05
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問題が発生した。
クロウセル・ハルトベスと言う男が、松下エリザの家の前に居る。
自宅のドアノブに手を掛けて、はたと気が付いてしまった。学校を早退してサボったあげく、このガラの悪い、うさんくさい男を連れて家に入る訳にはいかない。しかも、エリザの家の向かい、それこそお向かいさんの家のブロック塀にもたれてタバコを吸い始めた。こんな男と知り合いだなどと思われては困る。まず近隣住民に『松下さんの娘さんは男の趣味が悪いのね』などと井戸端会議のネタにされるのは非常に困る。当然、両親にこんな所を見られたら致命的な事である。
だから、釘を刺しておこう。エリザとクロウセルには何の関係もない他人ですと振る舞って貰わねばならない。魔法使いだなどと血迷ったことを言い出すことは絶対にして貰うわけには行かない。
ドアノブから手を離して、クロウセルの元に向かう。
つまらなさそうにタバコを煙らせて遠い目をしていたが、エリザが近づいて来ると何事かと目線はエリザに向けてきた。
が、
「あら、やっぱり帰ってきてるじゃない」
「――っ。た、ただい、ま」
エリザが自宅の前庭を歩き、門扉に手を掛けてクロウセルと目が合った所で背後から母に声を掛けられた。まずい、非常にまずい。今、エリザを助けてくれる人間は、ここには居ない。
滝川まりねはまだ安全である。そう言いだしたのは他でもないクロウセル・ハルトベス。この場合、現状関わっている仕事関連での安全は滝川まりねには保証されていると言うことだ。問題は探知の術式を使用して向こう側に『見られた』エリザの方が危険であるというのだ。
当のエリザは術式を使う前にその様な危険性を教えて欲しかったと思っているが、魔法使い相手にそんな文句を言ったところで聞き入れたりはしないだろうと諦めた。
デルシェリムの家で最初に提案をしたのはまりねだった。
「あの、あたしも何か情報がないか署に戻って上司に訊いてくるわ」
「え、一人で行くんですか。わたしも――」
「エリザちゃんはフリードくんを連れてこないと。あたしは署で待ってるから」
「はい、わかりましたけど」
けど、この男はどうするのか。と、エリザは玄関に通ずる扉を開け放った脇、壁に寄りかかっているクロウセルを見やる。
視線には気付いているし、何を問われているのかも理解しているだろうが当のクロウセルは黙っていた。
「ね、ねぇ、クロウセルさん。お願いが――」
「ん」
全くエリザには興味がないような、気のない返事を返してきて聞いているのか、いないのか定かではないがエリザは構わずに続けた。
「その、可能であれば一緒に来て貰えないです?」
「説明しなかった事を逆手にとってその云い方か」
「それはわたしが悪い訳じゃあ無いじゃないですか」
「まあ、行くなら嬢ちゃんの方だしな」
「え、ロリコンなの?」
またそう言う人ばかり集まって。などとまりねがぼそぼそと言っていたが何を言っているのかクロウセルにはさっぱりであったが、何となくまりねにふざけた事を言われたのは理解したので壁際から歩み寄って、まりねの額を平手の指先で軽く叩いておく。
「眼鏡美人の嬢ちゃんはそこのおっさんに送ってもらえ」
「お願いしますー、師匠」
しなを作って媚びるようにまりねが師匠、シュライナー・デルシェリムへ向けて言う。まりねも別に自分の女としての矜持を見せようという所作ではなく、ちょっと小難しい話から離れて場を和ませようとおどけて見せたに過ぎない。
「分かった、まりねは私が見よう」
抜け落ちた歯を完全に元通り入れ直したデルシェリムは、剥離骨折を起こした左の顎を幾度か左手で撫で、青痣が完全に消え違和感がないことを実践証明する為のように口を回す。
「方にはエリザの護衛を頼みたい」
そう頼まれたクロウセルの顔が一瞬で厳しいものに変わる。エリザにもまりねにもその感覚が分からないが、本物の魔法使いにはその言葉の真意が分かるらしい。
何がそうさせたのか、エリザとまりねはクロウセルを見てその佇まいに覚えがある。また彼の、クロウセル・ハルトベスの長考に。
