第四十四話
双竜山を西側へ下山すると、初夏本来の温かさを肌で実感することができた。
大気はやや乾いているが、風が吹けば額の汗が冷やされ、爽快な気分だ。
同じ時間が流れているはずの世界でも、やや涼しい双竜山と比較し、リノンに背負われたルシフェルカはそっと息をついた。
体力の回復を待たずにトラロック王国に戻ることになったルシフェルカは、発熱で火照った額と頬を撫でてくれる風にうっとりと目を閉じた。
西の大国トラロック王国。その中枢である王立図書館へ向かい、自分はもう被検体にはならないことを自らの口で宣言するため、ルシフェルカは居心地の良い黒竜族の里を出てきたのだった。
同行してくれたのは、ルシフェルカを背負うリノン、そして体調管理をしてくれるイオンの二人だ。セルジュは先に出発し、ルシフェルカの義兄二人に事の次第を報告しているはずであった。
ルシフェルカたち一行は、大幅な遅れもなく第一の目的地である山裾のアニス家別宅へ到着した。今はまだ緑の葉をつけた銀杏の木が玄関へと導く小道は、トラロック王国らしく整然と敷き詰められた石畳となっており、その両脇にはよく手入れされた花壇が初夏の花々を色とりどりに咲かせていた。
「ルシカ、そんなに長く離れていたわけではないけれど、懐かしいわね」
ルシフェルカを背負ったリノンが優しく笑った。
「お兄様たちは元気かしら……」
強い倦怠感でぐったりとしながら呟くルシフェルカを元気づけるように、イオンが前方を指差しながら声を弾ませた。
「ルシカさん、顔を上げてみてください。決心して下山したかいがあったみたいですよ」
イオンの言葉にリノンも頷いたので、ルシフェルカはのろのろと顔を上げた。
そうして見えたのは、穏やかな土色に近い石を敷き詰めた小道を走ってくる青年であった。
青年はすらりと背が高く均整のとれた体型をしており、こざっぱりと短くした柔らかな栗色の髪が、ルシフェルカとまるで本当の兄妹のように似ていた。服装は伯爵家子息らしく真白い絹の中着の上に深みのある葡萄酒色をした襟付きの上着を着ており、革の長靴を履いた長い脚が駿馬を彷彿させる、申し分のない外見であった。
その青年を見たルシフェルカは、大きく見開いた目にみるみるうちに大粒の涙を湛えたのだった。
「レスリィ兄様……!」
「ルシカ!」
リノンの背中から覗く小顔のルシフェルカを認識した青年も、大きな声で少女の名を呼んだ。
青年――ルシフェルカの義兄のうちの一人であるレスリィ・アニスは俊足で、さほど待たずにルシフェルカ達のもとへ駆け寄ってきていた。そして、息も切らせていない爽やかさと輝く笑顔でリノンとイオンに礼を述べると、待ちきれないといったていで、背負われたルシフェルカに手を伸ばした。
「声……声が出せるようになったんだね。ああ、事情はセルジュから聞いたよ。僕は待ちきれなくて、ジェイス兄さんよりひと足先に早駆けしてきたんだ。どれ、ここから先は僕がルシカを連れて行こう」
本当の肉親のように可愛がってきた義妹との再会に興奮を隠しもしない、おおらかな性格のアニス家の次男は、柔らかな栗色の髪を弾ませてルシフェルカをリノンの背中から譲り受けた。
レスリィは口の端を目一杯に引き上げて破願一笑すると、腕の中のルシフェルカに頬ずりし、歩きだした。傍から見れば驚く大仰な可愛がりぶりも、リノンとイオンにとっては以前から見慣れたもので、ほほえましいものであった。
ルシフェルカは、七つ年の離れた兄の顔を見上げながら、嬉しくてその胸にしがみついた。
優しいレスリィ、懐かしい別宅、そして今となっては心地好ささえ感じる空気。
「おかえり、ルシフェルカ」
レスリィの囁き声に、ルシフェルカは目じりから涙がこぼれ落ちるのを感じながら頷いた。
辛い現実から逃げだしたが、やはり、帰ってきてよかったのだ――と。