温泉に入ろう
夜おやつを作り終わった私は温泉に入るために雫ちゃんを呼びに行った。
そして、なんやかんやとついてきたみんなと話をしていたんだけど――
「ねえ? シーナさんは僕と入る?」
旅館の離れのような佇まいの脱衣室の前で、私はレリィ君に迫られていた。
いつも通りに絡められていた腕に、ぎゅうっと力が入れられる。
そして、斜め下からうるうるの目。かわいい。かわいい……が。
レリィ君と入る……? 温泉……? 温泉?
「えっと、私は雫ちゃんと入ろうかなって……」
「うん。そうだよね。でも、シーナさんは僕と入ってもいいんじゃないかなって」
「……レリィ君と? ……いや、でも、それって……いや? いやいや?」
なにかが、そう。なにかがおかしいような……。
「シーナさん。僕はシーナさんの弟だよね?」
「おとうと」
「そう。弟」
「おとうと」
「弟は一緒にお風呂に入るものだよ」
「……おとうとはいっしょにおふろにはいる」
……そうだっけ? そんな感じだっけ?
わからない。全然わからない。
頭にもやが広がり、なんかまあ、そんなだったような気も……?
思わず頷きそうになると、そこにゼズグラッドさんがはぁ!? と大きな声を上げた。
「おかしいだろ!」
「おかしい……でしょうか」
世界の理が見えないんだ……。
「おい! おまえ、まーくんがどうとかよく言ってるが、その従弟と風呂に入ったことはあるか?」
「まーくん……」
ゼズグラッドさんの言葉に自分の過去を振り返ってみる。
もやのかかった頭でもそれなら思い出せた。
「まーくんと一緒にお風呂に入ったことはあります。……そうですね、まーくんが八歳ぐらいまでですかね。でも、八歳を過ぎると拒否されるようになって……」
「そいつはまともだな。いいか、男はそんなもんだ」
「なるほど」
私には男兄弟がいないので、ちょっとその辺はわからないが、やはりレリィ君ぐらいの年になると一緒に入らないものかもしれない。
ふんふん、と頷くと、今まで私を見上げていたレリィ君がゼズグラッドさんへと視線を移した。
「……もしかして、ゼズさんもシーナさんと一緒に入りたいの?」
「は?」
「まーくんは一緒に入ってたから、俺もいいだろって言う……」
ほう。
「そうなの? まーくん?」
「違う! 全然違う! おい! 自然にまーくんって呼ぶな!」
ゼズグラッドさんはくそっ! と吐き捨てると、ハストさんのほうを見た。
「お前も冷気を放つな!」
そう。ハストさんが寒くなっている。ゼズグラッドさんが一緒に入る、の流れから気温がグーンと下がった。
それを察知したゼズグラッドさんがハストさんに、やめろ! と声を上げたのだ。
「お前は見張りをするんだろ! こいつは俺が連れていくからな!」
そう言うと、私の腕に絡みついていたレリィ君の襟首をつかみ、私から剥ぎ取る。
なかなか器用な扱いで、兄弟が多い中で育ったというゼズグラッドさんらしい。
剥ぎ取られたレリィ君が、ゼズグラッドさんに連れられていく。
「じゃあシーナさんまたあとで」
「うん。あとでね」
レリィ君はいつも通りに笑っていて、一緒に入れなかったことに関してはあまり気にしていないようだ。
温泉の前までついて来てくれたのも、夜の道が危なくないようにと、炎で照らしてくれたからだし、たぶん、ちょっとだけ甘えたかったのかな?
