4 襲撃
ヴィーナは悪魔の腕の中で落ち着きを取り戻した。悪魔の体温は人間より低く、熱を持ち腫れて重くなった瞼をその体に当てて心地よく感じていた。
ふいに体が離れて、まだ乾いていない頬の涙を拭われた。
「目が腫れないおまじないをしましょう」
まるで小さい子をなだめるように言った後、アスモデウスはヴィーナの顔を両手で包んで額に唇を当てた。その瞬間に瞼の熱さは消えて、目がはっきりと開けれるようになった。目の前の悪魔は嬉しそうに微笑む。
「私はデザートを持ってきます。ヴィーナは食べてください」
そう言ってアスモデウスは、ヴィーナの手をつけていないお茶の入ったカップを持ってキッチンへと向かった。
ヴィーナは改めてテーブルへと向きあう。パンや、色とりどりの野菜を盛りつけたサラダ、赤い煮込み料理、何かの肉を焼いたものがならんでいた。パンに手を伸ばして、ちぎって食べた。もっちりとして香ばしい香りが鼻からぬけた。
「おいしい……」
甘みのあるパンは何故か懐かしく、また泣きそうになった。
戻ってきたアスモデウスは、てのひらほどのタルトケーキがいくつ乗せた皿をテーブルに追加した。そして赤い煮込み料理をヴィーナの皿に取り分けた。それを見ながら、ヴィーナはさっきの話を思い出していた。
「あの……さっき私とあなたは愛し合っていたって言ってたけど」
「そうですよ」
「悪魔と愛し合うって……昔の私はあなたを呼び出して恋人になれとでも契約したってこと?」
ヴィーナは自分の話なのに、他人ごとのように話していることになんだか違和感を感じていた。記憶が無いので当たり前なのだが、不思議な感覚だった。
「いいえ、私はあなたに召喚されたわけではありません」
アスモデウスは、優しく微笑みながら首をゆっくり振った。
「召喚された場合は必ず契約をしなければなりません。先ほども言いましたが、私とあなたとの間に何の契約ありません」
取り分けていたトングを置いて、アスモデウスはヴィーナに向き合った。
「私はターラ地方の地下遺跡に長い年月の間封印されていました。しかしある時から封印が弱まって、誰かが封印を解いてくれないかと呼んでいました。当時、その地下遺跡の近くに住んでいたあなたが私の声に気づいて封印を解いてくれたのが出会いです」
「悪魔の封印を解いちゃったの……」
「私を悪魔だとは解っていませんでした。初対面はとても嬉しそうに笑っていました」
確かにこんな綺麗な人を悪魔とは思わないだろうとヴィーナは思い、アスモデウスの顔をじっと見た。漆黒の髪に、紫がかった瞳、長身で引き締まった身体。外国のモデルモデルのような見た目をしている。
「そして私があなたに一目ぼれをしたんです。封印を解かれた後、私があなたから離れなかった。あなたも私と同じ気持ちだと知った時はとても嬉しかったです」
とても嬉しそうに話すアスモデウスに、ヴィーナは戸惑っていた。現時点で、恋人としての何かを求められる様子がアスモデウスから感じられないことを内心ほっとしていた。
そもそもヴィーナには記憶がない。この悪魔を好きかと聞かれても、わからなかった。自分に対して敵対心は感じられなかったため好ましいとは思っていた。
これ以上、以前の二人の関係性について追求して面倒なことになるのが嫌だったヴィーナは、魔女狩りについて聞いた。
「じゃあ、魔女狩りについて教えてほしい」
すでにヴィーナは元の世界を諦めていた。400年という長い年月を過ごした世界だったが、自分の居場所を見つけることはできなかった。
この異世界も自分がいるべき世界なのかどうかはわからない。現に命を狙われている。悪魔も何かを企んでいる可能性もあったが、「おかえりなさい」の一言が冷え切った心を温めた。今はこの悪魔を信じようと思った。