その停止をどう捉えたのか、デルシェリムはクロウセルの言葉を待たずに続ける。
「あの警察署で用いた術式だが、ヤツに監視されている可能性がある。この仕事には直接関わり合いのある手合いではないが、あの方には直接的な関わり合いのある――」
「もういい、それで解った」
なにが分かったのか、エリザにもまりねにもさっぱり分からないが魔法使い二人がそれで相互に納得したのなら、彼女たちには口を差し挟む権利など無い。知らぬ間にエリザとまりねの護衛が本物の魔法使いに決まったのだと分かった途端、急に怖気が二人を襲う。
本物の魔法使いが直接動かなければならない事態になっているのかと思うと、彼女たちにはもう計り知れないモノが動いていて、遥か彼方へ手出しなど出来ようはずもない。
クロウセルはいそいそと、小躍りするような調子で廊下を歩いて行く。靴を履いて、玄関のドアノブに手を掛けて部屋の中に向けて放つ。
「おい、早くしろ。それとおっさん――」
エリザを急かしたのはもののついで。
「なんだ」
「見つけたら俺に回せ、あんたじゃ余るんだろう」
「了解した」
エリザとまりねは二人して、言葉を放ったクロウセルではなく師の顔をみた。『あんたじゃ余るんだろう』という意味に、理解が追いつかなかったからだ。
「――っ。た、ただい、ま」
そこまでは言えたが、それからどうしようかと頭の中で言葉が回る。今、松下エリザの右手は門扉にある。これはまず言い訳の出来るものだ、今帰ってきて門扉を閉めているのだ。そう、顔が家の敷地外に向いているのは門扉を閉めるために振り向いたから。そこにガラの悪い銀髪の、変な野球帽を被っておかしな罵倒語の書かれたTシャツを着ていて、膝のところが裂けたジーンズを穿いた男がタバコを吸って立っていたら気になって見てしまうではないだろうか。
言い訳を探している内に、一つ気が付いたことがある。母を見ながら冷や汗を掻いて、松下エリザが停止しているという絶対的な違和感に、気が付いてしまった。
「どうしたの、エリザ」
「ヴェッ、え、あの。わたしは帰ってきただけで――」
「お友達と一緒に?」
「は?」
「どうも初めて。クロウセル・ハルトベスと申す。交換留学でエリザサーンと同じ高校に通っていますて」
「あら、ご丁寧にどうも」
「……」
何が何だかわからないが、母が発狂したのかも知れない。それとも間に挟まれて、エリザの頭がおかしくなったのかも知れない。
エリザの口からおかしな笑いがこみ上げてきた。ケケケケケと水分が抜けて干からびかけた蛙の鳴き声のような音が、エリザの喉元から漏れ聞こえているのだと気が付いた時、もうどうにでもなれと、何もかもがどうでも良くなった。
「今日はどうしていらしたの」
「お爺さんがベルクガリアウス国出身だと聞きますて、オレモーベルクガリアウス出身ですたら、お話がでけるかと思う、まして」
明らかにふざけてたどたどしい振りをしているが、完全にバカにしている。本気で苛立たしい。なぜこんなガラの悪い男を見て母はなぜ友達だと思ったのだろうか。タバコを口にくわえたままの男を見て、どうして同じ学校の生徒だと認識しているのだろうか。
それは魔法使いだから。エリザは便利な言葉を覚えてしまったようだ。
「ごゆっくりどうぞ」
「ああ、お構いなく」
「……」
当たり前のようにクロウセルは家に上がり込んできて、当たり前のようにエリザの部屋に入ってきた。小さな折りたたみ足の付いた楕円形のテーブルにお茶とお菓子が差し出され、エリザの母は満面の笑みで去っていった。
母の足音が遠ざかり、小さくなっていく。
「~~っ」
エリザが黒よりも若干色素の薄い自らの髪をわしわしと掻いて己の哀れを体現してみせるが、クロウセルは机の上の筆記用具を勝手に使い、置いてあったメモ帳に『扉の向こう側で母親が耳を付けて聞いているから、話を合わせろ』と書き殴ってエリザに寄越す。
まだ魔法使いに関する話をしなくて良かったと思う。が、それならば学校でやったように音が漏れないようにすれば良いのではないか。そんな風にメモ帳に書いてクロウセルに見せるが、それを手元から奪われ、また書いて寄越される。
『声がしないと、それはそれで怪しいと思うが?』
