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04

他サイトにも重複投稿。

 松下エリザと滝川まりねの師匠はとあるマンションに住んでいる。そこは一言で言えば寂しい場所である。六棟もならぶマンションには現代的な人家の明かりというモノがない。カーテンを閉めて一家の団らんや単身者の日常を遮光している訳ではない。

 単純に、ここには人間が住んでいない。廃墟、定番である肝試しに訪れる青春真っ盛りの愚か者など来られはせず、また所有者という者もここには来られない。そもそも登記上、この六棟の巨像には所有者など居はしないのだが。

 その内の一棟。何故か通電されてるエレベーターに乗り、七階に辿り着く。歩いて行く先には作りかけの様なコンクリートだけの壁と扉の付いたそれぞれの部屋の入り口が見える。

 コンクリート壁が剥き出しであきらかにタイルを貼って装飾する前の段階だろう。だが律儀に扉は既に取り付けられている。中途半端な状態でなぜ放棄されたのかと、普通の人間ならば考えるだろう。しかしそこを歩いて、ある扉の前で止まったのは三人とも魔法使いだからこそ気にも留めるような問題ではないと思い知っている。

 ただ、その扉の前に三人が着いたが三人はそれぞれ違う考えを抱いていた。

 一人、成人女性はこの扉を見る度、なぜこれほど扉が傷んでいるのか不思議で仕方ない。

 一人、ガラの悪い男はこの扉を見て、なぜこの扉だけ傷んでいてドアノブだけが新しいのかと気になった。

 一人、少女は扉の前に立って鞄から部屋の合い鍵を取り出す。そして鍵を鍵穴に入れ、自分がこの扉をぶっ壊した後悔を握りしめて優しくひねる。

 鍵を抜いて扉を開けるのが彼女にはあの時のことを想起させてあまり良い気はしないのだが、扉を開けて中を窺うとその気は更に良く無くなった。

 目に飛び込んできたのは全裸の女性の後ろに膝立ちになり、その女性の腰辺りを撫で、背中を吟味する師匠。シュライナー・デルシェリムの姿だった。

 瞬間、まりねとクロウセルの前に居た松下エリザは爆ぜるように走った。それはもう見事なスタートダッシュと言うに相応しく、靴も脱がずに部屋へ飛んでいった。

「なにしてるんですかぁっ」

 ぐーぱんち。握りしめた女性らしい小さな拳が師匠であるデルシェリムの顔面に向かう、が。次の瞬間、その腕が掴まれた。

 デルシェリムは膝立ちであったにも関わらずひょいと飛び退いて後ろに下がる。しかしエリザの腕を掴んだりはしていない。ただその始終を黙って見つめていた。

「え、あ、いや。あの、え、なんで、なんでぇ―― 痛っ、痛い痛ぃ」

 全裸の女性が殴りかかったエリザの腕を易々と掴んで止めた所か、ねじり上げてエリザの関節を完全にキメてしまい、そのまま押し込んでエリザを跪かせてしまった。

 中で何が起きているのかと、まりねが部屋を覗けばエリザが全裸の女性に組み敷かれてひぃひぃと喚いていて、全く理解の範疇を超えてしまったので動きを止める。

 更にそんなまりねの反応を見、クロウセルが扉を開け放って中を覗いた。隣でのぞき込んだのが魔法使いとはいえ男性だったので、まりねは大慌てで両の手をぶんぶん振ってクロウセルを押し返そうとするのだが。

「人形相手に、何してるんだ」

 流石に、恥ずかしくなって全員止まった。


「何故、締結者を連れてきた」

「いや、それより何で裸の女の人が居るのか、っていう話が先じゃあないです?」

 今はその裸の女性はソファーに座っていて、一点を見据えて停止している。裸のままそこに座ったのだが、エリザは大慌てで部屋の奥から真っ白なシーツを持ってきて、彼女に巻いて首から下を完全に覆い隠した。留めるものを持ってくるのを忘れたので、首の後ろで縛ってなんとかだましだましにデリカシーのない男共の目から彼女を守ってやっていた。

