中村君シリーズ①『退勤妖精、居候中』
第1話 帰宅したら、いた
月曜の残業帰り、人はだいたい無口になる。
少なくとも、今日はそうだった。
昨日のアイドル・なみちゃんの握手会。
その余韻だけで今週を生きる予定だったのに、朝一で部長に言われた。
「しもじもがやれ」
ひどい。
あまりにもひどい。
せめて仕事の振り方にも、もう少し夢を見させてほしい。
「はあ……ため息しか出ねぇ」
最寄り駅からの帰り道、青信号にまで少し腹が立つ。
急がなくていいのに、急がされている気がするからだ。
コンビニに寄ったものの、弁当を選ぶ気力はなかった。
買ったのはカフェオレ一本。
夕飯としては終わっている。
でも今日は、もうそれでよかった。
アパートの階段をのぼり、鍵を差し込む。
ようやく家だ、と息を吐いた、そのときだった。
ふわっと、甘い香りがした。
(……ん?)
どこかで嗅いだことがある。
(待って。これ、なみちゃんと同じ香りじゃね?)
昨日の握手会。
緊張で記憶は半分飛んだが、あの甘い香りだけは覚えている。
まさか。
(え、マジ? 昨日こっそり渡した連絡先の効果、早すぎん?)
「遅いわよ」
玄関の向こうから声がした。
(マジかよ!?)
心臓だけが無駄に元気になる。
俺は見慣れたドアをそっと開けた。
薄暗いたたきの端に、何かがいた。
小さい。
いや、小さすぎる。
手のひらに乗りそうなサイズで、そいつは腕を組み、ずいぶん偉そうに座っていた。
背中には半透明の羽。
服はなぜか、小さなスーツみたいな形をしている。
そして頭には――一本毛。
(あれ……)
夢が、急に遠ざかった。
「……なみちゃん?」
「じゃない」
「おまえ誰⁉︎」
低くて、妙にのぶとい声だった。
「やっとそこか。遅い」
「いや、こっちのセリフなんだけど」
疲れていると、人は語彙から先に削られるらしい。
もっとこう、「なんで」とか「警察」とか出てきてもよさそうなのに、現実逃避が先に来た。
俺は玄関の靴を見た。
昨日、なみちゃんの握手会のために履いていった、一番しゃれたNIKE。
念のため持ち上げて嗅ぐ。
店員さんにすすめられたフローラの香りだ。
「……違うな」
「何を確認した」
「夢の続きかどうか」
「靴で判断するな」
後ろから、ぶっとい声が飛んだ。
「おい。シカトするな」
小さいそれは、やれやれと首を振った。
「私は退勤妖精」
「は?」
「見ればわかるだろう」
「わからないから聞いたんですけど」
「最近の人間は観察力が足りん」
失礼だな、と思ったが、空き巣より意味がわからなかった。
「えっと……帰ってもらっていいですか」
「断る」
「即答」
「おぬしの生活が、見過ごせぬ域に達しておる」
「初対面で言うなよ」
「靴のにおいを確認している時点で、だいぶ来ている」
「小さいおっさんに言われたくない」
退勤妖精と名乗ったそれは、ぴしっと俺を指さした。
「まず靴をそろえろ」
「帰ってきたばっかなんですけど」
「だからだ。疲れて帰った日の靴ほど、心の乱れが出る」
「急にそれっぽいこと言うな」
「あと、そのフローラ臭の靴もそろえろ」
「言い方」
言いながらも、俺はなんとなく靴をそろえた。
すると退勤妖精は満足そうにうなずいた。
「よし。第一段階クリア」
「何の」
「生還の儀式だ」
「ただの帰宅だよ」
カバンを床に置き、そのまま玄関に座り込みたくなる。
