その2 烏谷累は躾が悪い
倒れてきたでっかいスコップでたんこぶを作りつつ、慈雨は物置を「探検」していた。今は埃まみれの段ボール(しばらく表面を眺めつつ、埃とはどこから来るのか哲学した慈雨であった)の中身を検分する作業に没頭している。
「んっ」
がらくたをいくつか引っ張り出した後、手に触れる充実した手応えに、思わず慈雨は声を漏らした。
その手ごたえは本であった。ハードカバーの。
慈雨は本好きである。本を読むのが好きというよりは、本そのものが好きなたちであった。特にハードカバーには偏執的な情愛を抱いており、アパートには持ち運びに難儀するその手の本ばかりが床が抜けそうなほど置いてある。
取り出したその本もやはり小汚かった。軽く表面を払ってみるが、タイトルが読めない。洋書のようだが、英語ではない。たまたま開いたページには文字すらなく、幾何学的な模様が無軌道に並んでいる。
それは漫画で見た魔法陣に似ていた。
さらにめくる。
読めない文章がみっちりのページ。
文章と模様が半々のページ。
模様だけのページ。
ところによって赤鉛筆で線が引いてあったり、書き込みがある。書き込みは日本語だが、ひどい悪筆で部分的にしか読み取れないうえ、読み取れる部分のみで見ても支離滅裂かつ意味不明だった。「量子××××解釈××式×××半×期性××××」「×導線の××××回答×解釈違××問題点××××の×い」「試×転×使の際×、××を確×××」「そ××こ×よりラ××××べ×い」「×××に××」。後半に行けば行くほど読み取りが困難になってゆく。八割ほどめくった時点で「ミミズがのたくったような」という表現をするとミミズに失礼なくらいになってしまい、一文字たりとも慈雨には読めない仕様となった。地の文ももちろんわからない。絵本をめくるような気持ちで模様ばかりを目の楽しみに、慈雨は次々ページを繰った。本が終わる。何とはなしに裏表紙を見る。
走り書きの文字。だが読めた。
「喚起?」
何とはなしに口に出した瞬間、慈雨の視界は爆発した。
***
「喚起」
青年の鋭い声と同時に、室内の蝋燭すべてが緑の炎を噴き上げて揺れた。一拍置いて、元の尋常な火に返る。学校の教室より一回り大きな部屋の中に、でかでかと描かれた複雑怪奇な魔方陣。その中央に、それは「喚起」されていた。
白雪姫が仮に男だったらこんなだろうか。石炭より黒い髪と雪より白い肌と、血のように赤い唇をした男が、痩せた身体をやはり黒い軍服に包んで立っていた。先刻燃え上がった炎より鮮やかな双眸が、あからさまに青年を値踏みする。
そして、残念そうな溜息。
「魔術師の質も落ちたな」
「……生意気な使い魔だな。わきまえろ」
「わきまえるのはどちらだ、坊や」
それが人にあるまじき牙を剥いても、青年は意に介さなかった。
「おまえは僕が喚起した。そしてこの戦いの間、使い魔は喚起した魔術師に絶対服従。過去に何度も喚起されたはずのおまえならわかっているだろう、”夜の森の領主”」
「そうだな。過去には坊やより躾の悪い魔術師もわたしを使役したことがある、が……そういう態度は得策ではないと思うよ」
青年は内心歯噛みした。卓越したカタログスペックに加え、性格欄に「理知的」とあったからこの使い魔を選んだのだ。尚且つ、ほぼ毎回と言っていいほど決定戦に喚起されていることからして、使いやすい従順な武器なのだと思い込んでいた。
なのにこれだ。
「掟」に従って働きはするだろうが、使いこなすのは実に面倒くさそうだ。だが青年はわかっていなかった。「理知的」だからこそこの程度で済んでいるということを。
「とにかく坊やはやめろ。僕はお前の主人だ」
「では何と呼べばいい? 真名を言ってくれれば、この場で食い殺せてわたしは楽ができる」
「烏谷累」
継いだ名だ。彼の親も彼くらいの年ごろには「烏谷累」だった。あと十年もしたらまた違う名を継ぐ。本当の名にはかすりもしない、魔術師としての通り名である。
「烏谷」
それは眉をひそめた。烏谷と言えばその筋では有名人で、代々の当主は何度か最終戦まで残り、一度ならず理事も務めた。その名を聞いて恐れ入ったかと青年はほくそ笑んだが、全然違った。
「二代前の烏谷さんはいい人だったんだけどねェ……」
舌打ちまでされた。
「貴様!」
「おお、怖い怖い……せいぜい楽しみたまえ、烏谷のぼん。こんな機会でもなければ君は、わたしを喚起する権利すらないのだからな」
”領主”の哄笑が、累の耳をけたたましく打った。