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1998年の君と、テレホーダイの向こう側で

作者: 三角
掲載日:2026/03/01

1998年と2026年。

承認と創作をめぐる物語です。

部屋の照明を落とすと、机の上には二種類の光が残った。

ひとつは、手元のスマートフォンが放つ、鋭くて冷たいLEDの通知光。

もうひとつは、机の奥に鎮座したブラウン管モニターの、分厚いガラス越しの鈍い輝きだ。


ブゥゥン、という低い駆動音が、足元のタワー型PCから響く。

ファンの回る音が大きくて、爆発するんじゃないかと不安になる。

一九九八年製、PC―9821。

亡くなった祖父の遺品整理で引き取ったそれは、埃とヤニの混じった、すえた匂いがした。


ユウは、手元のスマホを裏返した。

画面には、さっき投稿した写真への反応が並んでいる。

『それな』

『わかる』

『FF外から失礼します』

大量の同意と、拡散を示す数字。

けれど、その数字が増えるたび、ユウの胸の奥にはなぜだか暗い影が差す。


共感されるように、当たり障りのない「刺さる」言葉を選べば、承認が降ってくる。

それは簡単なゲームだった。

でも、画面の向こうにいる誰かの顔は、一度も想像できたことがない。


「……起動、遅すぎだろ」


ユウは呟き、深いため息をついた。

画面の中で、「Windows98」のロゴが、砂嵐のような画質の向こうで静止している。

修理と言っても、内部の埃を飛ばし、接触不良のメモリを差し直しただけだ。

ネットには繋がらない。

ただの古びた箱。

暇つぶしにもならないかもしれない。


その時だった。

トゥルル、という間抜けな電子音が鳴った。

画面の右下に、見たことのないアイコンが点滅する。

チャットソフトのようだった。

勝手に起動した黒いウィンドウに、緑色の文字が、一文字ずつ叩きつけられるように表示された。


『23:00 接続テスト。誰かいますか?』


ユウは眉をひそめた。

Wi-Fiモジュールなんて積んでいない。

LANケーブルも刺さっていない。


キーボードに指を置く。

カチャ、カチャ、と大きな音が部屋に響く。


『誰ですか』


送信ボタンを押す。

数秒のラグ。

そして、向こうからの返信が、画面を流れた。


『うわ、繋がった! マジか』

『こちら、ソウタ。現在地は東京、杉並。時刻は23時02分』

『そっちは?』


『東京。2026年、3月1日。23時03分』


冗談のつもりで打った。

相手がどんな反応をするか、期待して待つ。


『2026年?』

『……今、1998年だぞ』

『長野五輪が終わったばっかだ』


ユウの手が止まる。

嘘だ、と打ち込もうとして、やめた。

画面の端に表示されたシステム日付。

そこには確かに「1998/03/01」と同期されたログが残っていた。


部屋の空気が、急に熱をあげたように感じられた。

過去と現在。

断絶しているはずの二つの時間が、この古いブラウン管の中でだけ、混線している。



それから、奇妙な夜の習慣が始まった。

接続できるのは、夜の二十三時から、翌朝の八時まで。

一九九八年のソウタが言うには、それは「テレホーダイ」という、深夜定額制ネット通信の時間帯らしい。


『通信費が気にならなくて済むからさ』

『親に電話線抜かれる心配もないし』


ソウタの文字は、いつも熱を帯びていた。

顔文字が多い。

(笑)や(汗)を多用する。

今のSNSなら「おじさん構文」と一蹴されるような文体だった。


『で、2026年はどう?』

『車は空飛んでる? 火星には住める?』


ソウタの質問は無邪気だった。

ユウは淡々と返す。


『車はタイヤで走ってる。火星はまだ遠い』

『でも、電話は板になった。全世界の情報が、ポケットに入る』


『すげえ!』

『SFじゃん。攻殻機動隊の世界だな』


ソウタは、一九九八年の世界において二十三歳だった。

大学を出て、就職活動に失敗し、今はアルバイトをしながら創作をしているらしい。

小説、といっても、同人誌だ。

コミックマーケットという場所で、コピー本を売っていると言っていた。


『プロになりたいんだ』

『でも、才能があるかわからない』

『周りの奴らは就職して、結婚とかして、まともになっていくのに』

『俺だけ、ここに留まってていいのかな』


画面に流れる文字から、焦燥が伝わる。

ユウはその重い問いに、どう返していいかわからなかった。

いつもなら、「わかる、つらいよね」とスタンプを押して終わる場面だ。けれど、そんな軽い言葉を返していいのか。


