夜釣りの話
息をするのも苦しくなるほどの熱気が、巷にあふれていた。少しでも涼を求めようと鴨川の河原に降りてみたものの、結果はさほど変わらなかった。川面を撫でる風さえ生ぬるく、僕の体を隅々まで舐めまわしている。体じゅうからあふれ出た汗はTシャツを思う存分に湿らせ、それでも飽き足らずに肌を滝のように流れ落ちてゆく。
ひどく気分が悪い。先だって飲み干したばかりの安酒が出口を求めて腹の中を駆けずりまわっている。〆に食べたラーメンが、既に僕の胸元に足をかけ、今度は喉にその手をかけて外へ逃げ出す機会を伺っている。
暑気と吐気で脂汗をだらだらと流しながら、おぼつかない足を一歩一歩どうにか踏み出して、北へと向かっていく。さっきくぐったのは御池大橋だったろうか、それとも二条大橋だったろうか。もう、それすらわからない。ただ、この河原をまっすぐ歩いていけば、左手に土手へあがる階段があって、それを登れば僕の下宿はすぐそこなのだ。階段、階段と呪文のように唱えながら。そうでもしないと僕の意識は鴨川の澱みの底に沈みかけている。
夕方まで道ゆく人々を濡れねずみに仕立てあげていた雨雲は、街の明かりを反射させて妖しげに白んで、季節はずれの羽毛布団の如く、低く、厚く垂れ込めていた。どんよりと、のっぺりと。おかげで、辺りは自分の足元さえも満足に見えないほどの闇だ。草木も眠る丑三つ時、土手の向こうに立ち並ぶ家々の灯りもすっかり消え、対岸の川端通を走る車のライトだけが時折流星のようにちらちらと視界をかすめるだけだ。河原とは言っても、川面は一メートルも二メートルもある石積みの護岸の下。うかうかしていると真っ逆さまだ。だがそんな頭とはうらはらに体が言うことをきかない。足はもつれ、物に蹴つまづいては空を踏む。
どん。鼻をつままれてもわからないような闇の中で何かにぶつかった。弾みで僕は思わず尻餅をついた。ぱたぱたと砂を払いながら目を凝らすと、糸を垂らして釣り人が腰掛けていた。
「すんません、気ぃつきませんで。申し訳ないです。」
釣り人は黙りこくったまま、顔を川面に向けてただ座り込んでいる。頭には円錐形をした編み笠をかぶり、肩にひっかけた蓑は背中に藻でも生やしたかのように見える。祖父の家にあった掛軸の水墨画に、確かこんな姿の釣り人が描かれていた気がした。だが、街の真ん中を流れるこの川でいったい、何が釣れるのだろうか。
「夜釣りですか。何、釣らはるんです?」
あぐらをかいた足の間からは、立派な竹竿が鮮やかな放物線を描いて川へ向かって伸びている。時折思い出したようにびくびくと脈打つようにしなっているが、アタリが来ているのではないのだろうか。それとも、もっとアワセてから引きあげるつもりなのだろうか。
ちょっとすんません、と声をかけて、足元で低いうなりをあげているクーラーボックスのフタを開けてみた。ポンプが動いているようだし、釣った魚の一匹でも拝めるかと思ったが、その期待は見事に裏切られた。練り餌だろうか、丸めた団子のような塊がふたつほど、むなしく底に沈んでいるだけだった。こぽこぽと、泡だけが所在なさげに揺れている。それにしてもいったい。
がっぱ。僕の耳にはそう聞き取れた気がした。風邪で喉をつぶしているのか、それとも酒ヤケか。低く、しわがれた、絞り出すような声だった。
「お父さん、それどんな魚なんです?僕、見たことも聞いたこともあらへんねやけど。」
相変わらず腹の中では色水をコップに注いだような酎ハイとどぶのように油膜の張っていたラーメンが輪舞曲を踊り続けているし、汗を吸うだけ吸ったシャツは背中にべったりと貼りついている。目の前にでんと座った釣り人は何が気に入らないのか挨拶もろくに返さない。いったい何だというのだ。こんなところで腰かけている方が悪いじゃないか。決して短くないはずの僕の堪忍袋の緒が、少しずつ綻びていくのが自分でもわかった。ダメだ、相手にするだけ無駄だ。いまどの辺まで帰ってきたのだろう、早く帰って寝よう。そう心に決めて、踵をかえしたときだった。
