日常の移りかわり
模擬刀を振り下ろす。
空気を裂き、断ち切った一枚一枚はそよ風より細い。けれどそれは確実に僕の中に積り、一本一本が比肩無き糧になる。
肉体が、技量が、精神が、そして自分の存在が。
打ち付けられる刀のように、回転する水車のように、恋文を受け取る乙女の心臓のように。
タン、タント、タ、タン タン、タント、タ、タン
「ふっ……もう時間か」
四、五年前くらいからかな。どうにも時間の流れが早くなったように感じられるのは。
一刀振り下ろして、額に浮かんだ玉粒を拭う。縁側に置いておいたスマホのアラームを切り、すぐ隣のペットボトルから水分を補給する。外気によって温くなった水が、熱く燃えた体と心に染みわたる。
近くに立てかけておいた鞘に模擬刀を納め、下げ緒で鯉口を縛めてから専用の袋に入れる。一見するとただの弓袋にしか見えないけどね。
弓袋ならぬ模擬刀袋を肩に背負い、裏庭を後にする。鍛錬中は気にならないけど、ここはムカデだのヤスデだのゲジゲジだのがうようよいるから、落ち着いていられるような場所じゃない。鍛錬の場には虫よけの白い粉を撒いているから踏みはしないけど……やっぱり、見ないに越したことはないからね。
誰もいない客間の荷物を集めて家に帰る。そろそろお祖母ちゃんの高性能PCから離れて、自分のを買うべきかな……お祖母ちゃんもさぞ迷惑だろう。
「まあ、あれから僕の事は過保護になったから、そうとは言ってくれないけど」
本心は分からない。けどまあ使える内は遠慮なく使わせてもらおう。時間は有限。特に僕は、普通の人より時が早く流れているように感じるから、生き急ぐくらいが丁度いいんだ。
家に帰っても誰もいない。人の気配はあるけど。さてはカズとメグ、今日の登校を拒否ったな。確かにあんな学校に行くくらいなら家で勉強した方がよっぽど為になるけど、あいつらゲームしかしないからね……お兄ちゃん心配。
お母さんは仕事昼からかな。お父さんは逆にもう出勤したから、本当に一人だ。不思議と愉快な優越感。
さて、適当にトーストを焼きながらレンジでカルボナーラを温める。スパゲッティも、ナスが入ってなければ食べたんだけどね。
その待機時間を利用して二階の部屋から鞄を取ってくる。ついでに冷凍庫の上の箱からMAXコーヒーを二本とカロリーメイトを一箱頂いて、下げ鞄に入れる。今日の昼食。昨日の昼食。明日の昼食。
充電器やら本やらスマホやらをごちゃごちゃと鞄に詰め込んでいる間に焼けたトーストにマーガリンを塗って、食べながらスマホで小説を読む。画面上の小説はあんまり好きじゃないけど、金欠だからある程度気に入っただけの小説はなろうで読む。仕方ないよ。
トーストを食べ終えた頃に解凍が終わり、今度はカルボナーラを食べながら小説を読む。するとほら呆気なく、食事の時間は終了。靴下を履いて、ベルトを締める。さて、僕は学校に……っと、そういえば昨日読み終えたんだっけ。下げ鞄から本を――図書館の本を取り出し、適当な所に置く。確か昨日買った本が鞄の中に入ってるから、今日はそれでいいや。さて、これで憂いは無し。今日も頑張れ、僕。
――後々、僕はこの英断に感謝する事となる。
「おはよう、神野君」
「…………」
「よう、神野」
「…………」
「あ、未確認飛行ドラゴン」
「にゃんやて!? どこどこ、どこドラゴン!?」
マジです!? ちょっと、ねえ、どこドラゴン!? って……またなの。
「ねぇ佐藤クン? わざわざウチのクラスに来て、何度ドラゴン詐欺をすれば気が済むのかな?」
眼を細めながら、そのイカレを睨みつける。
褐色の直杖、わざとらしく伏せられた眼、杖を持つのとは別の手に分厚い本を携え、何のつもりか、胸には鈍く光る赤いドラゴンを模したペンバッチを付けている。いくら服装の自由が認められているとはいえ、正直舐めすぎだと思う。カッコイイけど。それはもう、憎らしいほど。
「何度してもしたりねぇな。本にのめり込むのも良いが、呼びかける声には応えてやれよ、若人」
「たった二つ違いでしょうに、まったく」
佐藤太郎。ひょんなことから繋がりを持った……友人? ライバル? 敵? 同志? ともかく、そういうのだ。しかし今は敵でしかない。一体どんな崇高な理由によって僕の読書を邪魔し、ドラゴンがいるなんて筆舌にしがたい非道な嘘を吐いたのか……
ふと周囲を見回してみれば、そこには何人もの同級生が。
