月光
姿を変えた。
私を知るものが、誰も私と気付かないように。
毎日梳られて艶が出ていた、自慢の腰まであった髪は、自ら耳の下で切りそろえた。
一ヶ月たった今では、艶もない、ほつれた髪に様変わりした。
毎日磨かれていた指や爪も、かさつきひび割れ、ギザギザになった。
真珠のような肌だと誉めそやされた肌も、弾力を失った。
あの方が、毎日のように包み込んでくれていた頬も、やつれた。
たった一月。
人はこんなにも変わるのかと、水面に映った自分の様相に驚愕した。
自分が望んだことではあったことだが、涙が止められなかった。
所詮、誰かに世話をされなければ輝けなかった自分。
あの方の傍にいたお陰で幸せだった自分。
――否。
あの方の傍にいたせいで、こうなってしまったのだろうか。
醜い女の争いに、私は負けただけ。
私が弱いせいで、抗うことも、戦うこともせず、こうして逃げ出すことしかできなかった。
毎日愛を囁いてくれたあの方。
大切そうに抱きしめてくれたあの方。
私を見つめるその瞳がいつも甘さを含んでいた。
父が失墜したと知らされたのは、そんな最中。
任せられていた物資の運搬において、不正行為を何度も働いていたと。
そんなことがあるはずもない。
真面目一筋で、いつも優しかったあの父が。
あの方はすぐに私の元へやってきて、混乱に陥っていた私を「大丈夫だ」と抱きしめてくれた。
「そのようなことをする人物でないことは、知っている」と。
あぁ、どれだけ安堵したことか。
無実の罪をかぶせられた父を、きっと助けてくれると。
だがしかし、父の名誉は回復することはなかった。
議会で糾弾され、僻地へと追いやられることになった。
なぜ。
なぜなの。
私は目の前が真っ白になった。
憔悴しきった父の後姿。
家族を残し、一人馬車に乗った父。
着いていくといっても、叶えられなかった母の涙。
同時に、私の座も危うくなった。
『不正を働いた者の娘が王妃の座につけるとお思い?なんて浅ましく、狡猾な方なのかしら』
私の耳元に囁かれたのは、甘い声。そしてそれは毒。
私がいなければ、現れなければ、正妃になることがほぼ約束させられていた方。
『あの方の恩赦で、貴女のご兄弟はご無事のようでしたけれど…それもどうなるのかしらね。貴女、いつまでここにいるつもりなのかしら』
その時に悟った。
この方の父親は、私の父よりも地位も権力もある。そして、娘を正妃につかせようと躍起になっている。
それなのに、私が正妃になりそうだという噂が流れて―――
あぁ。
兄を守らなければ。弟を守らなければ。
お父様。ごめんなさい。私のせいだったのね―――
そうして、長年仕えてくれた侍女にも
私を愛してくれ、私が心から愛していたあの方にも何も告げずに
私は逃げた。
もう、人前には出られない。
働くことも知らない私が一人、このまま朽ち果てるのだろう。
家族への懺悔と、あの方への想い―――
『何があっても守る』
と、何度も囁いてくれた言葉はウソだったのか。
どうして、父を守ってくれなかったのか。
その厚い胸を拳で思いっきり叩きたい。叫びたい。
だが、もう叶わない。
あの方の目に留まることはもうないだろう。
突然失踪した私を探すこともないだろう。
それを許す者もいないだろう。
だって、私は娘だから。罪を犯した者の娘だから。
そうして、薄汚れてしまったから。
あの方が慈しんでくれた私では、もうないから。
走って走って、歩いて歩いて。
胡散気な目で見てくる城下も抜けて。
たどり着いたのは木々生い茂る緑豊かな森。
顔を映していた水面に、雫が落ちる。
泣いて醜い私の顔が、歪んで見えなくなる。
それでいい。
私は湖の淵にそっと横たわった。
もう空腹も感じない。
神秘的な月光が差すこの場所で果てるのも悪くないかもしれない。
そうして、私は目を閉じた。
大切な、あの方を想いながら。
だが、静かに眠ることは叶わなかった。
突如、強い力で抱き起こされたから。
驚愕に見開くその視線が捉えたのは―――
「陛 下 ……」
怒りと、悲しみをからませた瞳で、私を射抜く。
「なぜっ…我の元から逃げた!?」
あんなに美丈夫だったのに。
年頃の娘はその姿を見るだけで心ときめかせていたのに。
今の陛下は疲れを滲ませた様相で、声もかすれ、やつれていた。
「っ!!」
違う。それは私だ。
私は手で自分の顔を覆う。
こんな醜い姿、陛下には見られたくなかった。もう会うこともないと想っていたのに。
私とは違い、陛下はそれでも内に秘める雄雄しさと力強さは損なわれていなかった。
なぜ。
なぜ。
私の前に現れるのか。
嫌われてしまう。
それが、ひどく、怖い―――
だが、陛下は私の手をそっとどかし、
痛みほつれた私の髪へ指を入れた。
『そなたは髪までさえも美しいのだな』と言ってくれたあの頃のように。
「何を想って泣いていたのだ―――?」
新たに生まれ出でる涙とは別に、頬に残る涙のあとを見止め、そのかさついた武骨な指で私の頬をなでる。
「我が、我が、何ものからもお前を守ってやるのに」
あぁ、貴方はまたウソをつくのですね。
瞼を伏せた私に、陛下は辛そうに言葉を紡ぐ。
「すまぬ。直ぐには守ってやれなかった。――そなたの父の名誉は回復した」
はっと顔を上げれば、陛下は微苦笑した。
「遅くなってしまった。裏づけに時間がかかってしまったのだ。そもそも僻地へ追いやった形にしていたが、あの地の開拓責任者に携わってもらっていたのだ。その少し前に、あそこは貴重な資源があると分かって。あぁ、あとそれからあの女は追いやった。その父親がそもそも仕組んだことで――――いや、今はその話はいい」
私を抱きしめる力を強めて、私を覗き込む。
「そなたを愛している―――。もう、我の元からいなくなることはしないでくれ」
ギュっと歯を食いしばり、何かに耐えるようにするその姿が、あまりに痛ましくて。
「そなたがいなくなったと知った時、気が狂いそうになった。あんな思いはもう二度と味わいたくない」
「陛下……陛下。私は、もうこんな姿です。どうぞ、捨て置い―――」
私の言葉は、陛下の口付けによって飲み込まれた。
その時初めて、陛下が震えていることに気付いた。
あぁ、この方はそれほどまでに私を―――
「そなたはそなただ。一目でそなただと分かった。月光に照らされて横たわるそなたを見た時、はかなく消えてしまうのではないかとっ―――月の使者がお前を連れて行ってしまうのではないかとっ―――」
「陛下…」
私は広い背中に手を回す。
「陛下、私は陛下をお慕い申し上げております。もう、もうそのお傍を離れないことを誓います。
…… 愛しています。今までも、これからも、ずっと」
その一年後。
この国の陛下の婚姻式が国を挙げて盛大に行われた。
光り輝く陛下の隣には、幸せそうに微笑む、それは美しい正妃の姿があった。
初短編です。思い立って書きました。