かぁっぱ。
喉にからんだ痰を吐き捨てるように、釣り人が小さく叫んだ。建てつけの悪い木の引き戸を無理矢理開け放ったような、背筋を逆なでする居心地の悪いかすれ声。
その言葉の意味するところをもう一度考えようとして、けれども思い浮かんだ言葉はあまりに正解には程遠く感じられて、僕は自分で自分の考えを打ち消すための言い訳をしなくてはならなくなった。
「もしかして、カッパて言わはりました?まさかそんなことないですやんね。河童なんてほんまにおるわけでなし、ましてやこの鴨川に。」
知らず知らずのうちに早口でまくし立てていた。妙に口の中が乾いてねばついていることに気がついた僕は、そっと舌で歯をなぞってみた。けれども、お湿りほどの効き目すらももはや与えることはできなかった。体がもうカラカラだ。辛うじて出た汗が一筋、つつつ、と耳のうしろを流れた。
と、そのとき。びん、と音を立てて釣り糸が緊張したかと思うと、ぶんぶんぶんぶん竿がうなりをあげ始めた。その動くさまはまるで右へ左へ振るわれる指揮棒だ。僕は半ば我も忘れて、竿から伸びる糸の先を一心に見つめた。大きい。これは大きい。ひょっとするとほんとに河童の一匹や二匹、釣れるんじゃないだろうか。
何度目かに竿が大きくしなったときだった。
さらさらとした川の流れとは明らかに異質な、ごぼごぼという陰湿な音がしたかと思うと、水面のとある一箇所だけが小山のように盛り上がり始めた。
竿はもはや折れてしまいそうなほどの半弧を描き、それ自体が意志を持ったかのように暴れている。ぐ ぐっと一層大きくしなった瞬間、僕はほとんど無意識のうちに釣り人を押しのけ竿を握りしめていた。
危うく川へ引きずられそうになっていた竿にぐんと力がみなぎり、緊張が糸を伝って矢の如く水面へ一直線に突き刺さる。
その糸の先へ目を向けると、ひとかたまりの泡が湧きおこって、スイカほどの大きさの球体がむくりと浮かびあがったところだった。僕は反射的にぐいと竿を引いた。黒々とした水の中にぬるりと姿を見せたそれは、もちろんスイカなんかではなかった。球体に続く、ハンガーのように幅を広げたシルエット。その左右からは棒切れのようなものが突き出ている。これが河童か。本当に河童が釣れているのか。僕はなおも竿を引く。枯れ枝のような両腕をあげて天をひっかきまわし、奇声をあげてそれは抵抗する。一進一退。もどかしくなって、竿に結わえ付けられた糸をじかに手繰っていく。それが暴れるたびに、きりきりと糸が僕の手に食い込んでいく。じわり滲む血。しかし不思議と痛くないのは、酔っ払っているからか、はたまた興奮しているからなのか。
岸まであと五メートル、四メートル、三メートル。ふいにがさがさと音がして、目の前の茂みが揺れた。僕の背丈ほどはあるであろう水辺の草々に隠れて、あれの姿が見えない。きっとこの中のどこかに揚がっているに違いない。だがここから石積みの下へ飛び降りて探してみる気にはなれなかった。さっきまで暴れまわっていたあれと鉢合わせでもしたら、ことだ。こんなところで再び死闘を繰り広げるのは御免蒙りたい。
そんな逡巡の合間にも、ぱきぱき、ずるずると枝をへし折り葉のうえを這いずりながらこちらへ近づいてくる気配がする。時折聞こえるげぼげぼ、びちびちという湿った音が何を意味するかは想像もしたくない。
ばさ。ぺきっ、ずずず。げぼぼぼぼぼ、びちゃびちゃびちゃ。ずるずる、ぺきぺき。ざざざ、ずりずり、ずりずり。
この目で正体を確かめたい。けれども、見てしまうのが怖い。二つの思いが僕の頭の中で渦巻いていた。体が固まって動かない。草むらから目が離せない。乾ききった身体はもはや生唾さえも出せず、からからになった喉は呑み込むものを失ってきしきしと軋んだ。
