第77話 感謝の気持ち
「…………」
目が覚めると、見慣れた景色が視界に飛び込んできた。木製の天井。控えめなオレンジ色の蛍光が周囲を照らしている。俺は身体を起こし、近くのリモコンのボタンを押して光の色をオレンジから白へと変化させた。
それから辺りを見てみると、机やテレビ、パソコンにゲームが置いてある。
あぁ、そうか。ここは俺の部屋だ。確か俺は弥生と帰ってきて、それからそれぞれの部屋に戻って―――
少し寝ぼけているのは実感できる。しかし、記憶を遡るのはそう難しい事ではなかった。俺は自分の部屋に戻って、すぐに眠ってしまったのだ。感じていた疲労は、今ではかなり回復している。
ゆっくりと時計を見てみると、時刻は午後八時半。どうやら帰宅から数時間が経っているらしい。
弥生はもう部屋から出て来てるのだろうか
そんな事を思いながら、俺はベットから離れ、出入り口であるドアへと向かった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ドアを開けると、キッチンに弥生が立っていた。
黄色と白のチェック柄のエプロンを身に付け、手元にあるニンジンを切っている。その隣にあるのは玉ねぎ、じゃがいも、そしてシチューの素。どうやらシチューを作っているらしい。
見慣れたその姿は、とても女の子らしかった。正直な所、結構……いや、かなり可愛いと思う。
そんな彼女は俺を見るなり手元を動かすのを止め、こちらに視線を向けてきた
「あっ、ハル。お目覚めですね。どうですか、疲れは取れましたか?」
「あ、あぁ。寝たおかげでだいぶ取れたよ。弥生の方はどうだ?」
「私もバッチリ回復しましたよ。今からでも修行出来ちゃいそうなくらいです!!」
腕をまくり上げ、力こぶを作って見せる弥生。しかし大したモノが出来るわけもなく、それを自慢げに見せてくる彼女が面白くて、少し笑ってしまう。
すると、それに気づいたらしい弥生が頬を膨らませた
「あーっ!! 今、笑いましたね? 笑いましたよね? 私だってもっと本気だせば、ちゃんとした力こぶが出来るんですよ? ほら、ほら、ほら!!」
弥生が持っていた包丁を置いた。それから俺に近づいて右袖を捲り、力こぶを見せつけてくる。
身長的な問題で自然と上目使いっぽくなる弥生。状況的には微妙なのだが、それが上目使いであることにかわりはない。それに何より、彼女の顔が近くにあるのだ。さっきエプロン姿を可愛いと思った事もあって、思わずドキドキしてしまう
「あっ、あぁ。分かった分かった。弥生にも、ちゃんと力こぶがあるのは分かったから。ところでさ、今作ってるのって晩御飯か?」
「はい。今日はシチューです。唐揚げもありますよ。先にちょっと食べちゃいますか?」
「そうだな。ちょうど小腹も空いてたし、もらってもいいか?」
「はい。それじゃあ、えっと……」
振り返った弥生がキッチンに行き、唐揚げを箸でつまんで戻ってきた。俺は右の手のひらを前に出して、受け取る準備する。まだ出来て間もなく熱い様だが、すぐに食べてしまうのだから問題ないだろう。
それから彼女は、それをこちらの顔に向けて―――って、えっ?