『好きなら、続ければいいじゃん』


ユウが打つと、ソウタからの返信が少し遅れた。


『簡単に言うなよ』

『お前はいいよな、未来を知ってるから』

『てか、俺がどうなるか、検索すればわかるんだろ?』


ドキリとした。

確かに、調べようと思えば調べられる。

ペンネーム、活動ジャンル、当時のサークル名。

現代の検索エンジンなら、数秒で彼がプロになれたかどうかが判明するだろう。


もし、彼が何も残せずに消えていたとしたら。

あるいは、夢破れて別の人生を歩んでいたら。


『まあ、いいや』

『話を聞いてくれるだけで、助かる』

『この時代、オタクはまだ肩身が狭くてさ』

『ネットの向こうに、自分を肯定してくれる誰かがいるってだけで、楽になる』


肯定。

その言葉に、ユウは胸を突かれた。

自分は、彼を肯定しているだろうか。

ただ、珍しい現象を消費しているだけではないのか。

一九九八年の空気感を、レトロなコンテンツとして楽しんでいるだけではないのか。


深夜二時。

静寂の中で、ファンの音だけが鳴り響いている。

スマホの通知など、もう何時間も気にしていない自分がいた。



変化は、二週間ほど経った頃に訪れた。

接続が不安定になり始めたのだ。

文字化けが混じる。

突然、回線が切れる。

「窓」が、少しずつ閉まり始めている予感があった。


その夜、ソウタはいつもより饒舌で、そして不安定だった。


『今日、バイト先で怒られた』

『いい歳して夢なんか見てるからだって、遠回しに言われた』

『なあ、ユウ』

『教えてくれよ』


画面の文字が、点滅しているように見えた。


『俺、プロになれてる?』

『未来に、俺の本はある?』

『あるなら頑張れる。ないなら、もう諦めて就職する』

『保証が欲しいんだ』


ユウは指を止めた。

保証。

それは、現代の自分が最も欲しているものでもあった。

この投稿は伸びるか。この意見は叩かれないか。

正解を知ってからでなければ、一歩も動きたくない。

だから、ソウタの気持ちは痛いほどわかった。


『わかったらつまらないだろ』


軽い言葉を選んでしまった。


『つまらない?』

『こっちは人生賭けてるんだ』


文字の勢いが、怒りに変わっている。


『お前、いつもそうだ』

『どこか他人事で、上から見てる』

『安全圏から、溺れてる奴を観察してるだけだろ』

『冷たいよ、お前の言葉は』


図星だった。

自分は傷つかない場所から誰かを眺めて、「エモい」などといって消費していただけだ。


『違う、俺は』


言い訳を打とうとした瞬間、画面が激しくノイズに覆われた。

ブツン、という音と共に、ウィンドウが閉じる。

接続が切れた。


「……クソッ」


ユウはキーボードを叩いたが、反応はない。

再起動しても、あの黒いチャット画面は現れなかった。

ただの、古びたPCに戻ってしまった。


部屋に、完全な静寂が戻る。

引き出しの中のスマホが、微かに振動した気がした。

けれど、ユウはそれを手に取らなかった。

SNSのタイムラインに流れる、無数の「好き」や「嫌い」の言葉たち。

それらが、ひどく薄っぺらく感じられた。


ソウタは、人生を賭けて言葉を紡いでいる。

自分は、何を賭けていただろう。

退屈を埋めるために、言葉を使い捨てていただけではないか。


ユウは膝を抱え、暗いモニターを見つめ続けた。

夜が明けるまで、一睡もできなかった。



翌日の夜、ソウタは現れなかった。

その次の日も。

接続待機中のカーソルが、虚しく点滅を繰り返すだけだった。


ユウは、学校でも上の空だった。

友人の会話も、SNSのトレンドも、ノイズにしか聞こえない。

「未来の保証」を求めたソウタ。

それに答えられなかった自分。


もし、自分がソウタだったら。

未来から来た奴に、「お前は成功する」と言われたら、嬉しいだろうか。

いや、きっと安堵する。

でも、それは「今の自分」の情熱を、結果というフィルターで塗りつぶすことにならないか。

逆に、「失敗する」と言われたら、書くのをやめるのか。

書くこと自体が、呼吸のようなものだと言っていたのに。


「……違うな」


ユウは、帰宅の電車の中で、つり革を強く握った。

ソウタが必要としているのは、未来の正解じゃない。

今、暗闇の中で足掻いている自分を、認めてくれる声だ。

結果が出るかどうかわからない恐怖と共に、それでも進もうとする背中を、支える手だ。



PCの電源を入れる。

二十三時。

祈るように画面を見つめる。


数分が過ぎ、十分が過ぎた。

