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他サイトにも重複投稿。

 三人は歩き進め、長らく木々の洞から抜け出るとそこには水草の茂る池があった。

 その池は昼間なら確かに遊歩道の脇に見て楽しめたのだろうが、十月。すでに夜闇を過ぎゆく風は寒く、既に寒さに弱い種の草花は緑色を失っている。

 枯れ草色の多い池畔は夏の隆盛より、秋の哀愁を如実に示している。

 近辺には基本的に倉庫街と倉庫を使う企業が郡立していて、民家など皆無である。

 午後七時を過ぎて既に陽など落ちている。公園内に電灯もなく、池に落ちずに済むのは池の周りにぐるりと柵が設置されているからに過ぎない。

 近隣に住民はなく、夜景を望むための高台もないのだから今場所に来る人間など皆無である。

 運悪く今日という日に、今まさにこの時間に訪れてしまったのならそれは当人がただただ単純にツイて居なかったのだと、そう今際に後悔するほか無い。

「いたぞ」

「……」

 池畔に佇む姿は「異形」と形容して何ら差し支えの無いモノだった。

 影と呼んでいたそれは既に「影」と呼ぶべきか躊躇うようなモノに成り代わっていた。そこにいるのは歪なヒトガタであり、影としての暗さを残してはいるものの、既に肉を得て色付いているヒトガタの「異形」と化している。

 頭部は頭頂部に行くにつれてすこしだけ細くなっているが、ドラム缶を乗せたような影と肉の融合ブツ。胴体は異様に細く、やせ衰えた子供の腹の様な胴が頭のドラム缶を支えている。腕は二メートルほどの枯れ木のようで、足はそれに反して歪な短足である。

 異形と呼ぶべきはその体の構成である。

 頭には肉を適当にかき集めて圧し固めたような気色の悪さで、他の各部位も同様である。

胴は十歳にも満たない子供の様なモノで、二メートルを越えそうな長い腕は足や下顎を無理矢理接いだ様な醜悪さである。短い足も大人の右足と子供の左足が長さの合わない事をごまかす為に屈んでいるのだと、見れば分かるのだ。

「――っ」

 松下エリザは今日、昼食も夕食もとっていない。摂る暇など無かったし、摂れるような状況でもなかったし、摂ったところで「戻す」のではないかという不安があったからだ。

 それでも物理的に込み上げてくる胃酸はなんだろうか。

 気持ちの悪さ、という感情で込み上げてくる嫌悪感がそれの正体なのか。それとも我が身可愛さで悲劇のヒロインを気取ってそう無意識が働いたのか。

 我が身が可愛いのはエリザだけではないだろうが、それを師であるデルシェリムと自分が「所有」するフリードにその無様を見せて彼らにどうして貰おうと言うのだろうか。

 エリザは迫り上がってくるそれに耐え、ソレを眼前に留め続ける。

 これを野放しにしてはいけない。

 見えているだけでも子供の部位と大人の部位が複数存在している。

 池を眺めていたソレがふと、こちらを向いた。

 見覚えが有る。

 覚えのあるその目が、エリザの目と合ってしまった。




 滝川まりねの目に飛び込んできたのはひらけて都市の明かりがこぼれ落ちる、薄明るい場所。そこに槍の様な物を携えたフリードの姿である。それが黒い得体の知れない物体と切り結んでいる。切り結ぶというのはまりねの一見した感想であって、実際には二メートル近い腕を振るうソレを、槍で勢いを削いでいなしている姿に過ぎないが。

 明らかに人間ではない。現在相対しているフリードも確かに人間と呼べるような存在ではないが、フリードは確かに人としての形を成しているのだから人間には見えるが、ソレは既に化け物と呼ぶに相応しい形状になり果てていた。

