29歳、自立を焦ったら優しい幼馴染に囲い込まれました
分厚い鉄扉が背後で閉ざされた直後、世界が乱暴に反転した。
冷たく無機質な壁に叩きつけられる背中。肩甲骨に走る硬質な衝撃と、床を擦るヒールの不快な摩擦音が鼓膜を打ち、悲鳴を上げる隙すら与えられない。
目の前を塞ぐのは、上質なウール地のダークスーツ。だが、強引に押し付けられた胸板の暴力的なまでの熱も、引き絞られた筋肉の圧倒的な質量も、私の知る穏やかな彼のものではない。
両耳の横、逃げ場を完全に塞ぐようにして壁に打ち付けられた硬い腕。
「……慧?」
戸惑いとともに見上げた先で、呼吸が凍りつく。
至近距離から私を射抜く切れ長の双眸は、光の届かない深海のように暗く濁っていた。週末ごとに愚痴を聞き、手料理で甘やかしてくれていた優しい幼馴染の瞳ではない。
絶対に獲物を逃がさないと決めた、捕食者の圧倒的な熱。
「ん……っ」
抗議しようと開いた唇は、降り注ぐ凶暴な熱に無惨にも塞がれてしまう。
躊躇いも優しさもない乱暴な角度で顎を捕らえられ、割られる唇。逃げ場のない口内へ強引に侵入してきた熱い舌が、肺の空気を根こそぎ奪い去っていく。
鼻腔を支配するのは、微かなシダーウッドとサンダルウッドの香りだ。普段は安心をもたらすはずのその香水が、今は彼自身のむせ返るような雄の熱気と混じり合い、理性を溶かす猛毒となって充満していく。
頬を打つ荒い吐息。乱れた前髪の隙間から覗く狂気を孕んだ熱視線が、私を絡め取って離さない。
「……お前が俺なしで生きていけるなんて、思わないことだ」
耳元に落とされた低く掠れた声。それは呪いのように深く、甘く、身体の奥底へと突き刺さる。
――「優しい幼馴染」という絶対的な安全圏は、彼の放つ熱気によって脆くも崩れ去ろうとしていた。
どうして、こんなことになってしまったのか。
あの心地よい温かな日々が、すでに彼の用意した逃げ場のない檻だったと気づいたのは。すべてを奪われ、甘い深海の底へと沈められた後のことである。
◆◇◆
終電を吐き出したばかりのターミナル駅を背に、静まり返った夜の道を歩く。
街灯の冷たい光が落ちる高層マンションのエントランスをくぐれば、分厚いガラス扉が外界の喧騒を嘘のように遮断した。
限界まで酷使した足先が悲鳴を上げ、大理石を踏みしめるたびに腰へ響く鉛のような鈍痛。理不尽なクレーム対応と、モニターに延々と並ぶ無機質な数字の羅列に削られた一日は、身体からあらゆる気力を剥ぎ取っていく。
エレベーターが目的の階に到着し、重い足取りで廊下を進む。
バッグの底から手探りで取り出したのは、小さな銀色の合鍵だ。自分の部屋でもないのに、疲労で麻痺した頭よりも先に足が勝手にこの扉の前へと向かっている。
冷たい鍵穴に差し込む微かな金属音が静寂を破り、重厚な扉を開けた。
「おかえり。遅かったな」
靴を脱ぐ間もなく、奥から声がかかる。
シダーウッドと微かなサンダルウッドが混ざり合った彼特有の落ち着いた香りが、温かい空気とともに私を包み込んだ。
顔を上げると、ネクタイを引き緩め、シャツの袖を無造作に捲り上げたラフな姿の慧の姿。日中、誰に対しても等しく距離を置く完璧な男が、私にだけ見せる甘く隙のある微笑み。
それを見た瞬間、一日中張り詰めていた肩の力が、ふっと音を立てて抜けていく。
ヒールを脱ぎ捨てれば、拘束から解放された足先へじんわりと血が巡り、鈍い痛みが走った。
リビングへ足を踏み入れると、ダイニングテーブルには私の到着を見計らったかのように温かな食事が並べられていた。
ふわりと立ち上る湯気。胃の奥を優しく刺激する、丁寧に引かれた出汁の香り。一日中ブルーライトの画面と睨み合い、すり減っていた神経が、そのささやかな生活の匂いだけで解れていく。
