シンデレラ(仮)
これは、自分の中で「ネジの抜けた物語」として整理している作品群の一つです。メルヘンやら、昔話の名を借りて、全く違うものを書こうとしていますので、メルヘンっぽいものを期待された方はご注意ください。
「えっと、今度の学芸会の…演目はシンデレラということでよろしいでしょうか」
2年1組担任の前原めぐみがそう言うと、教室は、静寂に包まれた。
「それじゃあ、反対がなければ、決定ということにいたします」
張りつめた空気が、誰にもそうさせなかった。
そんな中、前原の正面に座っていた久保塚明子がすっと手を挙げた。
「演目については異存はないのですが、配役というのは、子供たちに決めさせる、HR中に決めるということでしょうか?来週のHRということになりますか?具体的な日にちを教えていただけないでしょうか」
前原は答えを前もって回答を準備してきたのか、間髪入れずに質問に答えた。
「配役については、再来週火曜のLHRの時間中に決めようと思います。まず、子供たちに希望をとりまして、希望が重なった場合には私が仲介となりまして、話し合いで決めてもらおうと考えています」
再来週火曜…急すぎでは…もっと早くに知らせてくれないと…子供達の希望ねえ…本当にそれでいいのか…等々、ざわめきが起こった。
そうした周囲の空気を察してか、久保塚は続けて質問をする。
「もう台本は完成しているのでしょうか?完成しているのでしたら、この場で概要、特に配役等を教えていただきたいと思います。これから子供たちに考えさせて、HRで子供たちに役を決めさせるというのは、あまりに時間が無さ過ぎますし、子供達が希望する役、子供たちにとって「適切な」役に就くということを考えましたら、できるだけ早く情報が行き届いているということが必要不可欠かと思われます。保護者の皆様方、いかがでしょう」
辺りからは拍手が巻き起こった。中には、スタンディングオベーションで賛同の意を示すものもいた。
前原もそのことは分かっていたように、自分の机に向かって、椅子の下から、ダンボールを取り出した。
そして、それを教卓の前に置くと、中から一部を取り出した。
「台本はすでに完成しております。今日は、父兄の皆様方に一部づつお配りしようと思っておりました。もし、疑問点、改善点等ございましたらこの場でご指摘願います。なお、なのですが、この場で訂正がございませんでしたら、今後、一切、苦情は受け付けません」
前よりも、一層大きなどよめきが起こる。しかし、前原はそれを無視するかのように台本を配り始めた。
台本を手にした保護者達は、周りに声を合わせながらも、台本をめくっていた。
「横暴だ!」
一人の保護者がついに声を上げた。
「そうだ!そうだ!」
至る所でそういった声が巻き起こり、収集がつかなくなり始めていた。
そんな中、飯塚俊哉がすっと立ち上がると、辺りは静かになった。
「皆さん、まあ、時間もありませんし、ここは早速、内容について議論した方がよろしいんではないでしょうか?皆さん、シンデレラをやるということには賛成なのでしょう?こうして台本も配られているわけなのですから、先生の台本に目を通すことにしませんか。前原先生、10分ほど目を通す時間をいただきまして、それから、質疑応答に移るというのはいかがでしょう」
久保塚が一人大きく拍手した。
「それでは、飯塚さんから提案がありましたように、10分ほど、父兄の皆様に、台本に目を通していただいてから、質疑応答の時間をとりたいと思います。配役、内容、セリフについても、何かございましたら、挙手でお願いいたします。なにとぞ、挙手でお願いいたします。挙手以外ではご質問をお受け付けいたしませんのでよろしくお願いします」
保護者達は、真剣に台本を読んでいるようであった。そして、自分の気になった点については何かメモをつけているらしく、ペンを走らせている音が静かに教室に響いていた…
「では、質疑応答に移らせていただきたいと思います。まず、質問をお聞きしました後、質問のあった点について皆さんのご意見をお聞きしたいと思います」
一斉に保護者から手が挙がった。
「では、木村さん、お願いします」
前原に当てられた木村幸子は、台本を手に立ちあがった。