 年下の姉弟子であるエリザが見た時は眼球が二つと黒い空間にヒトガタを作っているだけだと言っていたが、これはその形状からかけ離れている。

 ここに来る前に「数人は死んでいる」とクロウセルが曰ったのだから、そこにいるソレは人間の体をつなぎ合わせ、ちぐはぐな形状に成り下がっている邪悪だ。

 まりねの目に見て手足や胴の大きさから大人の物と分かるが、それよりも多く、子供と思われる部位がソレに取り込まれて動いている。

 フリードの姿は見えるが、先行したはずのエリザと師匠の姿が無い。

「真珠ちゃん、エリザちゃんと師匠はどこに居るか分かる?」

「そこに居るじゃないですか。もう」

 なんで目の前に居るのにそれが見つけられないんだと、そう言いたいのか真珠は不満気を隠すこともなくまりねの手を引っ張ってずんずんと歩いてしまう。

 まりね自身は暗闇で視界と呼べるような物は都市の朧気な明かりを頼りにするだけだが、手を取って進む真珠はこの暗闇の中でも普段通りの速度で歩いており、ソレの視界に入らないように少し回り込んで二人の居る場所まで連れ歩いた。

「……まりねか」

「あ、師匠ですか。どの辺りにいるのか良く解りませんけど」

 流石に手探りでエリザや師匠を探る必要はない。なんとなく声のする方向に居るのだから、まりねがすべき事は状況の確認だった。

「真っ暗で何も見えないんですけど。今どうなってるんですか」

「と、取り敢えずフリードに足止めして貰って、これから対策を考えようという話…… です」

 対策と言っても何も知らないまりねとエリザにはあの化け物に対抗する手段が思い浮かばない。

 エリザが人間離れした身体能力を有していたとして、それがあの化け物と直接殴り合うような事が出来るかと問われれば必ず否と答えるだろう。

 まりねが攻撃用に教えて貰った陣式を用いたとして、それをあの化け物に対し有効打と成りうるのかと問われればそれも彼女は否と答えるほか無い。

 唯一、あの影から生まれてしまった化け物を倒せそうなのは師であるデルシェリムだが、彼に手を借りる事はもう許されないだろう。

 それに「これから対策を考える」というエリザの言葉からは「師匠であるデルシェリムの手を借りる訳にはいかないから」という枕詞を至極当然だと省いて話されている。

 姉弟子とはいえ、年下の彼女が「自分達で」解決するのだと腹をくくっているのだから、まりねもそれに倣わなければ大人としても、妹弟子としてもこれから先に師匠に会わせる顔が無くなってしまう。

「それで、何か出来そうなことは……」

 立っていれば腰辺りまでしかない様な低木の傍に四人で身を寄せて、薄明るい都市の害光を避けて化け物の目から身を隠して考えを始める。

 あの化け物は影の癖に人間と同等の目しか持っていないようで、真っ暗になっている場所は見えず、薄明るい池畔でしかフリードと切り結ばない。

「出来そうなことって、フリードに戦って貰うくらいしか私には出来そうに無いんですけど」

「それを云ったら私は何も出来ないわよ」

 姉弟子である松下エリザは身体能力的に人間離れした力がある。それは故意にその能力の制限を解除しない限りは一般人相当に抑制されている。人形師である師、デルシェリムに因る「新しい体」への乗り換えの副作用である。

 まりね自身はエリザの力というものを目にするまでは信じがたい思いだったが、確かに人間離れしたモノだと確認出来ている。

 だが力が強いからと言って、エリザが戦闘に耐えうるかと言えばそれは不可能だろう。まりねと違って運動神経自体は良いらしいのだが、彼女自身が殴り合いなど出来るような性格をしていない。鉄拳制裁自体はするものの、それが殺し合いに近い戦闘が出来るかどうかは別問題だった。


 また滝川まりね自身が武器を手に戦うなどもっての外である。まず単純に運動能力が低い。どれくらい低いのかと尋ねられれば小中高と十三年間、体育の評価で五段階の内、中間にもなったことはない。