「鞄、そこに置いていいから。冷めないうちに食べて」
洗面所で手を洗い終えた私を、慧は手際よく椅子へと促す。
向かいの席に腰を下ろした彼は、少し捲り上げられたシャツの袖口から、骨ばった手首と形の良い長い指先を覗かせていた。洗練された無駄のない手つきで、私のためだけに取り分け用の小鉢がすっと差し出される。その無自覚な特別扱いに、胸の奥が微かに甘く疼く。
出汁の染み込んだ温かい一口を喉へ流し込むと、冷え切っていた身体の芯からじんわりと熱が蘇ってきた。
「……美味しい。すごく」
「ならよかった。最近、ろくに食べてなかっただろ。顔周りが少し痩せた」
頬杖をつきながら、ふっと目を細める慧。
その甘く優しい眼差しに、ギリギリで保っていた心の均衡が崩れてしまいそうになる。体温より少しだけ高い、最適化されたお湯に浸かっているような感覚。
部屋に漂う香りも、好みを完全に把握した味付けも、疲弊した心に寄り添う声のトーンも。すべてが、私を甘やかすために用意されたかのようだ。
「……いつもごめんね。慧だって仕事で疲れてるのに」
「俺が好きでやってることだ。お前はただ、ここでゆっくり休めばいい」
迷いのない、絶対的な全肯定の言葉。
胸の奥がじんわりと温かくなる一方で、自立できない自分の輪郭を残酷なまでに浮き彫りにされている気がして、静かに視線を落とす。
もうすぐ三十代。社会人として、自分の足で立っていなければならない年齢。
それなのに、誰もが振り返るほど見目麗しく優秀な幼馴染への甘えを断ち切れない自分が、ひどく情けない。
私はただの、手のかかる幼馴染に過ぎない。いつか彼が本当の意味で愛する「特別な誰か」を見つけたとき、この居心地のいい場所にどっぷりと浸かりきっていたら。その手を離された瞬間、一人で息をする方法すら忘れてしまうだろう。
自立しなければ。
そんな焦りが、温かな湯気の向こう側で私だけを冷たく急き立てていた。
食後、強張っていた身体が少しずつ解れたのち、重い足を引きずるようにしてリビングのソファへと移動する。
深く身を沈めれば、上質なファブリックの柔らかいクッションが、疲労しきった背中の重みを優しく受け止めてくれる。目を閉じればそのまま眠りに落ちてしまいそうな気怠さに包まれていると、ことり、とローテーブルにマグカップが置かれる音がした。
ふわりと立ち上ってくるのは、心が凪ぐようなカモミールの香り。
隣でソファが僅かに沈み込み、慧が腰を下ろした気配がする。
「少し、疲れた顔してる。……仕事、大変だったんだな」
静かな部屋に溶け込むような、低く穏やかな声。
「……うん。ちょっとだけ」
強がる余裕すらなく呟いた頭に、大きくて形の良い手がそっと乗せられる。
一日中気を張り詰めて固くなっていた頭皮を解すように、指先が優しく髪を梳いていく。滑らかなその手つきから浸透してくるのは、微かな、けれど確かな熱量。
張り詰めていた心が、その極上の甘やかしにあっけなくほどけていく。
心地よい安心感に抗えなくなり、ゆっくりと重たくなる瞼を閉じた。彼の体温に身を委ね、思考が白く微睡んでいく。
――ふと、髪を撫でていた手の動きが止まる。
微かな衣擦れの音。それと同時に、体温によって温められたシダーウッドの香りが、逃げ場のないほど濃密に私を包み込んだ。
頬の産毛を揺らす、熱を孕んだ吐息。
唇が触れるか触れないかの距離に彼がいる。
動けば、この危うい均衡が崩れてしまいそうで、固く瞼を閉じるしかない。
けれど、視界を遮っていても肌を灼くような気配で伝わってくる。今、彼が至近距離から、ひどく重たくて熱い視線で見下ろしていることが。
胸の奥底で、心臓が警鐘のように大きく跳ねた。
