第十六話
頼もしい年上の親友がいなくなると、ルシフェルカのできることといえば、熱でぼんやりとする頭で南向きの窓から見える外の風景を観ることだけであったが、その日一日、ゆっくりと体を休めたことで日常生活の動作に不便がない程度には回復した。
あてがわれた部屋の窓から入る春の朝陽で体を温めながら、ルシフェルカはその心地よさにそっと目を閉じた。
首に着けた呪具による副作用「呪具の咎め」により、虚弱体質となっていたルシフェルカの回復力を助けていたのは、稀代の天才少年であるイオンが調合した薬だった。見返りなしに助けてくれる、容貌に負けぬくらい心も美しい少年に感謝しつつ、ルシフェルカはもう一人、端正な顔立ちの青年を脳裏に浮かべた。この館の主であり、黒竜族長を務めるルーガだ。
西の大国トラロックから侵入してきた王立図書館員に見つかってしまった、あの悪夢のような晩、とうとうルシフェルカが被検体であり、そして、「白い悪魔」であるということをルーガに知られてしまった。
「……っ」
言葉を発することはできなかったが、思い出しただけで胸が痛み、短い喘ぎ声が喉の奥から漏れ出た。
リノンにはこの館を出て行かないよう念押しされていたし、黙って姿を消して皆にこれ以上の心労を重ねさせるほど子どもでないルシフェルカは、どのような顔をしてあの太陽のような青年に向き合えばよいか苦悩していた。
いつまでもこの部屋に閉じこもっているわけにもいかない。一歩踏み出し、ルーガに己の身の上を明かさねばならないのだ。
リノンを頼り、この双竜山に独りで暮らし始めた当初、ルシフェルカは冷たく重苦しい寂しさに苛まれた。自ら王立図書館に戻り、被検体としての軟禁生活を続けようと本気で考えるしかなかったことがつらくてたまらなかったが、今は違っていた。もう図書館員たちの研究対象としての毎日を送ることは、彼女自身の未来の選択肢には入っていなかった。
それは、ルーガに出会ったからだった。強い生命力あふれる光と、陽だまりのような温かさを持つ青年。彼の夏の青空を映しだした双眸は勇気を、傾いだ体を支えてくれた大きな手は癒しを、そして、風の精霊をも従える力持つ声は生きる気力を分け与えてくれる。そんな彼から離れることがとても怖くて悲しいと思う己の気持ちに気付いたルシフェルカは、戸惑うとともに、ルーガにはすべてを打ち明けなければならないということが感覚的に分かっていた。
自分がなぜ王立図書館の被検体にならなければならなかったのか、その理由を知ったルーガがどのような反応を示すか、これまでの経験上あまり考えたくはなかったが、それでも、あの金色の髪がまばゆい太陽の化身のような青年には話しておきたかった。
ルシフェルカは、リノンが用意しておいてくれた衣服を身につけ、支度を整えた。
『リノン、ありがとう』
心の中で礼を言ったルシフェルカは、リノンのおおらかな笑顔を思い浮かべて微笑んだ。
リノンはルシフェルカの異能力がきっかけで知り合ったのだが、女性にしては背が高く、体は戦士のごとく鍛え上げられた彼女の第一印象はそら恐ろしいものだった。しかしながら、その心遣いは細やかな上、動植物や小さな子供が大好きな優しい女性で、すぐにうちとけることができた。
ルシフェルカのために用意しておいてくれた衣服も、春先でも気温が低めである山の生活に適した、裏地つきの温かなものであった。
そんな、小さな心遣いに勇気をもらったルシフェルカが、ルーガとイオンに会うため、陽だまりの部屋の扉を押し開けたときであった。
「おっと。ちょうどよかった。おはよう、ルシカ」
樫材の扉がふいに軽くなったことに目を丸くした少女が顔を上げると、そこには満面に笑みをたたえた、まさに今朝の太陽を彷彿させる輝かしい黒竜族長の青年がいた。
「具合はどうかと思って。熱はもういいのか」
意表を突かれて少々ひきつった笑顔になった少女を窓辺の椅子に誘導しながら、ルーガは身を屈めてルシカの顔色をうかがった。
決心して扉を開けたルシフェルカは拍子抜けし、褐色の肌も健康的なルーガをただ見上げた。
「どうした? 本当は気分が悪いんじゃないのか。無理はしないで休んでいていいんだぞ」
そう気づかう青年の清冽な青色の瞳を見て、気持ちが落ち着いたルシフェルカは、妖精の手巾を取り出し、そこに言霊を吹き付けた。
『イオンは来ている? それからギルウスさんも』
「ああ、ちょうど首の手当てをするといって準備していたところだ。ギルウスは呼べばすぐに」
それを聞いてルシフェルカは神妙な顔つきになった。
『よかった。ルーガに話さなければならないことがあるの』
菫色の手巾に浮かび上がった文字と少女の顔を見比べ、ルーガも笑みをおさめた。
『私のことをきちんと話すから、聞いてくれる?』
ルシフェルカはほんの少し悲しげな、しかし、迷いのないまなざしでルーガを見つめた。