もう動きたくない。
今日の俺のやる気は、たぶんコンビニの自動ドアのあたりに置いてきた。
だが、退勤妖精は容赦がなかった。
「待て。そこから床に沈むな」
「沈みませんよ」
「顔を洗え」
「今?」
「今だ」
「なんで」
「社会のほこりを部屋に持ち込むな」
言い方が妙に生活指導なのだ。
「妖精って、もっとこう……キラキラしたこと言わない?」
「言うぞ。手洗いうがいは輝く明日への第一歩だ」
「言い方だけ変えてきたな」
俺がため息をつくと、退勤妖精はふっと鼻を鳴らした。
「今日は何を食べた」
「カフェオレ」
「食べてないではないか」
「飲んだ」
「胸を張るな。むしろうつむけ」
とうとう説教が始まった。
疲れた体に小さな説教は妙にしみる。
しみるが、今ほしいのは反省ではなく休息だ。
俺は無視して部屋へ入ろうとした。
すると、後ろから鋭い声が飛ぶ。
「風呂、飯、睡眠」
「……はい?」
「今日はその三つだけでよい」
「仕事みたいに言うな」
「優先順位の提示だ。疲れた人間は判断力が落ちる。だから絞る」
「なんでそんな詳しいの」
「退勤妖精だからな」
そこ、胸を張るところなんだ。
俺は洗面所へ向かった。
鏡の中の自分は、たしかに少しひどい顔をしていた。
髪はぼさぼさ、目の下は重い。
退勤妖精に言われると腹が立つが、否定はできない。
顔を洗って戻ると、ローテーブルの上に湯気の立つマグカップが置いてあった。
「……え?」
中には、あたたかいお茶が入っていた。
退勤妖精はテーブルのふちに座り、また偉そうに腕を組んでいる。
「ティーバッグだ。おぬしの家にあった」
「勝手に使ったの」
「非常時だ」
「どこが」
「おぬしが、だいぶへろへろだ」
俺はマグカップを持ち上げた。
あたたかかった。
湯気と一本毛が、コミカルに揺れる。
たったそれだけのことなのに、肩の力が少し抜けた。
「……ありがとう」
「うむ」
「そこは謙遜しないんだ」
「したことに対する評価は、正しく受け取る主義だ」
ちょっとだけ笑ってしまった。
今日初めてかもしれない。
退勤妖精は満足そうにうなずく。
「よし。では次だ」
「まだあるの?」
「ある。夕飯」
「カフェオレで終わりたい」
「終わるな。せめて何か腹に入れろ」
「めんどくさい」
「わかる」
「わかるんだ」
「だが、そこで負けると明日の朝がもっと終わる」
言い方は変だが、言っていることは正しい。
悔しいが、正しい。
俺はキッチンをのぞいた。
冷蔵庫の中には、卵とねぎと、やる気のない豆腐が入っている。
「何が作れるかな……」
「味噌汁」
「妙に現実的」
「私は地に足のついた妖精だ」
「母ちゃんみたいだな」
「違う。退勤妖精だ」
そんなものがいてたまるか、と思いながら、俺は小さく息を吐いた。
少なくとも、さっきよりは少しだけ楽だった。
湯気の向こうで、退勤妖精がえらそうに言う。
「安心しろ。今日は立て直せる」
「なんでそんな自信あるの」
「おぬし、靴をそろえたからな」
「基準が小さい」
「最初の一歩は、たいてい小さいものだ」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
なんなんだ、こいつ。
意味はわからない。
でも、追い出す気力も、もう少し先でいい気がした。
⸻
第2話 退勤妖精、だいぶうるさい
「お・き・て。中村くん」
(なっ……なみちゃん?)