ずざっと勢いのよい音がして、目の前の茂みが真っ二つに割れた。だがそこから姿を現したのは、河童なんかではなかった。
いや、まだ河童だった方が幾分か救われていたかもしれない。ぬっと突き出されたその顔は、どう見ても人間のそれだった。うつろに窪んだ目。青白く、痩せこけた頬。不釣合いな無精髭。額に、頬に、首筋に、べっとりと貼りついた白髪まじりの長髪。そして、釣り針。
糸に結わえつけられた五寸釘のような太い針は上下の歯の間から口の中へと吸い込まれ、鋭い返しのついたその先端が男の左の鼻の穴から顔をのぞかせていた。上顎を貫通して鼻から出ているのだ。奇妙な既視感がよぎった。
男はげほっごほっとむせ返りながらも、石積みに手をかけて這い上がろうとしている。手をかけて、ごぼごぼ。脚をかけて、びちびち。何かを吐き出しながら、そしてそれに手を滑らせながらもじりじりと距離を詰めてくる。口からとめどなく噴き出すそれが水なのか反吐なのか、それとも血なのかはわからない。ただ僕の本能が、これ以上ここに居ては危ない、一刻も早く立ち去らねばと警鐘を鳴らしていた。
けれども。僕の頭の中の妙に冷静な部分が、自問していた。目の前のこいつは、どう見ても人間だ。ならば釣り人が言っていた「カッパ」とは何のことだったのか。
河童。水辺に棲む妖怪。通りかかった人を水中に引きずりこんで溺れさせ、尻子玉と呼ばれる生命力の源を抜く。
水中に引きずり込んで溺れさせる。目の前で息も絶え絶えに這いずっているこの男は、溺れさせられたのではないのか。だとすれば。
不意に足首をぐいと掴まれて、僕の心臓は悲鳴をあげた。声にならない声が、ひゅうひゅうと息の間から漏れ出す。痛みすら覚えるほどに握られた左足首を見ると、男の青白い右手ががっちりと食い込んでいた。
「…なはれ。はよ、逃げなはれ。」
渾身の力を振り絞って、男はうわ言のようにそう口にした。がくがくと震える声。視線はもはや定まっていない。そして、息をするごとに零れ落ちる、粘り気を帯びた血。鼻から突き出した針の先から、ぽたり、ぽとりと地面に染みをつくっていく。
牛の鼻環の如く貫通させられた針。そうだ、友釣りの鮎だ。縄張りを持ち、それを荒らす個体を襲撃する習性を活かして行われる鮎の友釣り。オトリに使われる鮎は、鼻に針を通されて釣り糸の先に結わえつけられ、尾ビレに突き刺された針に獲物がかかるまで川の中を泳がされるのだ。むかし祖父と一緒に保津峡へ釣りに出かけたときに見たじゃないか。既視感の原因は、それだ。
ということは、彼は獲物がかかるまで生かさず殺さず鴨川を泳がされ続ける哀れなオトリで、僕はまんまとワナにかかった間抜けな獲物じゃないか。
ぐげ。背後に気配を感じて振り向く。いつの間にそこに居たのか。魚が腐ったような匂いに、いよいよ胸の中身が逆流する。さっきの釣り人が、いや、河童が僕の目の前に立っている。背中を覆うプロテクターのような甲羅にはびっしりと藻が生え、生ぬるい風にあおられてもやもやと揺れている。竹を編んだ笠は、頭の皿が乾くのを防ぐためなのだろうか。その下には、アーモンドのような形をした大きな眼がらんらんと光っていた。そのまぶたが縦に閉じたかと思うと、ゆるやかな円を描いてふくらんだくちばしがスッと開いた。げぼお。生臭い吐息を顔面に浴びて、僕は意識を失った。
僕は翌朝、鴨川をジョギングする市民ランナーに発見された。
京都の街にはそこで培われた長い歴史の中で、いろんな魑魅魍魎、物の怪の類が住み着いてるもんです。
彼もきっと、そんな世界に一歩、ほんの一歩だけ足を踏み入れてしまったんですやろな。
ちなみに「カップル等間隔の法則」や「川床」のイメージの強い鴨川ですが、ちょっと上流のほうへ行けば人通りも少なく、河原に生い茂った草々が野趣あふれる姿を見せてくれます。
そんなところに、「怪」はほんまに潜んでいるのかもしれません。
(平成24年5月12日脱稿)