「人形だって云ったろうが。下らないことで話を止めるな」

「それで何故、方はここに来た」

「文句を云いに来た」

 一人掛けのソファーに座ったデルシェリムが見やるが、クロウセルはその視線を意に介さず、ズボンのポケットに手を突っこんで、くしゃくやになったソフトケースを取り出す。そこから一本タバコを取り出して、今日だけでまりねもエリザも見飽きた魔法から点火、白い糸のような煙を部屋にのぼらせる。

 まりねもエリザも恐怖した。デルシェリムは部屋の中の調度品に対する拘りは並々ならぬと知っている。そこでタバコを吹かしているのだから、二人は心穏やかでは居られない。

 案の定、デルシェリムはしかめっ面でそれを隠そうともしない。明らかに不満顔で、なんならいきなり魔法で殴りかかりそうな気配まである。

「文句とは」

「その嬢ちゃん二人のことだ。お前、教える気はないんだろ」

 なにを等とは今更云う必要性はない。それに、デルシェリム自身思い当たることは一つしかないだろうと、クロウセルは見立てている。どうにしろここで何のことかと嘯いてみた所で、この先二人が死ぬだけだ。本当に弟子だと言うのなら、責任の取り方くらい考えておいて然るべきである。

「方が何を云いたいのかは分かるが、それは違う」

「あぁ?」

「私も同じだが、方は生まれながらに魔法も術式も身近であったろう。彼女らは違う。自然、魔力など見えるようには生まれついていない。また、元々使えないものを使えるようになるには、それを覚えるまでの反復が必要だ。この子らにはまだその時間を取らせていたに過ぎない」

 タバコを一度口元から外し、息を長く吐き出した後に咥え直す。そこから息を吸うでもなく、吐くでもなく、ただ動きを止めた。それがクロウセルの長考の形だとまりねとエリザが気が付いたのは四十分程前のことだ。

 渦巻いているのはだからと言って知識を与えない理由にはならないという、デルシェリムへの文句。それと分かっていてアイツは彼女らにこの仕事を与えたのだという確信をどうここで表現するかと言うことだ。

「だからと云って身を守る術を与えない理由にはならねぇが」

「ふむ、ならばエリザを殴ってみると良い」

「あ?」

「え、なんでわたしを――」

「どれだけ丈夫に作ったか見せてやれば納得するだろう」

「……」

 絶句した。確かに、エリザの体は普通の人間と比べると遥かに頑丈である。どれくらいかと言うと――

「おかしいとは思っていたが、自分でやった訳じゃねぇのか」

「え、えっと――」

「私が作ったが」

 現在の松下エリザは二人目である。正確には松下エリザはこの世に一人しか居ないが、体は二つ目である。本来人間には肉体は一つしかないが、その当然とも思える常識を、ねじ曲げるのが魔法使いだ。彼女の体はシュライナー・デルシェリムの作品の一つである。

「大気圏外から落下しても壊れんぞ」

「壊れるって、わたし物じゃないんですけど」

「似たようなモンだろ」

 師匠に物扱いされた後、タバコを吹かしたガラの悪い男にも酷い扱いを受けてエリザは飛びかかって、ひっ叩いてやりたくなったがそれは止めておく。どうせ勢いに任せて飛び出した所で躱されて終りだろうし、最悪エリザが『頑丈の証明』だとして反撃をうけそうだからだ。

 魔法使いは容赦がないという事をその身を持って知っているからこそ、全力で彼らと戦うことを拒否しなければならない。去年、エリザはこの七階から投げ落とされたのだ。魔法使いに。

