その16 ニコ先生はおせっかい
アパートについた二人はぐったりしていた。
常識外れの出来事に次々襲われたうえ、歩いている間じゅう気を張っていたので仕方ない。慈雨はこんなに周囲を警戒したのは生れて始めてだ。
「ベッド、シングルだから……悪いけど下に寝てくれる? 布団出す」
「悪いな……」
へろへろになりながら二人して寝る準備をする。アンバーが吸血鬼だしと不寝番を申し出たが、もう夜明けまでそれほど時間はない。なにより彼の顔にも疲労がありありと見て取れたので、休むように慈雨は言った。
どうせワンルームだ。襲撃されたら逃げ場はない。
二人して寝る態勢に入った直後、チャイム。
慈雨は泣きたかった。
もうすでに泣いていた。
チャイムの音を聞いたとたんに、一気に涙があふれ出て、枕に水玉模様を作った。
なんで。
自分が。
こんな目に。
ついていない人生だとは、思っていた。だけれどその「ついていない」は常識の範囲内の出来事であった。
いま自分に起きていることはなんだ。こんな「ついていない」出来事は、常識の範囲外だ。
理不尽すぎる。
恐怖と情けなさと悔しさと怒りと、その他よろしくない感情が臨界点を越えて、慈雨は泣いた。しゃくりあげて泣いた。泣くのなんて数年ぶりだった。
世界が終わったように暗澹たる表情のアンバーは、それでも気遣うように慈雨を一瞥し、立ち上がると玄関に向かった。
このアパートにはインターホンがある。ボタンを押して「はい」。地獄の悪魔もはだしで逃げ出すような声音の「はい」だったが、扉一枚向こうの開いては臆する様子すらなかった。
「日下部慈雨様とその使い魔さんでいらっしゃいますね?」
インターホン越しでもよく通る声。ベッドの中で膝を抱える慈雨にもその声は届き、彼の嗚咽を一層哀れっぽくさせた。
「わたしはニコ。説明をしに上がりました。いきなり魔術師に襲われて、きっと困っていることと思いましたので」
「……敵か?」
「違います。味方とも言いかねますが」
「少し、そこで待っていてくれ……いいか?」
「勿論」
扉に背を向けるアンバー。
慈雨が落ち着くまでは、まだ時間がかかりそうだった。
***
「もういいですよ、どうぞ」
投げやりなアンバーが扉を開く。投げやりなのは声だけでなく表情もだ。その後ろには、泣きはらした跡が嫌でもわかる顔の慈雨。
「これはこれは……大変な苦労をされたと、見ればわかります」
「とにかくっ、何が起きているんですかっ」
いまだに時々しゃくりあげつつ、慈雨はこの闖入者に問いかける。
「こんな、わけのわかんないの……降りたい……降ろしてください……」
急に前のめりになる慈雨。また泣き出すのではないかと身構えるアンバー。幸いにしてその予想は外れ、慈雨は微かなうめき声のようなものを漏らすに留まった。
「降ろして差し上げられるものなら、そうしたいのはこちらも同じです」
長い長い、ため息。
ニコと名乗ったこの胡散臭い男が語るところによれば、これは魔術師協会の理事を決めるための戦いで、本来参加予定だった魔術師が死んでしまったため、何の因果か権利が慈雨に移った――ということらしい。
それだけなら、喜んで辞退しただろう。
しかしそれに続くニコの説明が、慈雨の退路を完全に断った。
「この戦いに参加するために参加費が必要でして……一組、3600万円。ええ。ほかの参加者の皆さんにはすでにお支払いいただいております。こればっかりは事故だから、というわけにもいきませんので、日下部様にも3600万円、お支払いしていただきたく」
「そ、そんなお金、ありません!」
半ば、悲鳴だった。慈雨はしがないフリーターである。次の家賃、払えるか、払えないかにおびえ震えるフリーターである。
さんぜん、ろっぴゃくまんえん。
田舎なら立派な家が建ちそうだ。
これを借金とするなら、どんな仕事をすればこれを返せるのであろう?
「お支払いいただかずに済む方法が一つございます」
慈雨の心中を見抜いたように、絶妙のタイミングで、ニコが言う。
「この参加費は――最後まで勝ち残れば、チャラでございます」
「でも、そんな」
相手は(おそらく)ベテランの魔術師だ。その中に放り込まれて勝利を手にする自信など、あるほうがおかしい。
「続いて、使い魔さんについてですが」
「んむ」
「本来この戦いに召喚される使い魔は、本人であって本人でないようなもの。形や心は本人でも、強さは術者に依存します。影のようなものなのですよ。……しかしあなたは、生身で喚起されてしまっている」
「それに、何か問題が?」
「大ありです」
ニコは肩をすくめ、白手袋に覆われた手のひらをひらひらさせた。
「あなたがほかの魔術師と戦って、致命的な攻撃を受けたとしましょう。ほかの使い魔なら『影』なので本体にさしたるダメージはありませんが、あなたは本体ときている。つまり、それなりの攻撃をされたら死にます。アンデッドのようですから、消滅、が正しいのでしょうかねぇ」
「な……!」
「尚、使い魔は主人が死んだ際にも現世では消滅しますからね。どうぞお気をつけくださいませ」
何をどういっていいのかわからない。慈雨とアンバーが間抜けにも口を半開きにしてぶつけられそうな言葉を探しているうちに、ニコは派手派手しいコートを一振り。あとには扉の形に区切られた、夜の闇があるばかりだ。




