葬儀屋と人形屋
二話目
「まさか、セオドアを調べている人に出会えるとは嬉しいものです。高い旅費を払っただけはあります」
東方の国を彷彿させる切り揃えられた黒髪に、黒い縁が目立たない眼鏡。
だが、前髪がかきあげられているのがどこか彼の若さを際立たせている…いや、彼が若い人だと私に教えてくれている。
彼は今成人しているのだろうか。私の目には、若く見える。
Japan、つまり東方の日本と名乗る国を妻は「本性が見えない国。嘘つきよ、あの国」とよく微笑みながら語ったが、これは共感せざるを得ない。
誠に彼は煙と接しているかのように、何もわからない。
「えぇ、こちらも。一人で調べ物をするには、限度がありますから。お若い方、しかも他国であればこれ以上の頼もしさはないでしょう」
「はっはっは!お若いって、僕はもう三十一になりますよ」
「おや…これはまた。『狐に噛まれた」というやつですな」
「狐につままれた、ですかね」
「あ…」
背中に暖炉の火が灯るような暖かさが生まれた。それはじんわりと身体中を闊歩し、額を定位置に決めたらしく。そっと目を伏せた。
日本文学を読んだ時に、出てきた表現を真似たつもりがどうやら記憶が誤作動を起こしていたらしい。
かと言うと。目の前の男性は微笑んでいる。こちらを馬鹿にもせず、深入りもせず。彼はまさしく聖人というべきだ。
さすがは空気を読む国。
男性との出会いは、この図書館ではない。
たまには外で紅茶を飲むのも粋ではないかと、思い懐かしのカフェへと足を進めた。もちろん、手の中にはセオドアの画集を持ちながら。
ここ最近は仕事をしつつも、半ば食い殺されるように彼に侵食されているような、心が二つあるような、奇妙な心地だ。彼は毒であり、捕食者なのかもしれない。
紅茶とスコーンを頼み、カフェ奥で寛いでいればお茶会を開き会話に花を咲かせるご婦人もいいクラシックになりそうである。今も昔も、女性の話し声は本当に興味深い。
いつもはコーヒーを嗜むのだが、彼をなぞらえてみることにしたのだ。
そんな時に、彼と出会った。私に話かけてくれたのだ。
『あの、彼に興味があるんですか!?』と。
その熱量に私は体感したことはないが、夏の日差しというものを感じた。彼の熱は太陽のようだった。
まさか、この年になって気迫に押されるなど思ってもみないのは私だけではないはずだ、あの情熱にはどんな偉人も政治家も歴史家も白旗を高々と上げることだろう。
その後は、彼とまさかの意気投合し共にこうして図書館で調査をしているというわけだ。
運命の歯車がまた一つ増え、機械的に動き始めた。
彼はどうやらあちらではそこそこ名が広まっている芸術専門の歴史家らしい。芸術評論家とも語っていたが、私には違いがわからない。
だが、どうりで専門用語の説明がわかりやすいのだと腑に落ちた。
私一人では芸術の基礎知識を頭に詰め、彼の作品を眺めるだけで一週間はかかるのだが、彼は一週間で何十作品と考察までやり遂げるわけで、それが調査特に文献となれば、より早くなるのは言うまでもない。
そんな時、彼が本題へと踏み入ったのが聞こえた。
「知り合いがいるんですが、セオドアを調べていると伝えましたら最近彼自身ではなく、周辺の人の日記や会社の内部書類などがちらほら出てきたそうで。
僕は純粋な歴史家ではないので、断言するのも歯がゆいような、おこがましいとは思いますが。周辺の人もどうやら異色な人が多かったと。」
日記のコピーを数枚机に広げ、赤線を指差す。その赤線の文字を見れば確かに、その特定の言葉が繰り返し異常なまでに頻出しているようだ。完璧 舞台 自己 私 脚本など。
そして…
「人形ですか」
「えぇ。セオドアと親交が1番深いと思われる男性です。人形愛好家というより驚異的な人形に対する執着心が伺えます。
僕は、彼や周辺の人たちは…その…」
持ってきてくれた紙をまとめつつ、指でそっと線をなぞりながらどことなく心苦しそうな表情を浮かべる。言い難いと言うよりも、表現に悩み苦しんでいるのだろう。それだけで、何を言いたいのかはこちらも理解できた。
だが彼に時間をあげようと思い、私は少し重かった口を開いた。代弁してあげようと思ったのだ。どことなく彼が言いにくいことは、昔も今も変わらない価値観が原因なのだろうと推測できた。
「セオドアも、私たちも、神様から見れば異色の存在でしょう。
それに、普通を愛することこそ異色であり白に近いことではありませんか。
無機質な機械的価値観は錆びれていそうですから」
「…彼らは、現代であれば輝いていたでしょうか」
やはり彼は確かに若者だ。まだ、この世界の全てに答えがあると信じているのだから。未来=希望と安易に考え、人=平和と信じる、そんな人だろう。
私はそうは思えない、そうであるならば、妻はなぜ、妻はあんな惨い、虚しく、腹から炎を吐き出すような感情を植え付けられながら、汽車に乗らなければならなかったのか。本当は汽車から身を乗り出し白いハンカチをスカーフを振っていたはずなのに…。そう、考えてしまうのだ。
妻よ、君との間に子を持つことはできなかったが、彼を息子としてみるのはどうだろう。良いテーマで、貴女好みの作品を書けそうだ。
私はこの大きな息子を、放っておけなさそうなのだ。
