自分が描いていた少女漫画のなかの、砂の国のシーク(ハーレム付き)に転生しました。女です。
「打ち切り……ですか……」
疑問形にもならなかった。
わたしは息を潜め、ケータイの向こうの編集者の返事を待つ。
「まあ、そういうことになりますね」
「はあ……」
「残念ですけど、人気がね。申し訳ないですが、人気が出なかったので」
胸を抉るような言葉を簡単に云い放ち、編集者は数回咳込んだ。「それじゃあ、あと二話、15ページずつでお願いします」
「はい」
そう答えるしかない。編集者は満足そうに、次回作に期待しています、と云った。
わたしはケータイをおろし、ゆっくりと歩く。
片山乃利子。それがわたし達のペンネームだ。
作画担当は姉のわたし。ストーリーは一歳下の妹。おおまかにそう分けているが、場合によっては妹が絵を描くこともあるし、わたしがストーリーをつくることもある。
三年前、わたしが中学三年生の頃、妹とふたりで漫画を描き始めた。ごくごく平凡な恋愛もので、今思うとまったく、見せ場も山もないし、面白みはない。その頃はわたしがストーリーも考えていて、妹はアシスタントというか、補助的なことしかしていなかった。
一年間、各少女漫画誌のコンテストに送りまくって、すべて落ちた。かすりもしなかった。一年経って、ストーリーにあまりにも厚みがないと自覚し、時折意見してくれていた妹に頼るようになった。
高校二年生の頃、相変わらずコンテストにまったくうからないままだったわたしは、漫研の友達のすすめで、ネットのイラスト投稿サイトに漫画を投稿しはじめる。ひとから意見をもらえるし、誉めてもらえたらモチベーションになるよ、と云われて、どうせそんなに手間のかかることでもないしとやりはじめたのだ。
それが転機だった。今思えば、悪いほうの。
最初の一ヶ月、なにもなかった。見てくれるひとは居たけれど、いいねをしてくれるひとは居なかった。ブックマークもつかなかった。
でも、その時に描き始めた、「沙漠の王子と無邪気な乙女」という、中東っぽい沙漠の国を舞台にした恋愛ものの漫画の、第一話をアップすると、ちょっとだけ見てくれるひとが居た。第二話、第三話と、ちょっとずつ見てくれるひと、ブックマークしてくれるひとが増えていった。
第四話をアップした直後、そのサイトの機能をつかったメッセージが届いた。差出人は、「こみっくれこーど」という漫画サイトの編集者だった。
こみっくれこーど。
登録すれば、無料漫画を月に百冊まで読める、漫画サイトだ。有料コンテンツもあって、サイト内の個人ページを飾ったり、そこに自分だけの図書室をつくれるというのが売りだった。
有名雑誌や有名漫画家の作品も勿論あったけれど、素人に毛が生えた程度の漫画家も沢山、そこで連載していた。わたしもそのひとりだ。わたし達も。
こみっくれこーどの編集者は、「沙漠の王子」をこみっくれこーどオリジナル漫画として連載してほしいと云ってきた。ギャラは一話幾らで、閲覧数幾らごとに何%追加して……と。
わたし達はためらっていたけれど、編集者の口説きかたはうまかった。「ただで描いてても上達しないですよ。お金をもらって、ちゃんと仕事として、緊張感を持ってやってたら、もっといいものを描ける筈です」。
一週間、妹と話し合って、わたし達は描くことにした。別のサイトに投稿した分はそのままで、一話から描き直して、こみっくれこーど版としての連載を始めたのだ。
八ヶ月経っても閲覧数は伸びず、毎話、十数人が見てくれているだけ。感想も、「絵がリアルでこわい」「画面がゴチャゴチャしてる」「話が暗い」と、辛辣なものがほとんどだった。
決断は間違いだったのだ。現に、打ち切られた。もうこみっくれこーどでの連載は出来ない。
妹になんて云おう……。
心配なのはそれだった。編集者から、電話で話したいとメッセージがあって、いやな予感はしていたのだ。だから、家から出て、よく散歩に行く近所の公園まで走って、そこで電話をうけた。
妹は「沙漠の王子」のストーリーに自信を持っていて、少し話がわかりづらいのではないかとか、キャラクターが少なすぎるのではないかとか、そういうわたしの意見をきいてくれなかった。最近はストーリーに対する否定的な意見に対して、相当敏感になっていて、いらいらしていた。
この漫画で人気が出なかったら、原作は辞める。
そうまで云っていたのだ。打ち切られたとなったら、妹は原作担当を降りてしまうかもしれない。わたしは、自慢じゃないが、妹のような深みのあるストーリーはつくれない。うすっぺらい、どこにでもあるような話しかつくれない。妹が居なくなったら、わたしはどうすればいい……。
公園脇にある階段をのぼっていった。そこからつながっている土手の上を歩く。右手にはさっきまで居た公園があって、左手には河川敷がある。土手をまっすぐ東へ歩いていけば、家に辿りつく。作業に疲れると、よくここまで散歩をしている。
ぽーんとサッカーボールがはねるのが見えた。少年サッカーチームがいつも、平日の夕方や土日に練習している場所だ。今日は試合をしているらしい。毎月第三日曜日にはかならず試合をしているな、と、どうでもいいことを考える。
とにかく、妹を怒らせないようになんとか、打ち切りのことを伝えて、次の作品にとりかかるしかない。
「片山乃利子」には、ほんの何人かだけど固定ファンがついたのだ。どうにか妹を宥めて、今度はもう少しライトなストーリーをつくってもらおう。わたしの画力もなんとかしなくちゃ。
そうだ。原作は決して、悪くない。面白い、と思う。問題はわたしの、画面構成力なのかもしれない。
「もっと頑張ろう」
口のなかでつぶやいた瞬間だった。悲鳴が聴こえたと思ったら、後頭部にもの凄い衝撃があって、わたしはその場に倒れ込んだ。
門歯が折れたのがわかった。口のなかに血の味がする。なにかにはねられた? なにかに蹴られた? なにかにぶつかられた? 車が来てたの? 音はしなかったけど?
唐突に、血の味がまったくわからなくなった。痛みも消えていく。音もだ。体の感覚全部が、急速にしぼんでいった。
最後まで残っていたのは視覚だった。かすむ目が、ころころと転がっていくサッカーボールをとらえる。嘘でしょ。わたし、こんなことで死ぬの?
「兄者、嘘だろう」
がんがん痛む頭に手を遣る。複数、笑い声がした。「何年馬にのってるんだ? 子どもでもそんな落馬の仕方はしない」
口のなかがじゃりじゃりする。砂が目にはいっている。
意味がわからなかった。わたしは体を起こし、口のなかにはいった砂を吐き出す。顔をこすって砂を払い落とし、呼吸を整えようとすると、咳込んだ。
「冗談じゃない」
「それはこっちのせりふだぜ、兄者」
振り仰ぐと、浅黒い肌の、絵に描いたような美形が居た。は?
