第三十八話
瞼が重くてなかなか目を開くことができない。しかし、まばゆい光、癒しをもたらす清水が流れる音、そして全てを浄化するかのような緑の濃い香りを強く感じることができた。
意識を取り戻したルシフェルカは、仰向けに横たわったまま、大きく深呼吸し、自分に何が起こったのか鮮明に思い出した。そうして、全身が思うように動かず、視力も未だ戻っていない理由に得心がいったところで、遠くから誰かが争う音が耳に聞こえてきたのだった。
その音は、剣の鋼鉄を弾くような鋭い高音のものではなく、鈍くて重い、そう、生き物の体と体がぶつかり合う音だった。
『誰……ルーガ? お願い、教えて……目が、目が見えないの』
心の中で助けを求めたルシフェルカは、必死に目を開こうとしたが、思うようにいかなかった。体は重石を乗せられたように自由が利かず、声を発することもままならない。
そんな状況を歯がゆく思い、苛立ちの呻き声を上げた時だった。ふと、水の音がする右側に温かな風が触れたかと思うと、聞き覚えのない、しかし、なめらかな青年の声が降ってきた。
『黒竜族長の想い人よ、私があなたの『眼』になろう』
そう申し出たのは、ルーガに道案内をした異界の青年であった。新緑色が瑞々しい人ならざる瞳に、わずかながら労わりの色が見えたが、それは大変珍しいことであり、妖精や精霊を知るものならば、彼らにそういう感情を生じさせる少女に驚くことであろう。
「だ……れ……」
目を閉じたまま、ルシフェルカは声にならない息を吐き出してやっとの思いで姿の見えぬ、青年であろう人物に問うた。
『私は風の眷族。黒竜族長には、ある約束をしてもらったのだけれど、よもや彼の想い人があなたとは思わなかった』
ルシフェルカは、自分のことを知っているかのような口ぶりの青年を不思議に思い、やんわりと眉をしかめた。
その心情を見抜いたのか、風の青年はくすりと笑い、風の者の気性らしい奔放そうな軽やかな口調で続けた。
『約束を取り消すことはできないが、あなたが関わっているのだから、少々おまけが必要だ。これはそのおまけだと思ってもらって構わない。いいかい』
そう言うと、風の青年はルシフェルカの額に手のひらを乗せた。そして、その手をそのまま下へ動かし、瞼を撫でていったのだった。
『見える……それに、体が少し楽になった』
体の感覚が変化したのと同時に、風の青年の気配が消えた。
謎だらけではあったが、ルシフェルカはさっそく体の向きを変え、這うようにして体を起こした。
先ほどまではまったく開くことができなかった瞼を押し上げると、遠くで誰かが争う姿が見えてきた。
「ルーガ」
いまだ血の味が残る咽喉のあたりが気持ち悪かったが、金色の髪の青年が大きな黒い獣――ルーエの体に咬みついたあの黒獅子と同じ種だ――と戦っている。しかも、苦戦どころか優勢であるのは明らかで、黒獅子は強者を前に今にも戦意を失いそうな目をしていた。
「ルーガ……ルーガ」
風の青年のおかげなのだろう、ふらつきはあったが、二本足で立つことができ、両手で空気をかき分けながら竜のごとく猛々しいルーガを目指して歩き続けた。
ルシフェルカは、求める青年の姿を指先のかなたに見ながら、切なさに胸が張り裂けそうになった。
優勢とはいえ、無傷のはずはない。人間の体の肉を容易に貫く太い牙と、獲物を捕らえる鋼のような鋭い爪を持った獣なのだ。もう、自分のために傷ついてほしくなかった。
だから、ルシフェルカは前進しながらも体中から絞り出すように叫んだ。
何ものにも替え難いと思い、愛してしまった青年の名前を――。