」

「手を離してください。もう、何もできないでしょう。」

 白旗をあげてみれなその男はそのまま手を引き、セオドアを元の椅子の位置まで戻した。憎たらしいあの絵画は今笑っている気がした。

 そのまま男はセオドアを見つめている。考え事でもしているのだろう。それすらも興味が失せ始めている。


 なんとなく今はこの部屋を早く出たいと思った。息が苦しい。頭を下げ、足元を見れば気持ち悪いほど赤が見えた。

 青が足りない。

 「貴方の世界には青が足りない、だから一般の人には赤い毒リンゴに見えるんです。どんなに最後に月を、太陽を、水を与えても貴方のリンゴは中身が毒のままだから、味わう前に皆息がない。

 弦がちぎれたヴァイオリンでクラッシックを奏でようが、それを美しいという人はいないんです」


 最後に負け犬の遠吠えにもならない言葉を吐けば、男は依頼料の封筒を画材道具に忍ばせつつ、「そうだな。だが、それでいい」と優しく呟いた。

 まるで壊れた人形をあやすあの男のようだった。奥歯を噛み締めれば、また男が口を開いた。


 「煙で上書きをした絵画もそれを払って仕舞えば、隠された部分が大衆の前に晒され価値がつく。そうだろう?」

と。

 その後どう、あのホールを出たのかなど覚えていなかった。ただ、あの男が出る直前に兄のように優しい声で言うのだ。


 「たまにはロンドンを出てみるといい、違う物を見て自分を俯瞰しろ、セオドア」


 それに何と彼が答えたのかはわからない。来る前はさほど重たくなかったはずの道具入れが、今は足枷のように重たくなった。


 あの窓を見てみると、カーテンで閉められていた。セオドアと壁を作りたいわけではなく、ただ物思いに耽りたいだけかもしれない。

 もう、それもどうでもいいのだ。今はいつものあの空間に戻りたい。

 茶番であろうとも、彼はそれを現在と呼ぶのだから。だから足を今は動かした。初めて人のために走った。道具が揺れる音に、ぶつかったことに腹を立てる紳士もいた。全てが見えなかった。

 ただ、唯一見えたのは馬車乗り場の近くのベンチで座っているあの少女だけだった。心なしか顔色が悪く見える気がする。

 自分もそうかもしれない。


 「アリス!!今、戻りました。帰りましょう。

 今すぐ僕は貴方と帰りたい」


 画材道具入れを地面に置き、彼女の手を額に付けもう片方の手を重ねた。彼女の自分を呼ぶ声は聞こえなかった。


 セオドアから出たのはその一言だけだった。もっと頭の中で考えてたい言葉は全て消え去った。劇はどうだった、二人もありがとう、待たせてすまない。冷たくなってしまい申し訳ない。

 全てを忘れてしまったかのようだった。

 でも彼女は返してこう言うのだ。


 「私も同じことを考えていたの。帰りましょう、セオドア」と。

 あの獅子よりも優しかった。自分の頭に花冠を乗せてくれるかのようだった。見つめれば彼女は微笑んでいた。顔色も少し良くなった気がした。男の心も軽くなった。

 

 「やっぱすごいよねぇ〜愛の力ってやつ?なぁんにでもベールをかけてしまうんだから。あ〜あ、いっそこの街にもベールをかけて青空を見せてくれないかなぁ。

 まぁ、意味ないけどさ。元々太陽に嫌われてるし」

 感動の再会中の二人の側でチェーロはランスを撫でながら呟く。最近、人形に対する接し方が変わったのはもちろん横で微笑む彼女のおかげだろう。


 今は何となく、横で始まった劇の再演が鬱陶しいと思いつつ、あの少女にこのウサギのことを聞かれたこと、そして話してしまったことをどこか悔いている自分と向き合えていないのだ。


 「そうね、太陽神に私たちが嫌われてしまったから、今は私たちの神が隣人愛を必死に説いているんんでしょ。まぁ、一神教ですから太陽神の教えを教えてもらっているのかもしれないけど。

 そういえばだけど、ランスのこと私が尋ねても教えないくせに、あの子には教えてくれるなんて。ひどい男ね」

 オリバーの頭を撫でながら彼女は横目でチェーロを見つめた。その目は意地悪に不貞腐れているのだとはっきりわかるが、どこか怪しい雰囲気を纏っていた。


 おそらく、いつの日かは知りたいが別に焦っていなかったのだろう。より確信をつくのであれば、今日のことを神が落とした幸運の雨一滴、とでも考えているのだろう。


 「だって、君、自分の恋人が昔は同性愛者でそのフラれた相手を忘れないために人形としてずっと一緒にいるって、さすがの俺でも嫌悪するよ。君の立場ならね?

 それを話そうって思える?

