甘いということに気付けなかったの
「今まで共にあったことを考えて忠告はいたしましたから、あとはご自由にどうぞ?」
悔しかった。
妬ましかった。
憎らしかった。
見下していた。
裏切られたと思った。
だけど、間違えたのは、
「せっかく救っていただいたのに、貴方もわたくしもなんて愚かなのでしょう」
いつも朗らかに笑うお母様を悲しませたわたくしなのだろう。
セシリアーナ・エル・ナクタリアージュはわたくしにとって憎らしい存在だった。
初めて顔を合わせたのはナクタリアージュ侯爵家の夫人が賊の刃にかかり亡くなった直後だった。
幸の薄そうな、辛気くさい子ども。
こんな子が侯爵家の子ども?
当時、親が殺されることがどれ程のことか分からないわたくしの中にあったのはそんな認識だった。
貴族としての歴史が確かな伯爵家なのに、没落寸前だった元伯爵家である新興の侯爵家に頭を垂れなければならない。
爵位はあちらが上でも貴族としての品位はわたくしの方が上だと自負していた。
お父様もナクタリアージュ侯爵家は運良く公爵家の縁付きになって爵位を上げた、弱小貴族だと言っていたもの。お母様はナクタリアージュ侯爵家への不満を言うと怒るから、わたくしのセシリアーナへ対する不満は全てお父様とだけ話していた。
爵位が上がっただけの弱小貴族だと思っていたのに、徐々にナクタリアージュ侯爵領が豊かになっていった。
運がいいだけ、たまたま、と笑っていたお父様も流石に何かあるのだ、そこに一枚噛みたいとわたくしをセシリアーナの取り巻きに加われと言ってきた。初めて顔を合わせてから数回、国の主催する催しで会う以外の親交はない。
何故わたくしが!と憤慨したけど、家のため、父母のためなら、と近づくことにした。
準成人を迎えてからしばらく、セシリアーナは同じ年の令嬢を集めたお茶会には参加しなかった。
お母様は高位貴族の夫人が集うお茶会でセシリアーナを見たという。とても美しく、社交経験がない準成人だとは思えない程完成度の高い対応だったとセシリアーナを褒め称えるお母様を初めて憎く思った。
丁度その頃に婚約が決まり、有頂天だったとは思う。
公爵家令嬢には生まれたときからの差で勝てないけれど、侯爵家くらいならそこまで変わらないだろうとも思っていた。
「お久しぶりですわね。いつもお誘いを断るわたくしにお声かけいただき、ありがとうございます」
準成人を迎え学園に入る子ども達を集めた、入学直前のお茶会。
現れたのは記憶の中にある惨めで卑屈そうな子どもではなく、すぐにでも咲き誇り人々の目を奪うであろう優美な女だった。
「セシリアーナ、さま、ですの?」
「ええ、あまりにもお顔を合わせなかったので皆様に改めてご挨拶しておりますの。セシリアーナ・エル・ナクタリアージュですわ」
成人の淑女と差を感じさせない、そんな姿に圧倒されていた。
その後、何を言ったかすら覚えていない程の衝撃だった。
おそらく、体面的なものは保てていた、と思う。
爵位だけ、それ以外は負けていないと思っていた。いや、優美さがあったとしても、勝てると思い込もうとした。
しかし、学園に入ってお父様の願い通り近付くたびにその思い込みは粉砕された。
セシリアーナは国の重鎮として王家の腹心とされる侯爵家の子息を入婿として迎えるという。
美しさも、作法も、学業の成績も、社交の能力も、リーダーシップも、わたくしが比べられたとしたら、勝ち目など一切無かった。
わたくしを大切にする、と言った大事な婚約者が平民に傾倒し始めたのはナクタリアージュ侯爵領の秘密を聞き出せないことへのお父様の叱責とセシリアーナへの妬みで酷く荒れた頃だった。
平民にまで馬鹿にされるのか、とセシリアーナに打ち負かされた以上の怒りと悔しさを覚えたが事態はもっと悪かった。
わたくしの婚約者が、貴族の夫人に相応しくない平民をわたくし以上に愛している、というのだ。
わたくしのこれまでの愛や好意、そして努力を平民の価値以下だと暗に言われたようだった。
許さない、平民の女も、わたくしを軽く見た婚約者も。