「配役についてお伺いしたい、というよりも、ご指摘したいのですが、皆様、ご存じのとおり、シンデレラには、シンデレラをいじめる継母と継姉が出てきます。この役というのは果たして、必ずしも必要なのでしょうか?むろん、シンデレラが逆境にあるということを表現する、一つの材料にはなるのでしょうが、シンデレラが不幸にあるということを表現するには別の方法があるように思います。それに、意地悪な継母、継姉に進んでやる児童というのはいないように思われます。前原先生は、役の希望が重なったときには、話し合いで決めるとおっしゃいましたが、他の役をやらざるを得なくなった児童というのは、自ら役を譲った児童ということになりますよね。そんなにも心の優しい児童が性格の悪い、人から嫌われるような役をやるというのは少々、気の毒なように思います」
前原は黒板に、継母・姉の役について、と書いた。
「えー、木村さんから、このようなご指摘をいただいたのですが、その他、ご質問はないでしょうか。あー、では、田中さん」
「配役について、私もご指摘したい点があります。木村さんがご指摘された点にも関係してくるかもしれませんが、シンデレラで、主だった登場人物というのは、シンデレラ、継母、姉二人、魔法使い、王子様の六名で構成されることになっています。その中で、この台本では、シンデレラは各場面に一名づつの四名、継母、姉二人が最初とガラスの靴を履く二シーンに各一名づつで六名、魔法使いは一名、王子様はパーティのシーンと、ガラスの靴のシーン、最後のシーンの三名と、この台本にはなっています。要は私が何を言いたいかといいますと、この劇で最低限必要とされているのはわずかに十四名で、他の多くの児童は、こういっては何ですが、脇役、パーティのシーンと、ガラスの靴を履くシーン、最後のシーンにセリフもなしに出てくるにすぎないだけということです。まだそれでもいいかもしれませんが、特に、カボチャの馬車の馬役というのは誰がやりたがるんでしょうか?それに、木村さんがご指摘された継母・姉の役を仮に無くすとすれば、主要な登場人物はわずかに八名となり、大多数の児童が脇役に追いやられることになります。」
前原は、黒板に、主要な登場人物以外について(継母・姉も含む)と書いた。
「えーっとでは、つづいて、中村さん、いかがでしょう?」
「はい、私も、配役については田中さんと同じような疑問を持っているという立場で指摘させていただきます。ストーリーについてなのですが、少々ですね、シンデレラというストーリー自体が粗っぽ過ぎると思うのです。あ、いえ、シンデレラをやること自体は反対ではないのですが、まずですね、シンデレラというのは、美しく、気立てのいい娘なのですよね。それが、実母が亡くなって、父親が継母と結婚したことにより、生活が一変する。このことに周囲が同情しないわけがないと思うのです。そして、次に、魔法使いが登場するわけなのですけども、これがあまりに唐突すぎます。魔法使いはシンデレラのことをどこかで見かけていたのでしょうか?さらに、王子様は、パーティでシンデレラに一目ぼれをするわけなのですけども、これにも少々無理があるかと思います。確かに、シンデレラは美しいわけなのですけども、周囲の貴族の娘たちももちろん美しいのでしょうし、生まれたときから、王子の妃となるべく教育を受けてきたわけです。それを、姿恰好だけを飾ったシンデレラが適うものでしょうか。最後に、王子様はシンデレラの落としたガラスの靴を決定的な証拠として、シンデレラであるということを見分けるわけなのですが、これもおかしいかと思います。顔を見ただけでは気付かなかったのに、シンデレラがガラスの靴を履いたというだけで、シンデレラが何者であるかを見分けたわけです。この点についても何らかの説明がなされなければならないかと思います。以上のおかしいと思われる点を踏まえて、配役については変更すればよろしいかと思います。」
新しく、ストーリーの矛盾点(配役を含めて)ということが黒板に書きくわえられた。
「では、ここまでご指摘いただいた点について、ストーリーの構成を大幅に変更する必要性があるかもしれませんので、ここで一度、皆さんのご意見をお聞きしたいと思います。いかがでしょうか。はい、では、堀井さん」
「そうですね、継母と姉ですが、この三人はもともと性格が良かったということにしてはいかがでしょう。ですが、不作が続いて、不況になり、家計が苦しくなったため、心も荒んでいったというのは」
おおっというどよめきが起こった。「社会派ですね!」という声も上がった。
そうした声をかき消すように、豊田が立ちあがった。
「堀井さんのご意見も、大変面白いと思いますけれど、シンデレラというのは、あくまでメルヘンですし、そうした難しい話というのは、ちょっと子供向きではないかと思います」
豊田の声を遮るようにして、今度は久保塚が立ちあがった。
「子供、子供とばかり言うのも、ちょっとどうかと私は思います。学芸会の劇といえど勉強の一環ですし、勉強の一環として社会のことを知るのは大切なことと思います」
