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第四十五話

 懐かしい我が家に戻ってから、早くも十日が過ぎていた。

 双竜山の山裾に建てられたアニス伯爵家別宅は、事実上ルシフェルカのための館であった。北の大国ウォルド王国にある『神々の森』で拾われた少女は、言葉を解さぬ赤子の自己防衛本能とも言うべき異能力を当時より発揮していた。少しずつ言葉を話すようになってからは、さらにその力が増幅され、本宅では暮らすことができなかったのである。

 だが、周囲の生気をもらい受けるという力は本人にすら上手く制御できず、ルシフェルカの命を救うために人里離れた別宅で暮らすようにしたものの、それでも異能力はとどまることを知らず、前アニス家当主が、王立図書館に協力を求めるという苦渋の決断を下したのであった。

 ルシフェルカは、出て行った時と変わらない自室の寝台で安心して体を休めている間中、今は亡き義父であるアニス伯爵や、二人の義兄らとの思い出、そして王立図書館でセルジュと過ごした日々に思いを馳せては、そのあとにルーガを思い出してため息をついていた。

 と、昼前の投薬時間であると、イオンが部屋に訪れた。

「ルシカさん、やっぱり自宅が一番のようですね。顔色が良いです」

 寝台脇に設けられた物置台に投薬のための道具と液体の入った瓶を手際よく並べ、白い右腕を自ら出したルシフェルカに美しい笑みを見せた。そして、縫い針よりも細く短い投薬用の針を薬液で消毒すると、すまなそうに少女の白い細腕に差し入れた。針にはブラン・オールから作られた薬を入れた瓶が繋がれており、瓶を斜めに傾けると、体に薬が入っていくようになっていた。

「針を刺したところが痛くないですか? 腕を交互に替えてはいますが……」

 イオンらしい気づかいに、ルシフェルカは大丈夫、と微笑んだ。

「王立図書館にいた時、セルジュもよくそうやって訊いてくれたわ。でも、あの頃使っていた薬は炎症止めで副作用が強かったけれど、今は元気になる薬だから平気よ」

「そう言ってもらえると嬉しいです」

 ルシフェルカがセルジュについて気さくに話すので、当初、王立図書館員だと警戒心をあらわにしていたイオンも、その印象が変化したようであった。

「ねぇ、イオン」

 投薬はやや時間がかかるため、その間イオンは付ききりである。いつもは眠ってしまうルシフェルカだが、今日は珍しく話を続けた。二人きりの今しか訊くことのできないことだ。

 イオンの菫色の宝石のような瞳が、優しくルシフェルカに向けられた。それを眩しそうに見つめると、少女は静かに切り出した。

「あのね、昨日、ジェイス兄様が報せてくれたのだけれど、王立図書館は、もう私を被検体として扱うことはないんですって」

 大声は上げなかったものの、イオンの表情が寝耳に水とばかりに驚愕のそれになっていった。

「あの、それって」

「私が王立図書館に出向いて、きちんと話さなければいけなかったのだけれど、お兄様やセルジュ、それにここにはいないけれど、ルーガが、私の体の負担になるからって……」

 また皆に迷惑をかけてしまった、とルシフェルカが付け加えると、驚いていたイオンは慌てて頭を横に振って力強く否定した。今のルシフェルカには、歩いて五日以上かかる王立図書館に行って、気難しい学者相手に説得することなど無茶なのだ。それに、誰ひとりとして負担に感じながら行動した者はいないことは分かりきっている。

「条件は、双竜山に王立図書館員が不法侵入した今回の件を穏便に収めること。それから、セルジュが、私の能力について無害であることを証言してくれたことも大きいわ。あとはね……」

 そこで、ルシフェルカは突然涙ぐんで声を詰まらせた。

「どっ、どうしたんですか、あの、俺、何か悪いことでも――」

 普段は大人顔負けの知識と弁舌を披露するイオンも、少女の涙には慌てざるを得なかった。しかも投薬中であるため、動くこともできず、助け船を求めて無意味であるが周囲を見回すその様は、まさに見ものであった。

「ちがうの。イオン、あなた、王立図書館に就学するのでしょう」

 今のルシフェルカに、笑う余裕はなく、怯えたようなまなざしでイオンを凝視している。

 そうして、切れてしまいそうな声で問うた。

「あなたが就学することも条件に入っている――違う?」

 イオンが絶句していたのは、瞬きを数回する程度で、その場の緊張感はすぐに笑いにとって代わられた。

「ルシカさん! 何を言い出すのかと思いましたよ」

 繊細な針を扱っている少年は、笑いで手元に震えが伝わらぬよう、必死になっている。

「笑い事じゃないわ。もし本当なら、それだけはやめて。私はきちんと自分で話しをしに行くから。あなたは黒竜族の里にとってだけではなくて、双竜山に必要な人だわ。私なんかのために未来を決めてはいけない」

 本気でイオンを案じているルシフェルカに、少年はようやく笑いをおさめ、一息ついたあとなぜか嬉しそうな表情になった。と同時にブラン・オールの薬液が入った瓶も空になったので、針を抜きながら話しだした。

「ルシカさん。たしかに、この間、セルジュ・ディローヌから就学の勧誘を受けましたし、それに応じることにしました。でも、俺、今初めてルシカさんが王立図書館から解放されたことを聞きました。あのセルジュって人、ひと言もあなたのことを引き合いに出したりしませんでしたよ」

 少年の言葉を信用しきっていないのか、ルシフェルカはまだ不安そうにしている。

「嘘なんてついていませんよ。俺、薬草学を極めたいんです。今、すごく注目しているものがあって、それを探し出して研究します。それがうまくいけば、黒竜族の里の皆の役にも立つし」

「本当に本当?」

「本当に本当です。俺、自慢じゃないですけど、お世辞と嘘は言えないんですよ」

 イオンが腕をそっと掴んで掛け布団の下に入れてやると、ルシフェルカはやっとひと心地ついて呟いた。

「決心して出てきたのに、結局何もできなかった。なんだか自分が情けないわ」

「何を言っているんですか。ルシカさんには目に見えないものをたくさんもらっているんですよ。元気に動けないルシカさんは、元気に動ける俺たちが欲しくても手に入れられなかったものをくれたんです。――感謝しています」

「イオン……あなたは命の恩人だわ。私のほうこそ、感謝しきれないのに」

 ルシフェルカの春の泉色の瞳に吸い込まれそうになったイオンは、ふいに泣きそうになって慌てて目をそらした。

 目の前の優しい少女を心から想っていたから、必死になって薬草について学んだ。生まれながらに恵まれた才能を持てあましていた少年に、学ぶ意義を与えてくれたのだ。

 それが、今後の彼の人生にとってどれだけ有用な宝になったことか。

 声が震えそうになっていたイオンは、言葉の代りに心をこめた笑顔を向けた。

 すると、ルシフェルカは再び命の恩人である少年に礼を言った。

「本当にありがとう、イオン」

 少年の真意はともかく、真心だけは十分に受け取ったルシフェルカの、偽りない言葉であった。

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