いつも労ってくれる、優しい幼馴染のはずなのに。
静まり返った部屋の中で、無自覚なときめきと甘い焦燥が全身を駆け巡る。すべてを委ねてしまいたくなるような安堵感の裏側で、背筋を微かな震えがなぞっていく。
頬すれすれに存在する彼の唇。空間を埋め尽くす男の匂い。
息をすることすら忘れ、ただ、触れそうで触れない距離から放たれる圧倒的な熱量にじりじりと灼かれていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがてゆっくりと気配が遠ざかり、覆い被さっていた影が引いていく。
「……紅茶、冷める前に飲んで」
鼓膜を揺らした声は、いつもと何一つ変わらない、穏やかで優しい響きだった。
肺に酸素が戻り、小さく息を吐き出しながらゆっくりと目を開ける。見上げた先には、何事もなかったかのように微笑む彼の顔。
ローテーブルに手を伸ばし、マグカップを両手で包み込む。陶器の温もりが、微かに震える指先へと伝わってくる。
一口含んだカモミールの熱がゆっくりと喉を通り、現実へと引き戻される意識。
温かいお茶が身体の芯へと染み渡ると、寸前まで支配していた甘い焦燥感は波が引くように静まっていった。隣を見れば、慧はいつものように穏やかな表情で、ローテーブルに置かれたタブレットに視線を落としている。
先ほどまでの、息もできないほどの濃密な気配は嘘のように消え去っていた。
――いつまでも、こんなふうに彼に甘えていてはいけない。
優しい幼馴染のぬるま湯のような心地よさに浸りきってしまえば、一生、誰かに寄りかからなければ生きていけない女になってしまう。
自立に向けた前向きな一歩を踏み出すつもりで、意を決して口を開いた。
「そういえば……来週、職場の佐久間先輩と、食事に行くことになったの」
他意はなかった。最近仕事でフォローしてくれている別部署の先輩との、ただの食事会。大人の男性との付き合い方について、少しだけ客観的なアドバイスをもらいたかっただけなのだ。
――その瞬間、部屋の空気が完全に凍りついた。
タブレットの画面をスクロールさせていた慧の指先が、ピタリと止まる。
静寂に包まれたリビングで、壁掛け時計の無機質な秒針の音だけがやけに大きく鼓膜を打つ。
一瞬にして室内の温度が数度下がったかのような錯覚に陥り、腕の産毛が粟立つような悪寒が駆け抜けた。先ほどまでの完璧な居心地の良さが嘘のように、呼吸をすることすら躊躇われるほどの重圧が急激に空間を支配していく。
どうしたのだろうと顔を上げれば、慧はゆっくりとこちらへ視線を向けた。
「……そう。よかったな」
紡がれた声は、いつもと同じように穏やかだった。形の良い唇には、完璧で優しい幼馴染の笑みが浮かんでいる。
けれど。
真っ直ぐに見据えてくるその瞳の奥だけが、光の届かない底なしの深海のように、ひどく暗く濁っていた。
温度を持たない、ひどく冷たくて重い視線。
心臓の奥が嫌な音を立てて跳ねる。あの優しくて完璧な慧の顔に、見えないヒビが入ったような決定的な違和感。
しかし、その得体の知れない悪寒の正体に。そして、自分が彼の中にある「何か」のスイッチを押してしまったことに、この時の私はまだ気づいていなかった。
◆◇◆
それから数日後。自立への第一歩として、予定通り佐久間先輩との食事に赴いていた。
グラスの中で揺れる琥珀色の液体に、レストランの柔らかな間接照明が反射している。
上品にカトラリーが触れ合う微かな音と、周囲の客たちが紡ぐ控えめな喧騒。テーブルを挟んで向かい合う佐久間先輩との距離は、大人の男女としてひどく常識的で、安全なものだった。
「……最近、本当に遅くまで残ってたからね。たまにはこうして、ちゃんと息抜きしないとだめだよ」