うん?
見覚えがある。見たことがある……のではなく、描いたことがある顔だ。眉山が高い濃い眉も、長い睫毛も、高い鼻も、綺麗に弧を描いた口も、しっかりした顎も、目を瞑っていても描けるくらい何度も描いた。
「……ジャウズ」
「ああ、なんだ、兄者?」
眩暈を感じて、わたしはその場に膝をついた。ジャウズ! 「沙漠の王子」の主人公だ!
「ほんとに大丈夫なのか」
「ああ、ああ、平気だから、帰っていいよ」
ジャウズは肩をすくめたが、優雅にお辞儀をして、さがっていった。
息を吐く。あの顔で、ジャウズという名前で、王子のひとりだった。間違いない。ここは、「沙漠の王子と無邪気な乙女」の世界だ。わたし、死ぬ間際に夢を見てるのかもしれない。
兄……。
ジャウズが兄者と呼ぶ登場人物はふたり居る。
ひとりは、一話で死んでしまう、王さまの長男のタジャンマダ。〈白の国〉の第一王子だ。
タジャンマダは具合の悪くなっている王さまにかわり、政務のほとんどをこなしていたのだが、一話で遠乗りに行き、敵対している〈青の国〉の兵士に襲われて命を落とす。ジャウズが戦いに身を投じるきっかけをつくったキャラクターだ。
もうひとりは、次男のタフジール。
タジャンマダ達とは母親の違う第二王子で、一話の冒頭ではふたりと敵対している様子が描かれる。
が、タジャンマダが死んだあと、王子達のなかで一番の年長者になったタフジールは、ジャウズに協力することを提案し、ジャウズより下の王子達も説得して王子達をまとめる。直後に王さまが亡くなって、タフジールが跡を継ぎ、タジャンマダを殺した〈青の国〉を潰そう……とやるのだけれど、実際はタフジールと謎の人物が裏で糸を引いている。
タフジールはほんの数日の差で第二王子として生まれたことに納得していなかった。その為、王さまの体力がいよいよなくなってきたのを見て、タジャンマダを殺して王太子になろうとする。ただ殺したのではばれてしまうから、敵対している〈青の国〉の仕業に見せかけた。その辺は、もうひとり協力者が居て、そのひとの指示でやっている感じだったが、妹は作画担当のわたしにさえそれが誰なのかを教えてくれなかった。
タフジールはその後、自分にとって脅威になりそうな王子達は「タジャンマダの弔い」と称して〈青の国〉との戦闘へ向かわせ、殺してしまおうと計画する、
しかし、ジャウズが善戦し、王子達は無事に宮殿へ戻ることができた。ところが、ジャウズの婚約者で他国の王女・ココが、タフジールのハレムにいれられていて……というところまで、描いた。
そう。中東っぽい世界で、ハレムというものがある。そしてタジャンマダにしてもタフジールにしても、すでに結婚している。
実際の中東の王族がどうなのかは知らないが、あの漫画の場合、描き分けやすさ重視で宮殿の幾つかの場所にハレムがあるということにしていた。妹もそれで納得していた。王さまの御殿には王妃さまのハレム、王太子の御殿には王太子妃のハレム、王子の御殿には王子の妻や王子の婚約者達のハレム、というふうに。
それに、描き分けしやすいから、女性達の格好も実際の中東とは違う。チャドルは着ていないし、それどころかヘジャブをつけてもいない。
というか、最初はつけていた。ヘジャブの柄や、チャドルを着ているかヘジャブだけか、などでキャラを描き分けていたのだ。
だが、こみっくれこーど版では編集者の指示で女性キャラクターの造形を変えた。
ヘジャブを被っていたら誰が誰かわからないし、ヒロインの顔がわからないのはよくない、どうせ本当の中東の話ではないのだからかえてしまってもいい、と。
妹は納得していなかったのだが、わたしは反対できなかった。実際、ヒロインの顔をあまり描けないのは、ストレスだったのだ。もともと、可愛い女の子を主人公にした、平凡な恋愛ものを描いていたのである。可愛い女の子、綺麗な女性達を描きたいという欲求があった。
妹は重厚な物語をつくる才能は凄いのだが、重厚すぎて、わたしが描きたいものとは少しだけ違った。恋愛要素がまだうすかったのだ。これからヒロインが活躍するとは云われていたけれど……。
結局、妹も折れ、女性キャラクター達はヘジャブを脱いだ。描くのは楽しくなったけれど……もしかしたらそれも、人気が出なかった理由だろうか。中東ふうの世界なのに、女性だけそうではないことに、読者が違和感を覚えたのかもしれない。
「……」
さっと周囲を見る。今は、そんなことでなやんでいるひまはない。
わたしは、タジャンマダかタフジールか、とにかくジャウズから兄者と呼ばれたからどちらかだ。一話よりも前ならタジャンマダ。タジャンマダが死んでいるのなら、そのことで関係改善した(ことになっている)タフジール。
ジャウズは王子達と遠乗りにでて落馬したわたしを心配して、宮殿の、誰だかわからない「兄者」の御殿まで送ってくれた。くらかったので、建物の全貌が見えず、誰の部屋かがわからない。柱やアーチに彫られた模様が違う、という設定にしていたから、柱を見ればわかる。なにせ、わたしが描いていたんだから。
ゆらゆらと、ランプの灯が揺れている。わたしは柱をよく見ようと、そちらへ歩いていった。「旦那さま」
びくっとして立ち停まる。奥へと通じるアーチから、侍従と侍女、それに女性の集団が出てきた。
侍従がお茶の道具を、華奢な細工がしてある銀のトレイにのせて持ってくる。
