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第五話

集落からかなり離れると、今の季節は緑の葉を生い茂らせた栗林がある。毒物監査係のユルグ老が趣味で手入れを施している栗林だ。そしてさらにその先の鬱蒼とした雑木林を抜けるとルシカの山小屋がぽつりと見えてくるのだが、小屋より先に見えたのは、なんとルシカ本人の華奢な後ろ姿であった。


「何やってんだ」


 ルーガは栗色の長い髪が背中を覆う少女を訝しげに見た。


 山小屋は小さな庭の広さの分も併せて雑木林をくり抜いたような場所にあり、ルシカは庭の手前の木の陰に隠れてこっそりと我が家の方向を眺めているのだ。


「おい、自分の家だろう。何を見ているんだ」


 ルーガの迷いのない声と、振り返った時にあまりにも間近にあったその端正な顔に驚いたルシカは、音を立てて息を呑みこみ、慌てて立ち上がった。


 その拍子に足もとがもつれて体が傾いだ少女の細腕をルーガの力強い手が掴む。


「ああ、悪い。驚かせたみたいだな」


 声を失っている少女は、ルーガのせいではないと頭を横に振り、次いで先ほどまで息をひそめて覗いていた自分の庭を振り返った。


「あっ」


 緑の庭から上がった驚きの声は子どものものであった。


 家主であるルシカが自分の傍にいるにも拘らず、庭から声がしたその事実。その意味を瞬時に把握したルーガは、ルシカの腕を掴んだまま庭に視線を投じて不快そうに眉根を寄せた。


「こらこらぁ。お前、そこは他人様の家だとわかっているんだろうな」


 赤い野イチゴの実がなる茂みに向かって大きな声をかけると、ひょっこり小さな頭が飛び出した。


「こ、ここはまほう使いの家なんだぞ! まほう使いは双竜山に住んじゃいけないんだから、かってに入ってもいいんだもん」


 子どもらしい高い声で言い返してきた人物の顔を見ると、ルーガは夏の青空を思わせる瞳に驚きの色を隠さず声を上げた。


「あ、お前! ユルグ爺さんの孫のルーエじゃないか。ていうか、なんだ、その理屈は。何が魔法使いだこら」


 野イチゴの茂みから姿を現したのは、眉が太くどんぐり眼をした小太りの元気そのものといった少年であった。ふっくらとした頬をさらに膨らませ、唇をとがらせているところをみると、どうやら自分の非を認めぬ気であるようだった。


 ルーガは毒物監査係のユルグ老に似て頑固な少年を呆れた顔で見たあと、自分の二の腕の辺りの高さにあるルシカの頭を見下ろした。庭に現れた侵入者の身元を改めて説明しなければいけない。しかし、話を切り出そうと少し斜めから少女の顔色を窺い、驚きに息を呑んでしまった。


 ルシカはその春の泉のような優しい瞳を(かげ)らせ、胸を締め付けられるような辛い表情をしていたのだ。


「……どうした」


 いつもはリノンに無神経だの野暮天だのとなじられるほど他人に気を遣わぬルーガだが、ことルシカに関してはその対応は弱腰だった。だが、ルーガが恐る恐る少女の背中に手を添え、何をどう問えばいいのか言いあぐねていると、ルシカの方から顔を上げ、ルーガの瞳をとらえた。


「なんだ。どうした」


 ルシカは声を出すことができない。その彼女が懸命に何かを訴えていた。静かな泉が風に波立つように、優しい瞳が陽光を弾いて輝いていた。


 そんな表情を早変わりさせるルシカにまたしても説明のできない衝撃を受けながら、ルーガは少女が少年に何か言いたいのだと思い至り、ルーエ少年を手招きして呼び寄せた。


「竜星さま。あのぉ……」


 六歳のルーエは、黒竜族の長たるルーガの名を軽々しく呼んではいけないとユルグ老に言い含められているのだろう、先ほどまでの負けん気はどこへやら、今更ながら怖々歩み寄ってきた。


「ルシカ。こいつはルーエというが、お前が怒っているなら俺はそれも道理だと思う。何せ勝手にお前の庭で、野イチゴを盗み食いしていたんだからな」


 ルーガは目の前にやってきたルーエ少年の口の端についた赤い果肉を、右手の親指の腹でぐい、と拭ってやった。そして、自分の左側にいるルシカに謝れ、と鋭い視線で少年を軽く睨む。


「お、おねえさん。ごめんなさい」


 ルーエはすっかり意気消沈した様子で謝罪した。


 それを困った表情で受け止めたルシカは、ルーガの腕に軽く触れ、青年の顔を見上げた。


「なに。ここでちょっと待ってろって?」


 すぐに理解してもらえたことで嬉しくなったのか、ルシカは目を細めて微笑み頷いた。


「竜星さま」


 小屋に小走りで戻って行ったルシカの後姿を眼で追っているルーガに、下からルーエが声をかけてきた。つい少女の笑顔に見惚れていたルーガが気のない返事をすると、少年がため息交じりで言った。


「かお、赤いよ」


「……うるさい」


 目ざとい少年にそれしか言えないでいると、ルシカは間もなく戻ってきた。その白い手には、蓋をした小さな素焼の壺を持っている。


「ルシカ、それは?」


 ルーガの問いに、ルシカはにこりとして壺の蓋を開けて見せた。


「うわぁ。野イチゴの砂糖漬けだ!」


 最初に声を上げたのはルーエだった。純粋に喜びからきらきらと目を輝かせ、野イチゴと砂糖の甘い香りを思い切り鼻から吸い込んだ。


「これ、くれるの?」


 ルシカは大きく頷いた。


「ありがとう!」


 喜び勇んで家に帰って行ったルーエ少年の姿が雑木林の向こうに見えなくなると、ルシカはほんの少しだけ寂しそうな表情になった。


「悪かったな、庭を荒らしてしまって」


 ルーエの代わりにあらためて謝罪したルーガに、しかし、ルシカは怒ることはなく、なぜか前掛けに付けた小物入れからスミレ色の手巾(しゅきん)を取り出した。


 今度は何だ、と黙って見守るルーガの前で、少女は広げた手巾にふぅ、と息を吹きかけたのだ。


「おい、その布……まさか……」


 ルシカの奇妙な行動から、スミレ色の手巾の正体に心当たりを覚えたルーガの目に飛び込んできたのは、手巾に浮かび上がってきた『文字』であった。


『人に会えるのは嬉しいです。ですから気にしないでください』


「それ、妖精の髪の糸を織り込んだ手巾なのか」


 ルシカは首肯した。


 ルーガはこの世に人の指の数ほどしかないと言われる、超珍品に文字通り目を丸くした。


 そうして、ルシカ――ルシフェルカには、途方もない秘密があることを再認識したルーガであった。



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