 フリードという人形は誰かを守るために作られたというのだから、今は元来の用途を成しているに過ぎない。だがソレに引き替えて松下エリザはまだただの高校生であるし、滝川まりねは元病院勤めの医師で、現在がエセ警察官である。

 まりねは刃傷沙汰を取り締まる側の人間だが、それはあくまでも名目上のエセ警察官でしかない。自分に与えられた役割は強行班的な役回りではないし、なによりもまりね自身、逮捕術などまともに学んでなど居ない。

 元々師であるデルシェリムから学んでいたのは魔力を通す方法である。線を引いて魔力を通すと線を引いた場所にーー制約は多いがーー思い描いたとおりの効果を発揮することが出来る、というものを学んだに過ぎない。

 日々修行として師の家で学んでいたのも基本中の基本であるコレであり、そこから昇華した陣や術式などというものは知識として知っていても実践できるだけの能力はまりねは無く、また姉弟子であるエリザも同様である。

 まりねがつい先ほど得た紙切れに描かれた魔術式は、確かにこれまで培ってきた技能の応用である。元より指向性の描かれた線だと思えば、これまで使っていた魔力を流して自分自身が為し得る事象を起こしているに過ぎないこれまでの魔法行使と何ら変わりない。

 具体的に何をどうすれば一定の効果を持続、または反復した作用を持つ術式が書けるのか皆目見当もつかないのだから、まりね自身、自分を戦力として評価するに値しないのである。

 自分自身が戦力にならないと勘案するならば、なにをもってあの影を倒すのか。

 それは彼女が知りうる戦力になり得る人間に教えを請えばよい。

 誰かが言っていた『手は出さないが口は出す』のは、彼らの恐れるあの方とやらには言い訳が通りそうだと思えたからだろう。ならば簡単だ、たまたま目の前にいた影という存在について弟子が師匠に教えを請うても何ら問題はないはずである。

 魔法使いという理不尽に抗うには、多少の屁理屈くらい押し通しても誰にも文句は言われないだろうと滝川まりねは考えた。

「あたし達にでも出来る、影を倒す方法を教えてください」

「む。そうだな、簡単に斃す方法としては光を圧縮して影の内側に打ち込む方法だ。私が先ほど店の前で用いた方法そのものだな」

 そう、簡単な話である。先ほど影の『使い』との戦いで、師であるデルシェリムが用いた魔法が当にそれだという。

 だが問題は先ほどのアレをまりねやエリザが同様の魔法を成せるかと言うことだ。

「だが、アレは今のお前たちでは不可能だ」

「ですよねぇ、だと思いましたよ」

 解決方法は目の前にある。師であるデルシェリムが片付けてしまえばそれでお仕舞だ。だがこの影を消すという「仕事」はまりねとエリザが受けたものである。

 口を出す事を許容してもらったのだから、これ以上の手助けは師の為にも請うてはならない。

 まりねが師から与えられた魔法陣は五つ。無機物を修復する魔法陣。熱量を発生させて撃ちだす魔法陣。逆に冷気を生み出して撃ちだす魔法陣。電撃を放つ魔法陣。風圧を撃ちだす魔法陣の五つだけだ。

 それ以外にはまりね自身が使える魔法など、遺体に魔力を通して一時的に使役したり、生存時の記憶からいくらか情報を得る能力だけだ。

 姉弟子であるエリザに至っては特異たる魔法の素質自体は大したものではない。人形に魔力を通して動かすという、それ自体は世間一般からすれば一種の奇跡だが、魔法使い一般からみれば出来て当たり前の児戯でしかないらしい。

 

 何をどうすれば影を消せるのか。光を圧縮して「影」に打ち込む。

 単純にはこれだけで、影はその存在を維持できなくなるらしい。正確には「影」が有する魔力での回復量を上回って光を圧縮した魔力を撃ち込めれば影は消滅するらしいのだが。

 『使い』とやら、あの犬のような影は確かにデルシェリムが作った光の杭を受けても一撃では消え去らなかった。魔力量と質、どちらをとってもまりねやエリザには到底及びもつかないレベルの、高水準の光の杭を一本受けてなお、あの『使い』である犬が消えなかったのだ。