鮮やかな色合いのうすぎぬをまとった、豊満な体つきの女性が、それをうけとった。彼女はトレイをじゅうたんの上へ置き、手をひらひらさせる。ヘジャブで頭部のほとんどを隠しているので、顔ははっきりしない。だが、体のほうははっきりと、プロポーションがわかった。めりはりがあるどころの騒ぎではない。
「大丈夫よ、イタール、もうお下がり」
「かしこまりました、姫さま」
侍従も侍女も、後退りしてさがっていく。アーチへ吸い込まれるようにして、出て行った。
姫さま……では、まだわからない。というか、かりに名前を聴いたとしても、わかりそうにないんだが。
女性の集団に捕まったわたしは、奥の部屋へとつれてこられた。ハレムだ。それが正しい呼称かどうかはともかく、「沙漠の王子」では王家の女性達が普段すごす場所のことをハレムと呼んでいた。王子にせよ王にせよ、自分の妻のハレムに行くことは普通だ。
「旦那さま」
やはりうすぎぬをまとった、痩せ型の女性が、あぐらをかくわたしの膝に手を置いた。手にはいれずみがしてあって、それは王子のハレムにはいった印だ。「落馬するなんて、お疲れなのですわ。今夜はゆっくりなさってください。毎日まいにち、陛下のお手伝いばかりなのだもの」
いれずみは王子ごとに模様が違い、それで誰の妻かわかるようになっている。王子が王さまになると、王さまだけの模様が、今度は手首の内側にほられる。そういう設定だ。
ヒロインのココは、タフジールのハレムにいれられたけれど、タフジールの奥さん達もココを庇ってくれて、メヘンディアートでごまかしていた……というくだりを、これから描く予定だった。
「旦那さま?」
「お疲れなのよ。旦那さま、侍医には診てもらったのですよね」
「あ、ああ」
ぎくしゃくと頷いた。女性達は玉を転がしたように笑い、背の高い女性がしなだれかかってくる。「今夜はわたくし達と、楽しくすごしましょ、旦那さま」
「普段わたくし達をないがしろにしているから、沙漠の神さまが旦那さまを罰してくれたのだわ」
また、笑いがあるが、今度は控えめなものだ。云った女性は、ばつが悪そうにしてしまう。
豊満な女性がお茶をいれ、わたしの前へ、金属製でレースの飾りがついたマグを置く。砂糖をいれてあるのだろう、お茶からは甘い香りがした。
視線を感じ、わたしはマグをとって、口へ運ぶ。
妹はキャラクターを増やすのを凄く渋っていて、タジャンマダやタフジールの奥さん達には名前がなかった。だから、これから名前を聴いてもどちらの妻達かわからない。
便宜上、わたしと妹の間で、みつあみとか縦ロールとかおチビとか呼んでいただけだ。だから、多分名前を聴いてもわからない。作中では彼女達は皆、「姫さま」や「王妃さま」と呼ばれる。さっきの侍従は、彼女達を「姫さま」と呼んでいたから。
「あ!」
危うくお茶をこぼすところだった。慌ててマグを置き、口許を拭う。女性達は目をまんまるにしてわたしを見ている。
ひとりがさっと周囲を見、ヘジャブをとりさった。侍従が居なくなったので、頭部をさらしても大丈夫だと判断したのだろう。
「どうなさいました?」
ほかの女性達もヘジャブをとりはじめた。これで、はっきりした。
ジャウズがタフジールとあんなふうに親しくなるのは、タフジールが王位を継いでからだ。その前だったら、一緒に遠乗りにでるような仲ではない。
そして、侍従が彼女達を「姫さま」と云った。正式な王妃以外は姫さまと呼ばれる設定だったが、あの豊満な女性がこのハレムのリーダーのようだから、そのひとが姫と呼ばれたということは、わたしは王ではない。
そして、ヘジャブをとった彼女達を見て、確信した。豊満な体型で、ふわふわした黒髪。痩せ型で、銀髪。背が高くて赤い髪。顔に傷があり、紺色の髪。小柄で黒髪をお下げにしている……。
「わたしは、タジャンマダだ」
思わずそうささやくと、豊満な女性が呆れたみたいに云った。「なにをおっしゃるの? 当然でしょう、旦那さま。あなたはタジャンマダ・アブヤド。この〈白の国〉の王太子ですわ」
気分が悪いようだから、と、わたしは豊満な女性につれられ、隣の部屋へ移動した。そこには四本柱のベッドがあり、そこへ寝るように促される。ベッドにはうすぎぬの帳がかかっていて、部屋の隅では香が焚かれていた。
わたしがベッドへはいると、当然のように、女性もベッドにはいってくる。もの凄い重量感のあるものが腕へおしつけられているのだが、わたしの頭は不安と恐怖でいっぱいだった。このままでは、タフジールに暗殺されてしまう。どうやってそれを回避したらいいのか……わたしは作画担当だったから、くわしいことは妹しか知らないし、どうやって〈青の国〉の仕業のように見せかけたんだったっけ?
「旦那さま、どうして逃げるのです」
「え?」
ぱっと顔を向けると、枕許に置いたランプの灯で、彼女の表情が見えた。可愛らしく口を尖らせ、アーモンド型の目がわたしをじっと見ていた。
彼女はタジャンマダの妻のなかで一番、位の高い、サラーサ族の首長の娘だ。タジャンマダはすぐに死んでしまって退場するが、彼女達はその後、タフジールのハレムへ移動し、何度かストーリーに関わってくる。
しかし名前は決まっておらず、作中では「タジャンマダの正妻」と云われたことがあるだけだ。わたしと妹の間では出身部族の名前から、サラサと呼んでいた。
彼女がどうも、傷付いたような表情をうかべているので、罪悪感が頭をもたげた。わたしの不安は、彼女には関係のないことだし、ここにもちこむべきではなかった。
「ああ、えっと、ごめん」
そっと、やわらかい体を抱き寄せる。彼女は表情をやわらげ、わたしのせなかに手をまわした。結構、重たいな……この体型なら当然か。ん?