「ああ、ごめん。何か用かな?」
「いや、別に用って訳じゃねーけど」
「ええと、その……」
男子の……えっと、女子の……えーっと、なんとかさん二人が言葉につまるのに、あの憎たらしい男だけは嘆かわしいとでも「嘆かわしい……」言いやがった顔で次の句を告げてきた。
「挨拶とはコミュニケーションの神、万能の概念を司ると、分かりそうなものだけどな。この世の全ての平凡な関係は大抵、こんにちは~さようなら、で始まるだろうに。情けないぞ、同志よ」
ぐぬぬ……否定できないのが同じ立場の者として悔しい。
挨拶とはすなわち相手が敵かどうかを確認する為の儀礼作業。相手が友好的に、またはいつも通りに挨拶を返して来たら、そのまま普段通りに接すれば良い。だけど、不機嫌に返してきたり問答無用で噛みついてきたりすれば、その場はそっとしておくなり事情を聞いてみるなりするだろう。こいつが言いたいのはそういう事で、なんでもない事実なんだ。
この男に諭されたのが、ただ悔しいだけで。
「お前何言ってんだよ」
「ごめん、私にも分からなかった」
ただし、僕らのような人種の常として、周囲の理解なんて得られる事の方が少ないけどね。
「残念無念。一般人、凡人、平民、まともなヤツ、普通の奴、ありふれた輩に理解なんて求めて無いけどな」
言外に二人の会話を邪魔するなと言い放つ異端人に、僕はささやかな抗議を送る。
「君と一緒にはされたくないんだけど」
「いつも得物下げて学校に来てる帰宅部が何を」
そう言う佐藤君の杖先は、背負っている模擬刀袋に向けられている。確かにそうだけどさ、でも佐藤君みたいな決定的にイカレた奴と同じになんて……
「そういえばこの前異世界に連れてかれて、竜人の彼女が出来たんだけど紹介しようか?」
「是非、あ」
ハメられたっ!
「人の事は言えないだろうに、ドラゴン狂い」
「物語ジャンキーにだけは言われたくないね」
僕と佐藤君の視線(伏せられてはいるけど)が一瞬交錯する。
お互い、自然と笑みが零れて握手をする。
「今度からは玉照黄流と呼べよ、神野鷲雄」
「僕の真の名前は鱗紅鋼竜だよ、佐藤太郎」
「待て、さてはお前ら異次元に住んでるな?」
異人(非常に遺憾ながら)同士の度し難いやり取りに合いの手が突っ込まれる。しかし佐藤……黄流君は微塵も怯まず、さっきの僕に対する「嘆かわしい」と同じ表情で諭した。
「真名とはつまり、魔の名、魔名でもある。魔とは曲がったものという意味でもあり、俺も神……鋼竜も、人生のある部分において何かが捻じ曲がった。心当たりはあるだろう?」
黄流君の問いに、そういえばというような表情で頷く二人。まあ、この辺ではわりと有名な話だからね。さもありなん。
「そうすると、もう前の自分とは違う人間になる。違う人間という事は名前も違うという事になり、ならばそれを自らの趣味で決めて何が悪い。ま、ぶっちゃけると中二病だ」
「否定はできないね。僕もこの名前を付けたのは中学二年の頃だから」
もっとも、そのおかげで色々と吹っ切れて前向きに生きていけるようになったんだけどね。
「あ、あー、そっか。なるほど、分かった」
「本が大好きなだけの人だと思ってたのに……」
でもわざわざ中二病なんて言う必要は無いのに。二人も引いてるし。
「安心して、僕はこの全力全開中二野郎と違って、常識を備えてるから。ほら、ちょっと変わった人だよ。どんな学校にもクラスに一人はいると思うよ」
思い出してみてよ、と付け加えると律儀にも二人は眉を顰めて過去を振り返っているらしく、やがて「そういえばいたような」と口に出して納得してくれた。ふぅ、よかった。僕は普通に生きる上で普通に友達とか欲しいからね。ここでアウェーな空気にされるとまたぼっち生活の始まりになっちゃうよ。それは嫌だ。
「…………俺のクラスは、変人ばっかだよ」
聞いてもないのにどんよりとした雲を頭上に広げる黄流君。そういえば去年、色々と騒動を起こしたクラスが今年も同じクラスで纏められたって聞いた事ある。黄流君もそのクラスかなるほど納得。
「……しかも俺がクラス代表なんだよ、二年連続」
もはや死んだ魚のような濁った表情でぼやく。クラス代表はそこまでクラスメイトに対する義務は無かった筈だけど……その分イベントとかで責任が強いんだったっけ。我の強い、もしくは癖の強い変人ばかりが揃ったクラスを他のコミュニティにすり合わせる、か……大変そうだ。