 ではあの犬を『使い』としてコンビニ前に残したというこの本体の影は、師の光の杭を何本撃ち込めば消えて無くなってくれるのだろうか。

 滝川まりねにはまるで展望が見えない。真っ暗闇でしゃがみ込み、三人面を突き合わせても解決策はない。

 デルシェリムにしても解決策を提示できたとしても、それがエリザとまりねに成せる事ではないと師である彼には分かり切っている。

 硬質な物体を叩き合わせた様な音が公園に響く。人と変わらぬ体躯を手に入れたフリードが何とか影の巨体と対峙して貴重な時間を稼いでいるにも関わらず、三人は無為にそれを浪費していた。

「ふんっふぅ~うんっふふぅ~♪」

「……あの、えっと。マミ、ちゃん。何してるの」

 三人は無言かため息しか出ない状況だったが、一人、他人事を聞いて居るだけの彼女には面の突合せなど退屈以外の何でもない。しかめっ面で考えている風で、実はただどうしていいのか全く分からないエリザの右側頭部の髪の毛を、ただの暇つぶしのつもりで真珠は三つ編みにしていた。

「つまらないので三つ編みを練習してましたよ」

「つまらないって、あのね……」

 エリザ、まりね、デルシェリムの三人が屈んでいるのは腰よりも若干高いくらいの低木の影だ。そこには市街の明かりはあまり届かないが、ギリギリ真珠の行動は見える。

 そこに二つ、真珠の黒い瞳が爛々と光る。

「今、あの影をどう消すか考えてる所だから……」

「ぅん? 影は光を当てたら消えますよ」

「いや、ただの陰じゃなくて、あの影を――」

「何を言ってるんですか。ですから、影なんて光を当てたら消えるんですよ」

 さも当たり前のように、小首をかしげて言ったが、デルシェリム以外には真珠の動作は見えない。

「……」

 真珠の手は止まることなくエリザの色素の若干薄い髪の毛を編む。

 屈んだエリザの脇に体を寄せて、十代前半くらいの真珠が姉くらいの彼女の髪を編む。そこに意味はない。彼女に、真珠にとってはエリザやまりねの苦悩など他人事でしかない。他人事でしかないからこそ、ただ純粋に正しいと思うことを突き付ける以外に出来る事は無い。そう、それは真珠にとっての正しい事なのだ。

「……確かに。無理に高度な魔法や式を用いて倒す事を考えるより、弱くとも光の輪の中に閉じ込めておけば徐々にだが影を削げるかも知れんな」

「あの、ここにも一応街の明かりが届いてますけど。アレが弱ってるようには見えないんですが」

「あれは死体から肉を得てしまっているからだ。削ぎ落して内側の影だけを光で囲えば移動も阻害できる上に、時間を掛けさえすれば影を消すことも可能だ」

 あくまでもそれは「可能」であるというだけで、エリザとまりねに遺体の肉を削ぎ落して影を引きずり出し、且つ、光で囲うなどと言うことが可能かどうかまでは考慮していない。

