1998年の君と、テレホーダイの向こう側で
1998年と2026年。
承認と創作をめぐる物語です。
部屋の照明を落とすと、机の上には二種類の光が残った。
ひとつは、手元のスマートフォンが放つ、鋭くて冷たいLEDの通知光。
もうひとつは、机の奥に鎮座したブラウン管モニターの、分厚いガラス越しの鈍い輝きだ。
ブゥゥン、という低い駆動音が、足元のタワー型PCから響く。
ファンの回る音が大きくて、爆発するんじゃないかと不安になる。
一九九八年製、PC―9821。
亡くなった祖父の遺品整理で引き取ったそれは、埃とヤニの混じった、すえた匂いがした。
ユウは、手元のスマホを裏返した。
画面には、さっき投稿した写真への反応が並んでいる。
『それな』
『わかる』
『FF外から失礼します』
大量の同意と、拡散を示す数字。
けれど、その数字が増えるたび、ユウの胸の奥にはなぜだか暗い影が差す。
共感されるように、当たり障りのない「刺さる」言葉を選べば、承認が降ってくる。
それは簡単なゲームだった。
でも、画面の向こうにいる誰かの顔は、一度も想像できたことがない。
「……起動、遅すぎだろ」
ユウは呟き、深いため息をついた。
画面の中で、「Windows98」のロゴが、砂嵐のような画質の向こうで静止している。
修理と言っても、内部の埃を飛ばし、接触不良のメモリを差し直しただけだ。
ネットには繋がらない。
ただの古びた箱。
暇つぶしにもならないかもしれない。
その時だった。
トゥルル、という間抜けな電子音が鳴った。
画面の右下に、見たことのないアイコンが点滅する。
チャットソフトのようだった。
勝手に起動した黒いウィンドウに、緑色の文字が、一文字ずつ叩きつけられるように表示された。
『23:00 接続テスト。誰かいますか?』
ユウは眉をひそめた。
Wi-Fiモジュールなんて積んでいない。
LANケーブルも刺さっていない。
キーボードに指を置く。
カチャ、カチャ、と大きな音が部屋に響く。
『誰ですか』
送信ボタンを押す。
数秒のラグ。
そして、向こうからの返信が、画面を流れた。
『うわ、繋がった! マジか』
『こちら、ソウタ。現在地は東京、杉並。時刻は23時02分』
『そっちは?』
『東京。2026年、3月1日。23時03分』
冗談のつもりで打った。
相手がどんな反応をするか、期待して待つ。
『2026年?』
『……今、1998年だぞ』
『長野五輪が終わったばっかだ』
ユウの手が止まる。
嘘だ、と打ち込もうとして、やめた。
画面の端に表示されたシステム日付。
そこには確かに「1998/03/01」と同期されたログが残っていた。
部屋の空気が、急に熱をあげたように感じられた。
過去と現在。
断絶しているはずの二つの時間が、この古いブラウン管の中でだけ、混線している。
それから、奇妙な夜の習慣が始まった。
接続できるのは、夜の二十三時から、翌朝の八時まで。
一九九八年のソウタが言うには、それは「テレホーダイ」という、深夜定額制ネット通信の時間帯らしい。
『通信費が気にならなくて済むからさ』
『親に電話線抜かれる心配もないし』
ソウタの文字は、いつも熱を帯びていた。
顔文字が多い。
(笑)や(汗)を多用する。
今のSNSなら「おじさん構文」と一蹴されるような文体だった。
『で、2026年はどう?』
『車は空飛んでる? 火星には住める?』
ソウタの質問は無邪気だった。
ユウは淡々と返す。
『車はタイヤで走ってる。火星はまだ遠い』
『でも、電話は板になった。全世界の情報が、ポケットに入る』
『すげえ!』
『SFじゃん。攻殻機動隊の世界だな』
ソウタは、一九九八年の世界において二十三歳だった。
大学を出て、就職活動に失敗し、今はアルバイトをしながら創作をしているらしい。
小説、といっても、同人誌だ。
コミックマーケットという場所で、コピー本を売っていると言っていた。
『プロになりたいんだ』
『でも、才能があるかわからない』
『周りの奴らは就職して、結婚とかして、まともになっていくのに』
『俺だけ、ここに留まってていいのかな』
画面に流れる文字から、焦燥が伝わる。
ユウはその重い問いに、どう返していいかわからなかった。
いつもなら、「わかる、つらいよね」とスタンプを押して終わる場面だ。けれど、そんな軽い言葉を返していいのか。
