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雪解け

 ふわっ……、と意識が浮上する。

 何だかとってもいい気分だ。

 凄くスッキリとした気分だ。

 とても体が軽い。

 欠伸をして、身軽な動きでベッドを出る。

 スクッと立ち上がれた。体が軽い。

 何でだろう?

「……」

 昨夜の出来事が頭の中で流れた。

 悪夢から目が覚めて、寝付けなくて、一階へ降りた。

 テオ様がいて、テオ様がホットミルクを作ってくれた。

 ホットミルクを飲んで、テオ様が傍にいてくれた。

 私は泣いてしまった。

 テオ様が私の味方だと言ってくれた。

 ……テオ様にしがみついて泣きじゃくってしまった。

 テオ様に寄りかかって眠ってしまった……。

「……」

 いつもなら恥ずかしさ以前に自己嫌悪で落ち込んでいた事態だ。

 とても立ち直れそうにない醜態だ。

 なのに――。

 今回は何故か、ケロッとした気分だ。

「……?」

 眠ってしまう時に、テオ様が何かをしていた気がする。

 パチン、と音を聞いた気がする。

 魔術なのかな? それでよく眠れたの……?

「……起きよう!」

 体はとっても元気だ。心も軽くて清々しい。

 テオ様の魔力が入ったペンダントを身につけて部屋を出た。

 トントントンと軽い足取りで階段を降りると、キッチンから焼き立てパンの匂いがしてきた。

「テオ様、おはようございますっ!」

 我ながら声が弾んでいる気がする。

 お酢とオリーブ油を混ぜてドレッシングを作っていたテオ様が振り返って私を見た。

「おはよう、シア。よく眠れたか?」

「はいっ」

 私の明るい返事にテオ様は安心したように微笑んだ。

「顔を洗っておいで。デニッシュ焼いたからな」

「は、はいっ!」

 デニッシュ……?!

 面倒くさがりのテオ様が、デニッシュを焼いた?!

 元気よく返事をした私は急ぎ足で洗面台へ行って顔を洗う。温かなお湯で洗顔するとそれだけで気分が上がった。

 鏡を見ながら身なりを整えて、右袖をピッと引っ張る。

 焼き立てデニッシュが香るキッチンへと戻って配膳のお手伝いをした。

「冷めないうちに食べよう」

「はいっ」

 とってもいい香りな焼き立てデニッシュ。

 食感が楽しいレタスとトマトと刻んだゆで玉子のサラダ。

 口当たりが優しいカボチャのポタージュ。

 旨味がギュッと濃縮したサラミソーセージとカリカリベーコンには、テオ様自家製トマトソースが添えられている。

「……っ!」

 デニッシュを頬張って思わず笑みがこぼれた。

 表面パリパリ! 中ふんわり! バターじゅわっ……!

「気に入ったか?」

「ふぁいっ」

 頬張ったままコクコク頷いて返事をすると、テオ様がとっても嬉しそうに微笑んだ。

「久しぶりに焼いたが上手くいってよかった。俺はやれば出来る」

 テオ様は口元に笑みを残したまま自画自賛して、ちぎったデニッシュを口へと入れている。そのどこか得意げな様子にフフッとなった。

 食事と食休みを終えたら、キッチンでテオ様と並んで後片付けをする。

 こうしてテオ様が隣にいると何だかとっても嬉しい。凄く安心して心がポカポカする……。

 後片付けを終えてリビングまで戻ると、テオ様がニッと笑い掛けてきた。

「俺はこれから森へ行くが、シアも一緒に来ないか?」

「森……、ですか?」

「散策にな。ベリーも生えているからつまみ食い出来るぞ? 数が採れたらジャムにしよう」

 ベリーのジャム……!