「っと、すまんすまん。俺がここに来たのは、こいつを渡すためだ」
そして急にハイライトを取り戻した瞳で僕を見、しっかり確認するように頷くと、腰に挿していた棒……いや、杖を抜いて、なんのつもりか僕の机の横に立てかけた。
「え、目が見えないんじゃないのか?」
「わぁ、綺麗……」
「俺の趣味は杖作りだからな。盲者の気持ちも知っておきたいだけだ。さて、横やりを排した所で」
それは綺麗な琥珀色をした杖だった。
所々に素材の皮が残され、しかしその配置が妙に意図的で、まるで螺旋を描く龍の鱗の一部のよう。石突の部分は丸く尖り、握りと呼んでいいのか、とにかく先端部分には恐らく本物の琥珀がいくつも取り付けられていて、その下部は銃器のグリップにも似た握りやすい形に削られている。
なんというか、一言で言えば古代エジプト遺跡にでも納められていそうな杖だ。
「……ネトオクに出せば相当高く売れそうだけど」
「冗談じゃない。そもそもメインの造り手が俺ってだけで、琥珀を用意したのも素材を用意したのも塗料を用意したのも俺の知り合いだ。全部この杖の為だけに用意した、二度と作れねぇような物をどこの馬の骨ともしれない奴に渡してたまるもんか」
「で? そんなミイラの親玉が持ってそうな杖を、なんで僕に?」
そもそも僕と黄流君は最初、敵対していた間柄。紆余曲折を経て仲直りはしたけど、敵対した理由が無くなった訳じゃない。
今でこそ自慢だけど、当時はよくよく嘆いた僕の数奇な運命。その中で巡り合った、一つの敵。
日本……いや、人間がいる限り、世界が平和であるなんて思えもしない者同士。
そんな相手が、どういう風の吹き回しなんだ。
「さてな」
相も変わらず憎々しい表情で、自身の杖を床に突く黄流君。
「俺も友人の占い師みたいな奴に言われて作っただけだ。特定の模様を塗った石を放り、未来を予言する、ってな」
「どこのアメジストの魔法使い部族かな」
「茶化すな。まあ聞け」
黄流君は器用に左手だけで下げ鞄のチャックを開き、中からスマホを取り出してえらく長いパスワードを解除し、僕に一枚の画像を見せてきた。
先に言われた通り、そこには無造作に散らばった石……模様の描かれた、複数の占い石が。
「信じられるか? 『瞳』が被さる『盲者』の隣に『手』と『槌』。槌は何かを作るって意味でもあるらしい。そしてその先にいるのは、『黄』と『蜜』と『杖』に囲まれた、『竜』が被さる『侍』。偶然にしては出来過ぎだと思わねぇか?」
……………………
「ここで単に否定することは出来る」
静かに。この場は僕と黄流君の二人だけしかいない棋士の部屋であるかのように、静かに言う。
「けど、君がそんなつまらない嘘を吐いてまで、そんな立派な杖を僕に送る理由が無い。このご時世、百歩間違えば『新しい骨董品』として通用しそうな『杖』を作る人間なんて君ぐらいだろうから、何かの詐欺って訳でもない」
そんなのは建前だ。
僕と黄流君は一度、刀と杖をぶつけあった仲だ。そこから仲違いを正した以上、一定の信頼に似た認識は当然持っている。
その信頼に照らし合わせれば、この男が嘘を吐いていない事なんて、丸分かりなんだ。
ただ……占いってどうよ。一時は命の奪い合いまでやってた相手に占いがどうこうって。頭おかしいんじゃないの、って思っただけで。
「だからなおさら分からない。なんで僕に杖を送っったのかな? もしや仕込みでもあるとか」
「ねぇよ。流石の俺でも鍛冶職人の知り合いはいないからな。ま、釘のナイフくらいなら作れるけど」
作れる人間の方が少ないっ、ってツッコミは野暮なのかな。
「まあ、あれだ。友の占いを信じ、その為に無償で働き、友情に報いる。なんて……実に、実にロマンだろう?」
ロマン。
なんてふざけた野郎だ。よりによってロマンとは恐れ入ったよ。たかが枝切れで模擬刀と渡り合った変態とは思えない。あの雄獅子の如き獰猛さはどこにいったんだ。
「呆れた、って顔だな」
「だからこそ信じられもするんだけどね」
無造作に杖を掴んで本を閉じる。丁度ドラゴンの挿絵の所を読み終わったし、丁度よかったと言えば丁度良い。
「僕は竜の奴隷、君は物語の奴隷。そういう事でしょう?」
「心外な。俺は物語を広め、まだ読まぬ読者を導く敬虔な読書家ってだけだ。まあ否定は出来ないが」
プロの意識を持つ人間が、自分の分野で致命的な嘘を吐かないように。