 しかしそれは「考慮」はしていないが、彼女らが行動如何では可能であろう、唯一の方策である。


「具体的にどうすれば良いんですか」

「まりねに教えた式を使って火を起こせ。それで明かりを確保しろ」

「はい」

 だが残念な事に、火は一つでは済まない。

 無影灯という物がある。滝川まりねは職業柄、その下で手腕を振るってきた人間だ。

 影を消すものはいつも彼女の頭上に有った。手術台の上には必ず無影灯がある。

 患者の開腹時に影の一切を許してはいけないからだ。僅かばかりの傷一つすら許してはいけない、傷病患部を見逃してはいけない。

 患者の生命を脅かすことがあってはいけないからだ。

 故に過去、彼女の頭上には光があった。それを今、彼女自身が己の命を懸けて魔法という奇跡によって成さねばならない。そうしなければ、また誰かが死ぬかも知れないからだ。

 対して、エリザが行わなければいけないのはアレの、あの影の『肉』を剥ぎ取る事だ。

 今更彼女の、エリザの我儘が通るような時間は無為に過ぎ去っている。

 フリードを彼女の理想と違う扱いをしなければならない事は自他共に決定項である。

 『影』は文字通り影の中に居る。人間から奪った『肉』を削ぎ落さなければ『肉』の内側の陰に逃げられる。逃げたとしても当然焼却してしまえば消すことは可能だが、『肉』を削ぎ落さなければ影の範囲が大きすぎて焼却しきれない。

 当然、中途半端に『肉』が残ればその内に影は潜み、最悪、逃げられる可能性がある。

 そうすれば堂々巡りだ。


 彼女らのこれから行うべき方法は一つ目に光で檻を形成する。

 『肉』を纏った「影」は光を嫌う傾向にあるが、一気に完全に囲い込めばそこから出る方法がない。陰を伝い、陰から陰に移動できる能力があるが『肉』を得た今、師曰くそれを簡単に手放す事は無いという。

 曰く、元人間である影は人間だった頃を忘れられないと。

 あの影は肉の器に自分が入っている事が唯一「生を感じられる」事なのではと師は教えてくれた。

 彼女らの為すべき事、その二つ目に『肉』を削ぎ落すこと。

 光で囲った状態で肉を削ぎ落し、少しでも影を小さくする必要がある。一撃の元に、完全に消すことができるだけの「光」を圧縮できるだけの魔法の才能は彼女達には無い。

 だからこそ、可能な限り肉を削ぎ落して光で影を少しでも小さくし、残った『肉』ごと完全に焼却して光の中に「影」を消す他にない。


 しかし、彼女らの師デルシェリムはこの作戦に不安を抱く。

 まりねには簡単な術式を教えたが、それを用いて光源をいくつも用意して影を囲むことが本当にできるかどうか。まりねには一芸に秀でる分、他の魔力制御が覚束ない。

 死体に魔力を通し、一時的に魂を肉体に降霊して繋ぎ止めるという、本来なら長大な魔術式と莫大な魔力を要する常識の埒外をやってのける。

 師であるデルシェリムが同様の魔術を行使するとなれば年単位での事前の研究を要し、専用の術式を組み上げて高純度の魔力をある程度外部から用立てねば不可能だろう。

 その一芸を容易く行えるまりねは「まとも」な魔力の運用が出来ていない。

 逆にその魔法行使に「慣れ」過ぎてしまい、汎用能力を大きく低減していると言っても過言ではない。故に安定した魔力出力がなく、また魔力自体を制御する方法を感覚としていまだ掴み切れていないのだろう。

 術式を渡したものの、それを安定して維持できるかどうか。

 無影灯を再現するには少なくとも影を囲めるだけの「数」が必要だ。最低でも六つ。多ければ多いほど陰が出来難くなるのだから、多いに越したことはないがまりねにそれだけの維持、管理が可能かと言えば、師として見れば否である。


 また、エリザについてだ。彼女は幼い。年齢というよりも経験という意味で幼い。

 人間の死を間近に感じるだけの感受性はあろうが。戦争や紛争、傷害や殺人といった忌み事からはかけ離れた人生を送ってきた、ただの少女である。

 そも、フリードをただの愛玩人形として貰い受けた時点で、彼女には危機感や恐怖感というモノが希薄なのではなかろうか。普通、得体の知れないモノを忌避し恐怖するのが生存本能としての役割だ。だが彼女には、いや、この国の人間達はあまりにも危機意識が薄弱で、恐怖感が間違った方向に歪んでいる。

