第三話
翌朝も晴天であったが、外の草木や家屋の軒から水滴がゆっくりと滴っているところをみると、どうやら夜中に恵みの雨が降ったようであった。
双竜山は別名を「薬草山」ともいうほど、あらゆる薬草に恵まれた山である。普通ならば風土や気候などが関係し、それに合う薬草のみが生えるものだが、双竜山は神に選ばれたかのごとく植物にとって楽園なのであった。
「おはよう、ルーガ。今日はトラロックとウォルドから薬草の卸商が来る日だ。商品の一覧にお前の承認がいる。昨日は白竜族長の訪問で見ている暇がなかっただろう」
開け放った居間の窓から、湿り気のある朝の空気を味わっていたルーガに声をかけたのは、左竜ことギルウスであった。ギルウスは昼夜問わずいつも同じ生真面目な調子で、疲れを見せないことには感心するが、朝の爽やかさに欠けるところが難点な男だった。
そのギルウスが、黒竜族の里の財源でもある薬草名が隙間なく書かれた紙束をルーガに手渡した。
「どれ……。ああ、相変わらずトラロック王国は研究向けの薬草で、ウォルド王国は医療向けね。今回の毒物監査係はユルグ爺さんと――イオン・カエルラ? あんなお子様に務まるのか」
毒薬になる薬草は、必ず精製されて双竜山の外部へ提供される。万が一、その薬草を増やされては危険だからだ。そして、悪用を防ぐために識者の監査が必要とされており、黒竜族の里でその大役を任されている者は数少ない。
ルーガは軽く眼をみはった後、意地悪な笑みを口元に浮かべてギルウスを見た。
「イオンはそんなに優秀か」
イオン・カエルラとは、右竜・リノンの弟の子ども、つまり、甥にあたる十二歳の少年であった。眉目秀麗な上に、齢十にも届かぬうちからその明晰な頭脳が評判となり、今では西の大国はトラロック王国の王立図書館から誘いを受けているとの噂が里に広がっていた。
「今回は監査長ユルグ殿の助手として参加させたが、おそらくもう一人でも大丈夫だろう。あの子の知識は本物だ。医学、薬学ともに一流といってもいい。その証拠に、つい数日前もトラロック王国の王立図書館から使者が訪ねてきたとリノンが言っていた」
「へぇ、あの学問の都からねぇ。そりゃすごいな」
感心半分、興味半分といった表情で、ルーガは窓辺から離れた。紙束をギルウスに押し返し、夏の青空を思わせる濃い青色の瞳を光らせて言った。
「あいつがどんな道を選ぶか楽しみだな」
「からかいがいのある子どもだからって、あまりいじめるなよ。将来有望な若人だからな」
「出る杭は、その強度を確認するために一度打ってみたくなるんだよ」
ギルウスがいつものごとく脱力したように太い眉をはの字にすると、ルーガは切れ長の目をさらに細めて笑ったのだった。
***
黒竜族の里の、集落からはずれた場所にある山小屋の煙突からは白い煙が立ちのぼっていた。朝食の時間はとうに過ぎているが、住人がかまどの火を使っているのだ。しかし、太陽が空の頂に達する時分には少し早い。黒竜族の民の多くは、この時間には洗濯や畑の手入れなどをしているので、珍しいと言えるだろう。
「ルシカ、昨日から何も口にしていないでしょう。もうすぐこの汁物ができるから、イオンに手当てを先にしてもらってちょうだい」
そう言って湯気をくゆらせたかまどの鍋から床に臥した淡い栗色の髪の少女を振り返ったのは、黒竜族長の補佐である右竜・リノンである。
山小屋は狭く、調理場も寝床も食卓も一つの部屋にあった。一人暮らしには十分と言えるが、今は背の高いリノンともう一人がいたので、少々窮屈に感じられる。
そのもう一人は、頃合いよく山小屋の奥にある物置から顔を出した。
それは、少女と見紛うばかりの見目麗しい美少年であった。耳朶の辺りで切り揃えられた絹糸のような金髪は黒竜族特有のものであるが、その肌の色は白く、彼が人と黒竜族との混血であることが窺い知れる。
少年は菫色の貴石のような瞳に優しい光を瞬かせた。
「ルシカさん、伯母さんの言うとおり、首の手当てをさせて下さい」
彼の名はイオン・カエルラといい、リノンの甥である。十二歳という少年ではあるが、里の薬草監査という大役もこなす、稀代の天才少年である。医学の心得もあるため、伯母であるリノンに頼まれてルシカの体の具合を診に訪れているのだった。
寝床で上半身を起こしたルシカは、昨日熱を出し、今朝やっと落ち着きを取り戻したところだった。一晩中リノンが傍につき、イオンが調合した薬を飲んだおかげである。
ルシカはやや疲労感のある面持ちであったが、イオンに感謝の笑みを浮かべた。そうして、首の処置がしやすいように肩まで夜着を下ろし、長い髪を簡単にまとめ上げると、頼むとばかりに深く頭を下げた。
「では、消毒をします。薬が冷たくてすみません」
イオンは、何度か処置をしているのでルシカの白い素肌を見ているのだが、やはり少年らしく恥ずかしさが消えないのだろう。ほんの少し頬を赤らめながら、薄緑色の薬液が入った桶に浸してあった清潔な布を軽く絞ってルシカの首を優しく拭きとり始めた。
ルシカは、布が肌に当たると冷たさに肩を少し竦めたが、それもいつも一度きりで、忍耐強く少年の処置に身を任せていた。
と、山小屋の扉が突如として開かれたのはそんな時であった。
「黒竜族長ルーガ・レクスだ。邪魔をするが、リノンを知らな――」
突拍子もなく現れた来訪者は、ぶしつけな物言いで扉を開けたまでは良かったが、目の前にいた面子を見て途中で言葉を失った。
「……っ」
はじめに反応したのは、もちろんルシカだった。肩まで夜着を下ろしていたので、慌てて体を縮めて俯いた。次に、そんな少女を庇うようにイオンが闖入者であるルーガを向いて立ちあがる。
そして最後は――。
「この……」
一瞬あっけにとられたリノンは、やがてかまどを離れてゆっくりとルーガに歩み寄った。
その背中から黒い瘴気でも立ち上っているかのような錯覚を引き起こすほどリノンの形相は禍禍しく、さすがのルーガも己の失態を悟ってしまった。
「顔、貸してもらいましょうか」
リノンはわざとらしく口の端を吊り上げて笑うと、顎で外へ出るよう指図した。
風のように現れた黒竜族長と、その補佐たる右竜が外の光の中へ消えていくと、扉は静かに閉められたのだった。
いつの間にか、太陽は青空の一番高い場所で相も変わらず輝いていた。