『好きなら、続ければいいじゃん』
ユウが打つと、ソウタからの返信が少し遅れた。
『簡単に言うなよ』
『お前はいいよな、未来を知ってるから』
『てか、俺がどうなるか、検索すればわかるんだろ?』
ドキリとした。
確かに、調べようと思えば調べられる。
ペンネーム、活動ジャンル、当時のサークル名。
現代の検索エンジンなら、数秒で彼がプロになれたかどうかが判明するだろう。
もし、彼が何も残せずに消えていたとしたら。
あるいは、夢破れて別の人生を歩んでいたら。
『まあ、いいや』
『話を聞いてくれるだけで、助かる』
『この時代、オタクはまだ肩身が狭くてさ』
『ネットの向こうに、自分を肯定してくれる誰かがいるってだけで、楽になる』
肯定。
その言葉に、ユウは胸を突かれた。
自分は、彼を肯定しているだろうか。
ただ、珍しい現象を消費しているだけではないのか。
一九九八年の空気感を、レトロなコンテンツとして楽しんでいるだけではないのか。
深夜二時。
静寂の中で、ファンの音だけが鳴り響いている。
スマホの通知など、もう何時間も気にしていない自分がいた。
変化は、二週間ほど経った頃に訪れた。
接続が不安定になり始めたのだ。
文字化けが混じる。
突然、回線が切れる。
「窓」が、少しずつ閉まり始めている予感があった。
その夜、ソウタはいつもより饒舌で、そして不安定だった。
『今日、バイト先で怒られた』
『いい歳して夢なんか見てるからだって、遠回しに言われた』
『なあ、ユウ』
『教えてくれよ』
画面の文字が、点滅しているように見えた。
『俺、プロになれてる?』
『未来に、俺の本はある?』
『あるなら頑張れる。ないなら、もう諦めて就職する』
『保証が欲しいんだ』
ユウは指を止めた。
保証。
それは、現代の自分が最も欲しているものでもあった。
この投稿は伸びるか。この意見は叩かれないか。
正解を知ってからでなければ、一歩も動きたくない。
だから、ソウタの気持ちは痛いほどわかった。
『わかったらつまらないだろ』
軽い言葉を選んでしまった。
『つまらない?』
『こっちは人生賭けてるんだ』
文字の勢いが、怒りに変わっている。
『お前、いつもそうだ』
『どこか他人事で、上から見てる』
『安全圏から、溺れてる奴を観察してるだけだろ』
『冷たいよ、お前の言葉は』
図星だった。
自分は傷つかない場所から誰かを眺めて、「エモい」などといって消費していただけだ。
『違う、俺は』
言い訳を打とうとした瞬間、画面が激しくノイズに覆われた。
ブツン、という音と共に、ウィンドウが閉じる。
接続が切れた。
「……クソッ」
ユウはキーボードを叩いたが、反応はない。
再起動しても、あの黒いチャット画面は現れなかった。
ただの、古びたPCに戻ってしまった。
部屋に、完全な静寂が戻る。
引き出しの中のスマホが、微かに振動した気がした。
けれど、ユウはそれを手に取らなかった。
SNSのタイムラインに流れる、無数の「好き」や「嫌い」の言葉たち。
それらが、ひどく薄っぺらく感じられた。
ソウタは、人生を賭けて言葉を紡いでいる。
自分は、何を賭けていただろう。
退屈を埋めるために、言葉を使い捨てていただけではないか。
ユウは膝を抱え、暗いモニターを見つめ続けた。
夜が明けるまで、一睡もできなかった。
翌日の夜、ソウタは現れなかった。
その次の日も。
接続待機中のカーソルが、虚しく点滅を繰り返すだけだった。
ユウは、学校でも上の空だった。
友人の会話も、SNSのトレンドも、ノイズにしか聞こえない。
「未来の保証」を求めたソウタ。
それに答えられなかった自分。
もし、自分がソウタだったら。
未来から来た奴に、「お前は成功する」と言われたら、嬉しいだろうか。
いや、きっと安堵する。
でも、それは「今の自分」の情熱を、結果というフィルターで塗りつぶすことにならないか。
逆に、「失敗する」と言われたら、書くのをやめるのか。
書くこと自体が、呼吸のようなものだと言っていたのに。
「……違うな」
ユウは、帰宅の電車の中で、つり革を強く握った。
ソウタが必要としているのは、未来の正解じゃない。
今、暗闇の中で足掻いている自分を、認めてくれる声だ。
結果が出るかどうかわからない恐怖と共に、それでも進もうとする背中を、支える手だ。
PCの電源を入れる。
二十三時。