「足がひえてるね」
「はい?」
「よくないな。ちょっと、待ってて」
侍従は起きていた。いつでも王子達の要望に応える為だろう。わたしが、「たらいとお湯とタオル」をリクエストすると、彼らはきょとんとしたが、すぐに用意してくれた。
「あの……旦那さま」
「はい、足を出して」
ベッドの傍に膝をつき、ベッドの上に座っている彼女に笑みを向けた。「そんなに足がひえてたら眠れないでしょう? ほら」
脚へ触れると、彼女はぎょっとしたようだったが、ためらいつつベッドから脚を出した。温度を調整したお湯をいれたたらいに、形のいい足をいれさせる。たらいは、描いたら気が狂いそうなもの凄い装飾が施されていて、その分いやがらせのように重たかったが、タジャンマダの腕力でなんとかねじ伏せた。
彼女はちょっと、体をこわばらせていたが、足浴の効果が出たのだろう。すぐに、目がとろんと眠そうになっていった。足のひえはよくない。眠れなくて、わたしも何度も足浴をした。
「熱くはない?」
「はい、とても気持ちいいです」
「よかった。よく眠れないと、体によくないからね」
「まあ……わたくしのことを、そんなに考えてくださるのですね……」
彼女は感激したみたいに云って、目許をささっと拭った。
十分くらいして、足を拭いてあげると、彼女はすぐに眠ってしまった。わたしはたらいを片付けて、ベッドへ戻った。
王さまの具合は、漫画と同じでよくなかった。
そして、漫画と同じで、タジャンマダが政務の半分以上を代行している。王さまは御殿から出てこないのだが、タジャンマダは各部族の代表者や大臣達との会議に出たり、敵対している〈青の国〉や〈黒の国〉との戦いにどう備えるかを将軍と相談したり、昼間のスケジュールはいっぱいいっぱいだ。
沙漠のなかにある国だが、〈白の国〉には名前の由来にもなっている、立ち枯れた森がある。完全に枯れてしまって、まっしろになった木が、それでも倒れずに立ち続けている木達だ。
それは、宮殿の一番高い建物の窓から見えた。王さまの御殿からだ。
「タジャンマダ」
「はい、父上」
窓から外を見て、ぼんやりしていたわたしは、ベッドの上の王さまを見た。ベッドの傍には、ひげのない侍医が控えている。
タジャンマダは十代後半で、王さまは二十代でタジャンマダを授かった。だからまだ、三十代の後半から四十代くらいなのだが……そうは見えないくらい、老け込んで、痩せていた。
病気が王さまを蝕んでいるのだ。侍医達でもどうしようもなく、まじない師まで呼んだが、どうにもならなかった。あと少しで亡くなるだろうと云われている。
王さまはつやのなくなってしまったひげを、痩せて骨が浮いた手でしごく。ひょいと手を振って、侍医を下がらせた。
「そろそろ、お前に王位を譲ろうと思う」
声には張りがないが、しかし言葉はしっかりしていた。
わたしは頭を振る。
「だめです」
「なぜ? お前は、わたしのかわりを、きちんと勤めている。十一氏族からも信頼されているし、民からの人気もある。そして、ベッドからでられない王を、民は望んでいない」
頭を振るが、言葉がうまく出てこない。
たしかに、タジャンマダはこれまでよくやっている。十一ある氏族のすべてに公平になるように、様々な政策をうちだし、実行してきた。子どもに読み書き計算を教える学校も、各町に、国費でつくっている。更に、戦争は国を疲弊させるだけだと考えて、〈青の国〉や〈黒の国〉とも和平を結ぼうとしていた。
タフジールが戦争をしたのは、母親の出身氏族、スィフル族の意向だ。
スィフル族は武器製造の技術に長け、その原料を他国から入手できるルートがあった。そして、他の氏族に武器を売って儲けている。戦争になれば武器の需要は高まるから、スィフル族は更に儲けることができる。
最終的には、どうにかしてほかの氏族を追い出すか、殺すか、従わせるかして、〈白の国〉そのものをスィフル族のものにするつもりらしい。その辺り、妹がくわしく教えてくれないので、わからないのだが、そういう描写はあった。
タジャンマダの功績は、タジャンマダのものだ。
わたしはそれを、漫画を描く為に妹から聴いた話として覚えている。それに今日、侍従や大臣、官僚達からこれまでの仕事とこれからの予定を聴かされてなんとなく把握した。
だが、細かい部分はまったくわからない。タジャンマダとしての記憶は、あるにはあるのだが、欠落が多すぎた。だから、タジャンマダがどういう理念で政務をこなしてきたか、そしてどうやってこれだけの重責に堪えてきたのか、わからない。
ストーリー担当の妹だったらうまく立ち回れただろうけれど、わたしは妹に云われて絵を描くばかりだった。たまにストーリーに関わったけれど、ジャウズとココの恋愛的な要素に関してだけだ。
「わたしには、荷が重いです」
それは偽らざる気持ちだった。
王さまはがっかりしたみたいに、ゆるく頭を振る。「タジャンマダ。タフジールは、自分と母のことばかりを考えている。お前は違う。王の器だと、わたしは思っている。自分の利益ではなく、国の、民の利益を考えられるのは、王にとって大事なことだ」
「買いかぶりです、父上」
「そうだろうか? しかし、タジャンマダ、わたしが譲位せずとも、玉座に座っていられなくなれば、王太子のお前が跡を継ぐのだぞ。それはかわらない」
わたしがなにも云えないでいるうちに、王さまが侍従を呼び、王太子が帰るようだ、と云った。わたしは丁寧なお辞儀をして、王さまの御殿をあとにした。
「旦那さま」
「うん」
王太子の御殿の奥、銭湯のようなひろい浴室で、ゆったりとお湯に体をひたしていると、うすぎぬ一枚の妻達がやってきた。
〈白の国〉は沙漠のなかにある。だが、水資源は豊富で、地下水だけでなく大きな川もあった。かつては、〈青の国〉や〈黒の国〉に水を売るのが、国の一番の収入源だった。敵対状態になってしまってそれはできなくなったが。
勿論、現代日本のようなむちゃくちゃな贅沢は出来ないが、十日に一度、こうやって浴槽にたっぷりのお湯をはり、体を沈めるくらいのことはできる。
ただし、水は限りあるものなので、御殿の主がお風呂にはいる時には妻達も一緒にはいる。
浴室には大きな窓があり、そこから外が見えた。といっても、庭だ。なつめやしの木がゆらゆらと、沙漠から吹きつける風に揺れている。
妻達はうすぎぬ一枚で、それぞれやわらかい浴用布と、せっけんを持っていた。せっけんは山羊の脂と、海沿いにある国から交易で手にいれた灰でつくったものだ。
「お体を洗ってさしあげます」
「いや、いいよ」
ぼーっとしていたわたしは、サラサちゃん(仮)にひらひらと手を振った。「しばらくここで、伸びているから」
「まあ、うふふ、旦那さまったら面白いことおっしゃいますのね」
妻達がくすくす笑う。わたしは浴槽の縁に腕をかけて、頭をのせた。
「ちょっと、ぼんやりしてたいんだ。わたしのことは気にしないで、あなた達もゆっくりして」
政務に疲れてしまったみたいで、欠伸が出る。大臣達は長々と装飾的な喋りかたで、十分くらい話して実際には二・三行の内容だった。将軍はその反対で、言葉が少なすぎてなにを伝えたいのかわからない。
もう一度、欠伸が出そうになって、嚙み殺す。妻達が目をかわしているのが見えた。
「なに?」
「……旦那さま、大丈夫ですの?」
「なにが」
「以前でしたら、そのようなことおっしゃいませんでしたわ。わたくし達と湯につかるのも、いやがっておいでだったではありませんか」
「え、そうだっけ……」
……ああ。
タジャンマダは、ジャウズにとってはかっこいい優しい兄なんだけど、亭主関白でお堅い人物だった。女性に対して意欲があるのは、タフジールのほうだったな。
漫画の表現上、ヒロインに手を出そうとする、というのは、悪役としてわかりやすい行動だった。
そのタフジールの対極にある人物として描かれているから、タジャンマダは寝室以外では妻とは気軽に口もきかないようなキャラクターだ。
失敗だったかな、と思ったものの、妻達は各氏族や、友好関係にある国から送られてきた、寄る辺のない女性達である。勿論、王子の妻だから、それなりの暮らしは出来る。けれど、家族とはほとんど会えない。
彼女達だって、好きで嫁いできた訳ではないだろう。せめて快適にすごしてもらいたいし、優しくしたってばちはあたらない……と思う。
わたしは仰向けになって、浴槽の縁に頭をのせた。息を整えてから、体を起こす。彼女達を振り返る。
「ごめん。これからは、そういうことは云わない。ゆるしてもらえる?」
「まあ」
「ゆるすだなんて、とんでもないことですわ」
「わたくし達、旦那さまに謝ってもらおうだなんて、考えていませんでした」
妻達が慌てだしたので、わたしは彼女達を落ち着かせようと、にっこり笑って見せた。
「ほら、あなた達はわたしの奥さんなんだし、なかよくしたいなって思って。だめかな?」
「そんなこと……」
サラサちゃんが浴用布とせっけんを落とし、泣きはじめてしまった。え、なんで?