表、歪、穴は皆その先には全て崩壊し弱まっている本性がある。この男も、どれだけ芸術がわかっても、善悪の全ての判断はまだ完全にはできないのだ、特に価値観の。
それは人は皆、過去を全て正しいと勘違いした歴史を学ぶからではないだろうか。
踏みにじられ、スポットライトを浴びない、影で生きる人々は悪と見る。もしくは、ゼロと。
私は一息吐くと、彼の揺れた蝋燭の瞳を見つめた。そして語った。
「いえ、スポットライトは今も昔も世間の価値観にのみ沿って当たることを許されるのです」と。
セオドア・コーマンがアリスを引き取り、孤児院を発った後 馬車内にて_
馬車は振動をより小さくただ、先よりも早く軽やかに整備されていない小道を我が道の如く進んで行く。
馬車の手綱を握る男は、紳士な男が子供を連れてきたのを見れば驚きつつもどこか嬉し気であった。だが、それが夫妻であると知れば荷物を持ち優雅にいや、身の丈に合っていない仕草でぎこちなく馬車の扉を開けたのだ。
馬車内には特に変化はなく、探そうものなら目の無駄遣いも良いところだ。
先にアリスを乗せ、その後セオドアも乗り込む。隣に座り合うような形にはなるが、仕方のないことだ。二人を包み込みような黒くそこそこ値のはる皮を使っている屋根。座席のクッションはかなり柔らかい。
彼女は乗車してからはずっと、目を一点に留めることなくずっと動かしてばかりいる。
扉に手をかけ、顔だけを乗り出し馬車から見える景色を楽しんでいる。だが、好奇心が強い彼女らしくどんどん前のめりになっていく。そして遂に、片手が取れ上半身が外へほぼ出てしまった。
「あっ!」
扉の外へ身を乗り出し、両手が扉から離れた。少女を視界の端に見かけた時は、セオドアは息を呑み、咄嗟に肩を掴んだ。
なんとか落ちずに済んだが、それでも成人男性の力強い手で引っ張られたのだ。驚きよりも引く力に顔を歪めたと考えるのが妥当だ。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、僕も言わなかったのが悪いですから。それよりも、強く肩を掴んでしまいました。痛みますか?」
片眼鏡を整え、髪を軽く撫で付けたりネクタイや衣服を正したりしていながら、お転婆な少女を見ると、先ほどの孤児院の時に見せてくれた太陽のような笑みは失せ、曇り空のような表情であった。嵐でもいい。
手を太ももの上で組み合わせ、俯けば銀髪の髪が顔を隠すカーテンになってしまった。
「大丈夫、痛くないわ」
アリスは確かに痛くはなかった。肩は。だが、どこかで罪悪感に似た重たい感情がアリスの肩に残る暖かみが持たせているのだ。
孤児だった家族が突然、戻ってくることがあった。引き取った大人たちが、どこか苛立った顔つきで見知った顔の元家族を突き出すのだ。
その後の帰ってきた家族は、何かを恐れ人と話すことがなくなっていく。それを母はどうにかしようと四苦八苦をするが、いつの間にか家からいなくなり、帰ってくることはなかった。
どこかで、良い家族にまた会えたのだろうと思いつつ、そうじゃないんだろうと最悪の方向を考えていた。
母はいつも語った。酷く冷静に沈着に冷徹に冷や水を飲ませるように。
「人は他人に自分の基準を求めます。その基準から一歩外れれば、笑みを向けること、隣に立つことさえ、溢れた水を元に戻すくらい不可能に近いのです。
そしてそれは、弾いた方ではなく、弾かれた方に痛みが残るのです。治すことも隠すこともできない傷が」
『だから私は、貴女にはここにいてほしいと思ってしまうのですよ』と。
母がわざと言わなかった願望を少女は無視したのだ。
冷静に昔の出来事を振り替えっていれば、心に棘が刺さるように小さい痛みが一定に来ては、手の先や足先が冷えていった。
三月も終わりへ近づき、暖かさが出てもおかしくはないはずが少女にとっては真冬の如く冷え込んでいた。
そんな時、そっと優しく暖炉のような炎が彼女の手を包み込んだ。
その手をアリスが見つめれば、より強く握られ安心感が高まった。これに二つの意味があるのだと気がつかないのは少女が中途半端に大人だからだ。
「見てください、あそこ羊がいますよ。ここらへんではまだ羊を飼っているんですね」
「え、えぇ。そうみたい…」
「エリザベス一世がなされた第一次囲い込みよりも、合法的で大規模な第二次囲い込みの影響でしょうか。農業革命とはよく言ったものです。
…と、堅苦しいことを言っては貴女を楽しませるには物足りないでしょうか。」
『愛する人の前では口下手なのです』と。
頬の色は夕日のせいでわからなかったが、微笑んでいる彼がアリスには見えた。だが、彼なりに近づこうと場を和まそうとしていることに気がつかないわけではない。
その健気な様子を見ているとアリスの冷え込んだ心が解け、笑みが戻ってきたのだ。雪解けが始まり、そっと蕾から抜け出し美しく咲こうとする花のように、笑みが咲いた。
確かに二人はぎこちない会話ばかりするが、少しずつ始めての対面時よりかは互いに自然に話をできているんじゃないかと側からみればそう考えることもできる。
そんな新婚とも言える二人の会話に、馬車はたまに速度を落としつつだが時に速くしつつ都市_ロンドンへ向かっていく。
「これから、馬車に乗って出かける時は貴女の手を握ってもよろしいですか?」