 今まで砂糖を使った物なんてほとんど食べる機会がなかった。この家に来てから食べられるようになって、甘い物と聞くとワクワクしてしまう。

 チラッと暖炉の置き時計を見ると、時間は午後を少し過ぎたばかりだ。

 帰りが遅くなるなら夕食の準備が困るかも……。

「夕飯の仕込みは済ませてあるから心配ない。どうする? 行くか?」

 テオ様がキッチンにある鍋を指差して悪戯っぽく首を傾げた。

「行きたいですっ」

 ワクワクしながら答えると、テオ様は嬉しそうに声を出して笑った。

「じゃあ一緒に行こう。長ズボンに履き替えて、長袖の上着を持っておいで。肌を小枝とかで引っ掛けて怪我しないためにな」

「はいっ」

 早足で階段を上って部屋へと戻りクローゼットを開けた。テオ様が買い揃えてくれた衣類の中から紺色の長ズボンとブラウンの上着を取り出して着替える。

 逸る気持ちを抑えて階段を降りると、すでにテオ様が待っていた。

 テオ様はいつものサンダルから黒いブーツに履き替えていて、紺色の上着を羽織っていて、腰に革ポーチを着けている。

 いつもと違う雰囲気に何だかワクワクする。

「行こうか」

「はいっ」

 玄関を開けると、午後の陽射しが眩しい緑の風景がサーッと広がった。

「セブ、森へ行くぞ」

 テオ様がよく通る声で呼ぶと、庭の木陰で休んでいたセーブルが小走りで寄ってきた。

 ひとしきりテオ様に頭を撫でられたセーブルは、私達を先導するように森への小道を進んでいく。軽く尻尾が振られていて楽しそうだ。

「セブは俺が森へ行く時には必ずついてくる。番犬役というよりも、純粋に俺との散歩が楽しいんだろうな」

 テオ様がフフッと笑って歩き出したので、私はその少し後ろをついて歩く。

 初めて入った森の中は木漏れ日が明るくて気持ちがいい。

 肺をいっぱいに満たす新鮮な空気。

 草木を揺らす抜けるような風。

 こだまする色々な鳥の鳴き声。

 時々セーブルが振り返って私達を確認している。葉っぱや枝を踏む四本足の足音が賑やかで楽しい。

「転ばないようにな」

「はいっ」

 森の中はほとんど獣道だ。ちょっとだけ歩きにくいけれど、これはこれで楽しい。

 木々の間隔が開いているから適度な木漏れ日があって、光と緑のコントラストが本当に綺麗。

 森林の瑞々しい空気が美味しい……。

 ――と、ふいにセーブルの足音が止まった。

「?」

 前を見ると、静止したセーブルが獣道とは違う方向をじっと見ている。

 え? なに? なにかいるの……?

