令和6年能登半島地震体験記(富山県氷見市)
令和6年能登半島地震体験記(富山県氷見市)
富山県氷見市は能登半島の付け根
あまり話題になる事も少いので、備忘録を兼ねて体験を時系列に、小説風味に書き出しました
富山県氷見市北部、あまり話題にはならないが、ここも能登半島の一部だ。
主要産業は漁業と旅館。同級生の多くが家業を継ぐ中、どちらかといえばインドア派な僕は、東京で就職し、結婚、一人息子を連れて盆と正月は帰省をしていた。
両親は70を過ぎ、父親は船、母親はガーデニングを趣味として、悠々と引退生活をしていた。
僕の兄は、隣の高岡市に住んでいて、静岡出身の奥さんと、3人の子供と暮らしている。
そんな、わりとどこにでもいる、平凡な一家だと思う。
帰省した実家は、まぁ結構な田舎で、すぐ目の前が海の、良く言えば自然が豊かな場所にあった。能越自動車道が通って劇的に便利になり、最寄りは石川県のICなので買い物は氷見市と七尾市どちらでも行くようになった。それもあって、僕の中の「出身地」は、富山と能登が半々くらいの意識があった。
実家は古く、建て増し建て増しをくり返しているが、元の部分は築100年を優に超える古民家。そろそろガタもきてるね、みたいな話が良く出ていた。
2024年1月1日
今年も息子を連れて実家に帰省。午前中はのんびりして、午後から七尾に釣りにでも行こうか、
いやいや今日はサッカー日本代表戦があるから見終わってからだね、と息子と母とコタツでミカンを食べながら話をしていた。
父は船の手入れに浜に出かけていた。
居間のこたつでぬくぬくしながら、サッカーを見終わる。
午後4時、ガタガタガタという音と共に大き目の地震が来た
息子はすぐ、コタツに潜れ、と母を促す
私は入れないので、立ち上がり柱を掴みながら、テレビの地震速報を眺めていた
揺れは収まり、おおきかったね、息子くんがいてくれて助かったわ、などと談笑しながら、私は妻に地震があったけど大丈夫だよ、などと連絡を入れていた
少しして、今から七尾行くと日も暮れるから釣りは明日だね、じゃあトイレ行ってくる、などと他愛もない会話をしながら、
私はトイレに行った
午後4時10分
ドカンという激しい揺れが前触れもなく襲ってきた。過去に経験の無い、トイレの便座に座っていられないほどの揺れだった。
東日本大震災のとき、私は神奈川にいたが、そのときは建物が倒壊するのではないかと怖れるほどの揺れだったが、これはそれを明らかに上回っていた。
潰れる。
脳裏に過るのは居間に残した息子と母
このとき、僕は家が倒壊したあとのシミュレーションを揺られながら行っていた。
家の中で柱が最も多いのはトイレだからここは比較的安全、最悪汲み取り式なので潰されたら地下に落ちるから、そこから這い上がれる。この家の構造上居間は二階に押し潰される。背の低く足の太いコタツのなかに隠れているからなんとか安全は確保出来ると信じたい。すぐにコタツを発見して救出しないと
揺れは、20秒くらいだった気もするし、数分だった気もする。何れにしても、僕は冷静にパニックになりながら、息子と母を救う手順を必死に追っていた
結論から言うと、このシミュレーションは不要になった。
曾祖父が建てたこの木造建築は、何とか持ちこたえたのである。
揺れが収まった僕はすぐに居間に戻った。
そこで目にしたのは、棚のものは全て落下し、床一面にガラスと本と置物がぶち撒けられている光景だった。
息子と母を呼びかけると、コタツから恐る恐る這い出てきた
コタツの毛布がなければ、特に母は飛び散るガラスで怪我をしただろう、そう言った意味ではコタツの毛布が本当に良い仕事をしてくれた
そして、奇跡的にテレビ台の上で、30度ほど横を向いたテレビから、地震の速報が流れていた
緊急大津波警報
脳裏に蘇る東日本大震災の映像
浜行ってじいちゃん呼んでくる、そう叫んで僕は玄関を飛び出した
はっ、はっ、はっ
浜までは一分もかからないはずなのに、とても遠く感じた
震源が近い。いつ到達してもおかしくない
海に着いた僕は、防波堤の上から、浅瀬に浮かぶ船で作業している父に向かい、力の限り叫んだ
じいちゃん、津波来る、逃げろ、はやく、いいから、はよ、じいちゃん、あがれ、