久保塚がそういうと、拍手が沸き起こった。
「では、堀井さんのおっしゃったように台本を書きかえるということでよろしいでしょうか。賛成の方は挙手をお願いします…」
前原が数えるまでもなく、手を挙げてないのは少数だった。
「はい、では、過半数を超えておりますので、そのようのように台本を書き換えます。では、続いてご意見のある方はいらっしゃいますか?はい、斎藤さん」
「配役についてですが、魔法使いのお婆さんは、シンデレラの近所に住む主婦の一人というのはいかがでしょう。そうすれば、シンデレラの変身シーン以外に登場させることが可能になります。それからこれは、あくまで私の勝手な考えなのですが、お婆さんの孫を登場させるのです」
斎藤がそういうと、辺りがざわめきだした。
「その孫はシンデレラに恋をしているのです。つまりは、お婆さんの孫はシンデレラのことが好きで、シンデレラもその若者のことが好きなのですけども、シンデレラは、結局王子様に見初められ、家を救うために王子様と結婚するのです」
「ですが、そうなると、シンデレラが城に憧れる動機が薄れやしませんか?」
そういったのは飯塚だった。
「そう捉えられるかもしれませんが、女の子というのは、いつだって華やかなパーティに憧れるものです」
いつのまにかざわめきが、斎藤の意見に賛同する方に傾いていった。
「では、斎藤さんのご意見に賛成の方は挙手をお願いします」
今度は先ほどとは異なり、ポツポツと、そして段々と手が挙がっていった。
「えーと、はい、では、過半数を超えておりますので、斎藤さんのご意見のように台本を書き替えます。では、お婆さんと孫の役を、各シーンに追加するということでよろしいですね。では、そのようにいたします。つづいて他の方、いかがですか。えーと、村上さん」
「はい、あのぅ、大したことではないかもしれませんが、カボチャの馬車の馬役というのは、誰かがやらないといけないんでしょうか?人形とか、何か私達で作ったもので代用できないんでしょうか。子供にやらせるのはかわいそうだと思うので…」
村上の意見に対して、久保塚が再び立ち上がった。
「それはもちろんかもしれませんけど、あの場面っていうのは、シンデレラが変身する劇的なシーンでしょう?それをハリボテか何かで代用するのはちょっと…あまり見栄えが良くないと思いますけど。子供にやらせるのがよくないというなら、父兄の中から有志がやるというのはいかがでしょうか」
緊迫した空気がその場を支配した。その張りつめた糸を断ち切ったのは前原だった。
「いえ、父兄の皆様方にはお子様の演技を見ていただかねばなりませんから、馬の役は私がやることにしましょう。私が出演している時間もそれほど長くありませんし、その間は、他の先生のどなたかに子供たちを見ていただくことにします」
辺りから拍手と歓声が上がった。「いいぞ!先生!」という声もあった。前原はそれに答えるように、小さくお辞儀した…
「では、続いて、いかがでしょうか、皆さん。では、斎藤さん、どうぞ」
「はい、今度も、配役を増やすということなのですが、パーティでは他のゲストの会話を増やしてはいかがでしょうか。年ごろの王子を相手にしようと周りはやっきなわけですから、色々な思惑が渦巻いていると思うんです。ということは、その辺りの描写を増やせば格段にセリフを持った役が増えると思うんです」
「はい、次、前田さん」
「王子というのは、そういう、結婚願望に強い女性達に囲まれて、人生を送っていたわけですから、うんざりしているというか、軽い女性不審になっているというか、そういう部分はあると思うんです。ですから、いい意味で世間知らずのシンデレラというのが魅力的に感じられたのではないでしょうか」
「私はこう思いますね。おそらく、王子は自分の意に沿わない結婚をさせられそうになったんではないでしょうか。そこにシンデレラが現れたわけで、確かに世間知らずのシンデレラは新鮮だったかもしれませんが、王子は、親の決めた相手と結婚したくないばかりに、シンデレラを理想化しすぎて見ていたんではないかと。ガラスの靴騒動は一種のデモンストレーションに過ぎません。王子にとっては、顔がある程度好みで、貴族のように擦れていない純粋な町娘ならば誰でも良かったのではないかとも言えますけど」
「実は、魔法使いのお婆さんはガラスの靴に何か魔法で細工をしていたかもしれませんよ。わざとガラスの靴を置いていくことで、王子に劇的な印象を残すわけです。時間に気づいていながら、わざとぎりぎりになって立ち去り、これみよがしにガラスの靴を置いていくのです。」
