イケメンシロクマ(魔獣)
雫ちゃんが王宮に帰ってから三日。
とくになにも変わらない日常を送っている。
雫ちゃんが王宮に帰ったので、ハストさんは通常の勤務に戻り、副団長として忙しくしている。
私は、レリィ君やゼズグラッドさんと一緒に作業をしたり、、洗濯や掃除にやってくる村の女性と話したり、手伝いをしたり。
……やっぱり、さみしさはあるけど。
今日はガレーズさんに誘われて、みんなの訓練を見学させてもらっていた。
今はハストさんが団員に剣の指導をしているみたいで、ハストさんは今日は木の棒じゃなく、剣を構えていた。
重そうな剣だなぁと思っていたけど、ほかの人よりもやっぱり大きくて、太い。
ハストさんはそれを両手で構えると、その前に一人の団員が立った。
「お、アイツは一番の若手っすね。どうなるかなー」
少し離れた木陰からガレーズさんが一緒に見てくれている。
ただ見てるだけってつまんないっすよね! と明るく言われ、実況を買って出てくれたのだ。
「副団長は右利きだから、右上に剣を上げるっす」
「はい」
「そうしたら、右上から左下にかけて切る形になるっすから、切られるほうは副団長の右側に回り込むのが一番楽に避ける方法なんす」
「なるほど」
ガレーズさんの言葉にうんうんと頷く。
一人で見ていても、そんなことはわからないから、教えてもらえると、わかりやすい。
「あ、ほら、アイツは基本に忠実なやつなんで、避けるときは左に飛びますから見ててください」
ガレーズさんの言う通り、ハストさんと剣を結んでいた人が、ハストさんが剣を振り上げた瞬間、左に飛ぶ。
すると、ハストさんの剣はだれもいない空間を切るはず……なんだけど――
「え」
次の瞬間、団員の剣がぴゅーんて飛んで、砦の石壁に突き刺さった。
……なんでだ。
「あー……だよなぁ。副団長相手にそんな当たり前のこと通じるわけねぇよなぁ……」
丸腰になり、体勢も崩してしまった団員は、お腹と頭を守るように、その場で体を丸めた。
すると、ハストさんはその人のお腹に蹴りを入れる。
すると、団員は剣と同じ方向に飛ばされ、石壁にぶつかっていった……。
「いってぇ……! まじいってぇ!」
「攻撃は剣で受けるな。避けろ」
「あー、くそっわかってんのになぁ! 副団長、もう一本!」
「来い」
明らかに痛そうで、ひゅっと口から息が出てしまったけれど、蹴られた当人はすぐに立ち上がって、剣を引き抜き、もう一度ハストさんに向かっていった。
うん……みんな丈夫だなぁ……。
「イサライ様、さっきの副団長の動きわかったすか?」
「いいえ、まったく」
全然。
「うーん、そうっすよね。俺もちゃんと見えたわけじゃないんすけど、副団長はアイツが左に飛ぶって最初からわかってて、右に振り上げた瞬間、左手を離して、右に振り下ろしたんだと思うっす」
「……はぁ」
「体の活動範囲的には片手にすれば、アイツの飛んだ先にも剣が届くっす。でも、片手だと当たり前っすけど、威力は落ちるし、普通は両手で剣を持って、しっかりと受ければいいはずなんすけどねぇ」
ガレーズさんの解説はわかりやすいけれど、いかんせんハストさんなので、セオリー通りにはいかないらしい。
だって、団員はちゃんと両手で剣を持ち、体の正面で剣を受けようとしていたと思う。
でも、次の瞬間に、剣は飛んで行ったわけで……。
「副団長の剣。威力がありすぎて、受けたら負けなんすよね……」
ガレーズさんは、副団長は人間やめてるんで、と付け足した。
「魔獣もそうなんすよ。受けたら負け。魔獣の攻撃は重いから、剣が折れるか、ああやって飛んで行っちゃうっす」
「ふむ」