浴槽から出る。漫画的にまずくないよう、お風呂にはいる時でも男性はズボンをはいている設定だ。うすっぺらいが、隠れるべき部分は隠れている。女性達も、体の線ははっきりしているが、見えてはいない。
「どうしたの? どっか痛い?」
うずくまって泣いているサラサちゃんに駈け寄る。妹に対するような言葉遣いになってしまったが、妻達はサラサちゃんが泣きはじめたのでうろたえており、それに気付かない。
「どうしたの、ナスル?」
背の高い妻がサラサちゃんのせなかを撫でながら云った。サラサちゃん、ナスルっていうんだ。
サラサちゃんあらためナスルちゃんの傍に膝をつき、顔を覗きこんだ。ナスルちゃんはしゃくりあげながら泣いている。涙とはなみずで顔がぐちゃぐちゃだ。
浴用布をとりあげ、彼女の顔を優しく拭いた。
「ごめん、なにか気に触った?」
「そ、そうではございません……ちがいます、わた、わたくし、旦那さまがこんなふうに、優しくしてくださると、思っていなくて……」
ナスルちゃんは顔を上げ、洟をすすった。目がまっかになっている。妻達が顔を拭いてあげた。
「旦那さまは、わたくしを迎えた日に、おっしゃいましたよね」
「え?」
「自分は民のもので、君のものにはなれない、と。王族の勤めを果たす為には、君をないがしろにするだろう、と……」
え、そんなこと云ったの? 酷くない?
と思ったが、実際のところ、タジャンマダは王太子で、将来の王さまだ。国の為には、家庭を第一にはできない。記憶が混乱してまだ数日だけど、政務が凄く大変なのはわかっている。そりゃ、奥さん達を優先できない場面はあるだろう。それはわかる。わかるけど……。
ナスルちゃん達は、氏族と王家の関係をよくする為や、国同士の結び付きを深める目的で、政略の為に結婚したのだ。しかも彼女達は、まだ十代後半か、二十代である。まだまだ若い女の子に、そんなこと云う?
ジャウズ達と遠乗りに行く時間があったら、政略の道具にされてる奥さん達を労ってあげたらいいのに。
「ごめん。それはとりけす」
タジャンマダは完璧な王太子かもしれないけれど、夫としてはだめだ。これからは、ジャウズやほかの王子達と遊ぶひまがあったら、奥さん達に時間をかける。そうしてあげたい。
「ナスルちゃん達のことも考えるし、大切にするよ。ナスルちゃん達も国民なんだから」
「旦那さま……」
ナスルちゃんがぐちゃぐちゃの顔で、抱き付いてきた。尻餅をついてしまったが、抱き留める。
すすり泣く声が聴こえて、見ると、ほかの妻達も泣きはじめていた。わたしはナスルちゃんのせなかをさする。
「ねえ、泣かないでよ。お風呂、はいろ」
妻達は泣きやむと、体を洗ってくれた。くすぐったかったけれど、彼女達にとってはそれが、夫婦の親しさをあらわす行為らしいので、いやがることはできない。
お風呂を出ると、体にいい香りの油を塗ってもらった。普段はこれを体に塗って、やわらかい布で拭くだけだ。入浴したあとも、空気が乾燥していて肌がひりひりしないように、こうやって油で保護する。
「ナスルちゃん、せなか」
「まあ、結構ですわ」
「いいから」
香油のつぼに手をつっこんで、油をとり、ナスルちゃんのせなかへ塗りつける。ナスルちゃんはまだ目が赤い。
「コルヴォちゃん」
「はい、旦那さま」
背の高い赤毛の女性は、コルヴォちゃん。さっき、妻達の会話で把握した。顔に傷のある紺色の髪の子はスヌーヌーちゃんで、銀髪で痩せているのがメーヴェちゃん、小柄で黒髪お下げの子はアッダーラージュちゃん。コルヴォちゃんとメーヴェちゃんが他国から嫁いできた子達で、あとは国内の有力氏族からの貢ぎ物だ。
残念なことだけど、〈白の国〉では女性の権利はあまりなく、もの同然の扱いをうけることもめずらしくはない。生まれてきたら父親の所有物で、父親が死ねば兄か弟の所有物になり、結婚すれば夫のもの、ということだ。財産の一部のような扱いなので、娘を嫁がせて王家や別の氏族と親しくしようとするというのは、不自然なことではない。
妻達のせなかに油を塗りおえ、手を拭いた。余分な油は拭き取ってしまうのだ。でないと、服がべちゃべちゃになる。
窓から外を見ると、夜空に星が瞬いている。浴室内も、先程よりかなりくらくなってしまった。
そういえば、タジャンマダになってもう数日経つのに、妻達と一緒に食事をしたことがない。お茶なら、二回、一緒に飲んだけれど、それだけだ。
妻達を見た。「ねえ、一緒にご飯食べようよ」
妻達はぱっと、表情を明るくした。
王太子の御殿の、ハレムの厨房で、メーヴェちゃんとコルヴォちゃんが、つぼのような調理器具でパンを焼いている。なかに熱がこもるかまどで、口のところにフックをかけ、パン生地をひっかけて焼くのだ。
ナスルちゃんは、座りこんで野菜を切っていた。まないたはなくて、お鍋の上に手を出し、空中で器用にズッキーニみたいな野菜を切っている。野菜は小さな乱切りになって、お鍋のなかでちょっと踊ると、ころころと転がって落ち着く。
スヌーヌーちゃんとアッダーラージュちゃんは、灰色の石で出来た乳鉢みたいなもので、香味野菜やスパイスをすりつぶしていた。五人とも、料理が得意みたいで、一緒に食べるのだったら自分達でつくりたいと張り切ってくれたのだ。
わたしはナスルちゃんの隣にあぐらをかいて、彼女達のやることをぼーっと眺めていた。料理は出来ない訳じゃないが、ガスコンロや電子レンジがないとどうしたらいいかわからない。第一、まないたがないのにどうして、手を切らずにあんなことができるんだろう?