「お子様の方はそれで良いなら良いが、そっちの眼鏡美人の方はどうするんだ」

 お子様と呼ばれてエリザは若干苛立ちも覚えたが、実際子供と言えば子供なので睨んでおく程度に留めておいた。それに対してまりねの方は辟易した。ふざけ半分、いや完全にふざけてそう呼んでいるのだろうと理解していて、自分に火の粉が降ってきたことにただ辟易した。

「まりねには戦う術はない」

 デルシェリムのその一言が全てだった。それ以外にクロウセルが聞き出したい言葉など無い。滝川まりねには戦う力はない。そうではない、戦う力を持ってはいけないと言うことだ。

 滝川まりねは「戦力」ではない。

「あー、アイツはなんで嬢ちゃん二人でやれって云ったんだよ。バッカじゃねぇの」

 その後に「やってらんねぇ」と小さく付け加えたが、それを聞き取れたのはシュライナー・デルシェリムともう一人だけだった。

「あの、それでこの人の事は教えてくれないんですか」

 この人とは一応、エリザの隣に座っている謎の全裸女性の事だ。エリザは今両隣に自分よりも大人の女性を侍らせている。左手側にはシーツだけを纏った若くて綺麗な二十歳ちょっと過ぎの女性。右手側には魔法使いのやり取りを呆れ顔と不安顔の交互で見つめる眼鏡を掛けた大人の女性が居る。

 その両隣の女性は、エリザの足りない部分を多く持っていて、寂しく思うのだ。

 そう、もう少しおまけしてくれても良いのではないかと今でも思っている。

「彼女は松田まち、私の作った人形だ」


 人形。字の如く、人の形を取っているものだ。そもそも人形と言う物はいつからあるのか。子供のおもちゃとしてこの世に現れたのか。いや、土偶や彫造のように現れたのか。

 人形のように、自分達を模した物を作るのは人間だけだ。それを人はいつ始めたのだろうか。


「あたし、この子とどこかで会ったことあるような気がするんですけど」

「当然だ、まりねと同じ警察署に勤務させている」

 まりねが彼女をちゃんと覚えていないのは同じ警察署内でも会うことが極端に少ないからである。二人は部署がそもそも違う。まりねは基本的に検視室の主と化していて、松田まちは巡査として交通課に所属し、基本的には警らとして所管区内を二人一組で警察署から長時間外に出ている。会う機会があるのは極々僅かな時間だけ。

 まりね自身、松田まちという存在を「こちら側」にあるとは全く思っていなかった。

「魔法使いとしての見識があればその人形を見つけられる」

「そうだ」

 クロウセルが問い、デルシェリムが応と言う。

 これを正しく理解すれば、滝川まりねは未だシュライナー・デルシェリムの合格基準に無いと言うことだ。滝川まりねは死んだ人間に極端に荷担し、共感する。その死に様を直接本人に問い質すという効率の悪い一芸を有している。

 時たま滝川まりねは豹変する。死に近い場所に長くいて、その死に『直接』触れあったとき、人に終りを示唆し始める。本来あるべき『死』を言い当てるという本物の未来視を発揮する。

 ただそれを知っているのは師であるシュライナー・デルシェリムと彼女の上司だけであり、それを他に教えてやろうとは思っていない。魔法使い同士であれば実際、未来視如きそう驚くような能力ではない。だが、ただの人間達の間ではどうだろうか。

 シュライナー・デルシェリムのまりねに対する評価の段は、保留になっている。彼女がもし、自らの魔法使いとしての在り方に気が付いたとき、初めて戦えない理由を知るだろう。

 しかし、言い換えるのならばまだ未熟だからこそ、松田まちという存在に気が付く事のない幸運が与えられているのだ。

「どうして彼女があたしと同じ警察署に居るんですか」

「単純に監視と管理のためだ」

「管理? 監視はなんとなくわかりますけど、管理というのは」

「そのままの意味だ。雑対係はこの星で私よりも上位の決定権が作ったモノだ。彼の作ったモノだ、監視して然るべきである。それに彼の庇護の元、そこで行われる事態に対処できるよう管理人を立てる必要がある」