「あの、どうしたんだ弥生?」
「ハル。早くお口を開けて下さい。じゃないと落っこちちゃいそうです」
「えっ……えっ?」
彼女の言葉に思わず耳を疑った。目の前にいる弥生は箸で唐揚げを持っている。そして俺に要求してきたのは「口を開ける」事。そのまま食べさせるつもりなのは、ほぼ間違いないだろう。
つまりそれは、俗にいう―――
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それってもしかして、あ、あの「あーん」とか言うヤツになっちゃうんじゃないか……?」
「いいじゃないですか、あーんになっちゃっても。美味しさが半減なんて事にはならないですよ?」
「いや、そりゃそうだけど。でも、ほら、恥ずかしいし……」
「ほーら、早く食べちゃって下さい。だんだん指が疲れてきちゃってますよ」
「……わ、分かったよ」
俺は抵抗するのを止め、弥生の言う通りに口を開いた。それから間もなく入ってくる箸につままれた唐揚げ。箸が口内から無くなった事を確認し口を閉じると、予想通りそれはまだ熱帯びている。それからそれを一噛みした瞬間、口の中いっぱいに旨みたっぷり肉汁が広がった。
もっと食べたいぐらい美味い。のだが、俺はどうしても「あーん」したことが恥ずかしくなってしまい、完璧にその美味しさを味わう事が出来ない
「ど、どうですか?」
「あ、あぁ。すごく美味いよ。また、ご飯の時にもらってもいいか?」
「それはいいですけど、今じゃなくてもいいんですか? もういくつか出来上がってますよ?」
「だ、大丈夫。というか今は一旦落ち着く時間がほしいし……」
「えっ?」
「いや、何でもない何でもない。っと、そうだ。風呂掃除ってまだだよな? 俺ちょっと掃除してくるよ」
「お風呂掃除はまだですけど……いいんですか? コネクトしてた私よりハルの方が疲れてると思うんですけど……」
「だ、大丈夫だって。任せてくれ!!」
我ながら強引だと自覚しながらも、その場に居座る事が恥ずかしくて、俺はとりあえず風呂場に向かった。
気になって少し振り返ってみると、弥生はかなり笑顔で、いつもより赤くなっている気がする。
だが、今の俺にはそれについて考える余裕は残されていなかった
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夕飯を食べ終わったのはその数十分後の事だった。テーブルに並べられていたシチューとサラダ、唐揚げも今ではもう無くなり、俺と弥生はお互いに満腹感に浸っている
「いやぁ、美味かったよ。ごちそう様でした」
「はい、お粗末様でした。どうですか、お腹いっぱいになりましたか?」
「なったなった。久々にこんなに食べた気がするよ」
「ふふっ、それはよかったです」
そう言いながら、弥生が食器を持ってキッチンへと向かった。それから間もなく流れる水の音。食器同士が擦り合って、独特の音も共に聞こえてくる。
静かな、だけど居心地の良い空間。その中で俺はふと弥生に視線を向けた。それから、思っていた言葉が自然と口から零れていく
「……弥生、ありがとな」
「ん? 何がですか?」
「今日の修行だよ。弥生が協力してくれたから、俺は今まで見れなかった魔力粒子を見る事が出来た。霊技の修行で初めて成長出来たんだ。だから、ありがとう」
「ハル……」
「……ってこれ、面と向かって話すと恥ずかしいな。あはは……えっと、ごめん。今のはその、忘れてくれ」
何となく言った本心だったが、妙に恥ずかしくなり、俺は笑って誤魔化そうとした。
自分でも分かるくらい違和感のある笑い。それこそ、苦笑と言った方が良いかもしれないレベル。失敗だったかな、という後悔が頭の中に過る。
しかし、その時だった
「ハル」
「えっ……?」
突然背中に感じる温もり。もちろん、それが弥生の身体である事は分かっているし、背中に抱きつかれているという状況も予想は出来ている。しかし、それでも落ち着く事は簡単ではなかった。
とりあえず彼女の名前を呼んでみるも、その声は意志とは真逆に震えた、緊張感の籠った声になってしまう
「や、弥生……?どうしたんだ……?」
「忘れませんよ。ぜったいに忘れません。だって私、ハルにそう言ってもらえて、いま、すっごく嬉しいですから」
「弥生……」
「これからも大変な事がたくさんあるのかもしれません。けど、一緒にがんばりましょう。私はずっと、ハルのパートナーですからね」
「……あぁ、ありがとう」
肩に乗った弥生の両腕を見つめながら呟く。
彼女の声はとても優しい。感じる温もりは心の中にまで届き、すごく心地よかった。
それと同時に、胸の奥から今まで味わった事のない感情が溢れてくる。
あぁ。きっと俺は、この子の事を―――
俺がそんな事を思った、その時だった
「……っ!?」
刹那、机の上に置いた携帯が鳴り小さく振動した
「電話……?」
「良太たちからじゃないですか? 例えば……ご飯のお誘いとか」
「かもな」
言いながら画面を見てみると、そこには「猿渡良太」の文字がある。
弥生の予想通りご飯の話しだったら、今日は断ろう。弥生にシチューを作ってもらったという話しも、少しくらいなら自慢してもいいかもしれない。
そんな浮かれた事を思いながら、画面をタッチし通信を繋いだ
「もしもし。良太、どうした?」
「あっ、ハル。お前今、どこにいるんだ?」
「どこって、寮だけど……」
「だったらよかった。ハル。弥生ちゃんと一緒に、今すぐゆずの研究室に来てくれ」
「研究室に? なんで? というかどうしたんだ、そんなに焦って」
「……出たんだよ」
「えっ?」
俺が聞き返すと良太は一、二秒の黙り込んだ。そして力の込められた言葉で、俺の質問に答えた
「ヤベェ魔力反応が出やがったんだ」