「旦那さま」
手を停めたスヌーヌーちゃんが、心配そうに、か細い声で訊いてきた。「たいくつですか?」
「ううん。みんな、すごいねえ。わたし、こんなことできないよ」
「旦那さまは殿方ですもの」ナスルちゃんがくすくす笑う。「料理なんて出来なくても宜しいです」
「そうかなあ。できたほうがいいと思う。どんなことでも、出来るのは凄いよねえ」
ばかみたいな感想だが、妻達は感激したみたいに、わたしを見て口々にお礼を云ってくれた。何故。
できあがったのは、焼きたてのパンと、ごろごろ乱切り野菜のスープ、スパイスやにんにく生姜などをたっぷり塗りつけて焼いた串焼きだった。山羊肉、うまい。
これまでの食事もまずい訳じゃないが、できたての串焼きはジューシーで、スパイスがきいていて、最高においしい。パンにはさんで食べると、堪えられないおいしさだった。
「おいしい! みんな、料理上手だね」
「まあ、旦那さま、料理人にはかないませんわ」
「ううん、ナスルちゃん達の料理のほうがおいしい」
それは嘘でも冗談でもないのだが、妻達はまた、感激したようで、目に涙をうかべている。タジャンマダ、王太子としては完璧だったけど、やっぱり奥さん達のことはあんまりかまっていなかったんだな。よくないよ、絶対。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「はい、旦那さま、なんなりと」
「面倒じゃなかったら、明日の朝も、ナスルちゃん達がつくってよ。お午も。わたし、食べに戻るから」
それからは、ご飯は基本的に、ナスルちゃん達につくってもらうようになった。お午、仕事をぬけだして食べに戻るのは難しいので、簡単なサンドウィッチなんかをつくってもらって持っていく。
料理人達には申し訳ないが、彼らは食材調達担当になってもらっている。きちんと直接話をして、頭も下げたので、納得してくれた。お祝いの時やお客を招く場合など、かしこまった食事が必要な場合は彼らに頑張ってもらうことになっている。
ナスルちゃん達には、タジャンマダと接したり、妻同士でお喋りするくらいしか、気晴らしがない。料理だけでなく、なにかしたいことがあればしたいようにと云うと、それぞれためらいがちだったけれど、したいことを云ってくれた。
「わたくし、刺繍をしたいです。ずっと、していたのですけれど、旦那さまの安全を考えて、針や刃ものは持ち込めないと……」
「いいよ、針くらいで死にやしないんだから。手配しておくね」
「あの、でしたらわたし、あみものをしたいです」
「わかった。毛糸と道具、用意してもらう」
「わたくし、飾り文字を書くのが趣味でした」
「うん。ペンと、紙だね」
「わたくしは、楽器が好きなんです」
「好きなもの、買っていいよ」
「旦那さまの服を仕立てたいですわ」
ナスルちゃんが云うと、四人も頷く。わたしは微笑んで、必要なものを用意させると約束した。
「兄者、最近付き合いが悪いな」
久々に、政務で顔を合わせたジャウズは、不機嫌そうだった。もともと、ココが主人公で、ジャウズはヒーローだったのだが、こみっくれこーど版でジャウズが主人公にかわったのだ。ストーリー的に、女性が主人公では話がぶれると編集者に助言されて。
わたしは書類にサインしながら、ジャウズに返す。最近、王さまはますます弱ってしまって、ほとんど寝たきりになっている。なので、政務の九割は、わたしが肩代わりしていた。
「仕方ないよ」
執務室の壁を示す。そこには、インクとペンを手にいれて描いた、妻達の肖像画を飾ってあった。五人ともはずかしがって、ヘジャブを被った絵しか、執務室に飾るのをゆるしてくれない。「奥さん達と過ごす時間が大事だから」
「兄者らしくない……」
「そうかな? 奥さん達だって国民なんだし、五人とも、国の為に来てくれたんだよ。尊重しないのはおかしい」
ジャウズは口を尖らせたが、しばらくすると頷いた。
「それは……そうかもな」
「でしょ。だからジャウズも、奥さんは大切にしなくちゃ」
「俺はまだ結婚していない」
「いずれする」
その筈だ。そういう予定だった。タフジールのハレムから脱出したココと、ジャウズが結婚して……。
うん?
……ていうか、まずくない?
わたし、タフジールに暗殺されるかもしれないんだったよね。
侍従が走り込んできた。
「タフジールさまのお越しです」
タフジールは、ジャウズ同様、無駄に美形だった。長く濃い睫毛にふちどられたアーモンド型の目で、わたしをじっと見ている。
そもそも、王さまが美男という設定である。まあね。王さまとか王子のお母さんが、美女だらけだもん。各氏族長の娘などがおもに、王家へ「献上」されるのだけれど、そこがすでに美人だ。だって、氏族長達が美人の奥さんをもらうから。
という訳で、美人の母親を持っている王子達は、大概が美形である。タジャンマダも、まあ、そうかな。主人公であるジャウズや、悪役の花形であるタフジールほどではないが。
「やあ、タフジール」
どう接したらいいかわからないので、ジャウズにするような感じで、立ち上がって手を伸ばした。ちなみに政務は、デスクで行う。違和感あっても漫画的にわかりやすい表現を心がけようとした結果が、ヨーロッパ的なアンティークっぽいデスクである。
タフジールは面喰らったみたいだが、ぎこちなくもこちらに手を伸ばしてきた。軽く握手し、わたしは椅子へ戻る。流石に椅子は、コロコロがついているやつではない。
「どうしたの? なにか用?」
「なにか、とは……」
タフジールは苦笑いした。ちょっとばかにした感じだ。「……殿下がわたしを呼んだのでは? 〈青の国〉の前線部隊について、ききたいと」
「ああ……」
そうなのか? 覚えてないからわからない。
が、たしかタフジールは、物語のはじまる少し前まで、〈青の国〉との国境付近の責任者をしていた。陛下に命じられてそこに居たのだ。タフジールが王位を狙っているから、都から遠ざけていた、っていう設定だった。作中には出てこないが、妹がそう云っていた。
タジャンマダがそれを知っているのかどうかはわからないが、〈青の国〉との国境の状態をくわしく知りたいというのは、タジャンマダの行動としておかしくはない。タジャンマダは、〈青の国〉や〈黒の国〉と、昔のように友好的な関係に戻りたいと考えていたからね。
もう一度立ち上がった。
「じゃあ、向こうでくわしい話を聴くよ。行こう。ジャウズも来て」
「は?」