やわらかい声が耳に落ちてきた。
背中を小さい手でぽんぽん叩かれる。
(あれ、どこだ……)
寝ぼけた頭で振り向いた、その瞬間だった。
「起きろ」
のぶとい声。
「うわっ!」
朝、最悪の声で目が覚めた。
目を開けると、スマホの上に一本毛が立っていた。
「うわっ!」
二回目が出た。仕方ない。
心臓に悪い。朝から悪い。非常に悪い。
退勤妖精は、いつものように腕を組み、ずいぶん偉そうにこちらを見下ろしていた。
「アラームは三回止めていた」
「監視社会かよ」
「寝ぼけた人間は事実確認が甘い」
「朝一番に聞きたいセリフじゃねえな」
夢じゃなかったのか。
それが一番がっかりした。
昨夜のあれこれ。
玄関にいた謎の小さいおっさん。
風呂、飯、睡眠。
湯気の立つお茶。
全部、疲れた俺が見た幻かと思っていたのに。
現実だったらしい。
しかも朝からいる。
「なんで普通にいるんだよ」
「昨日言っただろう。おぬしの生活が見過ごせぬ域に達しておる」
「聞いたけど、納得はしてない」
「納得はあとでよい。まず起きろ」
「起きてるよ」
言いながら、ベッドから足を下ろす。
床が冷たい。火曜の朝にふさわしくない冷たさだ。
退勤妖精は俺のスマホからぴょんと降りると、テーブルの上に置きっぱなしのペットボトルを見て眉をひそめた。
「水を最後まで飲め」
「なんでそんなとこまで見てんの」
「目につく」
「目につくサイズじゃないだろ、おまえ」
妖精は無視して部屋を見回した。
脱ぎっぱなしのシャツ。
読みかけの漫画。
昨日食べなかったカップ麺。
床に転がる靴下片方。
「ひどい」
「朝から傷つけに来るな」
「事実だ」
「言い方ってもんがあるだろ」
「では訂正しよう。だいぶひどい」
「悪化した」
俺が顔をしかめると、退勤妖精は小さく鼻を鳴らした。
「見ろ。片づけておいた」
「え?」
たしかに床の上は少し広くなっていた。
ただし、物が全部ベッドの上に寄せられていただけだった。
「片づいてねえ」
「床は見えている」
「思想が強いな」
「生活において床の確保は重要だ」
「急に正論っぽいこと言うな」
退勤妖精は、ふんと胸を張った。
「私は地に足のついた妖精だ」
「おせっかい妖精だろ」
「違う。退勤妖精だ」
そこは毎回訂正するんだな。
俺はあくびをしながら洗面所へ向かった。
後ろから、一本毛の生活指導が飛んでくる。
「歯をみがけ」
「今からやる」
「顔も洗え」
「やるって」
「寝ぐせがひどい」
「くせ毛なんだよ」
「なら一本くらい分けてくれ」
「一本増えても、戦力にならないだろ」
鏡の前に立つ。
目の下はうっすら重いままだったが、昨日よりは少しマシだった。
水で顔を洗う。
その横で、退勤妖精が歯ブラシ立てに腰かけている。
「そこ座るな」
「安定感がある」
「情報いらないって」
歯をみがきながら部屋に戻ると、テーブルの上にメモが置かれていた。
・水を飲む
・ゴミをまとめる
・夜はカフェオレだけで終わらない
「なんだこれ」
「本日の最低目標だ」
「学校の連絡帳みたいなことすんな」
「大人にも必要だ」
「否定しづらいのやめろ」
しかも字が妙に達筆だった。
なんなんだ、こいつ。
朝飯代わりにゼリー飲料を流し込み、ネクタイを締める。
すると退勤妖精が、棚の上のアクリルスタンドを見つけた。
「この女性は誰だ」
「なみちゃん」
「なるほど」
「“なるほど”で済ますな」
「おぬしの精神安定剤か」
「言い方どうにかならん?」
一本毛はアクスタをじっと見つめたあと、なぜか軽く頭を下げた。
「いつもお世話になっております」
「何してんの」
