第二話
冬は峠を越したとはいえ、双竜山の夜はまだまだ寒い。火の精霊の恩恵を受けながら温めた蜂蜜入り葡萄酒をいただくことは、大人にとって夜のささやかな癒しのひと時だ。
「白竜族長はお前にたいそうご満足されていたご様子だったな、ルーガ」
黒竜族長の館――現在はルーガの所有物となった建物だが――に来客があったその晩のことだった。居間の暖炉の火に薪をくべながら穏やかな口調で言ったのは、鍛え上げられた戦士のように体の大きな男であった。太い薪をやすやすと掴む男の手は黒竜族らしく褐色で、少し灰色がかった金髪は短く刈り込まれている。
「思い出すと背中が痒くなるからやめてくれ。それよりもお前だ」
男の言葉に照れ隠しのような苦笑とともに応えたのは、若干二十五歳の若き黒竜族長ルーガだ。布張りの長椅子ですらりと長い脚を伸ばすその様はあまりにも決まりすぎている。
「接客上手な左竜様のこともお褒めいただいたぞ、ギルウス。黒竜族長として自分の片腕を褒められることはこの上ない名誉だよ」
ルーガは己の片腕の一人である左竜・ギルウスに、冗談ともつかない口調で言った。今度は、薪をくべ終えたギルウスがルーガを振り返り、困惑の表情を浮かべた。
「右竜・リノン様の美貌と腕っ節の評判についても褒められたが、そのことは今は内緒にしておこう。いざという時の切り札になる」
ルーガはいたずらな子どものように白い歯をのぞかせて笑った。かなりの頻度でリノンに私生活の指導を受けているため、彼女を懐柔させる話題を備蓄しておかねばならないのだ。
黒竜族の長は世襲制ではなく、代々風の精霊を従えることができる者が後を継ぐことになっている。そして、新たに双竜山の風の精霊に選ばれたのは、輝くばかりの金色の髪と端正な顔立ちをした若い青年――ルーガ・レクスその人であった。
ルーガで一体何代目になるのか、黒竜族の歴史はその長の数を数えたりはしないのが特徴で、いかに人々の中にその名が浸透したかで後世に名を残すのだ。その点、ルーガはすでに『竜星』という異名をつけられ、里の人々に絶大な支持を受けていた。
「右竜といえば、リノンはどこへ行ったんだ。白竜族長のオヤジが帰ってから見かけないな」
蜂蜜入り葡萄酒を飲み干し、空になった杯の中をふと覗いたルーガは、思い出したようにギルウスに問うた。
「ああ、友人が体調を崩したので見舞いに行くと言っていたが」
「もしかして、ルシフェルカとかいう口のきけない女か」
ギルウスは首肯した。
「へぇ。大事な友人だと言っていた通りなんだな。そう言えばあの女の肌の白さ、白竜族長が怖い顔して言っていた『白い悪魔』もあんな感じなのかねぇ」
ルーガは今朝初めて出会った山小屋の女の顔を思い浮かべていた。
白竜族長との顔合わせが面倒で逃げ出し、なるべくひと気のない方向へ行った際、偶然あの山小屋にたどりついた。そこで草花に水やりをしていたルシフェルカを見かけたのだ。
あの時、声をかけるまで少女が自分に気づかずにいたことを少し感謝しているルーガであった。
山羊の乳のようになめらかな白さの肌。栗色の柔らかそうな長い髪。そして、草花を見る温かく穏やかなまなざし。
すべてが一瞬にしてルーガの心に衝撃を与え、得体の知れぬ強い衝動を引き起こした。
その正体は未だはっきりと認識できずにいる。
「ルーガ」
面白そうな口調のルーガにため息をついたギルウスが、空の盃を回収しながら釘を刺した。
「その『白い悪魔』は、トラロック王国とウォルド王国の両国から危険視されている存在だ。現在消息は不明だが、双竜山に潜んでいないとも限らない。軽視できないぞ」
「はいはい。心得ていますよ」
「それと、『白い』すなわち『白い肌の女』かどうか分からないのだからな。想像で姿を決めつけないでおけ」
ギルウスはルーガに従う者であり、そして何より頼れる兄にも似た存在である。その彼が生真面目な表情で言う言葉を、ルーガは今度は茶化すことなく受け入れたのだが、最後に左竜のあきれ顔が見たくなって付け加えた。
「もし『白い悪魔』が女なら、俺の嫁にしてやるよ」
ギルウスが大きなため息をついたの言うまでもなかった。