 本来生存のために用いられる感性が、実体のない尊厳を守るために麻痺している。

 まだ年若いエリザには酷だろうが、ここに至り人間としての尊厳を捨て去り、魔法使いとしての矜持を得る事を、ただ師は祈る他ない。




 火を発する術式をメモ帳に六つ書き上げた。それをメモ帳から破り取り、滝川まりねは「影」を見つめる。一枚たりとも取り落とさぬように握りしめた手を胸に当てると、彼女自身信じられないくらいに自分の心拍数が上がっている事を自覚する。

 これほどまでに緊張し、心拍数が上がったことはあっただろうか。

 医科大学生時代、初めて大学病院で開腹手術を間近で見た時、確かに自分が緊張していて心拍数が上がったことを自覚した事があったが、今程では無かった様に思う。

 昔は他人の命を預かるからこそ、自分よりの事よりも緊張していたと自負している。だが今、まりねは明らかに過去の自分よりも今まさに周りが見えていない。

 視野が競作する程に緊張し、己の為すべき事を反芻している。

 六枚のメモ紙を「影」に気づかれぬようまりねとエリザで手分けして配置し、それに同時に魔力を通して光源を作り上げる。その後にフリードが影の『肉』を削ぎ落し、影の力と大きさを削ぎ落した後、小さくなった影と『肉』を焼却する。

 これがまりねとエリザが為すべき事だ。

 最悪、失敗すればあの影に攻撃されて死ぬ。フリードの持つ槍と打ち合うような腕にエリザはともかく、まりねが耐えられるはずも無い。

 一応、まりねとエリザの役割として、エリザは体を動かすことは得意な方である為、影に見つかる危険性を負ってでも影の正面を走って回り込み、斜め後ろも含めた四枚を配置すると申し出た。

 年長者として申し訳ない気持ちが有るものの、まりねは自慢ではないが運動音痴であると自負している。子供の頃からインドア派であったと自他共に認めるし、友達と外で遊ぶよりも本を読んでいる事が多かった。

 別段、運動ができないから外で遊ぶことを放棄した訳ではなく、子供ながらに少しでも早く父と同じ医者という仕事に就きたいと願った彼女の向上心ゆえだ。

 だが医者になりたいという過去の向上心が、ここで未成年の姉弟子の足を引っ張る形となっている。別に図書室で本を読んだからと言って早く医者になれる訳でもなかったのに。

 今なら過去の自分に「人体を知りたいなら、自分で体を動かして学ぶこともできたはずだ」と皮肉の一つでもぶつけてやりたい。

「良いですか、まりねさん」

「……」

 目を瞑り。二度、まりねは深呼吸する。

「だ、大丈夫。行けるわ」

「……じゃあ、行きますよ」

 エリザが三つ数えるのを合図に、同時に駆け出すだけだ。

「さん」

  そして自分は二枚だけ、たった二枚だけ紙切れを地面に置いて、飛ばないように石を乗せる。

「にぃ」

 そして並べ終えたら魔力を通し、火で明かりを維持するだけだ。

「いちっ」

 それだけだ。

「今っ」




 そう、それだけだったのに。




 エリザが駆け出す。何とかフリードが影を同じ場所に留めるように立ち回る。フリードとエリザの間に本来ならば会話など必要ない。

 エリザから空間中に放出される余剰魔力を、細い魔力糸でフリードに供給し続けている為、故意に魔力に意思を乗せれば相互に伝わる。

 フリードは基本寡黙で話さないのであまり使う機会がないが、稀に忘れ物をしたときに教えてくれたりする。使ったのはそんな他愛ない事についてであり、彼女はフリードとの直接会話することを好む。

 だがフリードと魔力を通して会話ができるというのは本来、今の様な用途で運用される事を想定している。

 三つのカウントの際、フリードには足止めをするように伝えた。ただ攻撃を往なすだけだったものを、相手の位置を変えさせずに留め続けると言うのは相応に技量が必要になる。

 攻撃を受けて反らすだけならば攻撃に反応し、それに合わせて得物を当てるだけでも良い。だが相手を留め続けるとなれば受け方、弾き方、位置取り、間合い。あらゆる状態、状況を加味して押し留める方策を取らねばならない。