やはり、もう繋がらないのか。

諦めかけたその時、ノイズ混じりの音が鳴った。

ウィンドウが開く。

ただし、文字は乱れている。


『...続.....か?』

『こち....ソウ...』


「繋がった!」


ユウは叫び、キーボードに覆いかぶさった。

回線は細い。

もう、長くは持たないだろう。

これが最後だという予感が、肌を刺すように伝わってくる。


『ごめん、ソウタ』

『一昨日、ひどいこと言った』


返信は遅い。


『俺も.....悪かった』

『八つ当たりした』

『でも....もう....限界かも....』

『PCの....調子が....変だ』


画面が揺れる。

時間がない。

ユウは、深呼吸をした。

未来の情報は渡さない。

「成功するよ」という甘い嘘も、つかない。

自分の心の一番深い場所から、言葉を掬い上げる。

誰かの評価も、「いいね」の数も関係ない。

ただ、目の前の友人に届くためだけの言葉を。


『ソウタ、聞いてくれ』

『未来がどうなるか、俺は言わない』

『でも、ひとつだけわかることがある』


指が震える。

でも、迷いはなかった。


『お前の書く文章は、熱いよ』

『俺の時代の、どんなにバズってる言葉より、ずっと重い』

『評価なんて、時代で変わる』

『でも、その熱量だけは、絶対に古くならない』

『好きって気持ちは、才能よりも長持ちするんだ』


エンターキーを、強く叩いた。

パチリ、と乾いた音が響く。

画面の向こうで、ソウタがそれを受け取る時間を待つ。


ノイズが激しくなる。

画面の半分が砂嵐に変わる。

その中から、最後の文字列が浮かび上がった。


『……そっか』

『長持ち、するか』

『ありがとう、ユウ』

『じゃあ……書くよ』

『誰に笑われても……俺の本を……出す』

『お前に……届くように……』


ブツン。

プツ、ピー……。


高い電子音と共に、ウィンドウが消失した。

モニターの光が、ふっと弱まる。

デスクトップ画面には、もう何も表示されなかった。

アイコンも、タスクバーも消え、ただのブルースクリーンが広がっていた。

PCそのものが、寿命を終えたようだった。


「……届いた、かな」


ユウは、動かなくなったキーボードから手を離した。

涙が、頬を伝っていた。

誰かのために言葉を選び、悩み、届けた。

その手応えだけが、確かな「芯」となって、胸に残っていた。



二〇二六年、春。

ユウは、神保町の古書店街を歩いていた。

スマホはポケットに入れたままだ。

地図アプリに頼らず、路地裏の店に入る。


目的の棚は、店舗の奥、埃を被った「同人誌・ミニコミ誌」のコーナーだ。

ネット検索はしなかった。

自分の足で、自分の目で、見つけたかった。


背表紙を目で追い、指でなぞる。

九〇年代後半の、熱気と混沌が詰まった薄い本たち。

その一角に、ひっそりと挟まっていた一冊を見つけた。


タイトルは『深夜の窓辺』。

コピー用紙をホッチキスで止めただけの、粗末な作りだ。


ユウは、震える手でページをめくった。

SF小説だった。

未来と通信する男の話。

文章は荒削りで、青臭い。

でも、そこには確かな熱があった。

あの夜、ブラウン管越しに感じた、焦げ付くような情熱が、文字となって焼き付けられていた。


そして、最終ページ。

あとがきの最後に、その一文はあった。


『未来の友人に捧ぐ。

 君が言った通り、好きは長持ちしたよ。

 この本は、君への返信だ』


ユウは、本を閉じた。

胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。

彼はプロ作家として大成したわけではないかもしれない。

歴史に残る名著を書いたわけではないかもしれない。

けれど、彼は書いたのだ。

未来の保証がない中で、自分の「好き」を信じて、形にしたのだ。

そしてそれは、二十八年の時を超えて、確かにここに届いた。


ユウはレジで金を払い、店を出た。

春の陽射しが眩しい。

カフェに入り、ポケットからスマホを取り出す。

いつものSNSアプリを開こうとして、指を止めた。


「……今日は、いいか」


スマホをスリープさせ、カバンからノートを取り出す。

そこに、最初の一行を書き込む。


ソウタへの、二十八年遅れの感想を書くために。


『拝啓、一九九八年の君へ。』


ペン先が紙を走る音というのは、こんなにも心地よいものなんだなとユウは思った。

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