「それが、松田さんですか」

「そうだ」

 エリザは真横から「松田まち」という人形を見る。きめ細かい肌に、綺麗に結い上げられた短いポニーテールの生え際から見える後れ毛のこまやかさ。肌を良く見ればちゃんと毛穴も分かる。睫毛の一本一本もつややかで、呼吸をする度に女性的な線が一定の律動を刻んでいる。

 究極、エリザは自分自身の在り方に今一度、驚きを禁じ得ない思いだった。自分自身を鏡で見てもいつもの自分でしかない。この体は作り物であると言う事は頭では理解していても、心で真に理解できていた訳ではない。これから先、師匠と共にいる間には彼女はこの驚きを繰り返すのだろうかと思案していた。

「体が頑丈なだけのお子様と、まともに魔法の使えない眼鏡美人と。戦力は以上、それでどうやってアレに勝つんだよ」

「何故方はそこまで強さに拘る。門番如き――」

「相手が人間だからだ。それも、生き返るのに必死なヤツだ」

「――」

 タバコの先が燃え尽きても、その灰が飛散したり、また固まりとなって落下することはない。燃えて行くと同時に、その灰はこの世からも消えて行く。重力に逆らうようにタバコの先から煙とは別に、真っ直ぐ上に向かって何かに引き寄せられるように、千切れ千切れに消えて行く。

 デルシェリムは調度品に火の粉を被らない事を安堵してはいるが、煙の行く末を案じてもいる。

 クロウセルの言葉から漏れ出た不安が空間に伝播して行く感覚を、その肌身でデルシェリムは感じた。

 影の有り様は人間である。ならばデルシェリムの言葉は安易に過ぎた。

「触媒は人間か」

「嬢ちゃん達に訊いてくれ」

 クロウセルはまだデルシェリムへ大切なことを伝えていない。口は出しても手は出さないという事を伝え損ねている。クロウセル自身、それは厳格に守られなければならない約束事である。その約束を守らなかったらどうなるのか、気にはなるが彼自身そういった、アイツとの約束事を破ったことはこれまでにはない。もし守らなかったら、おそらくこの世には居られないだろう。

「あたしが魔法陣を書いて、エリザが使いました」

「ほう」

 教えてもいない術式を書いたと言うのだから大したモノだ、などとは思わない。単純に必要に迫られてクロウセルに書かされたものだろうとすぐに師は思い至る。

「それでエリザは誰かがこちらを見ていると」

「そうか」

 付け加えるならばまりねも同様の証言を得ている。死んだ人間から直接死因を問い質したのだからこれに間違いなど無い。後ろから襲われて即死したのなら別だが、死者である彼女はそれを見て「黒い人間みたいなモノ」と言ったのだから。

「確かに私は狭量だな。手段のない二人に、影を消してもらおうなどと良く云えたものだ」


 突然女性が、松田まちが立ち上がった。何とか後ろで縛って留めていたシーツが双丘を滑り落ち、全身が露わになる。当然それに一番慌てたのは隣に座っていたエリザで、次に驚いたのはエリザの慌てように当てられたまりねだった。

 慌ててシーツを掴んで松田を覆い隠してやろうとエリザは必死だったが、それを止めたのは他でもない松田まち。立ち上がって、暫しの後、歩き出す。その足にシーツが踏みつけられ、エリザが引っ掴んで覆い隠そうとしたのを意図せず妨害した。

 素っ裸の女性が男二人の前で堂々と歩いて部屋の奥に進んで行く。それをクロウセルもデルシェリムも、目で追うことはしなかった。それにはエリザも気が付いてはいたのだが、柔らかい絨毯の上、小さな踏み跡を肌触りの良い起毛の上に残して行くその姿を、女性としての尊厳にかけて守ってやりたかった。