 君に例えるなら、嫌な客似の人形を作ってそいつをず〜とカウンターに並べてるような物さ。普通はやらないだろ」


 『まず、同性愛から吐き気がするだろ…』


 薬を口に含んでいるかのように、険しい顔をしたチェーロはやっとベンチに座り始めた疲弊しきった男を見つつ、わざと視線を逸らした。そして、久しぶりに彼の首を絞めてしまった。片腕で胴体を締めて、支えれば、もう片方の手で首を二本の指で締められる。

 徐々に斜めっていくその姿に視線を落とせば自分に助けを求めているようで可愛らしい。

 あぁ、美しくて儚くて、脆くて!!


 「私はたとえ、今チェーロが同性愛だって私に告げても、私はそれを異性愛と同じように応援するわ。たとえ、私の恋がそこで終わろうとも。

 世間はまだ多様性なんていう甘い言葉には慣れていないし、分かろうとしもないけれど。恋愛とか愛とかに壁を作った時、その人の世界はそこで終わるの。まるで今のここみたいに、あるはずの光がない暗い世界。そんなのつまらないじゃない。

それに、少しその壁に外部から人が来ても歓迎できるくらいの余裕があるのが本当の自由主義でしょ?」

 『壁なんて、作ろうと思った時から間違ってるんだから。愛は愛よ、そこに人種も性別も種族も関係ないの』


 ランスを締める手、ではなく支える手に重ねられた彼女の絹のように美しく優しいその手と言葉に今日何度目かの恋をした。


 だから敵わないのだと、チェーロは思うのだ。マーレは自分を子供で、アリスを大人というが、彼からしてみれば二人とも大人だ。そして、なんて自由なのかと思う。

 本当に子供なのは自分たちだというのに。


 ランスを締めていた力が緩み、そっと彼女の手に振る手で自分も重ねた。

 自分の手はなんて冷たいんだろうか。


 少し距離があった二人は今、やっと無くなった。


 「君のことを、人形として愛せば俺も普通に愛せていると思っていたけれど。やっぱり、無理かもしれないなぁ…、君、本当にすごいよ…」

「あら、それでもいいのに。首を締められないなら、だけど。

 あなたの恋愛の仕方で私を愛せばいいじゃない、正解を求める恋愛ならこっちからお断りよ。」

「ははッ…確かに。そっかぁ…君は壊れてほしくないから一番大切にするよ」


 今日は劇を見て帰るだけなのに、あの少女がもたらした幸福の鐘のせいでチェーロは自分の足枷が取れた。これが今後どうなるのかなど、分かったことではない。


 ただ、彼に選択が迫られるだけだ。


 その時、彼女はこう言うのだ。「そう詐欺師に騙されたのは、私だったのね」と。マーレはチェーロを拒まない。拒むのはいつも、チェーロだ。


 「セオドア?二人がいい雰囲気だけど、このまま馬車に乗ってしまいましょ?

 あの雰囲気を壊す力は私にはないもの」

 ずっと掴まれているその手ではない、小さい人差し指を口に添えると彼女は自分の手を取ったまま歩き出した。つられるように立ち上がると、彼女はいつものあの男性を見つけた。


 あの男性もセオドアのいつもの違う雰囲気を見ると、何かを察したらしく静かに戸を開けた。

 「家まででいいんだろう?」

「えぇ、お願いするわ!

 あの二人はまだ抜け出せないみたいだから、そっとしておきましょ」

「まぁ、それがいいだろうな」


 彼の愛馬である馬は緩やか何走り始めた。タイルが敷き詰められた大通りを、多数の馬車が入り乱れる中まるで道が裂かれるようにスムーズに進んでいく。

 「帰りたい」その一言だけ言った後、何も喋らなくなった男の手を優しく掴みながら少女は見慣れた街を見ていた。


 皆、あの劇を見にいくのだ。そう思うと、自分も大人になったかのような気持ちが芽生えた。


 これは、アリスがセオドアと糸で結ばれた日から約三ヶ月目の出来事だった。

 


 「パルフェ・アーチステ。彼をサクリファさんはご存知ですか?」


「あぁ、一昔前と言っても相当前ですが、悲劇脚本家としてかなり名の知れた男です。当時はフィルムもないですから、彼の完璧の精神を投影した劇を見たことはありませんが。独特な世界観と、スポットライトがないのにも関わらず、それと同じような仕組みを無理矢理作らせ、応用していた…という噂くらいです。知っていることと言えば」


 今日は日本の男性が宿泊するホテルでの研究中である。

 どこか悪いものが消え去ったかのように晴々とした彼の姿は、我が子でないのにも関わらず成長を感じてしまう。


 もう少しで一月が経つ、この関係によりやっと名前を呼び合える仲になったのはいい傾向と考えるべきだろうか。


 机の上に広がった法律関連の友人からもらったセオドア・コーマンに対する裁判の記録と、パルフェ・アーチステの劇の脚本、そしてある一冊の本。タイトルは「ウィアードの嘆き」これは、まだ二人とも手をつけていない。少々埃を被りそうである。


 読む気になれなかった、というのが正しいだろう。それに、これが誰の人生の断片なのかがわからないからだ。


 「スポットライトを…劇にかける熱情は凄まじいのですね。

 しかし、チェーロ・バンボレの彼に対する酷評からするにまるで暴君が正しいとは思いませんか?