「た、確かに……」
エリザの納得の声を聞いて、クロウセルは本題に関する話を始める。
「変わった人形があるですね。カナコサーンが云っていたお小遣いで買ったーヤツのですか」
「~~っ」
今すぐ全身をわしわしと掻いて走り回る虫唾をどうにかしたい衝動に駆られるが、母親がすぐそこに居るのだと思うと下手に喋ることが出来ない。本当に母親が扉の向こうに居るのかと、ごく普通の一般家庭ならば疑問に思わないでも無いが、エリザは確信している。松下家の、彼女自身の母ならば、確実に不敵な笑みを浮かべて耳を付けて聞いていると、断言できる。
実際、松下エレノア、四十二歳児は嬉々として『初めて娘が連れてきた男』との会話を絶賛盗み聞き中である。いい歳をした地毛からして栗毛色の、日本人離れした顔立ちの女性が娘の色恋に一番の関心事であると心躍らせながら扉にへばり付いている。
魔法使いの男からすれば足音を工夫して偽装した程度では欺き方が幼稚すぎて鼻で笑う芸でしかないが、その工夫カッコワライを駆使して真剣に聞き耳を立てる女の娘は死ぬほど恥ずかしい思いだった。
「そ、そうなのぉ~。か、かわいいでしょう」
銀髪の男、エリザ両名がどうしようもないくらい頭の悪い芝居を目の前で始めた為、そのとばっちりを受けた赤いコートを着た人形、フリードはどうして良いのか分からずただ押し黙っていた。
下手に喋ってはいけないのだろうと思う。
片方は紛う事なき魔法使いであり、片方は紛う事なき我が君、主たるエリザだったからだ。エリザがこの男に身の危険を感じておかしな芝居を始めたのだろうか、それとも何か訳あって二人でこんな事をしているのか。命令の無い人形は、ただ黙って事の顛末を見守るほか無い。
フリードの沈黙にエリザは内心感謝している。明らかにフリードは状況が分からなくて黙っていてくれているようで、余計な問題が増えずに助かっている。
それは良い、それは良いのだが。この不自然な会話ごっこの中で気になることが多々ある。
何故エリザの祖父がベルクガリアウス国出身だと、クロウセルが知っていたのか。何故カナコの事を知っているのか。その男に聞きたいことは山ほどあるが、まず共闘して最大の敵を討たねばなるまい。
「それで…… お母さん、いつまでそこにいるの?」
ぶち切れた。というか芝居が面倒だし、気持ち悪いので一刻も早く止めたかった。
「あ、あはは。お母さん、お、おじゃま虫さんかなぁ?」
エリザが扉を押し開けると、ごつんと何かに当たる衝撃と「あたっ」という普段から聞き慣れた声。扉を開けて第一声に自分の年齢を考えていない様な可愛い子ぶろうとする態度と、今時から完全に置いてけぼりにされた経年劣化した様な言葉の内容。
「……」
「や、やめて。先月の日曜にお買い物に一緒に行って『姉妹ですか』って訊かれたばかりじゃないっ。そんな可哀相な母親を見るような眼は止めて。せめて年の離れたお姉さんくらいの感じで――」
「は?」
うぜぇ。ちょー、うぜぇ。
確かに姉妹ですかと訊かれることは話しかけてくる人間の内、四割くらいは居る。いい歳なのに見た目は若く、着ている物も娘のモノを拝借したりする四十代の痛母である。体型が近しいが「それ」が有る分、娘の服を着るとかなり扇情的に見えるのも腹立たしい。時たまエリザの服を部分的に「伸ばした」と言い出す辺りも腹立たしい。
どうして父はこんな頭のねじが全部飛んでいった様な女と結婚して子供を作ろうと思ったのだろうか。その子供のエリザ自身がまず問題のある母に辟易している。父は厳格なタイプの人間だが、何故母と夫婦になろうと思ったのか未だに娘であるエリザは理解できない。
死んだ魚の目なんてまだきれいだと思う。それくらいの荒んだ心で母を見つめていると、目が恐い目が恐いと半泣きのエリザ母が助けを求めてクロウセルの方をちらちらと覗き見ていたが、娘に足蹴にされて強制退場させられた。
「ちょっと、ちょっとで良いから精神が安定するまで待って」
「ん、大変だな」
絶対に「大変そうだなぁ」などとはその態度からは感じられない。