ロンドン市街にもう少しで入るという時、セオドアは少女の小さい手の指先を持ち自分の口元へと近づけた。あまりにも手慣れている彼の仕草と、見たことがない景色と急な彼の行動に驚きつつ見上げると、先ほど変わらない笑みを浮かべた彼がいた。
こちらを見つめる金色の瞳は暗くなり始めた故に非常に目立つ。まるで獲物を捉えたかのような鋭い瞳に圧倒されながらも、急な言葉にたじろかない訳がなかった。
「…えぇ!もちろんよ!手を握ってくれるだけで、こんなに心が温まるとは思わなかったわ。
ありがとう、セオドアさん!」
「それはよかったです。
さて、これから言うのは僕の独り言ですので、気にしないでほしいのですが。風景を楽しむのに雑音が混じることは申し訳ないです。
僕は、貴女をあの家にかえせそうにありません。そしてあわよくば、貴女には永遠に僕の隣に立ち、花のような笑みを浮かべてほしいのです。
僕は貴女の夫であり、貴女の恋を貰い受けた者です。貴女の不安も恐怖を拭うのも僕の仕事ですから、頼ってくださると非常に嬉しいんですよ」
セオドアは心の中で自分のことを冷えた思いで見つめた。なんと、つまらない馬鹿げたことを言うのだと。
どんな駄作しか書けない小説家でも、脚本家でもこんな甘ったるく喉にまで砂糖が残りそうなセリフは口にも出さないだろう。まして、貴重なインクを使う訳がない。
ふと脳裏にあの完璧主義な脚本家の険しく冷たい顔が浮かんだ。
(彼なら、『心にもない嘘で作った愛の駄弁を脚本に載せるのは、画材も技術もない画家が絵を描くようなものだ』と、煙管を吸いながら僕のことを光もなく感情もない言葉で罵倒するでしょうね)
「まぁ…!私、本当に世界一幸せな少女よ。独り言だとしても私は嬉しいわ。絶対忘れないわ、今日のこと」
青い瞳が空であるなら、涙を流している目元は狐の嫁入りが相応しい表現であろう。
結婚式を開くことはできないと二人ともわかっているが、この馬車は今新郎新婦を乗せているに違いない。道を歩く人々は関心すら向けないが、彼女には喝采をあげていると思えた。
ロンドン市街に入ってからは、彼女は泣き止むことなく馬車の中でセオドアにもたれかかっていた。顔を見られるのを隠すため、彼は自分の帽子を被せると彼女は大事そうに掴むのだ。肩に添えた手には幸せを体現するかのような温かみを持った手が、重ねられた。
彼は始めての気持ちが生まれたのを感じたが、それを言語化することができなかった。モヤがかかっているようで掴めないのだ。
馬車を引く男性は、なんとも歯がゆい気持ちと幸せ気持ちを感じてしまったのだった。
歩道に設置された街灯は、一定のリズムで少女を照らしていた。その度に帽子からはみ出た銀髪が金色に輝き、夜に輝き踊る星のようであった。
泣き疲れたらしく、穏やかな呼吸が聞こえる。だが、手が離れることはなかった。
「さ、着いたぞ。荷物はどこまで持って行けばいい?」
「いえ、自分で運びますので大丈夫です。
今日は一日ありがとうございました。また、遠出をする時は頼んでもいいですか?彼女が気に入ったそうなので」
荷物を馬車から降ろし終わると、駄賃を確認しつつ馬車の上で財布をしまっているセオドアを見上げる。
男からしたらありがたい話であり、断る必要性もない話だ。「あぁ、大丈夫だ」とだけ言えば、セオドアは深く頭を下げ目線を外した。食えない男であり、紳士の模範モデルと言っても過言ではないだろう。
だが、どこか幼いのだ。先ほどの恥ずかしい言葉と言い、最初の会話の時も幼い。
不思議な男、それが最終的な感想であった。だが、客と深く関わるのも変な話。
その時馬は首を高くし。耳を上に向かって高く上げ呼吸を深くしている。これは馬の警戒時の仕草である。
男は馬の意見を尊重し、早めに帰ることにした。ここで彼の意見を無視するものなら、この商売は頓挫する未来は遠くないからだ。
そして自分も愛すべき家族が待つ家へ馬を走らせた。空は暗くなり、街灯も心細く揺らめくロンドン下町のことであった。
その日の夜、アリスはよほど疲れたのか起きることはなかった。規則正しい寝息が数分続いたことを確かめると、セオドアは部屋を出た。
本当は今日のうちに服などを買う予定だったが、そこはセオドアの計算違いである。何せ、会社と家の往復とロンドン市街から出ることなど無い、淡白な生活を送る男である。
それに馬車を使うことなど、手の指しかも片手で十分なほどだ。策士に訊けばよかったと思ったが、午前中を考えればそれは仕方のないことだ。
(…書類仕事をみっちり持ってくる辺り、策士は僕の上司であり悪魔のようだ)
シャワー室へ行き、一応寝巻きとしている最近は国内で溢れかえるほどある綿織物の衣服をとった。これも、策士に適当に買わせたものだ。
彼は全てに置いて無頓着である。唯一彼が買うのは趣味の画材と、日頃着る黒いに近いような色を持つ青いスーツと、対象的に明るく見える灰色のコート。スーツと同じ色の帽子、灰色のマフラー、片眼鏡だけであった。
家の内装も特にこだわりはない。ただ、気が赴くままに選んでいれば壁紙はやはり黒に近くなり、廃墟と言われてもおかしくはないほど。薄暗い家になったのだ。
家具も策士に連れられながら、適当に買った物や人形に恋をしている古い友人経由で貰った物ばかりだ。(特に彼からは食器を貰った)
ある意味この家にセオドアの生活感は薄く、彼らしさはないのかもしれない。
冷水の割合が強い、ぬるめのシャワーが額に当たる、