「敬意だ」
「変なとこだけ礼儀正しいな」
出勤前にそんなやり取りをしてしまったせいで、遅刻ぎりぎりになった。
会社に着いた時点で、もう帰りたかった。
午前中はいつものように過ぎなかった。
部長が朝一で、いつもの調子で言った。
「これ、しもじもがやれ」
「ほら、だから結論から言えって」
まただ。
何に対しての「だから」なのかは、たぶん誰にもわかっていない。
だが、部下のやる気を削る才能だけは安定している。
「はあ……」
「ため息つくなよ、中村」
隣の席の先輩が笑う。
「つかせてくださいよ。吸うだけじゃ足りないんで」
「言うねえ」
「今日は朝からだいぶ削られてるんで」
そう言いながらパソコンを開く。
メール。資料。電話。確認。
午前が終わる頃には、脳みそがだいぶ平たくなっていた。
昼休み。
俺は回復のため、スマホでなみちゃんの動画を見ようとした。
だが、イヤホンの右耳が死んでいた。
「嘘だろ……」
左耳だけで流れる「みんなー、元気ー?」が、今日はやけに切なかった。
しかもそのタイミングで部長に呼ばれた。
「中村、これも頼む」
「今ですか」
「今だ」
「俺の回復手段にまで社会が介入してくる……」
誰にも聞こえない声でつぶやきながら、俺は立ち上がった。
午後も、だいたいそんな感じだった。
特別ひどいことはない。
でも、地味に全部がだるい。
こういう日が、一番しんどい。
帰り道、コンビニで新作スイーツを見た。
ちょっと食べたかった。
だが、売り切れていた。
「終わった……」
店の前で一瞬だけ立ち尽くし、そのままカフェオレを一本だけ買って出た。
昨日と同じだ。
成長がない。
アパートに着いて、鍵を開ける。
「遅い」
玄関から、聞き慣れ始めたのが悔しい声がした。
「……ただいま」
「声に元気がない」
「今日の俺に元気を期待するな」
靴を脱ぐ。
そのまま座り込みたくなる。
いや、もう半分座っていた。
退勤妖精が近づいてくる。
「靴」
「……無理」
「手洗い」
「無理」
「飯」
「もっと無理」
「……なるほど」
一本毛が少し揺れた。
「だいぶだな」
「だいぶだよ」
俺は壁にもたれたまま、しばらく動けなかった。
今日のやる気は、たぶん会社のコピー機の前あたりに落としてきた。
退勤妖精はしばらく何も言わなかった。
それから、珍しく低い声で聞いた。
「何があった」
「別に」
「別にの日は、だいたい別にではない」
「便利な分析すんな」
でも、否定するのも面倒だった。
「……なんか今日、全部だるい」
「うむ」
「“頑張れ”とか言うなよ」
「言わん」
「え、言わないの」
「今日は無理だ」
「判断が早いな」
「見ればわかる」
退勤妖精は、ぴょんとテーブルに飛び移った。
やがて、マグカップを引きずるように運んできた。昨日と同じお茶だった。
「ほれ」
「また勝手に……」
「非常時だ」
「今日も俺が非常事態扱いなのか」
「今日は昨日より少し下だ」
「ランクづけすんな」
それでも、受け取ったマグカップはあたたかかった。
一口飲む。
少しだけ、喉の奥がほぐれる。
「全部やれとは言わん」
「……え?」
「今日は一個でいい」
「一個」
「顔を洗うでもいい。水を飲むでもいい。布団に入るでもいい」
「ハードル低いな」
「低くしている」
「なんで」
「今日は高いと飛べん」
その言い方で、少しだけ笑ってしまった。
退勤妖精は腕を組み直す。
「ゼロにするな。それだけで今日は勝ちだ」
「勝ちの基準、だいぶ甘くない?」
「疲れた日の基準は甘くてよい」
「……それ、もっと早く聞きたかったな」