 だが当の本人、松田まちはエリザの優しさなどには一瞥もくれずに奥の、隣の部屋へ引っ込んだ。そして言葉無く、ただドアが閉められて衣擦れの音が扉の向こう側から漏れ聞こえてくる。

 正確には閉じられた扉の向こう側からはかすかに聞こえるだけだが、エリザが這いつくばって胡桃色の扉に耳を押しつけているから、そう聞こえるだけだが。

「エリザ」

「あ、あの。何してるのかと――」

「着替えさせているだけだ」

「あ、あー」

 唐突に立ち上がって部屋の中に籠もってしまったのは何故だろうか。普通に考えて裸だったのだから、服を着に行くだけだと思い当たるはずだが、先ほどからやり取りなどエリザには正直どうでも良かった。ずっと隣の全裸女性の事が気になっていて、なんとかしてやりたい一心であった。

 去年、シュライナー・デルシェリムに松下エリザの二つ目の体が作られたとき、エリザの目の前には全裸の自分が居た。

 それを思い出さざるを得ない。だからこそ松田の裸を他人に見られることが嫌で仕方が無い。

 我に返るとエリザは扉の前で四つに這っていて、あまりにも不格好だったので咳払いを一つと埃払いを少々。そして動かなかった三人をチラと見て、その後に部屋中を見て回す。

 シュライナー・デルシェリム。彼は魔法使いである。それを端的に示すのは、彼の部屋の中にある制作途中の人の形である。魔法使いを属性だとするならば、彼の職業は人形師である。

 これをふまえて、松田まちの裸体を見てエリザは気が付いたことがあった。なんとなく、自分の体に似ているのではないかと。よくあるアレだ、作者が同じだと作風が似か寄るというアレ。

 一部。そう一部のスペックが「少々」違うが、腰骨のラインが松田まちと似ているのではないかと思えた。

 それに、だ。

「落ち着きがないが、どうしたエリザ」

「……あの、松田さんですけど。もしかして、体の元って」

「エリザだが?」

「だあああああああっ!」

 とりあえず殴った。部屋の奥にあった胡桃色の扉からデルシェリムの腰掛けていたソファーまでエリザは一瞬で跳び込んで、顔面をぶん殴った。それは見事なぐーぱんちで、左手で胸ぐらを掴んでぶん殴った。それも三発。

 殴られている間、特に何の反応もデルシェリムは示さなかったが、

「止めとけよ。嬢ちゃん、師匠だろ」

「~~っ」

 四発目の拳を振りかぶったとき、クロウセルに腕を掴まれた。エリザは一瞬で確かに部屋の奥から、六メートルほど詰めたがそれはまだ目で追える程度の早さだった。それに対して、クロウセルの詰めの早さは目で追える範疇を超えていた。

 人間業ではない。自分の体を元に作った人形を見て、恥ずかしい余り膨張した感情が拳の速度に乗って振るわれただけだが、ぶつけた感情の熱量が排気されて行くにつれ自分が何をしたのかという現状に気が付いて恐怖した。

「見よ、これだけエリザは戦えるぞ」

 そう言ったデルシェリムは口の中に左手の指を入れて何かを動かす。取り出したのは下顎第一、第二臼歯。歯が根本から折れるほどの衝撃を魔法使いに与えていた。

 正確にはエリザは右拳でデルシェリムの顔面左、顎辺りに最も強い一撃が入った。歯を支える顎の骨そのものに強い衝撃を与え、一部が剥離して砕けた。それを体感で理解したのは他でもないデルシェリム当人であり、あまりにも強く当たりすぎているとそれを見たクロウセルが止めに入った。

 身を持ってエリザが戦えると証明したのはデルシェリムだが、人間ならば負傷してまでそれを証明する必要は全くない。全くないが、それが魔法使いだと言うことを失念してはいけない。