「足が臭かったとか。王子は臭いフェチで」
「シンデレラは、実際には不細工で、王子はブス専だったとか」
「実はシンデレラは魔法使いの婆さんが送り込んだ刺客で、国家転覆を狙って、男を惑わす色香と百の暗殺術を叩き込まれてた」
「継母は愛情表現が下手だっただけで、実はいい奴」
「もしかすると、シンデレラは女装癖のある男で、王子の方にもそんな趣味があって、ガラスの靴は逆に、普通の娘には大きすぎたのかも」
「実は夢オチ」
こういった感じで、日曜参観後のPTA会議は穏便に、とりとめもなく進んでいった。昼に始まった会議が終わる頃には、もう日が暮れ始めていた。
「それにしても、今日も久保塚さん、凄かったわね。なんていうかさ、もう豊田さんがかわいそうでさ。周りも、もう完全無視だもん」
私は、学芸会の台本を読んでいたせいで、半分ぐらいしか小百合の話を聞いていなかった。えっ、と返事すると、小百合はため息をついた。
「もう豊田派は壊滅したって感じ?とうとう斎藤さんも久保塚派に寝返ったみたいだしね。私も、えっ、て思ったわ〜。これは無いって。ちょっと、斎藤さん、あんた必死すぎって」
「まあねえ、だって、前原先生も、久保塚さんのいいなりなんでしょ?」
「そりゃそうでしょうよ〜。今日も見たでしょ?『私が馬をやります』って。これで名実ともにお馬さんになっちゃったわけだ。まあこれでさ、、前みたいな表立ったゴタゴタは無くなるんだろうけどさ、なんていうか、問題が派閥内部に集中した分、それはそれでめんどくさいよね」
そういって、小百合はビールを飲み干した。
「それからっ、あんた、まっじめに台本書き写してたけど、意味無いよ、そんなの。どうっせ、直前になって久保塚さんがごねるんだから」
小百合は三杯目のビールを注文すると、台本をバッグから取り出し読み始めた。
小百合とは小中高の付き合いで、大学に行ってからは連絡を取るのも珍しくなっていたけども、偶然、うちの娘と小百合の二番目の男の子が同級生の、それも同じクラスになったこともあって、また付き合いが始まった。
さっから話に出てくる久保塚さんというのは、いわば、小学校の影のボスで、詳しいことは分からないけども、県の教育関係者とも知り合いらしく、先生たちも頭が上がらない存在らしい。
少し前まで、久保塚さんと豊田さんが派閥に分かれて、それもはっきり目に見える形で勢力争いをしていたのであるが、学年主任の前原先生が久保塚派についたことで、大勢は決してしまった。
久保塚派に寝返る者も多く、「貢物」と呼ばれるプレゼントが久保塚さんに贈られたらしい。斎藤さんも豊田派の中心人物の一人だったけども、寝がえり、今日の様子を見る限りでは、久保塚派として認められたらしかった。
私はというと、どちらの派閥にも属しておらず、敢えて言うならば小百合派だった。小百合は、もともとサバサバした性格のせいか、なぜか両派閥のトップに一目置かれ、どちらの派閥にも嫌われることなく、独自の主権を確立していた。私は、小百合の後をくっついていく金魚のフンみたいなものだ。そのおかげで、平穏に、保護者生活?を送ることができている。
「それにしても、こんなドロドロしたシンデレラも見たことないわ…だって最後さ、王子って王様殺しちゃうんでしょ?その後もシンデレラって、幼馴染とも不倫してそうだし…なんか昼ドラみたいだね、これ」
確かにそうだった。
妙なリアリティのある作品に仕上がったのだが、ドロドロしすぎて、メルヘンのかけらもない作品に仕上がったのだった。
完全に、久保塚さん好みの、久保塚編シンデレラになった。
唯一、ファンタジーらしいのは、魔法使いのお婆さんが出てくるということなのだが、魔法でシンデレラを変身させるわけでもないし、さらには、馬と化した前原先生が出てくるのだから…
小百合のいった通り、前原先生は名実ともに馬車馬になったことを考えると、それだけで、シュール過ぎて笑えてきそうだった。
「小百合はさ、優喜君に何やらせるの?」
「うーん、まあ好きなようにやらせるけどさ、どうせあいつのことだから、この兵士Bとか、貴族Aとかじゃないかな。こういうの、面倒くさがりそうだし」
それを聞いて少し安心した。うちの桜は小百合んちの優喜君に惚れこんでいるので、優喜君が王子をやるとなると、うちの子もシンデレラをやると言いかねなかった。
どうせ、シンデレラ、王子役は久保塚派の中心メンバーが牛耳ることが分かっていたので、事を荒立てて、面倒を起こされるのは嫌だった。おそらく、シンデレラには久保塚、木村、田中、中村の娘四人がなることだろう。今日、発言していたのも、そのための牽制だったのだろうと思う。