しかし、人に対する思慮というものは辛うじて有るようで、家の中に入る前にタバコを魔法で消し去って、家の中に入ってからは吸おうという気配がない。同日、長い時間エリザと居た時は大抵、口にタバコを咥えていて、それを吸っていたがエリザの家では吸わないらしい。
師の家では断りもなく勝手に吸っていた気がするが、どうしてだろうか。
「それで、お前がフリードか」
これ以上人形の振りをしている必要はない。両足を前に放り出してだらしなく座っていたフリードが、小さな洋服箪笥の上でおもむろに立ち上がり、対面する男へ言葉を返す。
「……いかにも、私がフリードでございます。して、貴方はどちら様でしょうか」
「クロウセル・ハルトベスだ」
精神的に参ったエリザを放置して、勝手に一人と一体で話が進む。一応、エリザはやり取りが聞こえているのでいいが、また母が扉に耳を押しつけていないかと不安に思い始めてしまう。
「お、お母さん居るかも知れないから、小さい声で――」
「嬢ちゃんの母親なら一階、リビングのソファーに飛び込んで、うつぶせのまま足をジタバタさせてるぞ」
「……」
エリザは顔を手で覆ってこの世の終りのように嘆いてしまう。脳裏にありありと母の年甲斐もない行為が浮かんでしまって、誰にも顔向けなど出来ない。
「何故、我が君と共にいらしたのでしょう」
「お前の主人が請け負った仕事でお前が必要になったから、取りに来ただけだ。俺は別件で付いて歩いているだけだから気にするな」
手出しはしないが、口は出す。そう言っていた男が、ここからはその仕事には余り関わらないと言ったに等しい。別件で来たと言われて、これ以上影に関わってくれる保証など無いのだから。
「そうでしたか。では、我が君。共に参りましょう」
「え、でも――」
よたよたと生まれたての子鹿のように床を這って途中で立ち上がり、クロウセルの横に立つ。見据えるのはフリードで、フリードもまたエリザを正眼に捕らえた。
「私の為すべきは守るべきを守る事ですから」
フリードが何を言っているのか良く解らなかった。元々フリードを作ったのはエリザではなく、デルシェリムである。彼が何をフリードに言い聞かせて居たのか、それはエリザは知らない。去年までただ普通に、ただの人間として生きてきたエリザには全く理解できない何かが、彼らの共通認識であるようで、それを理解するにはまだ彼らと共にいる時間が短すぎる。
「我が君よ、何なりとお申し付け下さい」
恭しく一礼して、ただそう言葉を掛けてきた。フリードを戦わせる。本人は戦って誰かを守ることに意義があると、そう言っている風だった。エリザには彼の、彼ら魔法使いの世界が戦いを回避できないモノだったとして、それを理解するにはまだ時間が必要だと思い知る。
一つ、エリザは溜め息をついて考える。エリザ自身が戦う方法が思いつかない。確かにデルシェリムから「お前にはこれがあるだろう」という言葉を、お墨付きの言葉を頂いた『ちょっと人よりも丈夫な体』があるが、体だけ丈夫だったとしても何かを相手に戦えるような能力はエリザには無い。
それを、この四十センチに満たないフリードは持っているのだ。
フリードをどうやって外に持ち出すか。立って歩いて、喋って考える人形である。目立って仕方ないが、大きさは四十センチ程度で鞄に押し込むことが出来る。フリードを外に連れ出すとき、エリザは必ず使う鞄がある。
それを仕舞っていたクローゼットを開けはなって準備し始めたのだが、一つ考えた事がある。学校の制服だとこの先大変ではないか。当然動き回るのなら服は汚れるし、最悪破れる危険性がある。スカートならば走るのにも不便だろう。そう、考えたら当たり前の事を思いついた。
「……着替えるから」
「あ、それで」
「出てって」
「一人で出てたら怪しまれるんだが」
「魔法使いならお母さんに分からないように出られるでしょ」
「出られるが、今度は急に消えたらそれはどう思うよ」
「……あのさ、あんたバカじゃない。廊下で待って居ればいいじゃない」
「……あ、ああ。そうだな、そうだったわ」
本当は裸の一つでも見たかったのではないかと、またエリザは手が出そうになったが、そこは堪えることにした。
デルシェリムならば関係の修復の為にはある程度の相互理解があるが、エリザはその男を殴ったら最悪ここで反撃を受けずとも、この先の協力が得られないのではないかと思い当たる。