 三人の始終を横目に、一人無言で作業を始めたのは滝川まりね。彼女はスカートのポケットに入れていたハンカチを取り出して、キッチンへ足早に向かいそれを流水で冷やす。それを師であるデルシェリムの青紫になって腫れた頬にそっと当て、口を開けるように言ったのだが。

「まりね、処置は必要ない」

「血が出てるじゃないですか、止血しないと」

「問題ない、魔法で埋める」

 そう言うとデルシェリムは自ら手を当てて治癒を開始する。人間よりも圧倒的に怪我などの早急に対処の必要な事態には魔法使いの方が優れている。前職は医師で、主に外科医療や、救急救命でその才を振るってきたまりねにはその力が羨ましいことこの上ない。

「放っておけよ、それくらい良くある」

「顎の骨が折れているかも知れないんですよ、それを」

「どう見ても折れてるだろ、今更だ」

「でも――」

 まりねはそこまで言いかけて、一番焦っているのは殴られたデルシェリムでもなく、止めたクロウセルでもなく、処置をしようとしたまりねでもない。

「ご、ごめんなさい……」

 激高して殴ったエリザが最も焦っていて、壊れそうになっていた。怒りにまかせて人を殴るなど、これまでに何度かしかない。何度か有ったとしても、それは普通の女の子としての力である。殴ったことがあるのは子供の頃、小学生の頃に同学年の男子ととっくみあいの喧嘩になった時くらいで、エリザがその体になってから一度たりとも人は殴っていない。

 その初めて殴った相手が魔法使いで、師匠だった。破門される程度ならば良いが、最悪殺されるのではないか。魔法使いの倫理観と一般人の倫理観は全く違うのだから。

「別に構わん。この程度、損傷したとも思わんよ」

「損傷って、物じゃないんですよ」

 生物を物扱いすることを富に嫌悪するのはまりねの性である。これを知っていてなお、師匠はその考え方を踏みにじってゆく。

「エリザ、お前の体を作ったのは誰だ」

「ししょー、ですけど……」

「ならば、何故私の体も作った物だと思わない」

 魔法使い。確かにその男は魔法使いで、エリザに黙ってその新しい体を実験体にした事のある前科者である。そう、たまたま出会っただけの少女の体を実験材料にするような男だ。

 ならば、自分の体を最初に差し出していない保証もない。

「まりね。お前もこちらへの道を選んだのなら、お前の常識と倫理観など捨てろ」

 抜けた二本の歯をその左手の内で弄びながら、止血を終えた右手は空に、人差し指で線を描く。円を突き抜ける十字に、そのすべてを突き抜ける斜線を一つ。

「最も簡便な術式だ、覚えて行けまりね」

「……はい」

「あの、ししょーわたしは?」

「エリザ、お前にはこれがあるだろう」

 抜け落ちた歯を見せてこれで十分だろうと、師匠からのお墨付きを貰った。

「がんばれー」

 本気でどうでも良さそうな、クロウセルの気のない言葉がエリザの胸に突き刺さる。

 まりねに教えたのは戦う為の術式ではない。それは先の言葉通り、戦う術がないと師であるデルシェリムが断じ、クロウセルも納得した事からも明かである。教えたのは修復の術式。

 まりねは検視室で損壊した遺体を生前の写真の通り、可能な限り修復する事が出来るが、それは魔法など使わずに物理的な技術による修復で為している。検視は本来死因を見つけるだけであるが、まりねは解剖の後、それを修復してから遺族の元へ返す。その修復技量は並の検死官を遥かに上回るもので、現在東都には彼女以上の検死官は居ない。

 そんな滝川まりねという人物に相応しい、修復の術式を師は与えた。

「修練用の木偶とか、壊れた物を修復する式だな」

「そうだ」

 クロウセルでも理解できる簡単な術式。効果自体は大したものではない。治せるのは無機物だけで、生きている人間や動物には使えない。使える無機物も構造が簡単な物に限定され、魔力を帯びた物は直せない。しかも壊れてから数分内にしか効果を発揮しないという、なんとも利便性の悪い術式である。