そんなことを考えていると、小百合が急に顔を近づけて、辺りを窺うようにして、小声で話し始めた。
「あ、そうだ、この話聞いた?あのさ、久保塚さんと、飯塚さん、どうもね、付き合ってるらしいよ。」
思わず、頭の上から、はぁ〜?という声が出た。それを小百合が、シ―っとばかりに指を口の前で立てた。
「で、でもさ、それって…」
「そ、不倫。村上さんから聞いちゃったんだけどさ、とうとうテレビの中の妄想だけじゃ抑えらんなくなっちゃったって感じ。ここらへんのスキャンダルにね、どうも、久保塚政権へのクーデターの兆しがありそうなのよね」
小百合は面白半分に、うーむとばかりに腕組みしていたけども、私には冗談だとか、単なるゴシップなんかには受け取れなかった。
小百合にも話したことはなかったのだけど、私の父は、母が小学校の同級生の父親と不倫したために、離婚せざるを得なくなってしまったのだった。
そのために、私は生まれた場所を離れないといけなくなり、そのおかげで、私は小百合と出会うことが出来たのだったが、どういいように考えても、失ったものの方が圧倒的に大きかった。
「ただいま」
玄関の外からも、カレーのいい匂いがしてきた。
「あー、お帰り」
「お帰り!」
と旦那の声と、甲高い、大きな声が聞こえてきた。ダイニングの方へ向かうと、旦那が娘と並んで洗い物をしていた。父親が洗った皿を、娘がふきんで拭いていた。どこかで見た光景だった。
バッグをとりあえず、椅子の上に置き、私も手伝おうとしたけど、旦那に手で止められた。お前は休めということらしい。
「ごめん、遅くなって。予想以上に長くなっちゃってさ、小百合と食べて、ちょっと飲んできちゃった」
「ああ、メールもらったから、食べてたよ。今日はカレーにしたんよ。そうしとけば、お前も明日仕事だし、作らなくていいでしょ。サクちゃんも手伝ってくれたもんねー」
「もんねー」というかわいらしい声が後に続いた。それだけで、なんだか憂鬱な気分から救われたような気がしたけど、体は重く、疲れを感じていたので、さっさとお風呂に入ることにした。
お風呂から上がって、ソファーに横になり、日曜の、面白くもなんともないどうでもいいバラエティ番組を眺めていた。
そこへ桜がトコトコとやってきて、ちょこんと隣に座った。ゆっくりと頭をなでてやる。
こんな幸せな時間よりも幸せなものがあると信じて、自らそれを放棄する人間がこの世に存在することが信じられなかった。
ふと、思い立って、私はダイニングチェアーの上に置きっぱなしにしていたバッグの中から、今日もらった台本を取り出した。
この物語を娘に聞かせるのもどうかという気がしたけども、私の子供時代よりも、今の子供の方がずっと大人びているし、私が思っているよりも、娘は成長していて、この「シンデレラ」ぐらいの方がうけるのじゃないか、そんな気もしたのだった。
あえて、今度の学芸会でこれをやるとは話さなかった。台本をパラパラと読みながら、私は、文章を編んでいった。最後の辺り以外は、できるだけ台本に忠実に、面白いかどうかは別として。
娘は、興味なさげに、というよりも全くおもしろいと感じていないように、いつの間にか眠ってしまっていた。
シンデレラ(仮)
あるところに、シンデレラという美しく、心優しい娘がおりました。
シンデレラは、お父さん、お母さんと仲良く暮らしていましたが、ある日、お母さんは、病気で死んでしまいました。
お父さんは、お母さんがいなくなって、悲しかったのですが、シンデレラのお母さんと同じぐらい美しく、心優しい女性と出会って、その人と結婚しました。
しばらくの間、シンデレラとお父さん、新しいお母さんとお姉さん二人は、幸せに暮らしていました。
しかし、ある年、一年中天候が悪く、お米や野菜が取れなくなると、お父さんのお店には売るものが無くなって、お客が来なくなり、また、一緒にお店をやっていた友人にもお金をだまし取られて、シンデレラの家は貧乏になってしまいました。
優しかった、新しいお母さんも、家にお金が無くなると、シンデレラやお姉さん二人を苛めるようになり、シンデレラに親切にしてくれていたお姉さん二人もお母さんに苛められて悲しくなると、シンデレラを時々苛めるようになりました。
新しいお母さん、お姉さんたちは、つらくて切ない気持を少しでも抑えるために、お金を借りて、買い物ばかりしていました。
シンデレラはお母さんたちの辛さは分かっていたので、一生懸命働きましたが、借金は増える一方でした。ただ、お母さんも、お姉さん達も、家事の手伝いはしてくれました。
