第九話
突然の訪問者が館を去ると、まっ先に応接室を出ていったのはイオンであった。ルーガとギルウスのやり取りがはっきりと聞こえたはずはないが、『もう一人の客人』に対応するため部屋を出ていったリノンの様子で、訪ねてきた人物がルシカであると確信したのだろう。
「若いねぇ、イオン君は」
ルーガも未だ二十五歳の若者だが、イオンとは十三も年が離れているため、常日頃イオンを子ども扱いしている。自分がリノンにそうされてきたことが原因かどうかは本人すら知る由もないことなのだが。
そして、左竜・ギルウスを伴い、応接室以外で客を案内する部屋としている居間へ行くと、ちょうどルーガたちを呼びに行こうとしていたリノンと戸口ではち合わせた。
表情を和らげたリノンが、「さっきはありがとう」と礼を述べたので、ルーガは笑顔で彼女の肩を軽く叩いた。
居間はギルウスほどの体格の人物が数人いても窮屈に感じない程度には広いが、ルーガの視線は何よりもまず、椅子からゆっくりと立ち上がった少女の姿にくぎ付けになった。
「よく来たな」
ルーガは、自分の声とは思えないほど穏やかな口調になったことに驚くとともに、目の前の世界が突然明るくなる錯覚に陥った。
中庭へとつながる大きな窓から差し込む陽光でないことは分かっていた。そこに、ルシカ――ルシフェルカがいたからである。
ルシカは、窓際に設置された布張りの椅子と小卓の間に立つと、小卓の上の麦わら帽子にそっと手を添えてルーガに微笑んだ。次に、その隣のギルウスに視線を移し、軽く膝を折って初対面である彼に挨拶をした。その様は言葉がなくとも慇懃で、十分に相手に対する良心が伝わるものであった。
胸が躍り、つい少女に見惚れてしまったルーガは、気持ちを抑えながら少女に座るよう手振りで促した。
「ルシカ、忘れ物を届けに来てくれたって?」
ルシカの斜め前に椅子を移動し、腰掛けたルーガがそう切り出すと、ルシカは薄茶色の髪を揺らして頷き、ルーガの後ろに控えたギルウスを見上げた。
「ああ、忘れ物はこれだ」
ギルウスは、小卓に置かれた、生成りの布に包まれた物を指して言った。
ルーガが包みを開けると、それは野イチゴの砂糖漬けが入った素焼の小さな壺であった。
声が出せない少女の代わりに、彼女の隣に陣取ったイオンが補足する。
「ルーエに持っていくと言って忘れていったんだろう。まったく、もう物忘れかよ」
最後の一言に片眉をはね上げたルーガだったが、ルシカの手前、言い返すことはしなかった。その代り、少年の伯母たるリノンが小さく咳払いをし、イオンの発言を窘めた。
「それにしても、ルシカ、ここまで迷わなかった? 体調はどうかしら」
後ろからルシカを心配そうに覗き込んだリノンに、ルシカは笑顔で頷いた。妖精の髪を織り込んだ手巾を取り出し、ふうっと息を吹きかけ、浮かんだ文字を見せる。
『私には頼もしい案内役がたくさんいるから』
「それはそうだけど……。ここまで歩くとかなり距離があるのよ。私たちは慣れているからあまりそうとは感じないけれどね」
心配症のリノンに、穏やかに微笑むルシカ。二人にはかなりの年の差があるはずだが、若いルシカの達観したような落ち着きぶりが、彼女らが同い年であるかのような気にさせた。
「それより、ルシカ。せっかくここまで来たんだ、少しゆっくりしていけるんだろう。いつも俺ばかりやっかいになっているからな」
ルーガの嬉しそうな言葉にまたもや反応したのは、イオンだった。
「お前、そんなに頻繁にルシカさんに迷惑をかけているのか。仕事してんのかよ」
「仕事はしているさ。なぁ、リノン? 最近真面目だよな、俺」
急に話題を振られたリノンは、あきれ顔だが、しかし、首肯した。
「確かに。最近のあなたはきちんと族長の業務をこなしているわね。気味悪いくらいよ」
「ほらみろ。余裕のないイオンお坊ちゃんとは違うんです」
「いちいち腹立たしい奴だな……」
ルーガに軍配が上がったところで、リノンたちが笑いだすと、皆に囲まれたルシカが、両手で口元を覆って肩を震わせ始めた。
ルーガ、ギルウスが少女の様子に笑顔を収めた。
「ルシカ、どうしたの」
大事な親友の異変に、リノンが青ざめたが、そんなリノンに、イオンが静かに言う。
「リノン伯母さん、大丈夫だよ」
控え目にルシカの肩を抱いたイオンの言葉どおりであった。
ルシカは涙を流していたが、その表情にはけっして悲愴感はなく、むしろ喜びと困惑がないまぜになったような色があった。
「ルシカ。お前、笑いたいのに声が出ないから……」
ルーガの呟きに、ルシカは恥ずかしそうに頷いた。
呪具をそのか細い喉頸に施されたルシカは声が出せない。声が出せないということは、感情がうまく外へ発散されないということだ。では、高まった感情が次にどのようにして心の中から浄化されるかというと、それは涙であった。
「ルシカ、こんな子どもみたいなやり取りが面白かったのね」
ルシカを後ろからリノンが抱きしめ、愛おしそうに頬ずりすると、またもやルシカの春の泉のような澄んだ瞳から涙が零れ落ちた。その珠のような涙は白い頬を伝って光りながら少女の膝の上に消えていった。
そんな二人のやり取りをやるせない気持ちで見守っていたルーガは、はっきりとルシカに対する己の強い気持ちを悟っていた。