落ち着いた声で紡がれるのは、労わるような気遣いの言葉。
「ありがとうございます。先輩にフォローしていただいたおかげで、なんとか乗り切れました」
小さく会釈をして、運ばれてきた前菜のカルパッチョへ手を伸ばす。
注がれる親切には裏がなく、心地よいはずだ。それなのに、なぜか私の奥底はひどく冷え切ったように凪いでいる。
息もできないほどに甘く、逃げ場のないあの濃密なウッディの香りと、頭皮を解す指先の熱量が、ふと脳裏を掠めた。
――違う。あれは異常なのだ。
膝の上に置いたバッグの底へ、そっと指先を滑り込ませる。
柔らかな革の感触に紛れて、指先に触れたのは小さく硬い金属。慧のマンションの合鍵だった。ひやりとした無機質な冷たさが、指の腹から体温を奪っていく。
彼が与えてくれる絶対的な安全圏。すべてを肯定され、甘やかされ尽くすあの空間は、激務で疲弊した私にとって麻薬のように心地よかった。
だからこそ、恐ろしい。いつまでもハイスペックな幼馴染の厚意に依存していては、本当に一人で立てなくなってしまう。
他の男性とこうして常識的な距離で向き合い、自分の足で立つための、これは大切な第一歩なのだ。
言い聞かせるように冷たいグラスの水を無理やり胃の奥へ流し込みながら、静かに息を吐き出した。
――今日、彼にこの合鍵を返そう。
そして、「ただの手のかかる幼馴染」という関係から卒業し、正しい距離を置き直すのだ。それが、お互いのためなのだから。
自立に向けた前向きな焦りと、それに伴う微かな胸の痛みを奥底に沈め、佐久間先輩に向けて再び微笑みを浮かべた。
佐久間先輩との穏やかな食事を終え、レストランを出た私は、終電が近づくターミナル駅へと足を踏み入れる。
家路を急ぐ人々の波、絶え間なく響く発車ベル、交差する無数の革靴とヒールの音。日常の喧騒に包まれながら、コートのポケットに移した硬い金属の感触を、指先で幾度も確かめていた。
この決意が鈍らないうちに、手の中の合鍵を彼に返さなければ。幼馴染という甘えを絶ち切り、自分の足で立つために。
大きく息を吸い込み、改札へと歩みを向けた。
その時だった。
「……莉子」
不意に、鼓膜のすぐ裏側を撫でるような低い声が響いた。
雑踏のノイズを完全に切り裂いて届いたその響きに、ヒールの足がアスファルトに縫い付けられたようにピタリと止まる。息を呑んで顔を上げると、人の波を割るようにして立つ長身のシルエット。
仕立ての良いダークスーツ。周囲の空気をそこだけ切り取ったかのような、圧倒的な存在感。
――慧だった。
どうして彼がここにいるのか。偶然ではないと告げるように、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。彼の立つ数メートル四方だけ、周囲の空気が凍りついたように冷たい。
微かに震えそうになる膝に力を込め、努めて大人の女としての、ただの幼馴染としての平静を装って彼を見上げた。
「慧……偶然だね。ちょうどよかった、君に渡したいものがあって」
ポケットから取り出したのは、小さな銀色の合鍵。
駅の無機質な蛍光灯に照らされたそれを、震える指先で真っ直ぐに差し出す。
「これ、返すね。今まで本当にありがとう。でも、もう私、一人でちゃんと……」
言葉は、最後まで紡げなかった。
差し出した右手首を、ギリッと音を立てんばかりの力で掴み上げられたからだ。
悲鳴を上げる隙すら与えられない、圧倒的な捕縛。
見上げた慧の双眸は、週末の夜に甘やかしてくれていた温かな色を完全に失い、光の届かない底なしの海のように昏く濁っていた。
「……返す?」
地を這うような、冷え切った声だった。