前髪をかきあげれば、そこから水が垂れる。髪を洗うのも、体を洗うのも億劫になってきた。体が重くなるような気がしたのだ。床に吸い付けられるような感覚だった。
(…これは、また策士が騒がしくなる…)
ふと、そう思った。
だが、それは気にくわない。一つ言えるのはセオドアは面倒臭い男である。無頓着にも関わらず、人からの束縛を嫌う、それが彼の本性の一部だ。
「…出よう。無理だ、俺は疲れた。
…ちっ、あの女…」
今日のことが写真のようにパラパラと頭の中に降り注がれた。コマ送り、紙芝居もいいところだが、抑えていた感情が芽吹くのがわかった。壁に思わず、拳を打ち付けるがそれすらも弱々しい。今の彼は虫すらも殺せないだろう。
結果、五分でシャワー室を出てはボタンの掛け間違いにも気づかず、ベッドに体を預けた。
蝋燭も何もかもを消した暗く、何も見えない室内の天井。窓から差し込む月影の光はカーテンによって遮られた、床下にひっそりと伸びてはいるがそれすらも彼には見えない。
外も活動を止めて、皆眠りにつく。明日を迎えるために、皆静かに夢という謎に満ちた場所へ向かう汽車へと乗るのだ。
彼は切符を無意識の中で探した。
駅に降り、光の改札を通った。汽車の乗ったことも、その先で何を体験したのかも何も覚えていなかった。ただ、どこか悲しい気持ちがした。
ベッドに腰掛けると、やっと寝巻きのボタンが二つも掛け間違えているのに気がついた。頭は拭き忘れたせいで、あらゆる方向へ飛び跳ねている。
怠いような鉛のような体を起こすとカーテンを開け洗顔室へと急いだ。
見られたくないのだ
その後は急いで二日前に洗い終わったワイシャツを取り出し、いつものスーツにベストを着る。
髪の毛を軽く整え、片眼鏡をかければ、紳士で立派な一般人のセオドア・コーマンの出来上がりである。
鏡の前で、薄っぺらい笑みを浮かべればアリスには何も昨日と変わらない彼が見えるだろう。
アリスの部屋を数回ノックし、入ってみれば彼女の姿はなかった。想定内とは思いつつ、出会って二日でいや一日で行方不明になったと言えば、笑い草どころの騒ぎではない。
あの女性の彫刻になるか、はたまた刑務所でガラス越しの感動の対面も良いところだ。
彼は肺を空気で満たすとそっと、慎重に息を吐いた。額に手を当てると、部屋の見取り図を思い出す。
セオドアの家は一軒家ではあるが、縦長い。大した広さはないが、上下に動かされる。そして、小さい部屋がいくつか無駄にあるような、子供の好奇心に任せれば任せるほど見つけるのが困難な家ではあった。
それに、入られたくない部屋は考えただけで三つはある。
困った…。それしか思い浮かばない。生憎、大人の商売相手をするならばセオドアは得意ではあると自負している。
お転婆な小娘ともなれば、それは全く意味がない。腐った木の盾で、鉄の剣から自分を守るようなものではないか。
ひとまず、玄関のある一階へ向かおうと思い振り返ると、階段が小さく軋む音がした。音の感覚からして大人ではない、軽く小さく速い。
「あ、セオドアさん。お手洗いに行ってたの。朝の支度がお早いのね…私はなぁんにもできてないわ。
お恥ずかしいところを見せちゃうわね」
昨日最後に見た時と何も変わらない姿のまま、セオドアの後ろで眠たげな目を擦っている彼女がそこにいた。昨日とは打って変わった点を言うのであれば、かなりゆっくりとした話し方くらいであろうか。
こちらの焦りなど吹いてもいない風の如く、考えていないらしい。こんなにも暗くなっている室内を手洗いのために一人で歩いた度胸もすごいが、よく場所がわかったなと感心していた。
「手洗いの場所は分かりましたか?」
「えぇ、ラッキーってやつのおかげね。歩き回ってたら着いたの」
「それはよかったです。お身体に不調はありませんか?」
ラッキーというものについて、語ろうとしている気配がわからない男ではない。故に、即座に返事をした。中身はない。特になんとも思っていない返事だ。特に彼はそういう類のものを信じていないのだから。
目を細めるように微笑みかければ、少女も答えるように「ないわ!」と明るく答えた。朝に相応しい声である。
彼女はセオドアが、信じており祝ってくれていると過信する。彼は、少女がわかっていないと知り確信している。今朝の男のボタンの掛け間違いのように、二人の関係も知れ違っている。
「今日は用事が二つあるので、こうして外に出ているわけですが。最近のロンドンは空気が悪いので体調に不備が出た時は即座に申し出てくださいね」
「えぇ、わかったわ。ところで、用事ってなぁに?」
車道をセオドアが、店が立ち並ぶ方をアリスが歩き優しく触れるくらいで手を握った。握ったというのもおかしなくらいだ。
アリスは孤児院から持ってきた服、昨日と同じく水色の緩いドレスを着ていたが、どうしても長年都市で働いてきた男と比べると見劣りするのは言うまでもない。
髪の毛も櫛で梳かしたくらいでは、中途半端に跳ねる髪が気になって仕方がない。美しく一目惚れさせることなど容易な銀髪も、薄汚いボロ雑巾色、良くてくすんだ灰色がお似合いである。
「えぇ、僕の知人に会いに行こうかと。それに、僕の嫁をより美しく仕上げようと思いまして。
つまり、衣服などを贈らせていただけないかと言うことです」
「お洋服!?やったぁ!