そんなシンデレラを見かねて、近所に住んでいるお婆さんがいつも声をかけてくれました。 シンデレラがぼろを着ているのを見かねては、服を買ってくれましたし、誕生日にはシンデレラの欲しかった本も買ってくれました。
また、お婆さんには孫が一人いました。その孫は、シンデレラのお父さんのお店で働くうちに、シンデレラと仲良くなり、お父さんのお店がどうしようもなくなっても、お店を手伝ってくれていました。
彼は、シンデレラのことが好きでした。シンデレラも彼のことが好きでした。でも、二人の心はすれ違うばかりで、お互いの気持ちを知りませんでした。
ある日、お城で舞踏会が開かれることになりました。王子の結婚相手を決めるためです。
お母さんとお姉さんは、王子と結婚すれば借金も無くなると考え、再び借金をして、洋服やら、宝石やらを買い集めました。シンデレラも一緒行かないかと誘われましたが、シンデレラは、新しい洋服や宝石を買う余裕は無いと考え、また、お姉さん達はとても美しく、本当は心優しくもありましたから、きっと二人のどちらかは王子のお妃に、それは無理でも、貴族たちの目に留まるだろうと考え、ちょうど休めない仕事があるからと言って断りました。
けれども、シンデレラは、本当はお城に行きたいと思っていました。なぜなら、シンデレラのような町娘が城の舞踏会に出られるなんて一生に一度あるかないかだっただからです。シンデレラは、自分を犠牲にしてまでして、お姉さん二人を舞踏会に行かせねばならなかった己の不幸に涙しました。そして自分の運命を呪いました。
するとどうでしょう、呼び鈴が鳴って戸口を開けると、いつものお婆さんが立っていました。お婆さんはニコニコしながら、一着のドレスとガラスの靴をシンデレラに渡しました。表には一台の馬車が止まっています。どいうことかとシンデレラが困惑しておりますと、お婆さんは、黒魔術で稼いだお金があったからとこっそり教えてくれました。
シンデレラは、お婆さんの優しさに涙しながらも、お婆さんと一緒にお姉さん達の部屋に入り、ドレスに着替えました。美しく着飾り、化粧したシンデレラを見て、お婆さんは、どの貴族の娘よりも美しいと思いました。
同時に、お婆さんは少し後悔もしました。もともと、シンデレラに渡したドレスは、自分の孫との結婚式の衣装を先に渡したというつもりでいたのでしたが、しかし、見違えるほど美しくなったシンデレラを見て、もしかすると、貴族の目に留まるかもしれない、そんな不安も感じたのでした。
馬車に向かうシンデレラを見て、そんなことを、お婆さんは考えていたのですが、貧乏な町娘がまさかそんなことにはなるまいと、一夜限りの夢を見させてやろうと思ったのでした。
馬車に乗り込むシンデレラに、お婆さんは忠告をしました。本来なら馬車の利用は0時までだけども、ただ、今回はお城の舞踏会ということもあって、サービスで1時まで大丈夫であること。ただし、1時を過ぎれば追加のお金を取られることになり、そこまで払うお金はお婆さんにはないこと。だから、遅くとも0時までにはお城を出ないと間に合わないと、何度も言いました。シンデレラは何度も頷きました。
しかし、この忠告は、本当のところ、シンデレラを必ず家に帰らせるための、お婆さんの作戦でもありました。
シンデレラがお城に着くと、たくさんの美しい娘たちが優雅に踊っていました。美しいドレスを身に付け、鮮やかに踊る他の娘たちを見て、自分はいかにも町娘だし、上手く踊れないことが恥ずかしくなって、シンデレラは隅の方でうつむいていました。
自分はやっぱり場違いなところに来たのだと思い知り、帰りたくなりましたが、お婆さんの好意を無にはできないから、少なくとも0時までは帰ることができないと、声をかけられないよう、目立たないようにじっとしていました。
シンデレラがそうしている間、王子様はため息ばかりついていました。どの娘も大変美しいのですが、どの顔も同じように見え、娘たちのどんな言葉も、何百回と繰り返し聞いてきたものですから、いい加減うんざりしていたのでした。
父である王は王で、自分から女性に声をかけない王子のふがいなさを情けなく思っていました。せっかく王子のために不況の中、舞踏会を開いたのに、肝心の王子がこの調子では仕方ありません。
王と王子が無言の中、喧嘩していると、大臣とその娘はなんとか王子の気を引こうと必死でした。最近、副大臣の娘と王子が仲良く話しているのをよく見かけましたし、さっきも一緒に踊っているのを見たからです。
とうとう、大臣とその娘は我慢できなくなって王子の前にやってきました。女性の方から声をかけるというのは恥であり、それにも関わらず声をかけたのですが、王子は興味なさそうにしています。