 それでも無いよりは幾分かマシであろう。それに、何の意味もなくまりねに教えた訳ではない。

「エリザ、フリードはどうした」

「え、連れてきてませんけど」

「何故」

「なぜって、危ないし」

「エリザが直接戦うよりも能力があるにも関わらず、か」

 机の上に乗る人形。ただその大きさはかなりのモノで、両足で直立させると三十センチを越え、四十センチに迫る大きさの人形だ。そんなものをエリザが持って歩いたらおかしいだろう。

 持って来るときも、帰る時も、フリードを持って歩くときは大きめな鞄に入って貰って運んでいる。それをすぐ動けるようにと腕に抱いて持って歩いたとしたら、世間はエリザをどう思うだろうか。

「なんだ、フリードって」

「私が作った人形だ」

「使えるのか」

「サージの戦闘経験則をすり込んである。長物を持たせてやればエリザよりは戦える。方には劣ろうが」

「嬢ちゃん。そんなモノ持ってるなら初めから云えよ」

 フリードは戦わせる道具ではないと、初めから使う気はなかった。一度だけ師匠に使って見せろと言われてその通りにしてみたが、あまりにも普段のフリードと違いすぎてエリザ自身が使いたくないとその選択肢を除外していた。だが、師であるデルシェリムは言う。

「フリードはそもそも戦わせる為に作った人形だ。誰かを守ることがアレの本懐であって、愛玩用の着せ替え人形ではない」

「……」

 エリザとしてはフリードは既にデルシェリムから貰ったものだ。だからフリードのこの先を決めるのはエリザである。そう思っている、それはこれからも変わらない。だが、フリードがどう思っているのかと言う事には気が回っていなかった。

 人形であるフリードにも、確かに会話するだけの知能がある。人の顔色を伺って、疲れているのではないかと気に掛けるだけの心がある。ただの人形ならば自分勝手な所有権も認められるかも知れないが、フリードは魔法使いによって作り上げられた意思ある人形だ。

 口を突いて「でも」などという言葉が漏れ出たが、それを斟酌するような輩ではないのだ。魔法使いなど、そういう生き物だ。

 逆に言えば、そういう生き物を相手にしなければいけないのだ。

「フリードに訊いてからでも良いですか」

「嬢ちゃんの人形なら嬢ちゃんが決めればいいじゃねぇか」

「……はい、ですからフリードに決めて貰う事に、私が決めました」

 音もなく扉が開いた。だがそれにはエリザも気付いた。人の足音がする。クロウセルは早々にエリザから離れて部屋の入り口に突っ立って、まりねは元の三人掛けのソファーに腰掛けている。教えて貰ったばかりの術式をメモ帳に書いて破り、試しに使って破れた箇所を戻して悦に入っている。

 デルシェリムなど抜け落ちた歯を元の場所に歯を入れ、空に指を走らせて術式を書いて直そうとしている。扉を開けて歩いてくるのは、エリザ以外には一人しか居ない。

「――」

 無言でただ部屋を歩いて行く。松田まちが着ていたのはサイズが大き目のカーディガンに、その中は白いシャツ、クリーム色のチノパンを穿いていて街中を見渡せば何処にでも居そうな普通の女性だった。

 歩いていなければ等身大の人形にしか見えない。それくらい感情もなければ他に対する関心もない。障害物と認識した物だけを確認してするりと四人の前を過ぎて行く。玄関に辿り着くと三人が来る前から置いてあった靴を履いて、不格好な鉄の扉を開けて出て行ってしまった。

「え、あの、あのままで良いんですか」

「家に帰ればすり込んだ人格が動き始める。そういう物だ」

 やはり、魔法使いにデリカシーなど無いのだと、実感した。エリザは殴ってやりたい気分だったが、これの分を引いても後二回分、貯金があるのだが。




 同日。夕暮れ時。ある公園には子供達の歓声が響いていた。子供達を迎えに来た母親や、子供達と一緒に来ていた母親が子供達を尻目に談笑に興じている。昨日とそう変わらない風景で、これからも変わらない風景。