…コホン。確かに、貴方の言う通りよね。セオドアさんがこんなにかっこいいのに私だけ見窄らしいのは貴方の評価に関わるわ!」
子供らしくはしゃげばいいのに、と思いつつ大人じみたことを建前として語る姿は非常に面白いものだった。
まるで、猫がいたずらに失敗してそそくさと逃げているようなものだ。
割愛させていただくが、アリスもアリスで問題であった。
セオドアは自分に頓着がないのだから、一応妻となっている彼女の服に頓着も興味がないのは残念ながら当然で。
じゃあ彼女はと言うと、何が自分に似合うのかも服の種類もわからないので、店員に言われる全てを肯定する機械に成り下がっていた。セオドアも、それを肯定し全て買うらしい。
つまり、いい鴨が二羽がのこのこといらっしゃったのだ。
結果的に、三、四着位を一旦買う予定の服がセオドアの腕には十五着は積み上げられていた。
店員も最初は金をたんまり持っていそうな男鴨を見て、どんどんおすすめし今日の売り上げの右肩上がりによだれを垂らしそうになっていたが、流石にこの二羽の従順さに罪悪感が押し寄せてきたのだろう。徐々に勧めてこなくなった。
だが、腕にある服の取捨選択をできるわけがないのでそのまま会計へ進む二人。
止めるに止められない店員。店員の中には葛藤があるのだ。売り上げを取るか、心に残る善意を取るか…。
そんな時、全てに救いの手を差し伸べるドアベルが鳴った。
ヒールの音が響き、ローズ系の香水が風の流れに任せ漂ってきた。匂いが濃くてむせるような、思わず顔を逸らしたくなるような感じもなくいい加減だ。
「良い女は、服を無駄に持たないんです。限られた服の組み合わせを増やして、自分を魅せるんですよ」
セオドアのように混じった金髪ではなく、美しく純粋なシルクのような金髪に後ろにまとめられたその後ろ髪は、アリスの可愛さを含んだ美しさとは反対に、華麗な美しさである。いい意味で社会に染まっているが自己を保った良い女である。
彼女の名前はマーレ・デル・デーア、人形屋を営んでいる女性である。
セオドアとは腐れ縁というより、ご近所さん…いや、どんな言葉でいい飾ろうが当てはまらない謎な関係性である。
だが、彼女は人形を『商売道具としてのみ、見ている』にすぎない。それに彼女は今、叶わないと宣告された恋をし続けている。
彼女は警戒したように目をやる少女に微笑みかけ、白旗を授けた。セオドアから服を貰い受け、少女と服を往復しつつ取捨選択を瞬く間に終わらせてしまう。
アリスが鏡の前で選ばれた服を軽く当てればその美しさは人形なんて比ではない。
あのラファエロの聖母画のように優しく美しい少女であった。彼女は聖母になり得る人である。
自分のために服をこんなに選んでくれる嬉しさと彼女の温かみのある手と適度な匂いを含んでいる香水が、初めての体験であった。
鏡の前で恥ずかしそうに目線を逸らし、耳を朱色に染めた自分はいつもよりも小さく見えた。
「じゃあ、私は店に戻りますので。
…もしかして今日、彼に会う予定なんですか?」
店から一歩出れば、その様は入店前とは一味違い少女の姿は髪を除けば、隣で紙袋を丁寧に持つ男と釣り合った少女がショーウィンドウに映る自分に惚れ込んでいる。
それを他所目に紙袋を二、三個軽々と片手に下げ、片眼鏡と帽子をいい場所に納めたセオドアをマーレは一歩引いた目で見つめた。
どこか異常な目とも言える。
「えぇ、鶏には朝を告げてやらないといつまでも夜のままでいようとしますから」
「すいませんね、セオドア語は未履修ですので、翻訳を頼めますか」
マーレは呆れた顔に変えると、額に手を添えた。目の前で真新しい服にはしゃぐ少女を見、セオドアを見、深いため息を吐いた。
男は男で、笑いかけてくるお手製の仮面をつけると思ってもいない言葉を万年筆で綴ればそれを口に話させた。
「それはすいません。『ウィアード』である彼にも、変化は必要でありそれを告げることで彼の世界に季節が加わり花園が喝采を挙げるとと思うのです。」
どんな共通語の翻訳でもマーレには理解ができないことであった。
人との出会いが変化をもたらすのは当然であり、それは機械に歯車が加えられるようなものだろう。
だが、彼の世界に季節をもたらし花が咲く場所を与えるほどであろうかと。
新しい価値観を与えるという意味であれば、あのガラスに映る自分に惚れ込んでいる少女が余程の、思想を持っているか芸術を持っているかでないといけない。もしくは、彼が彼女の沼に陥ってしまうか。
それを想像したときに、女性の中に冷たい矢が刺さり純粋な心を抉った。血生臭い感情が吹き出した。
だが、マーレにはそうは思えないのだ。その反面、彼女の頭の中にはなんとなく嫌な雲が流れ始めた。これから酷い嵐が訪れるだろうという、黒く暗く嫌な冷たさを持っている雲だ。
血生臭さを隠しつつ、少女を不安に思うのだ。なんと人間であろうか。
「…彼女は僕の妻です。『チェーロ』には心臓を撃ち抜かれもあげません」
セオドアはマーレの瞳の奥を掴み、噛み砕いた。まるで蛇にように鋭く毒のある目であった。
マーレは瞬きでさえ呼吸でさえ消え失せた。背筋が凍り、目を逸らした。それでさえ恐ろしいのだ。異常な執着につきまとうのは女性が抱えた以上に泥と血と感情が混ぜ合わされた所謂『呪い』である足枷である。
そうわかった時、少女の足を縛りつけるように侵略した鎖が見えた。やはり嵐は降るだろう。
「そう…ですか」
「セオドア!見て、可愛いかしら!大人に見えちゃうわ」
「お可愛らしくもあり、美しいと思います。さすがはアリスですね」
アリスに目線を合わせるために膝をつけ、コートが汚れることも気に留めない彼。自分が聞いたこともないほど太陽のように温度を持った声。
顔の変化など見飽きたほどだったはずだ。さっきもじゃないか。声もだ。
マーレはセオドアの人間の真似事をするその顔の笑みに吐き気がした。少女が本当に大人であれば、彼女は絶対に彼と添い遂げようとは思わないはずだ。
それを享受する、あの異常な寵愛をそのまま飲み込む沼のような二人の関係を見ていられず、マーレは逆方向に走り出してしまった。
店へ早く戻り、一旦心を沈めたい。自分の淡い思いなど比にならないのだ。あの男の泥など。
「あ、マーレに感謝を伝えようと思ったのに。何か急いでいたのね…」
「そのようですね。また会う時にでも言いましょう、手土産も添えれば彼女は喜んで許しますよ。
僕たちも行きましょう、人を待たせるには良くありませんから」
「えぇ、手を繋いで行きましょ!l
「喜んで」
セオドアは顔から色を失った女性が走った方をチラリと見れば、その姿などなかったが軽く睨んだ。
「チェーロ、僕です。入りますよ」
「え?セオドア?君、今日引き取る予定あった?
