第十二話「ミラーレス」
生まれてからの記憶は存在しない。
彼女にとっての記憶は、あの湖のほとりでユキオと出会ってからだ。
それまで、ずっと過酷な環境で飢えに苦しみながら生きながらえ、運命を呪いながら生きてきた。
彼女はまず楽しいという感情を失った。
動物との追いかけっこは、いつのまにか狩になり肉を喰らい生きながらえた。
そして彼女喜びの感情を失った。
人型の生き物は、従来焼いてない肉を食べない。故に彼女が普段食べていた獣肉は相当にまずかっただろう。
だが、食べていくうちに哀しいとも思わなくなった。
怒りも湧いてこない……なぜなら彼女にとっての普通は、こういうものだったからだ。
喜怒哀楽を完全に失い、森の獣となんら変わらぬ生活をしていた。
だから、初めて石造りの街を見たときは心底驚いた。
その時にはもう十五年の時を生きながらえ、それなりのものを見てきた。
石造りの村、木の家、樹海の先にあったものは、彼女が逃げ出すのに十分な理由を持っていた。
保護しようと追いかける衛士達から逃げ、本能で覚えた雷撃で撃退する。
彼女の雷撃は弱かったが、経験により繊細なコントロールを持っていて、的確に足を麻痺させて足止めした。
その男は最初は討伐する目的で来た。いつも通り足を狙い逃げるつもりだったが、うまく避けられ捕まった。
きっと自分がやってきたように捕食されるのだろうと思っていたが、どういうわけかその男は殺すどころか自分を生かしてくれた。
食べ物もくれて、知識もくれた。
理由はわからない。
いくら知識を得ても彼がわからない。
結婚したというが、群れをなす意味も理由もわからない。
知識を得ても、そんないくつもの謎がとけない。
「……僕は、間違ったんでしょうか?」
「そんなことは……」
あの雰囲気では。カメラの体験会の続きなどできるものではなかった。
「私の方こそすみませんでした……レイラさんの過去も知っていたというのに、はしゃいでしまって」
「いえ、私はあなた達のような姿をみればレイラに変化があるのではと思ったんです……」
実は今回の客は翼人の方ではなかった。むしろユキオの方だった。
「……それでも彼女の闇を想像しきれなかった私のミスです。心理カウンセラー失格ですよ」
彼はレイラの壮絶な過去を聞いて立ち上がった、ボランティアのカウンセラーだ。
あの剣士の旧友であり心理カウンセラーでもある彼は、レイラのことを知り今回の企画を思いついた。
そして、ユキオは彼の話に乗りレイラのために協力しあうことにしたのだ。
「彼女の心の闇は私達翼人の責任です。なんとか、その闇を振り払えればと思ったんですが……」
「いえ、むしろ何年も付き合って闇を取り払えない僕にも落ち度があります……」
二人に責任がないことくらいは、二人とも承知の上だった。だが、お互いに自分を責めずにはいられない。
「……そろそろやめにしない」
奥から彼の妻が顔を出した。彼女の持っている水晶玉には青白い光が宿っている。
「見つかったのか?」
「ええ。ここから東の浮島。そこの森に囲まれた湖の近くですね」
「おねーちゃん、なにしてるの?」
赤髪の短めの髪をはねさせながら、女の子の翼人が話しかける。妹の方だったかと記憶を探る。
「……べつにー?」
「おねーちゃん変な喋りかただよね?なんで?」
今度は黒髪の男の子。こっちが兄。お互いに立派な白い翼が生えている。
「…………」
彼女には嫉妬という感情はなかった筈だ。
だが、今日初めて怒りを感じた。
なかった筈の感情が少しだけだが取り戻せた。自分の持っていないものに対しての嫉妬。
感情を取り戻せたからこそ、その痛みにどうしようもなくなってしまった。
湖に映る自分の姿は自分でも初めてみる姿だった。
怒りと悲しみ……感情を取り戻したからこそ生まれてしまった嫉妬。
(嫌な顔……)
自分の顔に嫌なものを感じるのも初めてのことだ。
わからない。
なぜ嫌なのかわからない。
「……どうして?」
「おねーちゃん。おねーちゃん」
「?」
「ばぁ!!」
振り返ると目の前に毛虫が現れる。普通ならびっくりするだろうが、完全に無反応のレイラをみておおーっと驚く。