本当は浜に降りて迎えに行くべきだったろう、だがそうしようとすると僕の足はアスファルトに縫い付けられたように言う事を聞かなくなった。視線は水平線と父を往復し、堤防にしがみつきながら叫んだ
動き出すまで、後になって考えればおそらく30秒ほどだろうか。少し耳が遠くなっている父に、僕の声が届いたのか、それとも必死に身振り手振りで叫ぶ姿に何かを感じたのか。
父は不格好に砂浜を走った。
父が無事に防波堤を上がりきってから、すぐに合流し、家に戻る
所々、地面に瓦が落ちていたり、隣の家のガラス戸が倒れて割れていたりした。ぱっと見、集落では潰れた家が無さそうであった。
家に戻ると、息子と母は家の前に出てきていた。
緊急地震速報、大地震です、大地震です
市のスピーカーから放送が流れる
いつ津波が来てもおかしくない。
僕は素早く家の中に戻ると、上着と財布、靴を履いて飛び出した。
息子と母を先に逃がし、父を待つ。
父が家から中々出てこない。元来頑固な父は自分の思い通りでないと気が済まないタチで、こういう時は本当に厄介だと感じた。
こうしてる間にも余震が続く。
少しして、家のブレーカーを落とした父と合流し、高台に逃げた。
高台には、集落の人が集まっていた。車で逃げてきた人もいる。車は資産であり、避難所でもある。津波の時は車で逃げるなとは言うが、何台も何台も逃げてきてた。
10分、15分、30分
この間、津波はまだ来ない。高台から見る海に潮位の変化は見られない。
ここで、父が財布を取りに戻ると騒ぎ出す。ほっておければどれだけ良いか。余震は続いている。いつ津波が来てもおかしくない。いつ家が潰れてもおかしくない。
意を決して家にもどり、必要な荷物を運び出す事を決めた。
持ち出すのは、毛布、水、食料。父は車の鍵と通帳などを持ち出すようだ。入ってすぐに部屋に行き毛布を確保、そして台所に向かう、、が、ここで廊下を改めて見ると、荷物が落ちてきててぐちゃぐちゃ。
備蓄していた水を12リットル運び出すのに、とても苦労した。
避難用品は玄関付近じゃないとダメだ。大きな反省点となった。
また、この一旦家に戻る判断だが、妻からはボロクソに怒られた。それはそう。結果的に無事で済んだが、あくまで結果論である。息子と妻がLINEで話す声が漏れ聞こえ、僕は実にいたたまれなかった。
そして、父は車を運び出し、再び高台に逃げることとなった。このとき海の水は50cmくらい引いていた。
車は資産であり、避難所でもある。
寒さをしのぎつつ、また車のテレビを観ながら状況を確認していた。
座れる、温かい、情報が入手できる。
ニュースではピンポイントの情報は集まらない。充電しながらスマホで情報を入手する。
状況は中々変化しない。今日は車中泊を覚悟し始めていた。
日が落ちる。
ガソリン節約のため、毛布に包まりながら、どうするか話し合う。とりあえず水は12リットル。食料もある。この頃になると、様々な状況がテレビで伝えられてきた。
大津波警報はまだ解除されない。
僕達は夕ご飯にカップラーメンを食べることにした。ここで思い知ったのは、カップラーメンは意外と水を使うこと、車のコンセントでT-falでお湯を沸かせられることのありがたみ、そしてカップラーメンの美味さだ。
僕は感謝した。ありがとうtoyota、ありがとう日清。
汁まで飲み干し、人心地つく。時刻は夜20:00。
ここで、大津波警報が解除される。隣の高岡市に住む兄夫婦とは連絡を適宜取っていたが、ここでそこに避難するかどうかの話になった。
夜、大津波警報は解除されたが道路の状況は分からない。
おそらく高速は死んでいる、海沿いの道を通るしか無い。
たどり着けるか分からない。だが、行こう。
僕達は移動を開始した。
能登半島は、概して地盤が軟弱である。覚えている限り、小中高で3回は崖崩れで学校に行けなくなった。さらに、2006年の能登沖地震では海岸で崖崩れがあった。今回もその恐れがある。
移動は慎重に、時速30kmでおこなわれた。
僕の通っていた小学校の学区は、およそ5km四方である。それぞれの集落に友達もいて、何度も遊びに行った思い出がある。
だから、どこにどんな家があるかは、大体把握しているのである。
ここは瓦が落ちてる、誰々の家は大丈夫そう。