あーいいや。いいよ、入ってきて。『マーク』今日は友人が来たらしくて、お茶会は今度にしよう。『ランス』君は俺と一緒にいてくれ。
あれー?セオドア?入ってきていいよって」
かなりセオドアとは違い空気のような声だ。ただ、誰かの名前を言うときは子供のような無邪気さを含んでいる。
白い建物の木製のドアから出てきた男の腕の中には紫色のうさぎの人形があった。黒いボタンの瞳に首元にある赤いリボンが特徴で、対象年齢は目の前の男には全く不釣り合いである。
「わぁ、またすごい子連れてきたねー。うん、別嬪さんてやつだね、ねぇランス。君が昔好きだった子に似てるよ、そうそう、俺が送り出した子。覚えてる?あぁ、覚えてないか。君、泣いてたもんね」
ドアを玄関部分とそれ以上が見えるほどに開け、こちらを見ることもなく男は抱きしめた人形がちぎれてしまうのではないかと言うほど、力を思いのまま入れた。
銀髪の顎下まで伸びた髪に、冷めた赤い瞳。ハーフアップと世間で言われている髪型だけ総合的に見れば優しげな温厚な男でありそうだが、少し視線をずらせば男の残虐さに気づいてしまう。細く糸のような目はどちらにも取れる、不気味さがある。
アリスは突然の行動に頭が逃げ出し、口をだらしなく開き瞬きを繰り返す以外の行動ができなかった。
彼女の目には自分を見つめるうさぎのランスが苦しい声をあげているのが見えたのだろう。徐々に細くなる首元に、上を向いて呼吸を確保するために、そして空に投げ出されたその足元。彼の腕を掴みたいが掴めない腕。
それは恐怖であった。
まるで、自分の人生というものを体現しているかのようだった。自分はうさぎであり、自分を苦しめているのは_言うまでもない。
思わず、後退り口元に手を当てか細い呼吸をしてしまった。
そして、その時思いもがけないことを目の前の男はしたのだ。
苦しんだうさぎの頭を掴むと腹の部分とで両手を握り分ければ、善の笑みではなく悪魔のように愉悦を楽しむ表情で力任せに引きちぎった。
首元から出てくる綿と、無造作にちぎられたことで飛び出ている糸。
たとえ痛みがわからない人形だったとしてもアリスには泣いているのが見え、確かにランスの目から光が消えたのだ。色素が薄れるような気持ちもした。
その瞬間セオドアがそっと、アリスに帽子を被せると自分の背後に隠した。
「…妻に、アリスに何を見せているんですか?チェーロ。
お前のランスはもう額縁の中で眠っているでしょう」
「せ、セオドア…うさぎさんが…痛がっているわ…」
確かにアリスは感じた、彼は今怒っている。自分のためなのかもわからないが、確かに彼は憤怒の色を示した。アリスの肩に添えられた手は握っていた時よりもあの、馬車から落ちるかと思った時よりも力強くより暖かく人らし買った。
アリスは、彼を今好きになった。彼は本当に自分を愛しているんだと。
「…ん?あー!!これはまたマーレに怒られちゃうね。
と、誰、その子?とりあえずごめんね、怖がらせちゃったみたいだ。君が昔好きだった人に似てたから…嫌なこと思い出しちゃって。いつもは忘れているんだけど、ふとした瞬間に、ね。
セオドアからそんな普遍的な顔を出せるんだ、君。すっご、俺ですら見たことないけど。あっはっはっは!!すげぇ、お前、最高のウィアードだよ。
まぁ、いいや。入りなよ」
話をしている時にじっと瞳の奥までを探るように見られたアリスは、余計にセオドアの奥に隠れつつ彼が腕の中に隠している人形に目が釘付けになってしまった。
だが、この男_チェーロ・バンボラは少女に対する興味をいち早く無くし、セオドアに目線を向けると悪びれることもなく大袈裟に笑った。自分を守る男の顔は見れなかったが、恐怖を植え付けた男の顔は非常に嘘つきの顔だった。本性も、裏も面も何も見せていないのだろう。
コロコロと飴玉のように転がり、変わる男の顔は非常に恐ろしい。
「お前の話の長さはどうにかならないんですか?耳が腐りそうですよ」
アリスの手を強くだが痛まない程度に握るとセオドアはチェーロの後に続いて家に入った。なんとなく、少女が力を入れ入りたがっていないことはわかっていたが、軽く目線を送れば納得はしていないが、安心感を受け取ったのだろう。歩んでくれた。
昨日から家になった場所とは違い、やはり白を基調とする清潔感のある内装であった。いや、言ってしまおう。白しかない。単色だ。黒も青も赤も、何もない。木製の家具でさえ、全て白化した。まるで、月の上で生活するような。
廊下には白い棚の中で座っている人形や、白い百合が一定の間隔で置かれていた。
だが、孤児院と家と同じなのは“心がない“ことだ。どこか違和感が喉元を通り過ぎないのだ。
「え?そう?お前には言われたくないけど。セオドア語は比喩と嘘とお世辞で作られた偽物だから、言いたい本質が見えないから先に腐るのは俺の耳。
で、今日は何しに来たのさ。あれの引き取りは当分しないんじゃなかったの?やっぱ、欲しくなったとか?」
やはり、チェーロはセオドア以上にセオドア・コーマンを理解しているがその波に合わせるつもりはないらしい。彼も束縛を嫌うのであろう。
「いえ、別件です。それに、その話題出さないでくれませんか」
ソファが向き合うようにな並び、大理石のテーブル。一応、初めてみる白以外の色として煤の黒がある暖炉。暖炉の中にある炎の赤。
彼は窓辺の方に座った。セオドアとアリスは暖炉に近い方へ座った。
テーブルの上には飲みかけの紅茶があった。三つ。