そんなわけで、予定通りに雫ちゃんと温泉に入ることに。
ハストさんはなにかあったときのために、と脱衣室の扉前で待機してくれている。
そうして、入った温泉は――
「すごい……! 満天の星空だ……!」
「本当ですね……きれい」
「湯加減もちょうどいい……はあー……」
日本じゃありえないぐらいの星が夜空にぱあーっと散りばめられて。
石作りでできた湯船には並々と温泉が注がれていて。
肩まで浸かれば、しみじみと声が出た。
つまりはそう――
――最高。
「雫ちゃん見て。向こうの空はまだ紫色だ。あっちに太陽が沈んだんだね。星明りが眩しいから夜だけど、景色も見えるし……。こうやって草原と地平線が見えるってすごいよね……」
その景色に興奮している私とは対照的に、雫ちゃんは落ち着いた様子で言葉を漏らした。
「……日本じゃ見られないですよね」
「……うん」
そう。日本にはこんな景色はない。
山や森が多いから、草原と地平線が途切れなく見られる場所なんてほとんどないからだ。
「……あ、北海道なら見られるかも」
「北海道ですか……?」
「うん。雫ちゃん、行ったことある?」
「……ないです」
「そっか。まあ、私もないんだけど」
テレビとかで見た気がする。
「……異世界って意味わかんないよね」
「……はい」
でも――
「雫ちゃんと一緒に温泉に入って、肩を並べて。こうやってなんでもないことを話すのも、結構悪くない。まあ楽しいかなって」
そう思えたら――
そう思ってもらえたら――
私の勝手な目標と願望。
それを言葉にすれば、ほわほわと漂う湯気と一緒に空気に溶けていく。
沈黙が少しだけ落ちて。
雫ちゃんはゆっくりと話を始めた。
「……私、こんな世界にいきなり呼ばれて、笑うなんてできないって思ってて」
「……うん」
「でも、椎奈さんといるといっぱい楽しいことがあって……そうしたら自然と笑ってて……」
「うん」
……心を動かすのをやめてしまった雫ちゃん。
その心がもう一度、動き始めたのなら、本当に良かったと思う。
だから、思わず頬が緩んでしまうんだけど、雫ちゃんはそんな私を見ていて――
「椎奈さんの笑顔を見ると、安心します。……人のことをいつも考えてて……。みんなのことで一緒に笑って……、そんな椎奈さんを見てたら、きっと周りの人も笑顔になって……」
そこまで言うと、雫ちゃんはそっと私の手を握った。
「椎奈さんはよく笑ってるけど、それはきっと楽しいから笑ってるんじゃないんだって」
温泉の中で繋いだ手が熱い。
「……楽しむって決めたから」
雫ちゃんから零れた言葉は小さくて。
でも、凛と響く。
「楽しいから笑ってるんじゃなくて、笑うから楽しくなる……。笑うことで椎奈さん自身、自分を元気づけてるんだろうなって……そう思いました」
その言葉が胸に届いて……。
「……どうしよう、雫ちゃん」
呟いた私の言葉は自分が思っていたよりも、震えていた。
「……恥ずか、しい」
これは恥ずかしい。
自分では楽しいの押し売りになってるんじゃないかな、と不安だったのだ。
でも、そんな私の行動とか言動を雫ちゃんは雫ちゃんなりの視点で捉えていたらしい。
「椎奈さん、顔が赤いです」
「……これは、ちょっと仕方がないっていうか……っ」
雫ちゃんが私を見て、幸せそうに笑う。
でも、私は自分の顔を見られたくなくて、繋いでいないほうの手で隠した。
そして、ううんっと大きく咳払い。
「し、雫ちゃん! 雫ちゃんは温泉で蒸す料理もあるって知ってる?」
「温泉で料理、ですか?」
「うん。今日は温泉卵を作ったけど、蒸気で野菜を蒸したりもできるんだよ」
明らかに不自然な話題転換。
だけど、雫ちゃんはそれに突っ込んだりはせず、首を少しだけ傾げた。
そんな雫ちゃんの優しさに便乗して、無理やり変えた話題をどんどん膨らませていく。
「たっぷりのもやしやきゃべつ、にんじんをセイロに入れてね、そこにおいしい豚肉をきれいに並べるんだ」
「……おいしそうです」
「ね。ロースならやわらかいし、バラなら脂がおいしいだろうなぁ。ちょっとリッチに黒豚とかにすると赤身もおいしいんだろうなぁ」
豚肉は無限大。
そんな私の想像に、雫ちゃんも楽しそうに乗ってくれた。
「ポン酢ですか? ごまだれですか?」
「あー! どっちもいいね! ニラとラー油を入れて、甘辛のしょうゆだれっていうのもどうかな?」
「食べたいです」
「黒豚、食べたいね」
「はい! ……楽しみが増えました」
雫ちゃんが湯気と一緒にふんわり笑う。
私はそれに笑みを返して――
「シーナ様! 聖女様!」
そこに突然響くハストさんの声。
脱衣室の向こうから聞こえてきたその声は大きな声ではなかったけれど、ちゃんと私たちに届いた。
緊張をはらんだその声に、私も雫ちゃんも笑みを消し、ハストさんの言葉に注意を向ける。
告げられた言葉は――
「――嫌な予感がします」