「さっきの話だと、私は魔女と間違えられて追われてるということなのよね。その誤解を解いたら、追われることはなくなるんじゃないの?」
「あなたが魔女ではないことを誰も信じません。そもそも、悪魔と一緒にいる人間なんて魔女ぐらいですから」
「じゃあ、あなたと離れればもう追われないってことじゃない?」
「あなたは悪魔憑きと認定されて魔力を探知されています。今は私が探知されないようにしていますが、私が離れたら見つかってすぐに殺されますよ。そしてなにより、私はあなたから離れたくありません。一生」
ヴィーナは悪魔からのストーカー宣言に溜息をついた。
「じゃあ、ずっと追われるの? 魔女を消せば平和が訪れるみたいな予言が嘘だったってことを言っても変わらない?」
「たとえ嘘だったと解っても、王は今更間違いでしたなんて言えないでしょう。彼らは魔女を匿っていた村に火をつけたり、悪魔と契約していない魔法使いを処刑したなんてことがありましたから」
「今更か……」
ヴィーナは食べていた手を止めた。どうすればいいのかわからなかった。
「ねえ、悪魔と契約するとどうなるの?」
「願いを叶える契約の場合は対価として魂をもらいますので人間としての生は終わります。契約者が魔法使いだった場合は生かして眷属にすることが多いです」
「眷属?」
「まあ、その悪魔の一味になったというのが一番近いかもしれません。魔法使いが眷属になると、悪魔のために身体を差し出して精力を与えるようになります」
「じゃあ……アスモデウスの眷属は女性だけってこと?」
「いえ、男性の魔法使いも眷属にしますよ。なので、だいたい自分の趣味の魔法使いを眷属にしますねぇ」
「……」
「安心してください。私はあなたを眷属にするつもりはありません」
それ少しほっとしてヴィーナはお茶を口に含んだ。眷属と恋人の違いについて気になったが、わざわざ聞く必要はないと思いお茶を飲み込んだ。
八方ふさがりだとヴィーナは感じていた。悪魔は離れない、何をしても追われる。
「じゃあ、どうすればいいんだろう……」
お茶のカップを膝の上で持って呟いたとき、目の前にローブに身を包んだ人物が現れた。まさしく童話に出てきそうな魔法使いのような恰好だった。
「見つけたぞ」
その男はヴィーナへ1歩近づいたが、急に膝をついて苦しみ出した。
「ぐぅ! おあああ!!」
喉を掻きむしるように苦しんでいた。突然の出来事でヴィーナは動けなかった。
アスモデウスからとても禍々しい気を感じた。ヴィーナはアスモデウスを確認すると、もはや人の見た目ではなかった。耳まで裂けた口、眼球は黒く、頭には渦を巻いた角が生えている。黒い影の中溶け込んでいるようで、どこが実体かわからなかった。
「アスモデウス! やめて! 殺さないで!」
ヴィーナはアスモデウスに駆け寄った。
「こいつはあなたを狙ってきた。生かしておいてもまた来る」
ヴィーナはアスモデウスの体にしがみついた。触れたところが電気のような痺れを感じ痛かった。それでも構わずにしがみつく。
「うがあああ!」
大きな悲鳴をあげた後、男は大量の血を噴き出して崩れた。それを一瞥してアスモデウスはヴィーナの背中に腕を回した。そして二人は小屋から消えた。
◇
二人がいなくなった後、小屋に5人ほどの人間がいた。死体の様子を確認したり、消えた二人の痕跡を探していた。
「コンセル様! やはり、アスモデウスが一緒ですね」
死体を観察していた一人が言った。
コンセルと呼ばれた人物はフードを取って頷いた。オレンジの巻き毛が揺れる。
「そうですねぇ。引き続き、アスモデウスの魔力探知を行いましょう。同時に対悪魔術の準備もすすめます」