「んで、剣がなくなったら、即座に逃げる。どんな体勢でもまず逃げる。じゃないとああやって二撃目で吹き飛ばされて、木とかにぶつかったら、骨がバキバキに折れて終了っすから」
「……へぇ」
「で、イサライ様には、その辺りをね! 見て欲しいんすよ!」
「ほぉ」
「アイツはまだ対人間用の剣なわけですよ。それを副団長が対魔獣用にしていくわけっす。攻撃は避ける。危ないときは逃げる。でも、それって実際に魔獣を相手にしないと、なかなか会得できないんすよ。でも、ここには副団長がいるっすから!」
ガレーズさんは、まじしびれるっすよね! と笑顔で私を見た。
「副団長を相手にしてたら、おのずと魔獣用の剣になるんすよ! ほら、俺も避けるのはめっちゃうまくなりましたからね! 全部、副団長が人間やめてるおかげっす!」
「……ですね」
輝くガレーズさんの笑顔と凪いでいく私の心。
うん。よくわからないけど、ハストさんがみんなの命を守っていることはわかった。ちゃんとわかった。すごい人なんだっていうのは知ってたけれど、ガレーズさんが、ここ最近、毎日伝えてくれるから、本当に身に染みてわかった。
――こわい。
たぶん、ハストさんは、イケメンシロクマという種族の魔獣だと思う。シロクマ型の魔獣なんだと思う。
そうだったんだね、と一人で頷く。
すると、今まで団員と訓練をしていたハストさんが、低く声を発した。
「待て」
大きな声ではないけれど、響くその音。
ハストさんに斬りかかろうとしていた団員はすぐに動きを止め、周りで見ながら順番を待っていた他の団員もハストさんに一斉に注目を向けた。
「……緊急招集をかける。各自、装備を整えろ。一人は団長に報告、一人は魔獣の森に行った者たちを呼び戻せ」
全員の視線を受けながら、ハストさんが落ち着いた声で緊急事態を告げる。
ピリッと走った緊張感は私にも伝わった。
「特に魔獣の森に巡回に行った者たちは一刻も早く、こちらへ」
『はっ』
「行け」
団員たちはあっというまに散開し、それぞれの役目のために走っていく。
ハストさんはそれを一瞥し確認すると、私たちへと歩みを向けた。
「ガレーズ」
「っす!」
「シーナ様を塔へ。最上階が一番安全だろう。そこにレリィとゼズも呼べ」
「了解っす!」
まずはガレーズさんへ。
どうやら、私の避難と、レリィ君とゼズグラッドさんの集合を頼んだようだ。
次に、ハストさんは私へと視線を向けた。
「シーナ様、突然で申し訳ありません。――嫌な予感がします」
「……それは……」
「はい。とにかく退避を」
「わ、かりました」
ハストさんの言葉に、はい、と頷く。
これまで、ハストさんの『嫌な予感』は何度も当たり、私たちを助けてくれた。
だから、きっと今回もなにかあるはずで……。
ハストさんは団員への指示やいろいろで忙しいだろうから、まずはハストさんの指示に従ったほうがいいだろう。
そう思って、すぐに移動しようとすると、ハストさんがふっとその水色の目を細めた。
「ご無事で」
そっと伸ばされた手。
それが私の頭を撫でていく。
優しく、柔らかく触れた手は、私の横の髪を一房取ると、そのまま持ち上げた。
持ち上げられた先はハストさんの口元で――
「では」
一瞬だけ触れられて、すぐに離された髪が、そのまま風に舞う。
ハストさんは、すぐに踵を返して、私は背中を見送るだけ。
「っし! 副団長もやるっすね! じゃあ、塔へ急ぎましょうか」
「……はい」
ガレーズさんに先導されながら、塔へと登り、最上階の部屋へと入る。
ガレーズさんは私が部屋に入ったのを確認すると、すぐにどこかへと走り去った。