その瞬間、駅のアナウンスも、何千という人々の足音も、一瞬にして鼓膜から遠のいていく。周囲の喧騒が強制的にミュートされ、世界には私と彼だけが取り残されたような錯覚。
「幼馴染だから分かってくれるはずだ」。心のどこかで抱いていたそんな甘い期待は、彼が放つ怒りと熱量の前に粉々に砕け散る。
手首に食い込む指の力は容赦がなく、火傷しそうなほどの熱を帯びていた。
それは、逃げ場を完全に塞ぎ、二度と手放すまいと絡め捕る捕食者の熱。
「お前が俺から離れられると、本気で思っているのか」
低い囁きとともに、ギリ、とさらに強く骨が軋む。
周囲の目など一切気にする素振りもなく、慧は手首を掴んだまま、改札とは反対の方向――タクシー乗り場へと強引に歩き出した。
抵抗する間もなく後部座席へと押し込まれ、自動ドアが鈍い音を立てて閉ざされた瞬間、夜の喧騒は完全に遮断される。
すぐ隣に、逃げ場を塞ぐように大きな身体が滑り込んできた。革張りのシートが深く沈み込み、狭い密室で彼と私の太ももが隙間なく密着する。
スーツ越しに伝わってくる、高い体温。
私の右手首は未だに、骨が軋むほどの強い力でホールドされたままだ。
流れる街灯のオレンジ色の光が断続的に車内を照らし出す。その僅かな明かりの中で、怒気に満ちた昏い双眸が、瞬きすら忘れたかのように私を縛り付けていた。獲物を絶対に逃がさないと決めた、捕食者の目。
痛い。苦しい。それなのに、密室に充満していく濃密なウッディの香りが、呼吸のたびに肺の奥深くまで侵食してくる。
ふいに、慧が私の首筋へと顔を埋めてきた。
「……っ、慧」
抗議の声は、肌に落とした熱い吐息に飲み込まれた。
鼻先が首筋の柔らかな肉を擦る。髪や衣服に残るレストランの微かな匂い――他の男と過ごした空間の痕跡を嗅ぎ取り、それを根こそぎ消し去ろうとするかのように、深く息を吸い込む。
私のすべてを自身の匂いで強引に上書きしようとするように、唇を這わせた。
「俺から離れて、他の男の隣で笑えると思ったか」
耳元に落とされた低い声が、鼓膜を震わせる。
「違う……私はただ、一人でちゃんと……っ」
「一人で?」
低く嘲笑い、捕縛している手首をさらに強く引き寄せる。バランスを崩した私の身体が広い胸板に打ち付けられ、完全に身動きが取れなくなった。
常にスマートだった大人の男の仮面が剥がれ落ち、ひた隠しにされていた狂気が剥き出しになっている。たった一歩の、自立への抵抗。それが、取り返しのつかないスイッチを押してしまったのだと細胞が理解した。
自由を奪われ、圧倒的な力で絡め捕られていることに、恐怖よりもどうしようもない背徳的な悦びが勝ってしまっている。
逃げ道のないタクシーの後部座席。密着した肌から伝わる執着に灼かれながら、抗えない支配の心地よさに、思考をドロドロに溶かしていくことしかできなかった。
やがて車が見慣れたエントランスに横付けされ、タクシーを降りた後も慧は一言も発さなかった。
手首を捕縛したまま深夜の高層マンションのエントランスを抜け、無言でエレベーターへと乗り込む。上昇する箱の中で、スーツ越しに伝わってくる彼の高い体温と怒りを含んだ濃密なウッディの香りが、逃げ場のない肺をじりじりと侵食していく。
目的の階に到着し、静まり返った廊下を進む。
厚い絨毯に沈み込む彼の足音だけが重く響く中、振り払うことすらできず、ただ絶対的な熱量に引かれるまま歩みを進めていた。
やがて、見慣れた彼の部屋の前に辿り着く。
乱暴な手つきで重い扉を開け、私を玄関の暗闇の中へ引きずり込んだ。
直後、背後で金属製の扉が鈍い音を立てて閉ざされる。
ガチャリ――
デッドボルトが下りる、冷たく重厚な金属音がひんやりとした暗闇に響き渡った。