ぎこちなさと感情の追いつかなさにアリスはセオドアの手を離さなかった。ついでいうと、帽子は取られてしまったがコートをかけてくれたのでそれだけはもう片方の手で握りしめた。皺ができたら謝って、整えればいいと思ったのだ。
「ふーん、出さないね。いいよ、君が『戻るまで』言わない。で、何さ別件って」
「彼女、僕の妻です。」
「へー、かわいいね。名前はアリスだっけ。アリス・コーマン、いいね。
で?あとは」
「それだけです」
「は?それだけなの?」
「えぇ、それだけですが。何か?」
「「え」」
「?アリスまで、どうしたんですか」
やはり、彼は人間の真似事をしている方が似合っているだろうと。チェーロは彫刻愛好者の女に手紙を出し、マーレには大笑い付きで教えた。それをマーレは半分落胆と呆れとほんのちょっとの嬉しさで聞いていた。
「じゃあ、この子と話していい?何もしないからさ」
「僕にどっか行けと?お前とアリスを二人きりですか?」
チェーロの思いつきの行動には度々腹から拳が出そうなほど気持ちが湧き立つものがあるが、今回は彼らからしてみれば通例のことだが衝撃なことの後だ。流石に不安ではあるのだ。一応彼が人形にしか興味のない愛好者であることはわかっているが、ある意味前科持ちなのだ。
「私は大丈夫よ」
セオドアは思わず「はい?」と言ってしまった。口に出てしまったのだ。
だが、彼女は多少恐れを抱いた表情と握りしめた手の中の冷たさと湿った感触を見過ごすように、勇気のある決断を述べた。
その目は澄んでいた。最初に求婚を申し出た時のような澄んだ瞳だ。
何か物を言わせるような圧力を感じた。何かがセオドアの背中を押し、喉の不快感を取り除き、勝手に口に喋らせた。
「わかりました」と。
自分でも理解ができないまま、足に運ばれるまま来客用の部屋へと辿り着いてしまった。いつも方にかけていたコートが名残惜しさと不安を煽った。
「…そういえば僕はなぜ、彼女のことを名前で呼んだのでしょう」
客室用の部屋、窓際の机に添えられた椅子に座るとぼそりとつぶやいた。無駄に口が渇き、時間の流れがゆっくりになったのような心地がした。居心地の悪さは言うまでもない。最悪だ。
(いつになっても“詐欺師“の考えは理解できません、それに僕自身も)
「よかったんだ、彼のこと」
「…ごめんなさい、正直貴方のことは怖いけれど話し合ってみればわかることもあるんじゃないかと思ったの」
目線をあげ、チェーロを見ると紅茶のカップを片手に膝を組み微笑んでいる。
「そりゃいい。嫌いじゃない。
俺の名前はチェーロ・バンボラ。葬儀屋と、彼が言ったら俺のことだと思えばいい。あいつの中の俺の呼び名は多分_詐欺師じゃない?」
「心の中の呼び方なんてあるの、セオドアには」
「あるよ。マーレに会ったんでしょ?さっき、俺の家の下を顔色悪そうに走ってたからね。彼女は“凡人“脚本家のパルフェ・アーチステは支配者。女優のアモーア・ソレダッドは裁定者。孤児院の女性は、なぁんだったかなぁ、忘れちゃった。ごめんね」
アリスにはこれが詐欺師と言われる由来なのだとわかった。孤児院の女性つまり、“ママ“のことだった。彼女もセオドアが言う“ウィアード“なのだと思う。そう、この男のように恐怖の側面を持っているということだ。
だが、それよりも自分のことを彼がなんと呼んでいるのかが気になるのだ。彼に自分はどのように見えたのか、気になってしまった。
チェーロはアリスの方を見続けていた。セオドアのあの威嚇ではない怒りの目線は初めての体験だった。彼に怒りの感情があるとは思わなかったのだ。
だからこそ、面白いと思った。チェーロはだから彼を“演者“と呼んでいる。
多分、彼は自分を__と呼んでいるに違いない。普通の生活をいつも死に物狂いで生き延びているのだから、自分を押さえてまで。
思わず、口角が上がってしまった。
「いえ、大丈夫よ。ねぇ、チェーロさん。お願いがあるんだけど、いいかしら?」
「要件に寄るけれど、言うだけタダだ。何?」
「セオドアはどんな人なの?」
「気になるかーそうだよね、気になるよね。いいよ、断片的に教えてあげよう、かわいい純粋な花である君には毒になる蛇の彼のこと」
チェーロは身を乗り出し、アリスの手を掴む。キッチンへと足を進めると数分後には紅茶を持って戻ってきた。二つ。
そして元に座ると手を組み先ほどの悪魔のような笑みのまま話し始めた。
アリスは暗い森の奥深くに入り込んでしまったんじゃないかと、不安に襲われた。それは、正しかったのかもしれないが彼に出会った時点で手遅れなのだ。
小鳥は親鳥が進む方向を歩む方向を正しいと思い込み、最適な道も自由な道を見失うのだ。 それは時に慢心になる。
「セオドアの趣味は絵画。特に人を描くのが得意なんだ。まぁ、君には一生見せるつもりはないみたいだね、さっきの件の限りさ。
でも彼の絵は今現在の人々には恐ろしい紛い物に見えるんだろうね、俺からしてみれば“普通“なんだけどさ。見慣れてるから。もし、彼がもう少し先の時代を生きていたら変わっていたんじゃないかな、まぁ賛否両論の嵐だろうけれど。
俺とあいつが出会ったのは、かなり昔。小さい頃で、あいつの親戚の葬儀を親父がやるって言うからそれの付き添いでいたんだけど。暇だから出て行ったんだよ、俺。そしたらセオドアがいて、「何してるの?」て言ったら「興味がないから、出た」って。初めて見た彼の瞳の冷たさと光のなさには驚きだったなぁ。ここまで無機質な人間いるんだって。そこから仲良くなったんだよ、俺としては、だけど!