 それを可能にしているのはフリードが長物の扱いを模倣させてもらった、元の者の力量があってこその芸当である。

 一枚目。エリザは隠れていた低木から駆け、十三メートルほどの位置に紙を置き、同時に握りしめていた小石を乗せる。紙が風で飛ばなければそれでよい。

 海風がわずかに吹き付ける埠頭公園だからこそ、急いでいても確実性を求めてそうすることにしたのだ。

 そこからまた走って八メートル。フリードが槍の反対側、石突で影の腹を打ち据えて下がらせたタイミングが正に絶妙であった。フリードの背後に紙と石を置く。

 そして次に八メートルを駆け、順調に三枚目を置こうと予定地点に止まった時、それが目に入った。

 滝川まりねが担当した一枚目を設置した場所。そこから数歩進んだ辺りで転び、影の頭部を指でさし示したまま恐怖のままに止まっているまりねの姿を。




 そも、彼女らの失敗は最初からである。

 影を消す方法が分かったから、それを実行するために手札を精査して実現可能な方策を検討する。これ自体には問題はないが、それは絶対的に優位である事が前提である。

 彼女らの一つ目の失敗は「優位性」をそもそも重要視しなかった事だ。光源が少なく、薄暗い公園で暴れる肉を纏った影という存在に知性を感じられなかったとしても、そこに生存のための「本能」を感じられるだけの情報がいくつもあったはずだ。

 この薄暗い場所こそが、影の優位であると、気が付くべきだった。

 もう一つ。師の「影は人間だった頃を忘れられない」という言葉を「人間」である彼女らの価値観だけで解釈した事も瑕疵である。

 彼女達の能力だけでも解決できると、師であるデルシェリムが「言い切って」しまったが故の慢心が、彼女たちの初仕事に敗北を呼び込んだのかも知れない。


 運動音痴の滝川まりねが不格好に走り、一つ目のメモ紙を設置して二つ目に向けて走り出した時、彼女は奇妙な視線を感じた。

 一枚目を難なく設置し終えた安堵感から余裕を感じ、ふと横目に影を見てしまったのが運の尽きだ。

 先入観があった。影は「人間であった頃を忘れられない」という言葉で「人間に戻りたいから、肉体を欲している」のだろうと。

 考えてみればおかしいのだ。最初の被害者であろう、金谷薫という女性は眼球だけを奪われていた。それがフリードが持つ槍と腕で打撃の応酬を繰り広げている影は『大量の人体』を押し固めた様な醜悪な物体と化している。

 そう、求めているのは肉体であって、部位ではない。

 人一人から一つずつ部位を集めた訳ではないのだ。

 最初に眼球だけを奪ったのは、単純に眼球を二つしか奪う力が無かったから。

 魔法や魔術を彼女らが「正しく学んで」いれば、なぜ眼球だけしか奪えなかったのか予測ができたはずだ。人間の部位で柔らかく、最初に『奪われ易い』部位であるからこそ、眼球だけが奪われたのだと。そう思い至るはずだった。

 滝川まりねが視界の端に捉え、身を竦ませて転んでしまったのは、ドラム缶のような「影」の後頭部に大量の眼球がびっしりと不規則に並び、すべての眼球が彼女を追っていたからだ。

 埠頭にある明かりが僅かばかり届き、「影」の後頭部にある眼球が反射して煌めいてしまったから。

 滝川まりねは己の身が影の認識下にあると理解してしまったが故に、恐怖で竦んでしまったのである。




 まずいと思ったのは決行した当人のエリザ、まりねだけではない。

 送り出した師、デルシェリムですらその失敗に手を差し伸べようとした。

 彼が手助けしてしまえば『あの方』からの心証は悪くなる。酷ければこの星に留まることを許されないであろうし、最悪はこの後、デルシェリム自身が処分の対象とされるだろう。