外界と繋いでいた最後の道が断たれ、彼が数年がかりで用意した完全な檻の中へ、後戻りできない形で閉じ込められたことを告げる音。
空間が、極限まで収縮していく。ここから先はもう、都合のいい幼馴染になんて戻れない。
暗闇の中で、逃がさないとばかりに私の手首を掴む彼の指先から、ドクン、と熱く重い脈動が伝わってくる。
外界との繋がりが完全に断たれた、まさにその直後だった。
抗議の声を紡ぐはずだった唇は、再び容赦なく降下してきた凶暴な熱に、無惨にも塞がれる。
「んっ……、慧、やめ……っ」
息継ぎすら許されない、深く重い口づけ。強引に侵入してきた舌に上顎をなぞられ、肺に残っていた僅かな酸素まで根こそぎ奪い去られていく--。
「やめ……待って、慧、どうして……っ」
混乱と焦燥で震える声が響く。
広い胸板を押し返そうとする私の手は、まるで岩に触れているかのように微動だにさせられなかった。
「私は、ただ……自立しなきゃって、思っただけなの……っ」
熱い涙が、堪えきれずに目尻を伝い落ちた。
ただ手のかかるだけの私が、完璧な彼の人生の重荷になってはいけない。一人で生きられるようにならなければ。
「いつまでもあなたに甘えてたら、私、一人じゃ息もできなくなる……だから、ちゃんと自分の足で……」
必死に紡いだ決意は、しかし、彼から零れ落ちた低く冷徹な声によって無残にも圧し折られた。
「――お前が一人で生きていけるようになんて、育てていない」
心臓が、胸を突き破りそうなほど大きく跳ねた。
涙で霞む視界の先。私を見下ろす慧の双眸は、狂おしいほどの熱を孕みながらも、絶対に獲物を逃がさない支配者のそれ。
「お前が俺の部屋でしかくつろげないように。俺の淹れた茶でしか、心から安心できないように……。何年もかけて、外堀を埋めてきたのは俺だ」
耳元に落とされたその告白に、背筋を強烈な悪寒と、それ以上の甘い痺れが駆け抜ける。
「お前はもう、俺がいないと生きていけない。……他の男の隣でなんて、絶対に息をさせない」
「ただの手のかかる幼馴染」だと思っていた。そんな思い込みを根底から打ち砕く、あまりにも重くて暗い執着。
一人で生きられる大人にならなければと縛り付けていた意地が、彼の放つ熱量の前に音を立てて崩れ去っていく。
――もう、頑張らなくていいのだ。
一人で生きられないように彼が仕組んだのなら、もう抗う必要なんてない。
逃げ場のない圧倒的な束縛は、激務に疲弊しきっていた私にとって、これ以上ない甘美な救済。
自分を保とうとしていた意地がドロドロと融解していくのを感じながら、ついに力を抜く。
すべてを諦め、すがりつくように広い背中へと細い腕を回した。
「……慧っ」
降伏の合図を受け取った瞬間。慧の中で、何かが決定的に弾ける音がした。
瞳に飢えた獣のような光が宿る。
「……莉子っ」
絞り出すような低い呼気とともに、火傷しそうなほど熱い唇が、私の涙を舐め取るように塞いできた。
今までとは違う、互いの熱を貪り合うような深く粘着質な口づけ。強引に引き寄せられ、二度と逃がさないとばかりに強靭な両腕が私をきつく抱き込む。
「力を抜け。……俺が、全部溶かしてやる」
耳元で囁かれるのは、呪いのように深く甘い、究極の全肯定。
張り詰めていた心の糸が、放たれる圧倒的な独占欲に触れて静かに解けていく。私を支配しようとするその強い力の中に、狂おしいほどの愛情が渦巻いているのがわかった。
息をするたびに流れ込んでくるのは、彼特有のウッディの香りと、むせ返るような熱気。
視界が熱い涙で滲む。瞬きをして見上げた先には、普段の知的で完璧な仮面を完全に脱ぎ捨て、私一人に対してだけ飢えた獣のように執着を剥き出しにした慧の顔があった。