「今聞いただろう」
「そうだけど」
俺はため息をついて、立ち上がった。
よろけそうになりながら洗面所へ向かう。
顔を洗う。
ついでに手も洗う。
鏡を見る。
相変わらず、だいぶひどい顔だった。
でも玄関で止まっていた時よりは、少し人間に戻った気がした。
部屋に戻ると、退勤妖精がキッチンの前で腕を組んでいた。
「次」
「一個でいいって言ったじゃん」
「今のは一個だ。これは追加点だ」
「急にゲーム要素入れてくるな」
「味噌汁くらい飲め」
「めんどくさい」
「わかるぞ」
「そこだけ共感するな」
「重要だからな」
冷蔵庫を開ける。
卵、ねぎ、豆腐。
相変わらず、やる気のない面子だった。
「ほんとに味噌汁しかないな」
「十分だ」
「おまえ、味噌汁への信頼が厚いな」
「裏切られたことがない」
結局、豆腐とねぎだけの簡単な味噌汁を作った。
飲んでみると、思ったよりちゃんとした味がした。
「うまい」
「当然だ」
「なんでおまえがドヤるんだよ」
「提案者だ」
「腹立つな」
それでも、空っぽだった胃に温かいものが入ると、少しだけ落ち着いた。
食器を流しに置き、ソファへ戻る。
そのまま寝そうになる。
もう限界だった。
「待て」
「……なんだよ」
「そこは罠だ」
「ソファを罠扱いするな」
「ここで寝ると、明日が終わる」
「すでに今日が終わってるんだけど」
「明日まで道連れにするな」
その通りすぎて反論できない。
俺は重い腰を上げた。
布団までの数歩がやけに遠い。
だが今日は、一個やった。
ついでに味噌汁も飲んだ。
ここでソファに沈んだら、なんか負ける気がした。
のろのろと布団に入る。
その瞬間、後ろで一本毛がぴんと立った。
「見たか」
「何を」
「人間が、自発的に、布団に入った」
「言い方」
「これは快挙だ」
「うるせえ……」
でも少しだけ、笑った。
電気を消す前、退勤妖精がテーブルの上からこっちを見た。
「今日は勝ちだ」
「一個しかやってねえよ」
「二個だ。顔を洗った。味噌汁を飲んだ。布団にも入った」
「三個じゃねえか」
「……ほんとうだな」
「数え方まで雑かよ」
小さく吹き出すと、胸のあたりが少し軽くなった。
なんなんだ、こいつ。
うるさいし、偉そうだし、たぶん性格もそこまで良くない。
でもまあ――昨日よりは、帰る理由になっている気がした。
⸻
第3話 社内一の美人が、俺に話しかけてきた
朝から退勤妖精の様子がおかしかった。
「起きろ」
そこまではいつも通りだ。
問題は、そのあとだった。
「顔」
「洗うよ」
「姿勢」
「朝から要求が多いな」
「シャツ」
「着るよ」
「しわ」
「見逃せ」
「靴」
「まだ履いてない」
「未来の話だ」
布団の上で半目のまま、俺は妖精を見た。
「今日はなんなんだよ」
「なんか、ではない」
「なんかだろ」
「おぬしは普段、“だいたいこれでいい”で出勤しておる」
「だいたいで何が悪い」
「今日はだいたいをやめろ」
「水曜の朝から要求が重い」
退勤妖精は、ふんと腕を組んだ。
「身だしなみ強化日だ」
「聞いてない」
「今決まった」
「会議室どこだよ」
目をこすりながら洗面所に向かう。
後ろから、いつもの生活指導が飛んでくる。
「顔はちゃんと洗え」
「洗ってる」
「髪も整えろ」
「整えても反抗してくるんだよ、こいつは」
「では気合いで抑えろ」
「髪に気合いは効かない」
鏡の前に立つ。
昨日よりはマシだ。
少なくとも、昨日みたいに“会社のコピー機前にやる気を落としてきた顔”ではない。
部屋に戻ると、テーブルの上にメモが置いてあった。
・水を飲む
・シャツのえりを見る