 ちょっとだけ不安になったけれど、私の前にいるテオ様が警戒していないから怖くない。

 テオ様と一緒にセーブルの近くまで行って同じ方向を見てみるけれど……、私には全然わからない。

「あの、テオ様。何かがいるんですか……?」

 小声でおずおずと訊いてみると、小さくフッと笑ったテオ様が離れた木の影をこっそりと指差す。

「……?」

 そのままじっと見ていると……、カサカサと落ち葉を踏む音がして、木の影から動物がモソモソと出てきた。

 体は小型犬よりも大きい。ずんぐりとした体型で、顔は小さくて、耳も小さくて、尻尾は太くて短い……。

「アナグマだ」

「へぇー……」

 テオ様に小声で教えてもらって、思わず声が漏れた。

 あれが、アナグマ……。

 お肉の状態でしか見たことがない。

 アナグマはモソモソとした動きで落ち葉の間を漁っている。動作とフォルムがちょっと可愛い。

「初めて見ました……」

「生きた状態では案外見ないかもな」

「あれは何をしているんでしょうか?」

「虫かカエルでも探しているんじゃないか?」

「に、肉食なんですか……?」

「雑食だから木の実とかも食うぞ。鋭い爪と牙があるが、意地悪しなければ襲ってはこないさ」

「へぇー……」

 見守っている間に、アナグマはまた木の影へと隠れて見えなくなってしまった。

 テオ様に促されて歩き出したセーブルの後をついていく。再び楽しい森歩きだ。

「この大森林にはあんな感じで普通の動物もいる。うまく魔獣と住み分けが出来ているんだろう」

「なるほど……」

 狂暴な魔獣が相手だったら、モソモソ動くアナグマなんてすぐにやられてしまう。そもそも危険な魔獣が住むのはもっと森の奥深くだそうだ。

 そんな話をしながらしばらく歩いていくと……、風に乗って水の匂いがしてきた。

 前の森が明るく開ける。

「うわぁ……」

 そこには綺麗な泉が広がっていた。

 水がとても澄んでいて、水中に繁茂した鮮やかな緑色の水草がよく見える。

 白い花を咲かせた水草の間を、小さな魚がキラキラと鱗を輝かせながら泳いでいる。

 水鳥達が水面でのんびりとしていて、時折気持ちよさそうに羽を羽ばたかせている。

 空を写す水面が風で清らかに波打って、様々な表情へと変化していく。

 泉の周囲には綺麗な草花が咲いていて、何だかとても神秘的な場所だ。

「綺麗な場所……」

「地下水が湧いているんだ。ここは俺も気に入っている」

 そう言って、テオ様はググーッと背伸びをした。

「シア、ベリー摘みはしたことあるか?」

「えっと、一応は」

 バルカの頃に町外れの林でしたことがある。砂糖菓子なんて食べられない私には手軽に食べられる甘味だった。

「確かあの辺だったなぁ……。お、あった」

 そう言いながらテオ様は泉周囲の草地を進んで行き、木陰の茂みを指差した。

 小さな赤いベリーが見える。

「のんびりしながらベリー摘みしようか」

「はい。えっと――」

 摘んだ物はどうすれば……と、私が言うよりも前に、テオ様は腰のポーチからズルッとカゴを取り出した。言うまでもなくポーチに入る大きさじゃない。

 ……うん。これくらいなら私は驚かない。この一ヶ月でテオ様の突飛な行動と魔術にはそこそこ慣れてきた気がする。

 セーブルは私達の後ろで伏せて昼寝を始めた。耳が動いているから周辺警戒はきちんとしているようだ。

「トゲに気を付けろよ?」

「はいっ」

 ベリーの枝にはトゲがあるから、ベリー摘みで夢中になっていると痛い目に遭う。経験したことがあるからよく知っている。

 ベリーを潰さないように気を付けながらプチプチと摘んでいく。とてもいい香りがする。

 試しに一粒食べてみた。

 んーっ、ちょっと酸っぱくて口がキュッてなるけれど後が甘くて美味しい……。

「……シア、そーっとあっちを見てみな」

 ベリーをつまみ食いしていたら、テオ様が隣で楽しげに囁きながら茂み前方にある森の中を指差した。

 茂みから顔を上げて言われた通りにそーっと覗き見てみると……、離れた位置にある木漏れ日の中に白い小さな動物がいた。

 ……ウサギに似ているけれど、ウサギじゃない。

 木漏れ日を受けた白い毛が淡く橙色に光って見える。

 大きい垂れ耳が鳥の翼みたい。

 体長の半分くらい長い尻尾がある。

 頭から尻尾まで毛が長くて、ふわっふわな綿毛みたい。

「ウサギ……、ですか?」

 戸惑いながら小声でテオ様に訊くと、テオ様は私を見ながらフワッと微笑んで小声で答えた。

「通称ハネウサギだ。臆病な魔獣だからすぐに逃げられる」

「……あ、あれが魔獣なんですか?」

 魔獣って厳つくて狂暴で怖い獣ばかりだと思っていた。

 あんな可愛い魔獣もいるんだ……。

「逃げる際に体毛から光る粉を放出して相手を怯ませて、その隙に高速で飛んで逃げるんだ」

「……と、飛んで……?」

 あの翼みたいな耳を一生懸命にパタパタさせて飛ぶのだろうか?

 想像したらちょっと可愛い……。

「あの特徴的な毛皮目当てに狩猟対象とされやすい。だが見つかりにくい上に逃げ足が早いからな、狩猟難易度は高い」

「へぇー……」

 そんなやりとりをしていたら、何かにビクッとしたウサギが橙色に光る粉を放ったと同時に残像を残してパッと消えた。

 えっ?

 後にはウサギの輪郭を残した光る粉が舞うのみ……。

 呆気にとられた私の反応に、テオ様が楽しそうにクックックッと笑っている。

「……お、思っていた以上の逃げ足でした……」

「だろ?」

 テオ様は満足げに言ってプチプチッとベリーを摘んだ。

 その後もおしゃべりと小休憩をしながらベリー摘みを続けて、やがてベリーでカゴがいっぱいになった。

 テオ様は慣れた様子でカゴをポーチへとしまう。どういう仕組みなんだろう?

「テオ様、そのポーチは魔道具ですか?」

 不思議に思って訊ねると、テオ様はポーチを軽く叩いて答えてくれた。

「いや、魔術具だ。収納魔術の術式を組んである」

「魔術具……?」

 魔術具って何だろう? 魔道具とは違うのかな?