「おねーちゃんすごい!!全然怖がってないよ!!」
「や……やめよおぉよ…………けむしにかまれるよぉ」
「……なぜ毛虫を見せたのー?」
「へへっ!すげーだろ!!虫触れるんだぜ」
「やめよぉよーーー!!!」
涙目になりながら、服の袖を揺さぶる。
「……なぜあなたは泣いてるの?」
「へ?……だっておにいちゃん……しんぱいだもん。けむしにかまれたら、いたいんだよ?」
「しんぱい……心配……?」
二人の気持ちがわからない。
毛虫に噛まれたとしても死ぬことはない。たしかに腫れるかもしれないが、そんなのレイラにとってはしょっちゅうだった。
「いてぇ!!」
どうやら調子に乗って噛まれたようだ。痛がり毛虫を落とす。
「うぅ……痛いよぉ」
「……見せて?」
男の子の手のひらをみる。患部は既に腫れてきている。
「……これくらいなら」
「……うん、これで大丈夫?」
レイラの回復魔法で患部は五分ほどで跡形もなく傷が消え去っていた。魔力がもう少しあれば一瞬のうちに治るレベルだが……。
「うん……ありがと、おねーちゃん」
そんなレイラの未熟さなんて関係なく少年は、半月のような大きな笑みと感謝をレイラに返した。
「…………」
「わぁ……おねーちゃんわらった!!」
妹の翼人の顔がレイラの姿をみて目を輝かせる。
「へ?」
レイラ自身、笑ったことに気づかなかった。ただ、男の子が無事でよかったと思っただけだ。
「……私は……」
もう一度湖をみる。鏡写しになったその顔に嫌な感じはもうない。
「……おねーちゃん!一緒に遊ぼ!!!」
「……遊ぶ?なぜ?」
「楽しいからに決まってんじゃん!!」
「楽しい?……わからない」
「なら教えてやるよ!!ここまで来てよ!!」
言われた通り翼を広げ飛び立つ。
「んむ!?」
急に首筋に冷たいものが走る。振り返るとおとなしかった妹がいたずらっ子な笑みを見せる。
「えへへー」
「……いいー?度胸だねー!?」
「ぎゃあ!!」
「うわっ!!」
「二人とも……遅いねー?」
「おねーちゃんが早すぎるんだよ!!」
「おねーちゃん……すごすぎ」
もともと野生で生きていただけにレイラはボーッとした見た目とは裏腹にデタラメなスピードを誇っていた。
「ふぅ……」
とはいえ疲れた。かいた汗を拭うと切らした息を整える。
「おねーちゃん何でこんなに早いの!?」
「…………狩りしてたからー?かなー?」
「狩り?」
「鳥を食べたりー?ウサギを食べたりー?野犬を……」
「え?うさちゃんをたべるの?」
「?そうだけど?」
「かわいそう……」
「可哀想?でもお肉食べるでしょー?」
「それでも……かわいそう」
可哀想……どうして?どうして哀しい?そもそも哀しいってなに?
「……あれ?」
胸を貫く痛み。別に怪我をしたわけでもないのに苦しくなる。
「まったく……すごい子供達だよ」
後ろから声がする。よく聞いた人の声が。
「ユキオー?……どこがー?」
「レイラが一番よくわかってるんじゃないか?」
「わからない……私にわかることなんてないよー?……ないんだよ?」
「そうかな?」
レイラの頰を撫でると、ユキオの指に雫が乗る。
「君はずっと無くしてた感情を取り戻しつつある。君はずっと自分の事を見るだけで精一杯の鏡の世界にいたんだ」
「鏡の世界……?」
「自分が生きる事で精一杯の世界で、本能で生き、鏡でできた世界で閉じこもってしまった。自分しか見えない、見る事を許されない……そんな世界に」
「……自分が生きること以外にー?大切なことなんてないよー?」
「そうかな?だったら、なぜ君は今泣いている」
「…………わからない」
「鏡の中の世界では自分のことしかわからない。だけど、その鏡がなくなり外の世界を知った。だけど、外の世界はわからないことだらけだ。君にとって五年の歳月を経っても、自分がなにがわかっていないのかすらわからないでいた。鏡の世界でずっと自分を見つめてきた君が自分の気持ちがわかってないことに気付いていない」
「……わからない……わからないはわかる。私の心……わからない……心がわからない?なぜ?……」
