第二十九話
ルーエが西の大国が生み出した猛獣の標的になった瞬間、ルシフェルカの稀有なその感覚に警告が発せられた。大地と風の精霊が危険を報せてくれたのだ。
しかし、気づいた時はすでに遅く、幼い少年はちょうど腹部に牙を立てられぐったりとしていた。よく見れば黒獅子の屈強そうな顎から赤い血が滴り落ち、地面を黒く染めていた。
ルシフェルカとは黒獅子を挟んで反対側にいたイオンが、若干震えた声音で呟いた。
「いけない、あの出血量は……内臓まで牙が達している」
黒獅子はルシフェルカとユルグのほうを向いていたため、イオンが確認できたのはその血だまりだけであったが、正面から見ている者らの見解と違わなかった。
「おお……ルーエ。何故、主を伴わずこのような獣がいるのだ」
ユルグは突然の悲劇に自問を繰り返した。その血の気を失った顔にいたたまれなくなったルシフェルカは、早々に意を決したのだった。
「イオン、ユルグさん――さがっていてください」
私がルーエを助ける。いいえ、今は私しか助けることができない。だから、私がやる。
背筋に滲む冷や汗と、ますます速くなる鼓動を深呼吸で無理やりねじ伏せ、ルシフェルカは声高らかに黒獅子に言葉を発した。
「我が声を聴け、そしてその命我に与えよ」
一歩、また一歩と、ルシフェルカはこわばる足を黒獅子へと伸ばす。
すると、先に異変があったのはイオンとユルグの二人にであった。
「力が抜ける……。だめだよ、ルシカさん、力を使ってはいけない」
貧血を起こしたかのように足元がおぼつかなくなったイオンは、咄嗟にその場で片膝をつき、転倒を免れた。ルシフェルカがしようとしていることを察してしまい、やめさせようと声をかけるが、それで立ち止まるような少女ではないことをよく知っていただけに、それ以上の言葉を見つけることができず歯を食いしばるしかなかった。
「ルシカさん、おやめなさい。たとえルーエのためとはいえ、あなたの身を犠牲にしてはいけない」
ルーガから話を聞いただけでルシフェルカの能力の実態を知らぬユルグが、ただならぬものを感じたのかそう声をかけた。しかし、イオンと同じくその場にしゃがみ込んでしまい、少女に駆け寄ることすらできなかった。
「二人ともありがとう。でも大丈夫」
ルシフェルカは黒獅子と火花を散らすかのように睨み合いながら、さらに一歩前へ出た。
「今なら少し力を加減できそうだし、この双竜山の気はとても優しいものだから」
口から出まかせではなかった。実際に、これまでの療養の甲斐あってか、思うように周囲から生気を吸収することができた。それは、ルシフェルカの体が立ち直りつつあり、余裕ができていた証拠である。しかし、完璧に加減する自信がなかったとおり、イオンとユルグにも負担をかけてしまっていた。だから離れていてほしかったのだ。
一刻も早く黒獅子からルーエを開放してやらなければ命にかかわると、目の前に黒々と広がっていく血だまりが焦燥感をあおった。
ルシフェルカは、力の加減をできるだけ精密にするため、必死に言葉にした。
「黒き獅子よ、その命我に与え眠れ」
標的の名を呼び、命令を下す。それを数回繰り返した。
すると、黒い猛獣に徐々に変化が表れた。危険なほど鋭い光を発していた金色の瞳が揺れ、瞼が重そうに閉じていったのだ。そうして、次にイオンらがそうであったように四肢から力が抜けていっているのか、必死に踏ん張るそぶりを見せたのもつかの間、少年の重みに耐えきれなくなった下顎が落ち、小さな唸り声を上げながらその場に重そうな音を立てて倒れてしまった。
「ルーエ!」
獣が動けなくなったことを確信すると、声を抑えることもできず、ルシフェルカは少年の名を叫びながら駆けだした。
「ルーエ、ルーエ。目を開けて、すぐに……すぐに……」
黒獅子の口から落とされ、うつ伏せに倒れていた少年を仰向かせたルシフェルカは、その土気色の顔を見て言葉を失った。
――少年は間もなく息絶えようとしていたのだった。