・口元を拭く
・猫背で会社に行かない
「最後だけ急に人生指導なんだよ」
「姿勢は大事だ」
「またそれっぽいこと言ってる」
「今日は“ちゃんとして見える”が目標だ」
「何と戦ってるんだよ」
「社会だ」
「急に話がでかいな」
朝飯代わりにゼリー飲料を流し込んで、ネクタイを締める。
退勤妖精は、なぜかいつも以上に真剣な顔で俺を見ていた。
「口元」
「拭いた」
「靴」
「そろってる」
「よし」
「なんだその最終確認」
「送り出しだ」
「過保護かよ」
出勤前、棚の上のなみちゃんアクスタに目がいく。
退勤妖精も、その視線を追った。
「今日も頼む」
「何を」
「精神面を」
「丸投げするな」
「私は生活担当だ」
「分担が細かいな」
会社に着いた時点で、少しだけ疲れていた。
家を出るまでにやることが多すぎたせいだ。
だが、不思議と顔はいつもより起きている気がした。
午前中はいつも通りだった。
部長は朝からわけのわからないことを言い、資料は普通に多かった。
気づけば昼前だった。
コピー機の前で資料をそろえていると、ふいに声がした。
「中村くん」
俺は固まった。
振り向く。
そこにいたのは、営業部の白石さんだった。
社内一の美人である。
社内一の美人とは、だいたい比喩か誇張で使う言葉だと思っていた。
だが白石さんを見ると、ああ、これは社内一だなと素直に思う。
仕事ができて、姿勢がよくて、話し方がやわらかくて、なんかこう、ちゃんとしている。
そして今、その人が俺を見ていた。
「……はい?」
ひどい返事だった。
もっとこう、「どうしました?」とかあるだろ。
だが、脳が追いつかなかった。
白石さんは少しだけ首をかしげた。
「今日、なんか雰囲気違いますね」
「え」
終わった。
いや、始まった。
どっちだ。
「え?」
「え?」
聞き返してしまった。
白石さんまでつられて小さく聞き返していた。終わりだ。社会人として終わりだ。
「す、すみません」
「いえ、あの、悪い意味じゃなくて」
「悪い意味じゃない」
「はい。なんか、ちゃんとして見えるというか」
「ちゃんと」
「顔色も前よりいいですし」
俺の脳内で、何かが派手に転んだ。
ちゃんとして見える。
顔色がいい。
社内一の美人が。
俺に。
言った。
退勤妖精の朝の無駄な口出しが、頭の中で一気につながる。
顔。
姿勢。
口元。
靴。
まさか、あいつ。
「中村くん?」
「はっ、はい」
「この資料、三部で大丈夫でしたっけ?」
「三部です!」
「よかった。ありがとうございます」
業務連絡だった。
業務連絡だったが、そこではない。
俺の中ではもう、その前が本番だった。
白石さんは微笑んで去っていく。
姿勢がいい。歩き方まできれいだ。人類の完成形かもしれない。
俺はコピー機の前で、しばらく固まっていた。
先輩が横を通りながら言う。
「どうした、中村」
「いま、社内一の美人が、俺に」
「話しかけてたな」
「“今日なんか雰囲気違いますね”って」
「言ってたな」
「聞こえてました?」
「聞こえる距離だったし」
「……俺、今日ちょっと生きててよかったかもしれない」
「安いな」
「こういうのは、安く効くんですよ」
午後の仕事は、少しだけ軽かった。
部長に何か言われても、まあいい。
メールが多くても、まあいい。
電話が長くても、今日は耐えられる。
なぜなら俺は今日、
社内一の美人に
“ちゃんとして見える”
と言われたからだ。
人は案外、それだけで午後を越えられる。
帰り道、俺は少し足取り軽くアパートへ向かった。
コンビニでカフェオレを取りかけて、やめる。