殴らずとも、クロウセルは自ら進んで部屋を辞した。悪い癖が出たのだ。他に気が向いているとクロウセルは余り周りを顧みない。気が付けばタバコを口にくわえる事もエリザの家に入ってから忘れていたらしい。
陣を敷かなければならない。普段は可能な限りタバコの煙に巻いて式を書いている。デルシェリムの城に入ったとき、タバコを手放さなかったのは常に不利な状況下に置かれる身の上を忌避して意識的に行っていた。
この、エリザの家には魔法使いとしての初歩的な陣もない。クロウセルがエリザの母の動向を簡単に追えたのは単純に防御策や警戒の陣が一切無かったからだ。
軽く魔力を流してその先で当たるモノの形状や、無機物、有機物の違いを簡単に知ることが出来た。そういう芸当は子供の頃からのお遊びに過ぎないが、ここには子供以下の生き物しか居ないのだから、その程度の「お遊び」ですら彼らにはそれこそ『魔法』の様に見えるのだろう。
タバコを吸うのは問題外だ。いつものように、いつもの通りやるならばそこに出来上がるのはクロウセル・ハルトベスという個人の城となる。問題はこの家は松下エリザという魔法使いの家だ。勝手に陣を敷く訳にもいかず、かと言って無責任に放置するのも問題だ。
曲がりなりにも魔法使いの師弟というものはその性質上、強固な、強固に過ぎて血で綴られた連綿の意志がある。安易に弟子を他者に任せる事など『決して』しない。
クロウセル・ハルトベスには弟子は居ない。取ろうと思ったこともなければ、なりたいと言って来た者も居ない。だが、彼自身は魔法使いの弟子だ。
クロウセル・ハルトベスの師はもうこの世には居ない。誰が誰に殺されたとか、誰が誰を殺したとか。またどこかの誰かが術式の実験で自滅しただの、老いさらばえて呆けて老衰で死んだだの。魔法使いとて、易く死ぬ者だ。
他の魔法使いから弟子を預かる。正確には死なないようにお守りをしろと言われる事は兄弟弟子くらいでしか行われない。
デルシェリムの兄弟弟子と呼べる者は実のところ近所に居る。オーデマ・サージである。だがその兄弟弟子とも呼べる男にエリザを任せず、何故かクロウセルに任せると言った。
兄弟弟子であっても険悪な関係を築いている者も少なくない。シュライナー・デルシェリムとオーデマ・サージは険悪とはほど遠い関係性で、現在も近しい場所に居を構えている。
それでいて、他人も他人。更に『同郷』でも無いクロウセル・ハルトベスにエリザを任せたと言うことは、デルシェリム、サージ両名をも上回る手合いをクロウセル・ハルトベスに押しつけたと言うことだ。
それも、わざわざ「アイツ」というクロウセルにとって忌々しい存在まで引き合いに出し、その責を負わせようというのだから拒否する道理が無くなった。
無言で真っ白な壁紙に指を這わせる。描くのは知りうる中で最も合理的な防護のための陣。そこに一切の物理的な痕跡はなく、指を直接這わせてもそこに皮脂など一切付けることもなく、無論皮脂が付かないのだから当然指紋も一つ付ける事なく描ききった。
もしエリザがそれなりの、クロウセルが『子供』だった頃程度の魔法使いになれれば自力で消せる術式の陣を書いておく。自分の城に他者の術式が組まれることは、魔法使いにとって尊厳を踏みにじられる事に近しい。
クロウセルがデルシェリムの家でタバコを吸った時、デルシェリムは険しい顔をしてクロウセルの喫煙を見ていたが、アレが正しい魔法使いの在り方である。
もし本当にこれからも魔法を為そうというのなら、という前提付きではあるが。
クロウセルの背後で扉が開いた。隙間から廊下を伺って居るような素振りがあったが、何をまだそんなに母を警戒しているのかクロウセルには良く解らなかったが、当人が気になるのだから好きにさせることにした。
「もう良いんだけれど」
「こっちも、もう良いぞ」
何が、と疑問に思ったのだろう。小首を傾げて何を言っているのか全く分からなかったのだろうが、クロウセルが説明した所で互いに理解できない事になるだけなので黙っておく。
部屋から忍び足で出てきたエリザは学校の指定制服からパンツルックに着替えていた。ベージュのチノパンに、縞模様の赤と白のタートルネックニット。紺色の上着を着ていた。