「君はずっと苦しんでいたんだね……」
「わからない……だって、今までなにがあっても胸が苦しくなることなんてなかった?……笑うことなんてなかった?……なかった?」
「もう君の前には鏡はないよ。だからもう幸せになっていいんだよ?」
「わからない…………みんながなんで泣いてるのかわからない!!!なんで笑ってるの!?なんで怒ってるの!!??なんで!!??」
「……じゃあ、君は今なぜ泣いてるの?」
「わからない!!なんで涙が出るの!?なんで苦しいの!?なんで切ないの!?!?なんで……うれしいの!!??」
ユキオは神に誓いを立てるように、そっとはじめての激情に震える肩を抱き寄せた。
「……僕が君を幸せにするからだよ」
「わからない……わからないはず……?」
「だから……もう泣くな」
心を閉じ込めてた鏡はなくなったから。
彼女は今まで鏡に封じ込まれていた感情をコントロール出来ずに激情をぶつけて……それでも、次の一歩を歩みだした。
「ちょーきもちいーーー!!!」
「わーーーい!!!」
はしゃぐ二人の子供が湖に津波のような激しさの水しぶきをあげる。その飛沫が思いっきりユキオにかかる。
「まぁ、元気なようでよかったけど……」
「すっごいかかってきますね……水しぶき」
レイラはおとなしく水浴びをしている……と思えば思いっきり頭から水をかけられて、お返しとばかりに雷撃を湖に流す。
だが、「ピリピリするー!!」「きゃーー!!ピリピリー!!」とまぁ全然ダメージになっていないようで……。
一方の翼人の父親は夢中でシャッターを切りまくる。もうカメラマン気分のようでいろんな角度から写真を撮っている。
「ごめんなさいね……うちの旦那が」
「いえいえ、おきになさら……ずぅ!?」
奥さんの服もずぶ濡れでほのかな肌色をあらわにしていた。グラマラスな肌色の双子山に気づいて思いっきり反対側に首を高速回転させるが、視線が山の方を向こうとしている。
「?……ああ、お気になさらず、ちゃんと水着を着ていますから」
「ええ!?みみみみみ見てもいいんですか!?」
興奮を隠せていないユキオに、ちょっと引いた。
「……流石にじっと見られるのは嫌ですが……」
「ユキオ……変態?」
「うごっ……」
妻の冷たい視線で思わず俯く。
「……ユキオ……こっち見る」
「……レイラ……」
その姿は奥さんと同様に水で濡れて肌が露出している。だが……。
「…………うん、見たよ」
平原には一切興奮しない。
「……わかったことがある……これが怒る……だね?」
「っ!?待てレイラ!!落ちつけぇ!!」
湖から飛び出たレイラはものすごい勢いでユキオの顔面めがけて突進する。
「ふがぁ!!!!!」
渾身の頭突きが鼻先をえぐり、勢いのまま地面に突っぷす。
「……浮気ダメ……レイラ怒る」
メラメラと怒りの炎が背後に見える。はじめて見るそのレイラの顔に恐ろしさを感じつつもどことなく安堵も感じる。
「ま……待て落ち着け…………お前の電気はいくら弱いとはいえ、接近すれば軽いスタンガンくらいの力はあるわけでぁあびゃああああああ!!!!」
––––––––だが、ユキオはレイラから疑問符が抜けている事に気付いた。
わからない事ばかり、自分の感情すらまともに把握できなかった彼女は、完全に……とまではいかないものの感情を取り戻した。
「ユキオさん!!ユキオさん!!!!」
「––––––––ふはっ!?!?」
一瞬気を失っていたユキオは目を覚まし、勢いで身を起こす。
「すごいの!!すごい一枚が撮れましたよ!!!」
「へ、へぇ、どんなのですか!?」
興奮する写真家の心を抑えつつ、どんな写真かとその画面を覗き込む。
「!?…………こ、これは」
湖で踊るブロンドの髪の天使。
そのほのかに取り戻した笑顔と後ろで無邪気に遊ぶ子供達の姿が奇跡的な情景を映し出していた––––––––。
「––––––––ユキオさん」
ユキオは思った。なぜ自分は今泣いてるのかと。
(ああ、自分もまた自分の感情などわかっていなかったんだな––––––––)
鏡のなくなった世界で、二人はまた歩き出す––––––––––––。