 だがそれは許されなかった。

 シュライナー・デルシェリムという本物の魔法使いですらそれには気付けたとしても、それを阻止する術を持たなかったからだ。


 滝川まりねを見下ろしていた肉を纏った影に、何かが飛来した。

 肉を纏った影と比較してそれは細長い棒状の物体だと知覚できたが、なぜそんな物が斜め上から、夜空から飛来したのか見当もつかない。

 滝川まりねが「影」の背に突き刺さる緋色の剣を認識したとき、別の恐怖を感じた。


 年上の妹弟子であるまりねが転んでしまった様を見てエリザはなんとなく『そうなるだろうな』などという予感めいたものがあったものの、実際にそうなった際にとれる行動が無いことに焦る。

 正直なところまりねが、運動が苦手そうなタイプである事は承知していたし、それを直接指摘するような事もしてはいない。体を動かすことが苦手そうなまりねに代わって四枚の魔法陣を受け持った事は暗にまりねを侮辱していると取られかねないが、まりね本人が安堵した様な表情をしていたので自覚があって任せてくれたのだろうとエリザは自分を納得させた。

 そのまりねは二枚は自分で必ず置いて見せると必要以上に緊張した面持ちで事に臨んでしまった。

 だからこそ、エリザはなんとなく「上手くいかない」予感を得てしまっていた。

 余計なことばかりだ。初めからまりねが気負っていた事を知っていて「二枚くらいならまりねさんでも大丈夫」などと慢心した。まりねにおかしな気を遣わず、六枚すべてを最初からエリザが仕掛け、まりねは魔力を流し陣を作動させるという事だけに注力して貰えばもっと上手く行ったのではないか。

 まりねが転び、恐慌する姿を見てエリザは「存在しない成功」を空想してしまう。

 間違えた、失敗した、ミスった、駄目だ。取り返しのつかない状況に――

 エリザの頭の中には既に失敗した事が確定したのだと渦巻いた。これからどうすればいいのかも分からず、ただ立ち尽くした。

 四つ拾い上げたうちの二つ。握りしめた拳の中で石が擦れてギリと鳴る。エリザが「本気」で握れば石など弾け飛ぶが、まだ彼女は冷静だったのかもしれない。

 小さな石の擦れる音が彼女の耳に届いたのは、次に聞こえた不可思議な鈍い音を拾い上げる為の布石だったのだろうか。


 フリードは「影」と打ち合いを始めて十分ほどは粘った。

 エリザに足止めをしろと言われたときは「足止め」だけでよいのだろうかと疑問に思ったものだが、異形の長い腕と打ち合ってみて分かったが、かなりの打撃力を誇り、且つその速度はかなりのものである。

 こちらから打って出た方が良いのではないかと主であるエリザに進言しようと思ったものの、打ち合いを十合も数えれば単騎で押し勝てる相手ではないと悟った。

 エリザからの魔力供給量がもう少し多ければ力負けもしなかったろうが、主の考えも聴かず不必要に「影」を上回るような魔力を要求するような事は出来ない。

 もし主が制作者であるマスター並みの魔力量と質を持っていたのならば事はもっと単純明快に済んだのだ。「影」を斃せるだけの魔力を主から得てしまえばよく、主が危険を冒す必要も無い。

 だが今の彼女にはそれが出来ず、フリード自身は歯痒い思いで事の成り行きを見守るほか無かった。

 そして彼女らの作戦に問題が生じ中途半端な形で止まった折、それは訪れたのだ。

 

 空から飛来した剣が「影」に突き刺さり、同じ軌道を人型が辿って「影」に取りついた。その衝撃で「影」が前傾し、いびつな両腕で地面を突いて倒れることだけは防いだ。

 そしてそれは「影」の背の上で、宣言する。

「ティはイマねェ、スゴくオコってるんだヨォ」

 そう言って「影」の背中から緋色に鈍く光を返す剣を引き抜いた。

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