ふたりはきょとんとしたが、わたしが促すと隣の会議室へ素直に来てくれた。
「……以上です」
「わかった。ありがとう」
書記官を振り返る。「陛下へも伝えてもらえる?」
「かしこまりました」
書記官のひとりが、羊皮紙に束を抱えて出て行く。侍従達が会話が途切れたのを見計らい、いい香りのお茶を注いでまわった。テーブルには数種類のなつめやしが並んでいる。ハース、おいしい。キャラメルみたい。
デグレットをかじりながら、ジャウズが云う。
「〈青の国〉の連中、おとなしいみたいだな」
「ジャウズ」タフジールがジャウズを見もせずに云う。「殿下に対してなんという口の利きかただ」
「兄者に対してどう喋ろうが俺の勝手だろう」
「国の体面や、品格というものを考えろ。大体お前は」
「まあ、まあ」
手を振って、ふたりのいいあらそいを停めた。「今はそれはどうでもいい。〈青の国〉は、前線部隊を縮小してるんだよね」
「報告したとおりです」
「そっか。じゃあ、タフジールに見張ってもらわなくてもいいね。このまま宮殿に残って」
「は?」
タフジ-ルは口をぱくつかせる。声は出ていない。わたしはたたみかける。
「かわりに将軍をふたり派遣する。タフジールには、スィフル族との折衝をしてもらいたい。最近武器の需要が落ちて、スィフル族は不満が溜まっているみたいだし、落ち着かせてほしいんだ」
とっさに思い付いたことだが、母親がスィフル族出身のタフジールが、スィフル族との折衝をするのはおかしくはない。血がつながっていると云っても、タフジールは王子だし。
ジャウズは不満げだ。「兄者、タフジールがスィフルに便宜をはかるとは思わないのか」
タフジールをまったく尊重していないものいいだが、タフジールがそれに怒る前にわたしは云った。
「思わない。タフジールは王家のため、民の為に働いている。これまでだって、長いこと頑張って〈青の国〉を見張ってくれた。タフジールが睨みをきかせていたからあっちもおとなしかったんだ。タフジール、しばらくスィフルを落ち着かせるだけでいい。なにか方策を考えるから、王家がスィフルをないがしろにするようなつもりはないってことをわからせてやってほしい」
タフジールはしばらく黙っていたが、わかりましたと頷いた。ジャウズが鼻を鳴らす。
タフジールにああ云ったものの、案はなかった。
スィフル族の不満分子をどうにか黙らせないと、タフジールに金銭や武器を供与するだろう。タフジールが〈青の国〉の兵士を装った人間を雇う段階になれば、それを摘発できるが、疑いをかけてなにもなかったってことになったらこっちが危うい。スィフルは密かに、ほかの国に武器を売って儲けているのだが、それを摘発したくても証拠はないし……。
ほかの氏族は、それぞれなつめやしを沢山生産する技術があったり、せっけんをつくる技術があったり、じゅうたんを織る技術、服やスリッパをつくる技術がある。スィフルは武器と薬づくりの技術があるが、ほかの産物がない。武器は、戦いがないから最近売れないし、薬は〈青の国〉や〈黒の国〉と敵対してしまった所為で薬材が手にはいらず、最近低迷している。サラーサ族も薬製造で有名だが、あちらは薬材も地元でまかなえるものをつかっているから、今では薬と云えばサラーサ製のものだ。
なにか、ほかに儲ける手段があれば、スィフル族はおとなしくしている筈。
「旦那さま、考えごとですか」
「うん」
今日は、ナスルちゃんがおいしい野菜と山羊の煮込みと、なつめやしのはいった甘いパンをつくってくれた。コルヴォちゃんとアッダーラージュちゃんは、わたしがばくばくとご飯を食べるのを見ながら、それぞれ刺繍とあみものを楽しんでいた。王太子妃のハレムは、最近、綺麗な刺繍を施されたカーテンや、かわった編み地のベッドカバーなどで、華やかになっている。
「タフジールが戻ってきたから、いい仕事をまわしてあげたいんだ」
「いい仕事? ですか?」
「うん。タフジールは能力があるから、わたしがもし、王さまになったら、頼りたいんだよね。今から助けてもらって、色々してもらおうと思って」
実際、タフジールは能力が高い。それなのに、ほんの数日の差で第二王子になり、不満を抱えていた。わたしが王になるのは、国の決まり的にどうしようもないみたいだけど、タフジールがこれ以上不満を抱えないように、なにかタフジールの功績になるようなことを用意しないと……暗殺される。
「旦那さまはお優しいですね」
「いや、わたしが楽したいだけ」
率直に云うと、妻達はくすくす笑った。
わたしは食事を終え、木炭と羊皮紙を手にとった。折角美人なモデルが沢山居るのに、描かないという選択肢はない。ハレムには、ヘジャブを被っていない肖像画も飾ってあった。こんなに美しくないですわとみんな謙遜するけれど、実物のほうが美人である。
手芸を楽しんでいる子達が手を停める。わたしは手を振った。「いいよ。そのままで。普段のあなた達を描きたいから」
「まあ……」
五人ともうふふと笑い、自然に作業を再開した。
ふと、コルヴォちゃんの手許が気にかかる。
……。
「あ!!」
三日後、やってきたタフジールに、わたしはにやにやしてあるものをさしだした。
「殿下?」
「タフジール、スィフルは武器をつくる技術が素晴らしいよね? これ、つくれないかな」
「はあ……」
タフジールは戸惑いつつも、わたしの手から刺繍用の針をとる。ほかにも、編み棒や、レース用のボビンなど、デスクには幾つもの手芸用品を置いてある。
「これなら、武器じゃないから、国外の商人でも簡単に買いとってくれると思うんだ。質のいいものなら、女性は絶対に、ひいきにしてくれるし」
タフジールは顔を上げ、小さく頷いた。「つくるのは、不可能ではないと思います」
「そっか! じゃあさ、それ、タフジールが主導して、スィフルにつくるように伝えてくれないかな? 技術開発の費用はこっちで持つよ」
「は? よ、よろしいので?」
「うん。わたし個人のお金を出すから。奥さん達が、縫いものやあみものが好きなんだ。だから、国内製のものがあったら助かるし」
「はあ……」
タフジールはしばらく口を噤んでいたが、深く頷く。「殿下は、妻のことを愛しているのですね。父上とは違う」
「え?」
「敬服いたしました」
タフジールは項垂れる。「殿下こそ、国の父に相応しい。父上がみまかった後には、かならずあなたに忠誠を誓います」
タフジールは土下座みたいな礼をしてから、出て行った。なんだったんだろう?
