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文字を失くした人魚姫

作者: 天野つばめ

 「月が綺麗ですね」と、素敵な王子様に言われるのが夢だった。四国の小さな町で育った私の青春は本とともにあった。2歳で平仮名を覚えて童話を読み漁った。一番好きな物語は人魚姫だった。次に夢中になったのはメーテルリンクの『青い鳥』だった。10歳の誕生日プレゼントには夏目漱石全集を両親にねだった。


 私と同じくらいに文学が好きな人。ストレートな言葉でなくて、昔ながらの奥ゆかしい愛情表現をしてくれる人。その人のためなら泡になってもいいと思えるような王子様を探していた。単純な言葉だけのやりとりでは、もしも悪い魔女に声を奪われてしまったら、その恋はきっと悲しい結末を迎えてしまうから。だから、もっと魂の奥底でつながるような恋がしたかった。


 でも、もう叶わない。24歳の夏、私は事故で失明した。満月の夜のことだった。極悪な魔女は私に何も与えることなく、私から文字を奪った。


 私の病室には、今日も幼馴染のハヤトが病室にお見舞いに来る。家が近所で両親が親友同士でなかったら、きっと交わることの無かった人生。ハヤトは休み時間は校庭でボール遊びをしているタイプの人間で、きっと学生時代に図書室に入ったことなんてない。漫画ですらほとんど読んだことがないハヤトと私がどうして社会人になった今も親交があるのか不思議でならない。


 ハヤトが私の趣味やささやかな夢を否定しなかったからというのは大きいと思う。漱石と鴎外の区別もきっとついていないだろうけれど、私が本を読んでいると「面白そうだね」と言ってくれた。私が勧めた本を彼が読むことはなかったけれど。


 ハヤトは毎日病室に来ては、本を音読する。最近話題の本屋大賞受賞作を読みに来る。棒読みで、読むスピードは遅くて、時々「さんずいに目でなんて読むの?」なんて聞いてくる。いまいち物語には集中できなかったが気持ちは嬉しかった。ただ、同時にもう自分の目で活字を追うことはできないのだという焦燥に襲われた。


 やがて1か月弱の入院期間を経て、私も退院した。退院当日、両親のかわりに私を迎えに来たハヤトは私を車の助手席に乗せると、連れていきたいところがあると言った。大分長い時間、車を運転してたどりついた先は潮風の香りがした。少し肌寒い、もう夜なのかもしれない。もしかしたらまだ夕方かもしれないけれど。


 ハヤトに手を貸してもらい、車を降りて浜辺を歩く。ここは桂浜だとハヤトが言った。誰もが知る月の名所。事故にあった日が満月だったから、きっと周期的には今日も満月なのだろう。でも、美しい月を私は見ることはできない。


「こんなところに連れてきて、何がしたいの?私には何も見えないの。もうやめてよ」


 私はハヤトに対して悪態をついた。ハヤトは「ごめんね」と謝りながら歩き続ける。


「無神経なハヤトなんて大嫌い」


 そう言ったところで、ハヤトは立ち止まった。さすがに、怒ったのだろうか。


「触ってみて」


 ハヤトが私の手を木の幹に触れさせる。浜辺に生えていて、この感触はきっと松の木だ。ハヤトが深呼吸する音が聞こえる。人の息遣いに少しだけ敏感になった。


「夕月夜 さすや岡部の 松の葉の いつともわかぬ 恋もするかな」


 震える声でハヤトが言った。古今和歌集の有名な和歌。詠み人は猿丸太夫。夕方の☽が松の葉を照らしている様子をいつもと変わらない恋をしている自分のようだとたとえた和歌。でも、そんなことを言われたって私には松の葉も月の光も見えないの。


「私には何も見えないの……!何を言われても分からないの!」


 たとえ月が綺麗だと言われたって、私にはその月を見ることはできない。私に好きな人ができたって、同じ月を見ることは永遠にできないんだ。


「ねえ、聞いて」


「いやだ、聞きたくない!」


「少しだけ、黙って」


 ハヤトが私の唇に人差し指を押し当てる。波の音が聞こえた。


「波ってね、月の引力で高さが変わるんだよ。今、聞こえてるのは満月の音」


 波の音に耳を澄ませた。とても心地いい音だった。


「波の音が綺麗ですね」


 ハヤトが私の手を握った。


 小さなころからずっと私のそばにいてくれた人。私の世界を肯定してくれた人。目が見えなくなった私に夢を見せてくれる人。王子様はこんなに近くにいた。


 私は手探りでハヤトの顔に手を伸ばした。ハヤトの頬に指先が触れた。指と体温の気配と幼いころからの記憶を頼りに唇をハヤトの顔に寄せて、口づけを交わした。


 見えなくても分かる。ハヤトは今驚いた顔をしているんでしょう?なんでキスしたのって思ってるんでしょう?だから、理由を教えてあげる。


「あなたとなら、泡になってもいいと思えたから」


fin




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