 ますます不思議に思っていると、テオ様がポーチの中を見せてくれた。

 中は文字通りに真っ暗闇だ。ポーチの横幅も底も、何も見えない。

 試しにおそるおそると手を入れてみたけれども……、何も触れない。完全に未知の空間が広がっている。

「魔道具は魔力で動くが、あれは魔術じゃない。系統で言えば錬金術だ」

「あの、錬金術がわからないです……」

「ま、ふんわり聞いておけ」

 説明に困ったテオ様が軽く首を傾げて苦笑した。

「魔術具は魔術師が魔力を用いて作成した物のことだ。身近な物だとパントリーで肉を入れている戸棚だな。俺が保存の術式を組んだから、あれも魔術具と呼べる」

「なる、ほど……?」

「シアのそれも魔術具だぞ?」

 テオ様は私が首から下げているペンダントを服の上からつついた。

「単に魔石へ魔力を入れただけじゃないし、ただの組紐じゃない。シアを守るようにと様々な術式を仕込んである」

「……っ」

 思わず服の上からギュッと石を握った。

 テオ様が私を守るように作ってくれたんだ……。

 何だかとっても心がくすぐったい。嬉しい。

 勝手に顔が綻んでいる私の頭をテオ様が優しく撫でた。

「さて、と。道を変えて寄り道しながら帰ろうか」

 テオ様はそう言うけれど、ここまでは一本道だった。森の中を普通に歩くのかな?

 私がそう思っていると、テオ様はセーブルへと視線を向けた。

 セーブルは相変わらず伏せの体勢だけれど、目を開けてこちらを見ている。

「セブ、行くぞ」

 呼ばれたセーブルがスクッと体を起こして、体をブルブルッと震わせた。

 すると――。

 セーブルの体が青白く光った――と思った次の瞬間、なんとセーブルの体が馬以上の大きさへと変化した。

「!」

 お、大きい……っ。

 四つ足の状態なのに、頭の高さがテオ様の頭よりも上にある。

 地面をガッシリと踏む大きくて立派な前足と後ろ足。

 長くふっさりとした尻尾。

 凛々しい顔立ち。肉厚な耳。

 いつも通りに穏やかなグレーっぽい青い瞳。

 それより何より、胸元のもふもふ感が数倍増しになっている……!

「これが本来の姿だ。普段は邪魔だから小さくなっている」

 テオ様はそう言いながらセーブルのもふもふした胸元を撫でた。凄く羨ましい。

 普段のセーブルも大型犬サイズだから大きいんだけれど、確かにこの状態と比べれば全然小さい。

 それにしても、もふもふ……。

「触っていいぞ?」

 つい釘付けになっていたら、テオ様が苦笑してそう言ってくれた。

 い、いいの? 本当にいいのっ?

「え、っと……。セーブル、触るね?」

 本犬に断って、私はテオ様が触っていた胸元辺りへと手を伸ばした。

 セーブルはチラッと私を見たけれど嫌がる様子はない。警戒ではなく見守られている感じだ。

 表面を被う毛はちょっと硬めでしなやか。

 その下へと指を潜らせていくと……、そこには温かくて柔らかな毛が無限に広がっていた!

「っ!」

 うわぁ……っ! もふもふの海だぁぁ……っ!

