その10 日下部さんちはおおむね平和
日下部家はおおむね平和である。
なぜなら警察の手が伸びていないからだ。
単なる一般市民(というかむしろ小市民)である自分がここまで警察を恐れる事態など夢にも思わなかった慈雨だが、パトカーのサイレンに怯え、交番の前を避け、警備員を警察官と見間違えて大いにビビるという生活をしていた。
出回っている情報でも「犯人は大柄な、おそらく外国人」とされているので、中肉中背のどこから見ても日本人である慈雨が怯えるいわれもないのだが、ついつい反応してしまう。犯罪者を匿う人の気持ちがわかった。一生涯わからずに済む気持ちであったはずなのに。
さて。日が暮れる。
日用品、食料品を適当に購入して帰宅すると、玄関先は墓場もさながら、静まり返っている。家族の温泉旅行で一人っきりとはご近所さんにも知れるところだったので、「ただいま」は言わない。独り暮らし(仮)の男が誰もいない一戸建てに「ただいま」はちょっとおかしいかも、と考えた結果であった。
鍵開けて、ノブ回して、戸を開けて入って閉めて。この一連の動作で、声をかけなくとも慈雨の帰宅は雄弁に、同居人に語られるであろう。もう目が覚めている頃に違いないから。
ずかずかと家に入り(実家だし)買ってきた品物を適材適所に。だけれどアンバーは現れない。もう日が暮れているから、起きていたっていいんじゃないかという不満のあとに、慣れないところで寝泊まりさせられて疲れているんだろうという同情がやってくる。
抜き足差し足寝室に忍び寄る。反応はない。
「アンバー?」
返事がない。ただの屍のようだ。
「アンバー!」
やや強い語気で話しかける。ついでに肩も揺する。
「ん……うう、ん」
枕に広がった銀色の猫っ毛が、本体が身じろぎするたび悩まし気にくねる。
そこで慈雨は確信した。
この男は、寝汚い。
本気で起こさなければ起きない人種なのだ。吸血鬼が人種に入るのかはさておいて。
「ちょっと! 起きろ! もう日が沈んだぞ!」
「……あと五分っ」
身を捩って、布団にくるまるアンバー。明らかに防御体制である。
「僕と話し合わねば道は開かんッ!」
「それでも……あと五分……」
「馬鹿野郎!」
この攻防はもう少しだけ続くので――割愛。
***
ホテルの一室で、ヴァレーリヤは実にくつろいでいた。
そんなに格の高くないホテルとはいえ、ホテルなのだから、当然サービスが行き届いていて部屋もきれいだ。術具や資料でごった返した自分の部屋が、ふっと恋しくなる時もあるが、ヴァレーリヤはこのホテルのホテルとしての仕事に実に満足していた。
そして、司会進行役の計らいにも。
「まさかこんなところで、使い魔と一緒に過ごす時間が取れると思わなかった」
彼女の使い魔は言葉で応えない。重々しく頷くだけだ。この無口な使い魔のことを、ヴァレーリヤは実に気に入っていた。
いくら実力があったって、やかましいのではたまらない。
ヴァレーリヤはそういう考えだった。いくら使い魔といえど、やかましいのでは魔術の展開に支障が出る。よって、とにかくおとなしい使い魔を、彼女は求めた。
しかしおとなしいといえば、下級の使い魔ばかりが目に入る。たいてい上級になればなるほど個が確立され、性格が歪み、口数多く、ヴァレーリヤの嫌う「やかましい」使い魔になる。
諦めかけていたころに出会ったのが彼だった。カタログの半端な位置に紹介されていた彼は、なるほど半端なスペックだった。高いところは突出して高いのだが低いところは絶望的に低く、そのほかのスペックは「使えないこともない」程度。しかし彼女には、彼の長所を徹底的に利用する自信があった。そして彼の短所を徹底的に補う自信も。そして幸福なことに、彼はそういうゆがんだステータスの持ち主にありがちなゆがんだ性格ではなかった。
実直にして寡黙。
これ以上の使い魔はないと、ヴァレーリヤは確信した。
そして今彼女は、その「最高の使い魔」と一緒にホテルに泊まっている。手配の段階では別の部屋だったのだが、無理を言って同室にしてもらったのだ。彼女の名誉のために言っておくと、普段のヴァレーリヤは決してわがままな女の子ではない。そのくらい、彼女は使い魔のことを気に入っているのだ。
ヴァレーリヤは今夜もベッドに入らずに、「使い魔」に寄り添って夢を見る。
そのほうが彼女には、寝心地もいいのだ。