僕も黄流君も信念を持つ、いわば人生のプロ。その根底に座す一つの柱に懸けた言葉を疑うなんてありえない。とりあえず宇宙人が座敷童の姿をして現れる事よりありえない。もしくはマーメイドの下半身がイルカじゃないのと同じくらい当たり前。
まともな眼で馬鹿にされる事、尊さでは劣る物が美しい物の構成物になっているように、普通だったら正気を疑うような発言。でも僕らにしてみれば、それだけは確実に信じられるっていう要素があるだけ、普通の人たちより余程好感が持てるんだ。
嫌いでもない人の言葉を疑いぬくような狭い心は持ってない。まあ、そういう事だ。
「元々、あの占いは凶事に対する備えとしてやってもらった占いだ。俺の未来に関する占いで鋼竜が関係したって事は、当然お前も巻き込まれる筈だ。気を付けろよ」
「誰に言ってるのかイマイチ理解してないみたいだね。僕を誰だと思ってるの? 一度は君と危ない橋を渡った仲だよ?」
思い出すだけでも寒気が走るよ。妹とその友人が誘拐されて、というよりその友人が黄流君と知り合いで、黄流君に恨みを持つ輩がついでと言わんばかりに妹も一緒に誘拐したってのが正しい。とにかくその過程で僕と黄流君は犯人を追い、敵味方が分からない状況で落ち合い、お互いのまともじゃない雰囲気から敵と誤認して刀と杖をぶつけあい、紆余曲折の末、ヤクザの組を壊滅させた。妹を誘拐した屑野郎がそこそこの立場だったのと、周辺校に危ない薬物をばら撒いてる事が分かったからなんだけど、いくら協力者が他にいたとはいえ、何度死にかけた事か……
まあ、同じことをやれって言われれば相手の規模にもよるけど不可能じゃない時点で、僕らの異常さは測れる訳で。
「ま、そりゃそうなんだけどよ。戦士なら誰でも知ってる筈だぞ?」
「戦いに絶対はない。調和の神は戦士に戦士を用意するが、混沌の神は常に戦士に勝敗を用意するからね」
頭の中にお気に入りの小説の一説を思い出す。どうやら黄流君も知っていたみたいで、ニヤリと笑って「とにかく、気を付けろよ」とだけ残して教室から出て行った。
「なんだったんだ、今の?」
男の方が聞いてくる。女の方も同じく聞きたそうな表情をしている。
ここで答えるべき言葉は、やっぱりアレだよね。
「僕にとって、今年は魔法の秋になるって事だよ」
首を傾げられた。ま、当然だよね。児童文学とはいえ、普通の子が知っているような本じゃないんだから。例えるなら、そう。ガンダムは知っていてもプロトガンダムを知らないとか、剣を知っていてもバスタードソードとロングソードの区別すらつかないとか、そういうのとまったくおな――
想像していた片手半剣がキラリと光った。
違う。教室の真ん中だ。教室の真ん中で、清らかな白い光が眩いている。え、あれ、ひょっとして魔法陣なんじゃ……
脳裏に幾つかのタイトルが浮かんだその瞬間、僕の、といよりクラス中の人間の視界が歪み、心地の良い吐き気と共に意識を失って……
冗談じゃないっ!
もし仮にこれが思いついた通りだとして、このままおめおめとやられてたまるものか!
意識の綱を思いっきり引き寄せてくる不快感に抗い、せめてもの思いで後ろの壁にかけていた模擬刀
を掴み取る。左手には、さっきまで、読んでいた、本、と、琥珀色の、杖、が――
背後の目を覆わんばかりの光を背に、褐色の杖を持つ青年が、ニヤリと笑う。
「やれやれ、やはり主人公はお前だったか、鋼竜」
そう独り言ちるとおもむろにスマホを取り出し、ある画像フォルダーを開く。
そこには先ほど呼び出した占い石の写真が、二枚あった。
「悪いな、鋼竜。実はあの写真、ちょっと拡大した物だったんだ。凶事じゃなく、祝事の占いだしな」
一枚目は、鱗紅鋼竜に見せた物。
そして二枚目は……
「『籠』の隣の『手』が『侍』に伸び、頭の上には『星』が横になった『トランプ』……つまり、侍の星、世界はひっくり返り、異なる籠、世界が手を伸ばして干渉する。そして、そもそもこの構図の隣には……ふっ、これ以上はロマンじゃないか」
逆さになった『王』と『生贄』、そして赤く塗られた『女』を見ながら、ククッ、と上機嫌に忍び笑いをする玉照黄流。
「さぁさ、楽しめよ鱗紅鋼竜。そしてできるなら、帰ってきて俺に教えてくれよ、お前のロマンを」
そして世界は消えた三十人余りの少年少女を除いて、普段と変わらない姿を取り戻した。