第四十六話
昼食後ルシフェルカは発熱がみられ、イオンが処方した薬湯を飲み眠りに落ちていた。
熱で顔を赤くした少女の呼吸が落ち着いてくると、傍で見守っていたリノンは安堵し、腰掛けから立ち上がった。
「ルーガ、遅いわね」
空気の入れ替えにと部屋の窓を開け放ち、昼食時の温かな風を取り込んで呟く。女性にしては長身で、きらめく生命力にあふれたリノンが窓辺に立つと、初夏の午後のぬるい風までもが活気を取り戻すようであった。
独り言に思えたその呟きには答える者があった。金髪の美少年・イオンだ。いつもルーガにからかわれてばかりの立場である彼は、ふんと鼻を鳴らした。
「きっと、白竜族長にしぼられているんだよ。双竜山に不法侵入した輩を勝手に逃がしたんだから。それより、伯母さんは里に戻らなくていいの? ギルウスさんもルーガに同行していて、館は主人不在でしょう」
イオンはルシフェルカの額に触れ、薬湯がきちんと効いていることに、よし、と小さくうなずいた。
見た目は普通の美少年、しかしながらその真剣な表情は一人前の医者である甥っ子に、リノンはあらためて感心していた。しかも、このアニス家別宅に来て、トラロック王国王立図書館に就学することが決まってからは、なおさら大人びてきたように思える。
「ルシカの傍にいることは、ルーガの指示でもあるわ。事態が完全に落ち着くまでは、ここにいるつもり。ジェイス様も了承済みよ」
「なるほど。王立図書館の連中が簡単にルシカさんを諦めるとは思えないしね」
難しい顔をしながら頷くイオンがあまりにも少年らしくないので、頭が良すぎるのも考えものだ、と伯母として苦笑したリノンである。
と、そこへ、ルシフェルカの義兄であるレスリィが顔を出した。いつもの明るい笑顔ではなく、警戒心をあらわにした硬い表情だ。
レスリィは眠っているルシフェルカを起こさぬよう声をひそめた。
「王立図書館の医術学部長が来ている。ルシフェルカに直接会うといって聞かない」
「そんな……突然、しかもジェイス様がいないときに来るなんて! ルーガたちと話し合って、ルシカを解放すると決めたはずでは」
眉間にしわを寄せて怒りの声を上げたリノンは、慌ててルシフェルカが眠っていることを確かめた。幸い、少女が目を覚ました様子はない。
親友である少女のこととなると、つい熱くなってしまうリノンに、彼女の甥が静かに声をかけた。
「落ち着いて、伯母さん。とにかく、今のルシカさんに面会は無理なのだから、会わせるわけにはいかないよ。レスリィ様、ジェイス様はいつ戻られるのですか」
十二歳という年齢を超えた菫色の理知的な瞳を受けたレスリィは、自身もリノンと同じく焦燥感に駆られていたことを内心で認め、ふと上着の襟を正し背筋を伸ばした。
「兄さんは双竜山の入山口に人を迎えに行ったんだ。予定では今日の昼過ぎ――つまり、そろそろ戻ってもいいはずだ」
「そうですか。では、医術学部長には待っていただくようお願いしましょう。あの、レスリィ様、ひとつお願いがあるんですが……」
イオンはルシフェルカの傍を離れ、すらりと背の高い青年の前に立つと、その柔和な表情の顔を見上げた。しかし、いつもの自信家の彼らしくなく、少々発言を躊躇している。
「どうしたんだい、イオン。言ってごらん」
そのレスリィの声音が、どんな時も優しいルシフェルカを彷彿させたことに勇気をもらったのか、イオンは再び口を開いた。
「実は、医術学部長に俺を会わせていただきたいんです」
この発言に驚くかと思われたリノンは意外にも静かな面持ちをしており、それを見たレスリィは即座に少年が次に言わんとすることを予測したのだが、念のため問うてみた。
「イオン……。何故なのか訊いてもいいかい?」
もちろん、と、イオンは金色の髪を揺らして肯いた。
「ご存じだと思いますが、俺は王立図書館の医術学部に就学することが決まっています。でも、昼食前にルシカさんと話していて自分の気持ちに気づいたんです。俺が探究したいのは薬草学だということに」
偽りない素直な気持ちを打ち明けたのであろうイオンは瞳を輝かせていた。そこには大人に強要されているといった悲愴な色は微塵もなく、完全に己の意思を以って決断しているということが伝わってくる。
「そうか。では、イオンは薬草学部に入るため、医術学部長に断りに行きたいというわけだね」
「はい、お願いします。その……やはり許してもらえないでしょうか?」
最後は幼さを見せたイオンに、子どもが大好きなレスリィは嬉しそうに口角を引き上げた。
「まさか。学ぶのはきみだ。子どもだからといって医術学部長に面会してはいけないということはないよ。おそらく兄さんでも同じことを言うと思う。では早速――」
レスリィがそう言いかけた時であった。寝台から、か細い声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「わ……たし、も、行く」
「ルシカ。起こしてしまってごめんなさい。だめよ、寝ていないと」
起き上がろうとしたルシフェルカの傍にリノンが慌てて駆け寄り、寝かしつけようとしたが、熱で顔を赤くした少女の懇願するような視線にいつものごとく負けてしまった。
「ルシカ、無理をしてはいけないよ。もうお前は王立図書館とは関係なくなったのだからね。何も心配することはない、あとは兄さんたちに任せておくれ」
リノンに半身を起してもらった妹をレスリィがさとそうとしたのだが、存外頑固な少女は譲らなかった。
「私も自分のことは自分で決着をつけるべきでしょう。お願い、レスリィ兄様」
「ルシカ……」
優しい水色の瞳が潤んでいるのを見て、誰がその願いを拒むことができるであろうか。
答えはすでに決まっていた――。
「忘れていたよ、アニス家の誰一人としてお前に敵わないんだった」
レスリィの大きなため息がこぼれたが、温かな陽光に満たされた部屋には久方ぶりに笑い声が戻ってきたのであった。