海沿いの道を大きく右に曲った所で、徐ろにヘッドライトが道路の真ん中に置かれたカラーコーンを照らしだした。
道路脇の家が、道路に向かって、倒壊していた。同級生の家の、隣の家だった。
暗闇で良く見えなかったが、倒壊はその一軒だけではないようだ。
僕は絶句した。
実は少し懸念をしていた。ここは2006年の能登沖地震のときに、富山県内で最も被害が大きかった地区だった。当時は赤紙が何軒にも貼られていたのが頭を過る。
とはいえ、僕は、実際に建物が倒れているのを、僕の行動範囲内で、日常を壊す姿を、初めて、改めて、実際に、直接、目の当たりにしたのだ。このとき、僕は恥ずかしい事に、いわゆる正常性バイアスの影響を受けていたと思う。大きな地震があって、でも、特に致命的な状況は避けられていて、何となく自分は大丈夫な気がしていて、
突然、現実を突きつけられた僕は、どう反応すれば良いか分からなくなったのだと思う。
戸惑い、混乱し、それでも車は前に進む
氷見市市街地へ着いた。国道沿いは、コンビニなどは閉店しているものの、何時もと変わらない様に思えた。
走行していると、突然、ゴンっ!とい衝撃が襲った。
後で分かった事だが、一見なんにも起きていない氷見市街地は、何箇所も液状化により地盤沈下していた。地面が沈む一方で、河に掛かる橋は元の高さだったため、大きく段差が出来ていたみたいだ。
ここでタイヤがパンクしたり、車が故障しなかったのは僥倖だった。何も分からないが、とにかく橋の所で段差がある事実だけは分かったので、その後数カ所の橋を渡る際はハザードを焚いて徐行しながら段差を乗り越えた。
しばらく走って、ようやく高岡市に抜け出ることに成功した。
なんとかかんとか、兄夫婦の家に転がり込んだ。時刻は10時を過ぎていた。
僕の、人生で最も長い1月1日が終わった。
ニュースでは、いくらか氷見市内や、少し震源地から離れた場所の事などを伝えていた。ここで、地理感がある人は分かってただろうが、どう考えても奥能登の情報が少なすぎる。本当にヤバい所の状況が放送されてないのだ。
これは、本当に大変な事になっている。
1月2日
高岡市内は穏やかだった。
僕と父は完全に生き残るモードだった。早朝、近所のコンビニに向かい食料を買い込む
食料がある。店がやってる、奇跡だ
実際は奇跡でも何でもない。震源からさらに車で1時間ほど離れた場所は、まだ日常が残っていたのだ。
この買い込みは兄から怒られることとなった。
一夜明け、被災地のニュースが流れる。
僕はこの間、旧Twitterに張り付き、氷見市内の様子や道路状況を書き込んだりしていた。
息子は、兄夫婦の子供と遊んでいる。
兄夫婦の子は、めったに会えない親戚のお兄ちゃんと楽しく、ときおり訪れる余震に不安定になりながら、過ごしていた。
帰りの新幹線は1月4日夜。1月2日の午前中までは止まっているとニュースで流れていた。いやそんな早く復活するのか、、日本のインフラすごい。
新幹線の情報を更新する。4日早朝に空きを発見。私が出来ることはとっとと関東に帰る事。新幹線を取り直す
携帯電話の各社は、ギガ使い放題になってた。正直助かる。
夕方になって、子供が遊ぶおもちゃを買いに、家電量販店に向かった。
既に日常モードに戻っていた僕は、到着すると三階のおもちゃ売り場に向かう。
三階は封鎖されていた。
家電量販店のように背が高い建物は、上の階の被害が酷かったようで。
二階の売り場では、通路にはみ出すように液晶テレビが並べられていた。なんだろうと思ったら、次から次へと客が来て、壊れたテレビを買い求めてた。店員さんはそれに対応していた。とても、三階のおもちゃが欲しいんですとは言えない。
僕達はすごすごと撤退する事にした。
こんな風に、日常と非日常がミルフィーユのように重なりながら、被災翌日、翌々日を経て厚みを増していった
僕は結局、1月4日に関東に逃げ帰り、日常というホットケーキに戻ったが、当然実家は非日常が積み重なり、。
父と母は、その後一ヶ月、兄夫婦の家に泊まることになる。
理由は単純で、水道が止まったからだ。最寄りの給水所までは車で15分はかかる。自分で水を確保できる人は使わないのがいい。
(以下、追記予定)