タフジールは出来るやつで、すぐにスィフル族の州まで行ってくれた。スィフルでも若い技術者達は、剣や槍の産業の今後に限界を感じていて、手芸用品なら国外の販路も考えられると、乗り気らしい。そういう手紙が届いた。
「タフジールをうまくつかっているらしいな」
久々に会った王さまは、前よりも一生小さく、弱々しくなっていた。
「父上、弟をつかうとかつかわないとか、そういうことは云わないでください。タフジールはできるやつです。タフジールに相応しい役を任せたいと思っただけです」
「……それは、お前自身は王になりたくないということか」
「なりたくないですが、法を枉げられません」
「お前らしい」
弱々しいが、王さまはたしかに笑った。
咳き込み、痰が絡んだ咽で、王さまは続ける。「タフジールに背後から切られぬように、用心せよ」
「それはないと思います」
「何故?」
「わたしが王になったら、かならず忠誠を誓うと、約束してくれました」
「口先だけではないか」
「タフジールはそういうやつじゃありません」
悪役だけど、人気があったのはジャウズよりもタフジールだった。行動に一貫性があるからね。ココをハレムにいれている話はまだ掲載してないから、あれが掲載されたらどうなっていたかわからないが。
王さまは顔色が悪かったが、なにか嬉しかったみたいで、微笑んだ。
その晩、タフジールが都へ戻り、王さまが意識を失った。
昼間は、具合は悪そうだけれど、それでも王さまはしっかり喋っていた。
今は、苦しそうに呻き、胸をかきむしっていて、侍医の言葉に反応しない。
「薬は?」
「のませましたが……」
心臓がどきどきしている。わたしの傍には、ヘジャブを被ったナスルちゃんが居て、手を握ってくれていた。王の臨終であれば、王太子や王子達が看取らないといけない。それで呼び出されたが、不安だったのでナスルちゃんもつれてきてしまったのだ。
「旦那さま」
ナスルちゃんがわたしの手を握り、せなかを撫でてくれる。陛下は激しく咳込み、なにかを吐いた。薬だろう。スパイスのような匂いがする。医学はまだ未熟だから、薬草をすりつぶしたり、木の実を煮込んだりしたものを薬としてのませるしかないのだ。
侍医があたらしい薬を持って、這入ってきた。「陛下、これを」
王さまがいやそうに顔を背ける。ぷんと、シナモンみたいな香りが漂ってきた。
ナスルちゃんの目の色がかわった。
「その薬は陛下のショウと合っていないわ! 侍医、なにをしているの?」
ショウ?
ナスルちゃんの鋭い言葉に、侍医が振り向いた。さーっとあおざめていく。手首には、侍医らしくなく幅のある腕環をつけていた。
手の甲は染めたように黒い。もしかして……。
腕環がずれ、手首のいれずみが見える。
「陛下のハレムの――」
次の瞬間、侍医が飛びかかってきて、横合いから誰かがそれにぶつかった。
ナスルちゃんだ。彼女は侍医を組み伏せ、叫んだ。「なんてこと! 女だわ!」
遅れていたジャウズとタフジ-ルが駈け込んでくる。タフジールがへたりこんだ。「母上……!」
女性達は、自分の家族の男性にしか顔をさらさない。王家のハレムにはいった女性は、自分の子どもと夫にしか顔をさらさなくなる。ハレムの外では、基本的に、ヘジャブかチャドルで顔を隠しているから。そもそも、ハレムから出ることも稀なのだが。
タフジールの母について、わたしはなにも知らなかった。だから、顔を見てもわからなかった。侍医は、薬にひげがはいらないよう、ひげをそっているのが普通だし。
王さまは、王家の決まりどおり何人もの奥さんをもらった。それ自体はなにも問題はない。王家でなくても、お金があるひとならやっていることだ。
でも、タジャンマダ同様に、奥さん達をないがしろにしていた。
王さまだから仕方のないことだ、と云ったらそうなのだ。
でも、家庭を大切に出来ないひとが、国を大切に出来るだろうか。
現に、王さまの代で、〈青の国〉と〈黒の国〉とは敵対関係になってしまった。王さまは、酒食にふけることはないけれど、あまりにも法や国を重んじすぎて、妻達をかえりみなかった。
タフジールの母親は、それをゆるせなかった。
はじめは我慢していたが、タフジールが生まれた時に、これでタジャンマダが死んでも大丈夫だと云われたのがゆるせなかったらしい。
「タフジールは誰のかわりでもないし、殿下だってそうです」
捕まったタフジールの母はそう云ったそうだ。
タフジールの母は、こっそりと、材料を集め、ひとを味方につけた。侍医達に金を握らせて、男の格好をし、王さまに毒を盛った。
ゆるされることではないと、タフジールは自分と母親の死刑を望んだ。
「わたしも若かった」
王さまはナスルちゃんが調合した解毒剤で、だいぶ元気になったけれど、まだ起き上がれない。「親から引き離され、淋しい思いをしているあれに、あまりにも思い遣りがなかった。これは、夫婦の喧嘩のようなものだ。わたしにも非がある。あれを罰するのであれば、お前を襲おうとしたことでのみだ」
「それが宜しいと思います」
わたしは頷いて、王さまの為に薬を調合しているナスルちゃんを振り返る。彼女はタフジールの母親をあっさり倒して、わたしをまもってくれた。頼れる奥さんだ。
結局、タフジールの母親は、タフジールの御殿へ移るということで落ち着いた。罰は、タフジールはその孫の代まで、王位を継ぐことは決してない、というものだ。タフジールを王さまにしたかった母親にとっては、一番の罰だろう。
ナスルちゃんと、お供の侍女達、侍従達と一緒に、王太子の御殿まで歩く。王さまは危機を脱したから、まだしばらく、わたしは王太子だ。
「兄者」
ジャウズが走ってきた。ナスルちゃんが、侍女達の間に隠れる。
「どうしたの?」
「俺、結婚することにした」
「え」
「ココに、あらためて求婚したんだ。最初は政略の為の婚約だったけど、今は本当に好きになったって」
ジャウズはにっこり笑う。「毒を盛られたくないから、しっかり云うことにしたんだ。兄者もそうしたら?」
ハレムへ戻ると、侍従達がさがり、侍女達も居なくなって、ナスルちゃんがヘジャブを脱いだ。豊かな黒髪がふわっと肩へ掛かる。「お帰りなさいませ、旦那さま」
「ナスル、お疲れさま」
「ご飯はつくっておいたわよ」
四人が出てきて、ナスルちゃんと楽しそうに話しはじめる。
わたしは咳払いして、注目を集めた。ナスルちゃんが小首を傾げる。「旦那さま?」
「ちょっと、ごめんね」
ナスルちゃんの体を、さっと横抱きにした。ナスルちゃんは小さくきゃっと云って、わたしの首にしがみつく。
「旦那さま……」
「これでいいんだっけ?」
〈白の国〉では、王家の男性が女性を横抱きにするのは、結婚を意味する。妻をこうやって、ベッドへつれていっていた、その名残らしい。
ナスルちゃんが目に涙をうかべた。
「旦那さま……わたくし、嬉しいです」
「うん。これからも、宜しくね」
見詰めあう。
「ずるいわ、ナスルばっかり!」
「そうです、旦那さま、わたくし達も!」
「あ、ごめん、じゃあ、順番にね」
くすくす笑うナスルちゃんをおろし、四人も順番に横抱きにした。「わ、軽すぎるよ、もう少し食べないと」
「旦那さまったら」
奥さん達の楽しそうな笑い声に、何事かと侍女達がやってくる。
わたしはもう一度ナスルちゃんを抱き上げ、彼女はわたしの頬にちゅっとキスしてくれた。