セシリアーナの婚約者も平民の女に傾倒したことに笑えば良いのか、それより早く自分の婚約者が骨抜きになっていたことに嘆けばいいのか分からなかった。
しかし、これもチャンスだと思い、セシリアーナに平民の女の様子や怒りを煽るだろうと考えたことを吹き込んだ。
セシリアーナのもとに集う令嬢達も巻き込んで、貴族を軽んじた平民など潰してしまおうと画策した。
けれど。
「特に騒ぎ立てる必要はございませんわ。これまでも、これからも、わたくし達貴族が成さねばならぬことは変わりませんもの」
わたくしがこんなに感情を乱されることも、セシリアーナにとっては大したことではない、そんな態度で諭された。
「お互いに寄り添い合える相手であれば、と思いながら良好な関係を作ってきたつもりですわ。でも、わたくしの信頼を先に裏切ったのはあの方。わたくしの感情をあの方に配って、貴族の誇りに傷をつけても厭わない、とまでの愛はございませんわ」
わたくしには言えない言葉だった。これが報われることのない、醜聞となる画策である、と嫌でも理解させられた。婚約者に愛があるのかと聞かれても、婚約者と平民の女が許せないだけだとは認められなかった。
同じく婚約者が平民の女に傾倒する令嬢は、婚約者を愛しているということの方が恥だとばかりに自分を馬鹿にする周囲と原因が許せないと言い切ったけれど。
「愛の反対は憎悪ではありませんの。好意の反対も憎悪ではありませんわ。それらの反対は無関心」
口に放り込まれた菓子は甘い筈なのに、恐ろしく苦かった。
「憎悪の感情を向ければ向けるほど、貴方が婚約者を未だに思っていることは明白になりますわ。あの少女にも、同じこと。現状を楽しみ戯れるあの少女にそんな感情を向けるなんて、もったいないんじゃありません?」
だって、わたくしはそんなに簡単に割り切ることはできない。
わたくしを大切にすると言ってくれた人なのだ。
将来、隣に並べることを楽しみに淑女としてもっと頑張ろうと心の支えにしていた人なのだ、わたくしの、わたくしにとっての婚約者は。
きっとセシリアーナもわたくしから向けられる憎悪に近い感情は分かっていたはずだ。たまに、仕方ないわねとでも言いそうな、幼い子どもを宥めるような視線があった。
それでも最低限わたくしに噛み砕いて説明して、思いとどまらないのかと聞いてくれる人でもあったのだ。気付くには遅すぎたけれど。
わたくしは婚約者と平民の女に直接話をして、現状やわたくしの気持ちを伝えた。最初に考えた、悪辣な手は使わないことにした。
それでも、わたくしの態度を見た他の貴族達が平民の女に隠すことのない危害を加えるようになった。
わたくしがセシリアーナにしようとしたように、貴族にとっての隠れ蓑にされた。
いい気味だと思わなかった、とは言わない。しかし、わたくしがすべての指示を出し、同格の伯爵家や格上の侯爵家の令嬢達を脅したなどということが真実のように語られるなんて思いもしなかった。
わたくしがセシリアーナと離れてから暫く後。学園の数ある庭園の中でも比較的小さく、人目につかない場所へ呼び出された。
「見損なったよ、こんなに醜いとは思わなかった」
平民の女を、妻にそうするがごとく、腰を抱き、わたくしに蔑む視線をよこす、元婚約者。
呼び出される数日前、相手方の家からお互いの瑕疵を考え、婚約破棄を申し込まれた。だから、元婚約者。
婚約した相手が他の女に手を出した、そんな状況ならわたくしは多少の憐れみを与えられたはずだ。婚約破棄も、こちらからならともかく相手に申し込まれることもなかっただろう。
「我が家が賠償金を貰ってもいいくらいのことなのに、父上達もお優しいことだ」
何が優しいのか。婚約は相手方の家から申し込まれて、これまでわたくしは相手方の家に馴染むよう努力してきたつもりだ。
平民の女に骨抜きにされた子どもの婚約者へ払う慰謝料や名誉を守る為の準備は一切されず、わたくしが学園の悪意を平民の女へ向けるよう動いた悪女だということを全面に出した婚約破棄だった。
そちらの起こした結果の大きな損失は見逃します、我が家の失策も見逃しますね?