王としては、王子を大臣の娘と結婚させたいと考えていましたから、一緒に踊るよう、王子を説得しました。それでも、王子は興味なさそうにしています。
王子も、あんまりしつこく同じことを言われるので、ついにはイライラしてきて、ぷいと顔をそむけてしまいました。
するとどうでしょう、ホールの隅っこの方に、うつむいて立っている色白のすらりとした女性が目につきました。シンデレラです。
王子は、夢でも見ているかのように、シンデレラの方へ近づいていきました。王子が目の前に立つと、シンデレラは一層うつむくものですから、王子はますます興味を引かれて、強引にシンデレラの手を取りました。
お世辞にも上手とは言えないシンデレラのダンスではありましたが、それはそれで珍しくもあり、王子は目の前の女性にどんどん引かれている自分に気付きました。
王子とシンデレラが一通り踊り終えると、ちょうど0時の鐘が鳴りました。
シンデレラは慌てて王子の元から走り去りました。一国の王子に対して非礼であることは分かっていましたが、まさか、馬車の追加料金が取られるからと言えるわけもありません。
シンデレラは慣れないヒールで走りました。しかし、動きやすい靴しか履いたことのなかったものですから、シンデレラは階段でつまづき、転んでしましました。そのときに、お婆さんからせっかくもらったガラスの靴が脱げてしまいましたが、すでに、王子の呼び声に応じた兵士たちが包囲網を狭めていましたから、脱げた靴を惜しいとは思いながらも、馬車に飛び乗りました。
1時までには、自宅に帰りつき、追加料金は取られませんでした。
翌日、シンデレラは、お婆さんに靴を無くしたことを謝りました。しかし、お婆さんは、あれはシンデレラにあげたものだからと許してくれました。
お城では、王子が部屋にこもって、ため息ばかりついていました。そんな王子の様子を見て、王と大臣はある計画を考えていたのです。
シンデレラ暗殺計画です。王としても、王子と町娘とを結婚させるわけにはいきませんでしたし、大臣にとっては邪魔者以外の何者でもありませんでした。
シンデレラが去った後、大臣がこっそりと兵士に後をつけさせたため、シンデレラの身元は分かっていたのでした。
大臣は、シンデレラの家族が多額の借金を抱えていることに付け込んで、ならず者たちにシンデレラの家族を始末させようとしていたのです。
しかし、その計画に気づいた者がいます。副大臣です。
副大臣は、王子と親しくしている自分の娘に、このことを伝えました。副大臣の娘は、兄のように慕っている王子の想い人が殺されかかっていることに驚き、慌てて王子にそのことを伝えました。
王子は怒りで何も言えませんでしたが、自分の想い人が何という名前で、どこに住んでいるのかが分かり、勇気が出てきました。
そして、王子の方も、王の計画に対抗する計画を思いついたのです。
それが、「ガラスの靴作戦」です。
できるだけ派手に、公然と、シンデレラが妃であることを公言することで、シンデレラに手が出せないようする作戦でした。
王子は、突然、王にも告げず、副大臣と兵士を連れて町に出ると、お布令を出しました。ガラスの靴を履けた者を妃とするというものです。
大臣はこのことを聞いて、すぐに兵を出しましたが、副大臣の兵が王子の周りと、シンデレラの家をそれとなく囲んでいるために手が出せません。
ガラスの靴の前に多くの女性が並びましたが、誰にも履けませんでした。それというのも当然です。
今、列に並んでいる女性達の目の前にあるのは、シンデレラが履いていたものよりも随分と小さいサイズで、大人の女性には履けるわけがなかったのです。中には子供程の足のサイズの女性がおりましたが、副大臣はいくつかのサイズのガラスの靴を用意させており、こっそりとすり替えておりました。
その間、シンデレラの家の周囲には、副大臣の兵士が、町民に変装して、シンデレラを見張っておりました。
しばらくすると、シンデレラの家の中から女性三人が連れだって出てきましたので後を着けましたが、話している内容からしてシンデレラではないと判断し、引き返しました。
シンデレラは家にこもったきりでした。そのことを確認すると、部下の一人を副大臣の元へやりました。
そんな兵士達の様子をこっそり見ていた者がいます。シンデレラのことを気にかけていた、あのお婆さんです。
お婆さんは、もちろん、ガラスの靴の持ち主がシンデレラであることを知っていましたし、他の町娘の話からガラスの靴に何らかの細工がしてあることにも気付いていました。
国中の娘達がお布令の対象でしたから、シンデレラが王子の妃となるのも時間の問題です。