 人の家に勝手に入って来ては、やれマーレとの最近を話せだの最近あった面白いことを三十分間も話せだの…。」


 とある資料館からコピーを善意でもらった彼はそれを赤いペンでなぞりつつ、私の方を見た。

 私もそうは思うが、芸術家の中にどれだけまともな人間がいるのか、と聞かれるとそこは首を傾げてもいい。

 彼が淹れてくれた紅茶は日に日に上達している気がする。今日は私の好きなアールグレイであった。


 「そして、セオドアに対する以上なまでの執着。彼の過去に鍵が落ちている可能性はありませんか?」

 セオドアがチェーロに宛てた手紙は昔のから数えても数千は越える。それをちゃんと保管していたチェーロにも感服だが、内容がかなりの確率で隠されている暗号だった。


 『ネズミが入りましたので、猫を連れて行きます』とか。

 『パルフェがまた来ました。次は僕の絵本でも書くつもりなんでしょうか?』

『時計の針を彼に渡せば、満足するでしょうか。』など。


 時計の針、絵本…何を言いたいのかはさっぱりだ。それに死人に問いかけても帰ってくる返事はない。彼の遺体も行方知らずだ。


 ただ、推測はできる。最近彼のことを調べていくうちに、彼独特の言い回しがわかるようになってきたのだ。


 「時計の針は時間の巻き戻しや先送りを意味するのかも知れません。だから、未来を見せてやる、もしくは自分の過去を全て見せてやれば彼は、ここに来なくなるだろうか。そう言いたいのではないでしょうか」

 的を射た発言とは思えないが、ただ可能性としては高い。それにパルフェは人の過去に取り憑かれた男と言っても過言ではないだろう。


 それを言ってみれば、目の前の日本人_いや息子である“修也“の顔はみるみるうちに光り輝いてくれた。

 「なるほど!チェーロに対しては現代のことを尋ねる傾向が強い、パルフェですがセオドアに対しては過去を尋ねる。

 そうしたら、彼の過去…裁判の資料の中に彼の経歴があるものがありませんでしたか?」


 机の端に埋もれているものを探してみれば、彼の違和感しかない経歴が出てくる。

 「ロンドン郊外、ウィザム…。ご存知ですか?サクリファさん」

「えぇ、東にあるところ街ですか。そこにある湖の場所が何か手がかりになる可能性は高いでしょう。そして、あの日彼らが見た劇でセオドアが嫌悪の意を示したという、パルフェの手記を信じれば、『聖人と湖の声』は彼の過去かもしれません。

 何が言いたいかわかりますか」

「湖と、教会…教会のある湖を探せばいいということでしょうか?」

「えぇ、現地に行って残っているものは少ないでしょうが。何かを感じ取れるかもしれません。車を出しますから、明日早朝に迎えに来ます。冷えるでしょうから、厚着をしてください。今はもう十一月ですから」

「はい!サクリファさんの車、俺楽しみです」


 謎の期待を抱ける、人の運転に不安も感じないあたりやはり日本という国は人を過度に信じすぎる傾向にあるようだ。


 机の上を二人で綺麗にしていれば、一時間くらい彼の最近の話を聞く平和な時間が訪れる。家族を恋しく思う彼に、こう相槌を打って(妻よ、相槌を打つということを私は最近習得したのだ)聞いていれば、彼は非常に楽しそうに語ってくれる。

 昨日はこのホテルのご飯が喉を通らなくて困ったのだとか、スコーンで美味しい店はないのか。日本の見所に、自らの妻の話。知らない隣人の世界を知る時、こんなにも楽しいものだったのか。


 「では、また朝に会いましょう。修也君」

「あ、今日やっと名前呼んでくださった!お父さんみたいですね。

 明日、お待ちしてます!ありがとうございました!お気をつけて」

「えぇ、また。」


 『おやすみなさい』など、昼間にいう事でもないが、なんとなく口に出た。


 ホットミルクでも淹れてあげるべきだったのだろうか。あぁ、そういえばご飯が口に合わないそうじゃないか。なら、日本の料理を学んで振る舞ってやるべきか?

 食事に興味がなかった私が?

 そうえいば、服装に変化がないな。スーツの一着くらい持たせてやろう。英国のスーツを着ていれば、母国に渡ろうともいい男に見えることだ。

 服に興味がなくなりかけた私を叱りそうだった妻が、前のように褒めてくれるだろう。


 男性から男へと移りつつある彼は、見知らぬうちに悲劇の階段を下る。そして徐々に彼は蝕まれていることに気がつけぬまま沼の深部へと歩みを進めているのだ。

 自分が追い求めるあの男と、同じ道を歩みつつあることなどサクリファには、まだわからないのだった。

                   続く。

 

 


 改めて見ると、パルフェってかなりヤバい奴ですね。自分で言うのもなんですが。

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