 大抵の場合、昨日から今日へ変わっていく感覚など人間にはない。寝て起きたら昨日から今日という概念に切り替わっている。日が落ちて、朝日が顔を覗けば昨日から今日へと、境界線を跨いだ事になるのか。

 否だ。答えは否である。


 地面に大きな丸を描き、隣り合わせに二つ丸。その次は一つ。続いて一つ、二つ丸。

 木の棒で子供達が書いた片足跳びと両足着地を繰り返す、昔から有る児戯。六人ほどの子供達が、年齢も性別も関係なく、そこで跳んで跳ねて転げて遊んでいる。

 そこに、男が現れた。

「ねぇ、タノシイの? コレ」

「あ、なんだよ。おっさん」

「ティもこれ、ヤッてみたいんだけどなぁ」

「おじさんもやるの? こうだよ、こう」

 一つの円を片足で跳んで、二つある輪を両足で着地する。テンポ良く飛んでいった五、六歳くらいの男の子は円の並ぶ向こう側まで辿り着くとやりきったと言わんばかりに満面の笑みを浮かべていた。

「フゥン。じゃあ、ティもヤルー」

 そう言うと上下ジャージ姿で下駄を履いた男が先ほど飛んだ男の子に習って円の中を跳び、両足を着いて、また飛んで進む。初秋だが素足で下駄を履いていて、整地された砂混じりの地面に下駄の硬い踏み跡を残して行く。

「イ、エェーイ」

「いえーい」

 飛び終えた先で待っていた少年とハイタッチして、また振り返って次に来た十歳程度の少女とハイタッチして迎える。

 この始終を関心を持って見ていたのは周りにいた母親達だった。ただの談笑、それだけでここには来ない。人が集まればそこには振り幅が増える物だ。人が集まれば優秀な人間が応分に増えるように、人が増えると応分に悪辣な者も増えるのだ。

 数年前から不審者の目撃情報や不審死が東都内で相次いでいる為に、皆子供達を外で遊ばせる事に神経を尖らせていた。その母親達の互助のために立ったまま、いつでも子供達の元へ駆けつけられるように。母親達の着飾りたいという女性としての欲求よりも、駆けつけてやるためにと、彼女たちに運動靴を選ばせるくらいには、東都内の不審者に対する警戒は一般市民に浸透している。

 それが、母親達の監視の中でその男は突然、子供達の元に現れていた。

「おじさん、何してる人?」

 最初にゴールにたどり着いた男の子が、平日の夕方になぜここにいるのかと、彼に問いかけた。

「んん? ティ? ティはネェ、このヨのシンリをタンキュウしているんだヨ」

「シンリ? えっと、ああっ! おいしゃさんなの?」

 シンリと聞いて、精神科か心療科の医者だと勘違いしたのかもしれない。真理などと子供に言ったところでそれを捉えることは出来ないだろう。子供では捉えることが出来ない、だが、大人でもその男の言うシンリには辿り着くことはないだろう。

「ンー、オイシャさんじゃないけど、ニたようなモノだヨ」

「ねぇねえ、おじさんはどこから来たのぉ? ちょもらんま?」

「チョモランマは国じゃねぇよ、リキ。山だ。先週、テレビでモリノが登ってたヤツ」

「チョモランマより、ズゥーット、トオいトコロだヨ」

 その男は気が付いているが、子供達が他の子供達に気付かぬ間に男の周りには五人も集まっていた。

 小さな女の子が彼のジャージを引っ張って言う。

「おじさん、外人さんでしょ?」

「ああ、そうだよ。ティはね、ガイジンなんだヨ」

 そう聞こえたはずだが、子供達の前から男は消えていた。

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