その狂おしいほどの愛を込めた表情を見た瞬間、胸の奥で現実的な焦りが完全に消え去っていく。
――もう、誰かのために頑張らなくていいのだ。
私が一人で立てないのなら、このまま彼の用意した腕の中で一生甘やかされて生きていけばいい。
彼という圧倒的な存在にすべてを委ね、支配され尽くす背徳的な至福。私という存在が、この完璧な男の狂気を引き出している。その優越感が、甘い痺れとなって全身の血管へと広がっていく。
「莉子……っ、俺の、莉子……」
すがるように何度も名前を呼ぶその声に、たまらなく愛しさが込み上げる。
逃げ場のない深海。光の届かない彼の深い愛の底で、私は歓喜の涙を流しながら、自らその熱の渦へと身を投げ出したーー。
◆◇◆
厚い遮光カーテンの隙間から、白み始めた明け方の青白い光が差し込んでいた。
静まり返った寝室に響くのは、規則正しく繰り返される柔らかな寝息だけ。
俺の腕の中で安心しきって微睡む莉子の横顔は、微かな汗とカモミールの甘い香りを漂わせている。
乱れた前髪をそっと指先で梳き、露わになった白い首筋に視線を落とした。そこには、俺が何度となく吸い付き、二度と他の男の目に触れさせないよう執拗に刻み込んだ赤い所有印が無数に散らばっている。
俺の痕跡で埋め尽くされた彼女を見下ろしていると、腹の奥底に横たわっていた暗い飢えが、ようやく満ち足りた重い熱へと変わっていくのを感じた。
「……自立したい、なんて。本当に馬鹿なことを言う」
眠る彼女の耳元で、誰にも聞こえない低い声を零す。
昨夜、あの駅の無機質な蛍光灯の下で彼女が合鍵を差し出してきた瞬間、俺の中で何かが完全に決壊した。他の男の影響を受けて、俺が与え続けたぬるま湯から抜け出そうとするなんて。
だが、そんな反抗も昨夜で完全に終わった。
泣いてすがる彼女を逃げ場のない愛で組み伏せ、二度と一人では立てないように、俺の熱で徹底的に融解させてやったのだから。
莉子は俺のことを、ただの『手のかかる幼馴染を放っておけないお人好し』だと信じ込んでいた。自分が俺の恋愛対象になるはずがない、と。
痛いほどに真っ直ぐで、不器用なほど真面目な彼女を手に入れるためなら、何年でも待てた。
仕事で疲弊した胃袋を俺の味付けで満たし、愚痴を誰よりも優しく聞き、週末はこの部屋で過ごすことが当たり前になるように仕向ける。近づく羽虫がいれば裏で牽制し、傷ついた時はすかさず俺の腕の中へ匿って甘やかした。
すべては、彼女から「俺以外の世界で生きていく」という選択肢を根こそぎ奪うための罠。
彼女は、俺の淹れたカモミールティーでなければ、もう心から安らぐことはできない。
俺の体温に包まれていなければ、まともに息をすることすらできない。
それでいい。彼女のすべてを俺が背負い、俺が甘やかし、一生俺の手のひらの中で飼い殺してやる。それこそが、俺の抱え続けてきた狂気的なほどの執着であり、彼女に対する究極の愛なのだから。
サイドテーブルの上に放り出されたままの、小さな銀色の合鍵へと視線を向ける。
いつでも帰れる安心感と、いつでも出ていけるという自立の錯覚を与えるための、ただの餌。
だが、もうそんな物理的な鎖は必要ない。彼女は自ら俺の腕という檻を望み、その奥深くまで沈み込んできたのだから。
「もう二度と、一人になんてしてやらない」
腕の中で、莉子が心地よさそうに身じろぎをし、すり寄ってくる。
その華奢な背中を逃がさないように抱き込み、額に深く口づけを落とした。
ここは、光すら届かない冷酷で甘美な深海の底。
合鍵なんて、最初から必要なかった。
お前はもう、一生この檻から出られないのだから――。
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