第十九話
ルシフェルカを肩に担ぐようにして抱きかかえ、突然館を出て行ったルーガは、双竜山の緑の道を無言で歩き続けた。どこへ向かっているのか、なぜ連れ出されたのかはまだ謎である。
黒竜族長の、つまりはルーガの館を出たあと、しばらく我慢をしていた漏れ出でる己の能力を堪えることが苦しくなったルシフェルカは、ルーガに抱きかかえられたまま、思い余ってもがくように青年の背中を叩いた。
そこでやっと歩を止めたルーガがルシフェルカを丁重に降ろすと、少女は青年が右手に掴んでいた呪具を半ば強引に奪い返し、急ぎ首に巻きつけ留め具を締めた。
「悪かった、ルシカ。苦しかったよな」
地面に座り込み、両手をついて荒い呼吸を繰り返す少女の小さな背中にそっと手を当てながら謝罪したルーガは、いつも右竜・リノンに咎められる要因の一つである、身勝手な勢いで行動を起こす癖を反省した。
ルシフェルカは息を整えながら頭を横に振り、言霊を吹き付け文字が浮かんだ手巾をルーガに見せた。
『驚いたけれど、大丈夫。それより、どこへ行くの』
春の泉を彷彿させる優しい水色の瞳をまっすぐに向けられ、ルーガは安堵とルシフェルカへの温かい想いを再認識した。そして、少女に手を差しのべて立ち上がらせると、華奢な両肩に力強く手をかけた。
「ルシカに会わせたい人がいるんだ」
そう言って、ルーガがルシフェルカを連れて行ったのは、毒物監査係長を務める黒竜族の重鎮ともいえるユルグ老の家であった。
「突然どうなされたのですか、ルーガ様」
朝食はすでに終えていたものの、突然現れた黒竜族長の青年に、さすがの鬼の監査係長も面食らった様子であった。ユルグの長男の嫁――ルーエ少年の母親であるが――は、金髪の美青年族長に頬を赤らめつつ、慌てて茶の支度をし始めた。
予期せぬ訪問者はユルグ老宅の小さな居間に通された。黒竜族の民家ではごく普通の広さをした居間は、これもごく普通の背もたれのついた二人掛けの木の椅子が、浮き彫りの施された楕円形の茶卓を挟んで向かい合わせに設置されている。部屋は掃除が行き届いており、火の消えた暖炉の上に飾られた花の香が朝の清々しい空気をより清浄にしていた。
「たいしたおもてなしはできませぬが、お許しください」
ユルグ老は嫁が淹れた紅茶を二人に勧めた。その琥珀色の温かい茶からは林檎の甘酸っぱい香りが漂い、ルシフェルカなどは嬉しさに瞳を輝かせた。
「こちらこそ、突然の訪問をお詫びしなければ。ですが、ユルグ老にはぜひ彼女を紹介しておきたいのです」
紅茶を一口飲み賛辞を述べたあと、ルーガはそう言ってルシフェルカとユルグ双方にお互いを紹介した。
「おお、あなたがブラン・オールを発見したお方でしたか! お目にかかりたいと思っておったのです。しかし、お身体の具合が良くないとのことでしたが、もうよろしいのですか? たしか……」
言いかけたユルグは、いや、と己の言動を改めた。
「もはや余計なことは訊きますまい。今日とは申しませぬが、どうかブラン・オールを見つけた場所をお教え願いたい」
眉間に深い皺を刻んだ一見して厳しい容貌のユルグが、精一杯優しげな好好爺ぶりを発揮して少女に頼むのを見て、ルーガは吹き出しそうになるのを堪えた。
右隣りで小さく肩を震わせるルーガに困惑したルシフェルカは、ユルグに申し訳ないと思ったのか、何度も頷いてみせた。そうして、いつまでも笑いを収めない青年の腕を軽く叩いた。
「ルーガ様、やけに楽しそうなご様子。そこまでこのユルグに会いたかったというわけでもありますまい」
ユルグ老は咳払いをしてうすら笑いを浮かべているルーガを嫌そうに見た。
「ああ、これは失礼。ブラン・オールの件もありますが、彼女をあなたに早く紹介しておきたくて、つい勢いで来てしまいました」
ルーガの夏の空のように澄んだ青色の瞳が迷いなくユルグ老をとらえた。
「ほう。『彼女』をね」
皺は多いが、鋭い眼光に未だ衰えがないユルグ老は、皆まで語らずともルーガの言いたいことを理解したようであった。
用件は済んだと、早々にいとまを請うことにした黒竜族長と連れの少女二人が帰ろうとすると、ユルグは孫の少年ルーエが喜んでルシフェルカを玄関まで案内をしている間に、ルーガだけ呼び止めた。
「ルーガ様。彼女――ルシフェルカさんは色々問題を抱えておられるようですな。あの首に着けているのは呪具でしょう」
感情が読み取れぬ表情で淡々と言うユルグに、ルーガは素直に頷いた。そして自信に満ちた声で力強く言ったのだ。
「それでも、彼女は俺の守りたい女性です――まだ片想いですが。だから先んじてあなたに紹介した。ほかならぬあなたにね」
切れ長の理知的な目をさらに細めて微笑んだルーガに、ユルグは言葉を呑んだ。
「ユルグ老、俺は里を守りますよ。それが俺の生まれながらの使命ですからね。だから、彼女を里に受け入れることを許してください。そうしたら、もっとやる気になりますので」
「あなたらしいですな、ルーガ様」
ため息交じりに苦笑する強面の監査係長に、ルーガはいたずら小僧よろしく白い歯をのぞかせて笑ってみせた。そして、慣れた足取りで玄関に向かうと、幼いルーエから無理やりルシフェルカをひきはがした。当然ルーエ少年が大人の理不尽に対する抗議をしたが、大きな子どもはどこ吹く風とばかりに知らんぷりをきめたあと、じゃれてくる少年の相手を器用にこなしてやった。
そんな光景をあきれ顔で見ていたユルグ老は、しかし、穏やかな笑みを口元に浮かべたのだった。