その8 アンバーさんは我慢ができない
「えーっと、アンバーさん」
「さんはなくてもよい」
「ではアンバー。これは一体どういうことなのかな」
アンバーに回覧板を突きつける慈雨。
「これ、うちの近所なのね」
「知ってる」
大きな字体で注意を促されているのは、少女の誘拐、連れまわし事件だ。市内の幼稚園に通う5歳の女の子が被害者で、背の高い男(おそらく外国人)は流暢な日本語で「道を教えてほしい」「教えてくれたらお菓子を買ってあげる」などと甘言を弄して少女を連れ去り、1時間ほど連れまわして解放したとされている。少女に特に目立った外傷はないが、ショックが大きいのか犯人の顔を思い出せないでいるとのこと。
「端的に言うが――やった」
「やった!?」
「血、吸った」
「犯罪だよね!?」
「安心してくれ、証拠は一切残していない。仮にわたしが被害者の少女の前に出て行ったとしても、気づかんだろう」
慈雨は思い出した。いつか読んだ小説に出てくる、催眠術で犠牲者の記憶を抜き取る吸血鬼を。
「さすがに恩人を犯罪者にしたくないからね。これからも配慮して食事をするとしよう」
「そういう問題じゃなくて」
慈雨にもわかる。彼が吸血鬼なら、食事として人間の血が必要なことは。こっちの都合で断食させるわけにもいかない。でもわが身を差し出すのは怖かったし嫌だった。そこでぐずぐずしていたがために被害者が出てしまったとなると、さすがに――。
「……アンバー」
「なにか」
「これからも証拠を残さないでくれよ。あと、”食事”を行う場所は広範囲に散らばるように頼む。固まっていると、証拠がなくても近隣住民が疑われそうだしね」
やっぱり、かわいいのは自分だった。
***
ところ変わって、烏谷邸。
元が魔術で身を立てた一族のため、身内に魔術を隠さねばならぬ相手はいない。それが実にありがたかった。
「おい領主、その毒はすぐ抜けるのか」
普段自分が寝ているベッドに、使い魔を寝かせている累の姿があった。
「いまのわたしなら、二時間もあれば普段通り動けます。しかし、使い魔であり主の奴隷たる使い魔が、こんないい寝所に寝かせてもらってよいのですかな」
累の頬がかっと熱くなる。
大丈夫。
部屋は暗い。
大丈夫。
それが吸血鬼に対しては何の障害にもなっていないことは、考える余地すらなかった。
「おまえが身体を壊したら、勝てる戦も勝てん。壊したものは仕方ないから、とっとと直せ」
それだけ言って。部屋を出る。
領主のくすくす笑いが、尾を引いた。




