第四十八話
双竜山からトラロック王国の地へ足を一歩踏み入れた途端、初夏のなまぬるい空気を肌で感じたルーガであったが、目の前の青年の、冷気を誘う冴えた青色の瞳に見つめられると、体感温度が下がったような気がした。
それは恐怖といった感情ではなく、心の内をさらりと撫でられたような妙な感触がし、自然と背筋が伸びてしまう、まるで故郷のユルグ老を思い出させるものだった。
「どうかされたか」
訝る言葉とは思えないほど単調な口調で問われ我に返ったルーガは、首を横に振った。
「いや、失礼。確かに俺はルーガ・レクス、黒竜族長だ。――しかし、迎えにきたとは?」
言外にその素性を疑った黒竜族長のもっともな質問に、ジェイスと名乗った青年は気分を害した様子もなく答えた。
「王立図書館薬草学部長補佐、セルジュ・ディローヌから話しは全て聞き及んでいる。ルシフェルカが随分と世話になり、感謝している。別宅ではあるが、ぜひ当家へお寄りいただきたいのだが、いかがか」
嘘のつきようもない内容に、ルーガは青年が確かにアニス伯爵家現当主であると確信し、明るい声音で率直に胸の内を明かした。
「まさかアニス伯爵御自ら迎えに来てもらえるとは思わなかった。それに、どうやって俺たちが到着する日が分かったのか教えてもらいたいな」
相手が貴族であろうと、その素性を知ったルーガの口調はくだけたものになる。隣でギルウスが困ったような表情をしたが、若き黒竜族長のそれが相手に対する好意の高さを推し量る材料であることを知っていたため、あえて何も言わないようだった。
ジェイスもルーガの口調のことは気にならなかったようだが、彼の太陽のような明るさには少々驚いたらしく、冷たい色をした瞳に温度が生まれた。
「ルーガ、あなたはセルジュとリノンから聞いた通りの人のようだ。それから質問の答えだが――まず、義妹の恩人だ。私が迎えに行くことは当然であるといえるだろう。そして、今日という日が何故分かったかというと」
ジェイスは瞳だけでなく、今度はうっすらと表情に温かさを乗せた。
「ヴァロアルスという聖名で気づくかと思うが、私の先祖には有翼人がいる。したがって、その血筋から受け継いだ異能力であなた方が来ることを感知できた」
つまり精霊が報せてくれたのだ、とジェイスは最後に言い加えた。
事情を知ったルーガはすっかり感心顔だ。ジェイスに心の距離も含めて一歩近づく。
「トラロック王国の伯爵にウォルド王国の血筋とは驚きだ。ルシカの存在を受け入れたことも頷ける。それで、別宅へ行くという話だが、ルシカには会えるだろうか」
ルシフェルカに対する好意を隠そうともしないルーガであったが、ジェイスは快く首肯した。
「旅の疲れが取れないので寝かせているが、面会はできるだろう。それよりも、少々気がかりがあって急いでいる。できればあちらで待たせている馬車の中で続きを話したい」
「何かあるのか」
無表情に近いジェイスは淡々としていたが、急ぎと聞いたルーガが真剣な面持ちになった。
馬車に乗るべく後ろを振り向きかけていたジェイスは歩を止めると、首を縦に振った。
「王立図書館からルシフェルカに会いに来る人物がいる」
「それは……」
「――ルシフェルカを被検体にしていた、医術学部長だ」
その後、アニス家別宅までの道のりには、馬に幾度も鞭打つ音と、激しく回り続ける車輪の音が鳴り響いたのは言うまでもなかった。