あいつが今みたいに紳士で、君思いで、仕事大好きな人間になったのは…何かきっかけがあるんだろうけれど。それは俺から言っていいことじゃないから、本人にいつの日か尋ねてみるといい。でも、今じゃないけど。
あと、彼の奥さんになったんだったら彼のことを否定するのはおばかちゃんがすることだ。彼には彼という法でしか裁けない一面があるから。
朝は起きるのが苦手、髪のセットも適当。服も興味ない。飯も食べられればなんでもいい。家は住めればいい。一時期あいつ、木の上で一日過ごしてたり、近くの牧場の藁の上で見つかったこともあるからね!あっはっは!見つけたの俺だけどさ。
ま、そんな面倒くさい男だけど大事な一応の友達だから、助けてあげてくれるとありがたいかな。俺だって流石に、行方不明になったあいつを探すのはもう嫌だから。
それと、何か相談事があったら好きに来ていいよ。さっきのお詫びと、話してくれたお礼。ランスのことを可哀想って思える君が、俺は羨ましいから」
「貴方はどう思うの?」
やっと口が開いた時に出たのは、かなり平凡的でつまらない言葉だった。だが、彼は驚いた顔もせずただ味わうかのように目を伏せると天井を見ながら優しさよりも愉悦に浸った声で言った。
「美しい」と。
「本当に何もありませんでしたか?」
「セオドアさんが、朝は苦手で藁の上で何日も過ごせて、無頓着ってことを教えてもらっただけよ!」
「…?藁の上で過ごしたことはありませんよ、アリス」
「え?でも、チェーロは!」
「詐欺師に騙されましたか。全く、あの男は…」
チェーロとセオドアは玄関を出るその一瞬まで軽い言い争いをしていたが、結局アリスに手をひかれながら、泣く泣く出ることになってしまった。そんな二人をチェーロは意外にも微笑んで見ていたのだった。
家の前までやってきた時に、アリスは手を繋がれたままセオドアが鍵を開けるのを待っていた。まだ実感がなかった。ここが家という実感が。
そんな時、セオドアが言った。
「僕は貴方をアリスと呼びます。アリスはセオドアと呼んでくれないんですか。チェーロのことはチェーロと呼び、マーレはマーレと呼ぶ。
僕は何が足りませんか」
少女を見つめる男の姿はあまりにも弱く見えた。まるで雨に降られたかのようだった。片眼鏡越しに見えた光のない瞳は、昼間に聞いたあの少年時代と変わらないのかもしれない。だとしたら、彼はきっとまだ少年時代に閉じ込められたままというのもあり得なくはない。
そう思えると、アリスは思わず笑ってしまった。しゃがんでまでこちらを見つめる彼は幼い。
彼の頬を小さい両手で挟むと端正な顔立ちの彼の顔が軽く歪んだ。
「足りないところがないほど完璧よ!セオドア!名前呼んでくれて嬉しいわ!
ねぇ、セオドア!」
嬉しそうな笑みを自然と浮かべた男は「なんでしょう」と初日の時よりも優しい声で応えるのだ。目元の柔らかさがよくわかる。
「私の絵を描いてくれないかしら?」
セオドアにまた強く新鮮な風が吹いた。彼女から願われるなど思っても見なかったことだ。光り輝く瞳には彼の描く絵画の本性など見抜けてもいないが、そこにあるのは彼の絵を求める純粋な欲であった。
それが嬉しかった。これまでのモデルとなった人々にはそれがなかったから。
「素人の作品ですから、期待されるとかえって落ち込まれるかもしれませんが」
「いいえ、貴方はきっと!き〜っと素晴らしい絵を描くわ。レオナルド・ダヴィンチも驚いて筆を落としちゃうくらい!」
街灯に照らされた少女の顔は逆光によって見えにくくはなっていたが、それでもその純粋無垢な表情と昼間見せた自分に惚れ込んでいた時に似た顔はよく見えた。
「…そうなると私はあちらに行ったら、レオナルド・ダヴィンチを描かなくてはいけなくなりますね」
彼は負けを認めるように目を閉じて笑った。
セオドアが初めて引き下がった交渉である。策士もこれには度肝を抜かし、新聞社にわざわざ駆け込もうとするだろう。
それを平然とやってのけるアリスの凄さを褒めるべきか、もしくはこれが惚れた弱みか。
「うふふ!そうね!それに貴方は船を動かすことなくなってしまうわね」
「ははは!流石は私に一生分を捧げるお方だ、よくわかっていらっしゃる」
どうやらアリスはセオドア語の使い方を世界で初めて理解した人物になったらしい。それも全て含めて彼は今日を幸福の記念日と名づけたのだ。
美しい満月が二人にスポットライトを当てている_続