代わりに、ちょっといいプリンを買った。
今日は祝いだ。
鍵を開ける。
「遅い」
玄関から、いつもののぶとい声が飛んできた。
「聞いて驚け」
「まず嫌だ」
「社内一の美人が俺に話しかけてきた」
「聞いてしまった」
「しかも“今日なんか雰囲気違いますね”だぞ?」
「うむ」
「うむ、じゃない」
「で?」
「で、って何」
「そのあと世界はどう変わった」
「少なくとも俺の中では激変だよ」
「小さい世界だな」
退勤妖精は、ぴょんと下駄箱の上に飛び乗った。
そして、やれやれと首を振る。
「清潔感が、ようやく人類の最低ラインに達しただけだ」
「夢を見させろ」
「では言い直そう」
「おっ」
「最低ライン突破、おめでとう」
「祝福が雑!」
俺は靴を脱ぎながら笑った。
「いや、でもマジでおまえのおかげかもしれん」
「当然だ」
「そこは謙遜しないんだな」
「したことに対する評価は、正しく受け取る主義だ」
「毎回それ言うな」
部屋に入ると、退勤妖精が腕を組んだままじっとこっちを見ていた。
「で」
「まだあるの?」
「勘違いするな」
「何を……」
「恋ではない。清潔感だ」
「言い切るな」
「言い切る」
「人の夢を」
「清潔感は大事だ」
「それは今日ちょっと実感したけども」
テーブルの上にプリンを置くと、退勤妖精が目を細めた。
「祝いか」
「祝いだ」
「安いな」
「こういうのは安く効くんだよ」
「それは知っている」
「なんでだよ」
「おぬしを見ていればわかる」
プリンのふたを開ける。
一口食べる。
ちょっとだけうまい。
いや、かなりうまい。
「どうだ」
「うまい」
「そうか」
「なんでおまえが満足げなんだよ」
「今日は機嫌がよさそうだからな」
「まあ……それは、うん」
俺は少しだけ笑って、スプーンを置いた。
「でもさ」
「なんだ」
「“ちゃんとして見える”って言われたの、ちょっと嬉しかった」
「うむ」
「仕事できるとかじゃなくて、そこなんだよな」
「今日はそこでよい」
「上からだなあ」
「上だ」
そのまま風呂に入って、顔を洗って、歯をみがく。
布団に入る前、なんとなくもう一度だけ鏡を見た。
髪を少しだけ整える。
すると背後から、のぶとい声がした。
「ようやく自分で気にした」
「うるせえ」
「進歩だ」
「素直に褒めろ」
「褒めている」
「伝わりにくいんだよ」
布団に入る。
退勤妖精はスマホの上に立って、いつものように腕を組んでいた。
「今日は勝ちだな」
「まあ、たしかに」
「ゼロではないどころか、だいぶ浮かれていた」
「言い方」
「よいことだ」
「そこは認めるんだ」
「たまには報酬が必要だ」
「急にいい上司みたいなこと言うな」
「私は上司ではない。退勤妖精だ」
「そこは毎回訂正するんだな」
電気を消す前、俺は小さく息を吐いた。
疲れてないわけじゃない。
仕事が急に楽になったわけでもない。
でも今日は、少しだけマシだった。
それだけで、十分な夜もある。
「なあ」
「なんだ」
「明日も、身だしなみ強化日か?」
「調子に乗るな」
「なんでだよ」
「基礎は継続だ」
「急に厳しいな」
暗い部屋の中で、一本毛だけがぴんと立って見えた気がした。
「……まあ、頼むわ」
「うむ」
目を閉じる。
明日も仕事だ。
たぶん、そこそこだるい。
でも、少なくとも今日は少しだけ、疲れが吹っ飛んだ気がした。
本作は、中村君シリーズのはじまりの話です。
ここから少しずつ、疲れた日の小さな出来事を書いていけたらと思っています。
もし少しでも面白いと感じていただけたら、評価や感想をいただけると嬉しいです。