お婆さんは、自分の孫のために何をしてやれるかも分かっていました。このお布令を中止させることです。そのためには、王子と副大臣とを黒魔術で殺さねばなりませんでした。
不幸なことに、お婆さんは、王子と副大臣がシンデレラを救うためにこのお布令をだしたことを、全く知りませんでした。
お婆さんは黒魔術用の道具を取り出すと、早速準備に取り掛かりました。黒魔術の中でも、人を殺す呪文というのは力を使います。
お婆さんは自らの死を覚悟していました。
お婆さんが呪文を唱え始めると、戸口が突然開きました。慌ててお婆さんは振り返りました。
入口にいたのはシンデレラでした。シンデレラは肩で息をしていました。
息を切らしながら、シンデレラは言いました。家の借金のため、王子と結婚するため、ガラスの靴を履きに行くと。
お姉さん達には履けなかったけど、自分なら必ず履けると。
シンデレラは笑顔で言いました。お城に行っても、きっと必ず会いに来るからと。
そして、自分では伝えられないから、お婆さんから伝えてほしい、好きだった、と。
そう言ってシンデレラは走り去っていきました。
お婆さんの家の床にはシンデレラの涙だけが残っていました。
お婆さんは泣き崩れました。しかし、どうしようもないとも思いました。
なぜなら、お婆さんが死を覚悟したように、シンデレラも、自分の人生をかけた覚悟をしたことが分かっていたからです。
シンデレラがガラスの靴の前へと走って向かっていくと同時に、怪しい影もうごめき出しました。王と大臣の放った兵士達です。シンデレラが家の中にいる内は、副大臣側の護衛が厳しく、手が出せなかったのですが、急にシンデレラが家を飛び出し、護衛の方も対応が追い付かなくなっていたため、これ幸いとばかりに動き出しました。
シンデレラがガラスの靴の前にたどり着くまでに、多くの血が流れました。それも、同じ国の、昨日まで仲間であった者達が、大臣側と副大臣側という偶然によって、お互い殺しあったのです。
友人を斬った者もいました。兄弟を斬った者もいました。
シンデレラは、本人の知らぬ間に、こうした犠牲を乗り越えて、ガラスの靴の前に現れたのです。
シンデレラがガラスの靴を履くために、列の前に現れると、王子と副大臣はすぐに気付き、眼を合わせて、小さく頷きました。そしてこっそりと、本物の、シンデレラの履いていたガラスの靴を用意したのです。後は、シンデレラが目の前に現れるのを待つだけです。
王子は、自分の体が喜びで震えるのを我慢するので精一杯でした。そして、あくまでも気付いていないという振りをするのに一生懸命でした。
隣にいた副大臣は気づいていたのですが、そうしたことのために、王子は、シンデレラがどこか憂鬱そうな表情をしているのにはまるで気づきませんでした。
そして、生涯、幸せであったために、シンデレラの本当の胸の内に気づくことはありませんでした。
シンデレラの足には、もちろん、ぴったりとガラスの靴がはまりました。
それでも当然に、シンデレラと結婚できたわけではありません。
父である王がシンデレラとの結婚に大反対したからです。
シンデレラと結婚するため、王子は、王と大臣を刑罰で罰せねばなりませんでした。
シンデレラ一家の殺人未遂と、その他諸々の本来ならば裁かれなくてもよい罪によってです。
こうして、父親の王位を剥奪し、自ら王位に就くことで、王子はシンデレラと結婚することができたのです。
王子は、公正な人、正義の人として、国民から褒められました。
自分の父親を裁いたことで、王子は一時期落ち込みましたが、シンデレラとの幸せな結婚生活と、国民からの名声が日に日に高まっていったことで、元気を取り戻しました。
王子が王になった途端に、長く続いた不況も終わり、国も栄えたため、王子は、歴代一の名君として、シンデレラはそれを支えたお妃として、その名前が長く語り継がれることになりました。
名君と呼ばれた王子が亡くなって、シンデレラも、今まさに息を引き取ろうとしているとき、子供や孫達に囲まれながら、シンデレラは一つ、遺言を残しました。
故郷の町で眠りたいということです。
子供達はシンデレラの遺言通り、シンデレラの遺体を故郷の町に埋葬しました。
このことは、故郷を愛し、忘れなかった王妃として、シンデレラの名声を一層高めるものとなりましたが、本当は、故郷を愛し、忘れなかったというわけでもありませんでした。
しかし、そのことを知る者は、もう誰もいませんでした。
「私」がどうしてこのような後付けをしたか、書いた自分でも揺れている部分ではあります。読んでくださった皆さんが独自に解釈してくださればと思います。