それで戦えるのかとクロウセルは口を突いて出そうになったのだが、すんでの所で飲み込んだ。その格好は戦闘になったらどういう効果があるのかと一見して思ったのだが、彼女はそもそも戦いとは無縁な生き方をしてきたのだから、そんな事で気勢を削いでも何にもならない。
「あの眼鏡の嬢ちゃんの所に行くんだろう?」
「ええ」
先を歩いて階段にエリザは向かう。肩にビニール製の大きな巾着袋を掛けて歩いて行く。いつもフリードを入れている袋で、今年の夏までこれを持って部活動に勤しんでいた。その部活は高校の三年で引退、高校四年は部活動の禁止が義務づけられている。もう今頃には使うことのない袋だと、去年は思っていたが存外に丈夫で軽く、使い勝手がよいのでエリザはフリードを入れるのに使っている。
その袋を見ながらクロウセルは後ろを付いて歩く。出てきてすぐに気が付くべき術式をエリザが完全に無視した――正確には気が付かなかった――事に呆れつつ、袋詰めにされた人形に若干の哀れみを覚えた。
下階に降りてエリザの目に入ったのは足だった。二本ソファーの肘掛けから飛び出していて、じっとして動かない。近くへそっと歩み寄ってみればうつぶせのままいびきをかいて寝ている母の姿があった。見た目は若いのだが、年齢的な意味で考えれば世間で所謂「おばさん」と呼ばれて差し支えない年齢である。ひとしきり暴れて、疲れて寝たらしい。
母のだらしない寝姿を見ても悲しいだけなのでそのまま忍び足で玄関へ向かう。クロウセルもそれに倣って玄関へ向かい、そのまま二人と一体はエリザの家を出た。
「このあとまりねさんの所に――」
家を出てすぐの事。エリザ宅の敷地から道路上に出た所で、クロウセルはタバコを口に咥えた。エリザから見ればこれだけ吸ってもまだ吸い足りないのかと呆れるくらいには見慣れてしまった光景だった。
話しかけた途中、言葉が途切れたのはタバコのせいではない。クロウセルが手でエリザの言葉を制したからだった。
「早ぇな」
「なに――」
が、とは続かなかった。空から人が降ってきたからだ。エリザの家から十数メートル先、交差点に空から人間が降ってきて、音もなくそこに降り立った。
「ねぇねぇ。それ、どうしてソンなにワカりヤスくハったの?」
「お前に会いたかったからだ」
「フゥン」
上下ジャージ姿の、下駄を履いた男。クロウセルよりも軽薄そうな笑いを浮かべて下駄独特の硬質な音を立てながらにじりにじりと寄ってくる。目測であと八メートル弱。そこで完全に立ち止まり、近寄る気配はない。
しかし、それが互いの合図である。
「嬢ちゃん、向こうは通行止めだから、裏から回って一人で行け」
「えっ、あの――」
「黙って、走れ」
「……」
クロウセルよりもジャージの男に数歩近い位置に居たエリザが、件のジャージ男を見据えたまま後退りして、クロウセルの背を目端に捉えた。
「あれだけ力が出せるんだ。走るのも速いだろうよ」
「り、陸上部だったから走るのは大丈夫」
「そうか。なら振り返らず、死ぬ気で走れ」
死ぬ気で。魔法使いがこういう言葉を使うとは、根性論で人を煽るとは思わなかった。それがどういう意味なのか勝手に解釈したが、エリザの勘はハズレを引かなかったらしい。
クロウセルは右手を軽く振るとその手の中に、いつぞ見た青色の杖を回転させながら顕現させた。
エリザはまだ後退る事を止めず、二人の対峙を見据えながら離れていた。クロウセルが杖を回転させる際に空を切る変わった風切り音が聞こえたが、離れるに従ってその音は小さく、聞こえなくなっていった。
「し、死なないでよっ」
「誰に云ってるっ」
エリザは普段から慣れ親しんだ、見知った交差点の端にいると気が付いたとき、大声を出してクロウセルに言葉を掛けたが帰って来たのは憎まれ口だった。
エリザは対峙を為す路地から直角に交差点を行き、クロウセル・ハルトベスを一瞥もなく走った。エリザは着替えてから初めて走ったが、走りづらかった。普段ジャージやスポーツウェアでしか走らないので普段着で全力疾走するとは全く想定していなかった為だ。