祈るように画面を見つめる。
数分が過ぎ、十分が過ぎた。
やはり、もう繋がらないのか。
諦めかけたその時、ノイズ混じりの音が鳴った。
ウィンドウが開く。
ただし、文字は乱れている。
『...続.....か?』
『こち....ソウ...』
「繋がった!」
ユウは叫び、キーボードに覆いかぶさった。
回線は細い。
もう、長くは持たないだろう。
これが最後だという予感が、肌を刺すように伝わってくる。
『ごめん、ソウタ』
『一昨日、ひどいこと言った』
返信は遅い。
『俺も.....悪かった』
『八つ当たりした』
『でも....もう....限界かも....』
『PCの....調子が....変だ』
画面が揺れる。
時間がない。
ユウは、深呼吸をした。
未来の情報は渡さない。
「成功するよ」という甘い嘘も、つかない。
自分の心の一番深い場所から、言葉を掬い上げる。
誰かの評価も、「いいね」の数も関係ない。
ただ、目の前の友人に届くためだけの言葉を。
『ソウタ、聞いてくれ』
『未来がどうなるか、俺は言わない』
『でも、ひとつだけわかることがある』
指が震える。
でも、迷いはなかった。
『お前の書く文章は、熱いよ』
『俺の時代の、どんなにバズってる言葉より、ずっと重い』
『評価なんて、時代で変わる』
『でも、その熱量だけは、絶対に古くならない』
『好きって気持ちは、才能よりも長持ちするんだ』
エンターキーを、強く叩いた。
パチリ、と乾いた音が響く。
画面の向こうで、ソウタがそれを受け取る時間を待つ。
ノイズが激しくなる。
画面の半分が砂嵐に変わる。
その中から、最後の文字列が浮かび上がった。
『……そっか』
『長持ち、するか』
『ありがとう、ユウ』
『じゃあ……書くよ』
『誰に笑われても……俺の本を……出す』
『お前に……届くように……』
ブツン。
プツ、ピー……。
高い電子音と共に、ウィンドウが消失した。
モニターの光が、ふっと弱まる。
デスクトップ画面には、もう何も表示されなかった。
アイコンも、タスクバーも消え、ただのブルースクリーンが広がっていた。
PCそのものが、寿命を終えたようだった。
「……届いた、かな」
ユウは、動かなくなったキーボードから手を離した。
涙が、頬を伝っていた。
誰かのために言葉を選び、悩み、届けた。
その手応えだけが、確かな「芯」となって、胸に残っていた。
二〇二六年、春。
ユウは、神保町の古書店街を歩いていた。
スマホはポケットに入れたままだ。
地図アプリに頼らず、路地裏の店に入る。
目的の棚は、店舗の奥、埃を被った「同人誌・ミニコミ誌」のコーナーだ。
ネット検索はしなかった。
自分の足で、自分の目で、見つけたかった。
背表紙を目で追い、指でなぞる。
九〇年代後半の、熱気と混沌が詰まった薄い本たち。
その一角に、ひっそりと挟まっていた一冊を見つけた。
タイトルは『深夜の窓辺』。
コピー用紙をホッチキスで止めただけの、粗末な作りだ。
ユウは、震える手でページをめくった。
SF小説だった。
未来と通信する男の話。
文章は荒削りで、青臭い。
でも、そこには確かな熱があった。
あの夜、ブラウン管越しに感じた、焦げ付くような情熱が、文字となって焼き付けられていた。
そして、最終ページ。
あとがきの最後に、その一文はあった。
『未来の友人に捧ぐ。
君が言った通り、好きは長持ちしたよ。
この本は、君への返信だ』
ユウは、本を閉じた。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
彼はプロ作家として大成したわけではないかもしれない。
歴史に残る名著を書いたわけではないかもしれない。
けれど、彼は書いたのだ。
未来の保証がない中で、自分の「好き」を信じて、形にしたのだ。
そしてそれは、二十八年の時を超えて、確かにここに届いた。
ユウはレジで金を払い、店を出た。
春の陽射しが眩しい。
カフェに入り、ポケットからスマホを取り出す。
いつものSNSアプリを開こうとして、指を止めた。
「……今日は、いいか」
スマホをスリープさせ、カバンからノートを取り出す。
そこに、最初の一行を書き込む。
ソウタへの、二十八年遅れの感想を書くために。
『拝啓、一九九八年の君へ。』
ペン先が紙を走る音というのは、こんなにも心地よいものなんだなとユウは思った。