たぶん、レリィ君とゼズグラッドさんを呼びに行ってくれたんだと思う。
三日前まで雫ちゃんのいた塔の部屋。
部屋の中央に置かれたソファにぼふん、と音を立てて座った。
「ハストさん……あれは……」
一人の部屋で、思い返すのはハストさんのあの仕草。
……また色気たっぷりだった。年上なんだっていう微笑みだった。
でも――
――いつもみたいに体がカチコチにならない。
顔が熱くもならないし、息が止まることもない。
胸がおかしいぐらいに早く鳴ることもなかった。
あるのはただ――不安。
だって、あんな……別れの挨拶、みたいな……。
「シーナさんっ、遅くなってごめんね」
「……よう」
慌ただしい足音が聞こえたかと思ったら、部屋にレリィ君とゼズグラッドさんが駆け込んできた。
レリィ君は私がソファに座っているのを見ると、ほっとしたような顔をする。
ゼズグラッドさんはそのまま立ち止まらずに、窓まで行くと、その窓枠に座った。
「ヴォルさんがまたいやな予感がしたって聞いた。ヴォルさんは騎士団と一緒にいるから、シーナさんのことは僕とゼズさんで守るから、安心して欲しい」
「うん……ありがとう」
レリィ君が私の隣に座りながら、私の手をそっと握る。
その温かい手が、少しだけ私の胸のざわつきを収めてくれた。
「レリィ君。私……お肉のことなんて、考えてなかった。だから、今までみたいに魔獣が出てくるとは思えないんだけど……」
そう。本当にこれっぽっちも考えていなかった。
これまでと違うから、こんなに胸が騒ぐのかもしれない。
「ヴォルさんの『嫌な予感』は、なんにでも効くんだ。地震とか洪水とかの災害や、食べ物に毒が入ってるようなときも。だから、シーナさんがお肉の考えたとき限定ってわけじゃないんだよ」
「そうなんだ……」
「なにが起きるかはわからないけれど……。今、ヴォルさんがみんなで態勢を整えてるから、きっと大丈夫」
「……うん」
レリィ君の言葉にわかった、と頷く。
そして、立ち上がって、ゼズグラッドさんとは別の窓へと近づいた。
塔の窓からなにか見えないかな、と思ったのだ。
塔の窓からは魔獣の森が見えて、乳白色の結界。
森は広くて、それ全体を覆っている結界は私の視界では全体像がとらえきれないぐらい大きい。
このどこかに穴が開いたとして……。それを見つけるのはすごく難しいことだろう。
ふぅと息を吐くと、そっと隣にレリィ君が寄り添ってくれた。
「シーナさん。あまり窓には近づかないほうがいいかも」
「あ、そうなんだ?」
「うん。もし、突風とかが吹いて、窓ガラスが割れると危ないから……」
なにがあるかわからない。
だから、いろんなことに警戒をしておきたい、とレリィ君は困ったように笑った。
レリィ君の言葉に頷き、窓から離れようと、体を動かす。
でも、最後に、視界の端にあった当たり前の光景がなくなって――
「え」
「……そんな」
その光景をちゃんと見ようと、窓から離れようとしていた体を戻し、もう一度、それをよく見る。
私の隣にいたレリィ君も呆然としながら、それを確かめるように、窓の外を見つめていた。
「……最悪だな」
違う窓から外を見ていたゼズグラッドさんの低く、唸ったような声が部屋に響く。
『最悪』。
そう。まさにそうなんだろう。
――結界がない。
ほんのついさっきまで、私たちの視界に当たり前にあって、そして、私たちを守ってくれていたもの。
――乳白色の結界がどこにも見当たらない。
広大な北の森。
そのすべてを覆い、狂暴な魔獣を留めていた結界。
それはシャボン玉が壊れるみたいに、あっけなく、はじけて消えた。