後になって学校指定のジャージで良かったのではないかと思ったが、それは今更無理な発想だった。
「よう、お前がおっさんの手に余るって奴か」
「んんん? オッサン? ダァレ?」
とことんふざけた男だった。クロウセル・ハルトベスという男もここで出会う人間には「ふざけたヤツ」だという認識を持たれているだろうが、クロウセルから見てもその男は特別ふざけた輩にしか見えない。だが纏う雰囲気がどうこうと言うモノでもない。
「知らねぇのならそれで良い」
「フゥン。で、ティに会ってどうするの」
会ってどうするのか、などとその男も本意でそう言葉を発したわけではない。これは互いに意思表示しているに過ぎない。犬の喧嘩が吠えて始まるとの大差はない。
しかもこれは犬の中でも低脳な犬の喧嘩に違いない。
距離を測る。ジャージ姿の男も、クロウセルも互いに死地への恐怖から間合いに入る事を忌避している。
少しずつ西に陽が落ち始め、影が長くなって行く。住宅街の直中にありながら人が一人も通らない。クロウセルが杖を振り回したときに人払いなどとうに済ませているからだ。ただ人払いを行ったからと言って、近隣の建物に被害が及ばないとは限らないが。
「キミは、センセより強いのかな」
「さあな、そのせんせってヤツを知らねぇからな」
左前。左手で中腹を持って自らに近い端を右手で握る。構えは槍のそれで、実際クロウセルはその杖、戦杖で槍術を用いる。近接戦闘において槍よりも間合いの長い物は少ない。距離を取って優位に働くのは魔法、術式による遠隔攻撃だが、その場合は相応に対処法を心得ている。
だがそれは当然、クロウセルだけが心得ているモノではない。
ジャージ姿の男は虚空から鞘に納まった直剣を取り出す。近代において武器と言えば銃や砲である。爆弾や化学兵器でも良いが、個人携行には向かない。彼らにも銃や弓矢の扱いは出来るが、飛び道具は基本的に魔法や術式とは相性が悪い。
互いに近接戦闘用の武器を取り出した時点で戦闘は不可避である。逃げるにしてもただ背を向けて逃げるだけという事はもう無い。一度だけでも、一合だけでもやり合って相手の力量を見なければ顔を見せた分、ただの損失である。
ジャージ姿の男は鞘から剣を抜いて、右に順手で持つ。長剣、刃の長さは一メートルは無い、クロウセルの目測で八十数センチ。緋色の刀身をした剣。諸刃で、剣の幅は三センチもない細身。
クロウセル自身、過去に剣を持って戦っていたからこそ分かるが、その剣はそこらの鋳造、粗製濫造品とはまるで違う。その剣を作るためだけに、ただその一本のためだけに鍛治師が鍛造した一振りに違いない。
右に順手の直剣、左手の鞘を手の中で半回転させ、それも順手で持つ。左前に構え、左手で持つ鞘で防御の後、右の直剣で斬り、刺しを行う。
これまでクロウセルは幾度も相手にして来た構えだ。ロズウェルという剣術流派の構えそのもので、多少の差違はあっても十二大流派の一つを見間違える等という事はない。
型の初手が見えるのだから切り込みの方法もいくつか候補に挙がる。
だが、兵は詭道を弄するものだ。
ジャージ姿の男はクロウセルに詰める。その間は秒を刻まない。
詰めて戦杖の間合いを捉えるなり、左の鞘を順手から逆手に持ち替えてそこから左下方より右上方へ振り抜いてきた。
左前に構えていたクロウセルからすれば正面に鞘の薙ぎが来る。簡単に避けられる薙ぎではあるが、敢えてクロウセルは戦杖で受けることにした。
金属が硬質な物体に当たり、甲高い音が耳に届く。
左に構えていた体勢を捨て、戦杖を支点に上方前方へ飛ぶ。杖と受けた鞘を眼下に前宙して躱す。
当然、ジャージ姿の男の右手、緋色の剣がクロウセルが元居た場所の空を切った。
真っ逆さまにその光景を見て、クロウセルはその状態で横に回転する。杖を真横一旋に振って回し、剣も鞘も弾いて凌ぐ。
タンッ、と舌を打つ音が聞こえると同時。ジャージ姿の男は身を二度三度と左右交互に半身を翻して十数メートル飛び退いた。
十数メートル。正確には十四メートル。この距離がジャージ姿の男と、クロウセルとの確定した間合いである。
「うーん、ティはキミ、嫌いだよ」
「そうかそりゃあ良かったよ。俺も殺したいほどお前が嫌いだからな」