思い出す度に羞恥と怒りに身を焦がされる記憶。
相手方の御当主と夫人が我が家に来て、軽い謝罪の後。貴族らしい遠回しな言い方でこちらの不手際を責め立てられた。
わたくしは、婚約者に節度ある対応をして欲しいと言っただけなのに。
平民の女に愛おしいと語りかける元婚約者が憎らしかった。
その辺の風景を見ているような、熱のこもらない眼差しで元婚約者を眺める平民の女にわたくしや貴族を軽んじようとした、なんて思えるはずもない。わたくしを見下すことも、貴族を貶めたという愉悦もない。元婚約者に何かを強請ることはなかった、と聞いているし、本当に、貴族の男達が勝手に惚れ込んだのだろう。平民の女のどこを好ましく思ったのかはわからないけれど。
元婚約者の頬を一度、叩いてもいいだろうと怒りに震えながら思った。
誓って、平民の女へ危害を加える気はなかった。
小さめの噴水がある庭園で話していたのがいけなかったのだろうか。
怒りに我を忘れて目測を誤ったのだろうか。
元婚約者の頬に力一杯、手を振り下ろそうとしたとき、振り上げたわたくしの腕は平民の女を払い飛ばし噴水の石像にぶつけていた。
石像は細やかな彫刻で鋭利な部分もあり、平民の女の顔や腕を傷付け噴水の水を血の色に染めた。
後のことは覚えていない。
平民の女とはいえ、学園に通う将来を期待された生徒に大怪我を、一歩間違えれば殺していた、という状況に無期限の停学を言い渡された。わたくしは貴族の令嬢としても価値がなくなった。
事実調査中だとは言われたが、わたくし以外の貴族がやった平民の女への危害も罪状に加えられるのだろう。
時悪く、お父様の事業の不正や平民への脅迫も明るみに出てしまった。
歴史ある伯爵家、と思っていた我が家はあっという間に孤立し、親戚筋も近づかなくなった。
どれかひとつなら、なんとか立て直せたはずだ。
全てが同じ時期に起き、伯爵家としての存続すら怪しくなった。
お父様やわたくしがナクタリアージュ侯爵家を蔑んだ、没落寸前という状態が我が家にも起こったのだった。
わたくしとお母様はお母様の実家である子爵家へ移ることになった。
子爵家もなるべく関わりたくなかっただろう。それでも、何らかの被害があってからでは遅いと申し入れてくれた。
移動の途中で、お母様はナクタリアージュ侯爵家から優先的に買入をしている茶葉について話した。あまり好きではない、苦味の強い茶葉だが、実はお母様やわたくしの体質改善にとても効果的で、ナクタリアージュ侯爵領が伯爵家の頃からそれで命を救われていたのだと。
「本当は、貴方にもちゃんと話すべきでしたわ。ナクタリアージュ侯爵夫人が子供に弱味を知らせるのはそれを隠せるようになってからでいい、と言ってくださったことに甘えてしまった…」
「せっかく救っていただいたのに、貴方もわたくしもなんて愚かなのでしょう」
ならば、私は命の恩人である侯爵家を見下し、失礼なことをし続けたというのか。ナクタリアージュ侯爵家との話ではなく、お母様と亡くなったナクタリアージュ侯爵夫人との話だったため、お父様も茶葉が融通されていたことは知らなかった。
「恩を仇で返してしまったわたくしにできることは…」
後に懺悔の機会を得られた時、爵位を剥奪された元伯爵家の夫人と令嬢はナクタリアージュ侯爵家へ仕えることを望んだそうだ。
以降、ナクタリアージュ侯爵家には優秀な秘書の一族が仕えた記録がある。