 誘惑に負けて思わず肘まで埋めて堪能してしまった。

 顔を近付けるとお日様のいい匂いがする。お昼寝好きなセーブルらしい匂いだ。

「このセブをソファにして昼寝すると最高だ」

 うわ、絶対に気持ちいいやつだ。羨ましいっ。

 そう思ってテオ様を見ると「また今度な」と笑われてしまった。

「セブ、伏せ」

 テオ様が言うと、セーブルはのっそりと伏せの体勢になった。その背中へとテオ様が慣れた様子でひらっと飛び乗る。

 えっ。

「ほら、おいで」

 テオ様が自分の前をポンポンと叩いて私を呼ぶけれど……、私は驚いて動けない。

「え、えぇ……っ? の、乗って大丈夫なんですか?」

「余裕だから大丈夫。ほら、おいで。セブを踏んで登っていいから」

 そ、そう言われても……。

 セーブルは大きいから私が跨いで乗るためには足場がないと難しい。だからと踏みつけるのはさすがにちょっと……。

 躊躇って動けないでいると、テオ様が私へと手を伸ばしてきた。

「シア、掴まって」

「は、はいっ」

 名前を呼ばれて反射的に掴まると体をグイッと引っ張り上げられて、私は軽々とセーブルの背中へ乗ってしまった。体が浮いたから魔術も使ったんだと思う。

 セーブルの背中は思っていた以上に安定感がある。豪華な毛並みの効果なのかお尻も痛くない。

 ……それよりも、背中側のテオ様が気になりすぎる。

「俺のことは椅子の背もたれとでも思っておけ。揺れが怖かったらセブの毛を鷲掴みにしていいからな。むしり取る勢いで掴んでもセブは微塵も痛くない」

 テオ様が無茶なことを言ってくる……。

「セブ」

 私が狼狽えている間にテオ様がセーブルに声を掛けた。

 セーブルがのそりと立ち上がる。

「わっ、わっ」

 反動で体が不安定になったけれど、テオ様がサッと私の体に手を回して支えてくれた。胸がバクバクする。

「大丈夫か?」

 大丈夫じゃないですっ!

「大丈夫ですっ!」

 上擦った声で心と正反対の返事をすると、テオ様は楽しげに笑って私から手を離した。

「セブ、ポリアの群生地を経由して帰るぞ」

 セーブルはテオ様の声に返事するかのように少し頭を上げて歩き始めた。

 たぶんセーブルは普通に歩いているんだろうけれど、犬は人間よりも速く歩くし、そもそもの一歩が大きいから更に速く感じる。

 乗り心地はとてもいい。揺れも大きくないし座り心地も安定している。むしろ適度な揺れが心地いい。

「安定しているだろう? 俺を乗せるのに慣れているからな。セブも楽しんでいる」

 そう言われると、セーブルの軽やかな足音が楽しげに聞こえてくる。

 高い位置だから森の景色がさっきとはまた違って見える。

 風が気持ちいい……。

 やがて目の前が開けて、陽だまりの草原へと出た。

 白色や紫色のスズランみたいな花をつけた野草が広がっていて、風を受けて揺れている。

「リラックス効果があるポリアという薬草だ。お茶にしても美味いし、枕元に置くだけでもよく眠れる」

 テオ様が説明してくれた。

 風に乗ってほんのり甘くて爽やかな香りがしてくる。

「いい匂い……」

「ちょっと摘んでいくか」

 そう言ってテオ様はセーブルを立ち止まらせた。

「シア、降りるか?」

「えっと……。やめておきます」

 このまま高い位置からこの風景を眺めていたい。

 テオ様はフッと笑って、立ったままのセーブルから危なげなく飛び降りた。

「ちょっと待ってな」

 テオ様はポーチから折り畳みナイフを取り出した。ポリアの中へと踏み入って、手慣れた様子で選別して摘んでいく。

 私はセーブルの上からその様子を眺める。作業をするテオ様をこの高さから見るって新鮮な気分だ。

 私は気持ちいい空気で深呼吸して空を見上げた。

 少しずつ夕方へと向かっている空は高く、真綿のような雲が穏やかに流れていく。

 平和だなぁ……。

「こんなもんか」

 軽い花束二束分くらいのポリアを抱えたテオ様が満足げに戻ってきた。摘んだポリアはポーチへと入れられる。

 テオ様は立ったままのセーブルへと軽く飛び乗った。空中を踏み台にしたように見えた。

「さて、帰ろうか」

「はいっ」

 帰る、という言葉がとても嬉しい。

 今はあの家が、私が帰る場所なんだ……。

 セーブルは道なき森を迷いなく進んでいく。頼もしい四つ足で草や小枝を踏む音が楽しい。

「シア、疲れたか?」

 目を閉じて風や足音に耳を傾けていると、テオ様がそう声を掛けてきた。

 眠そうに見えたのかな?

「いえ、大丈夫です。何だか楽しくって」

 テオ様は「そうか」と少し嬉しそうな声で応えた。

「あの泉は特別な夜に行くと素敵な光景が見られるんだ。今度行ってみようか」

「素敵な光景?」

「内緒だ」

 ちょっと振り返ってテオ様を見ると、テオ様はフフッと悪戯っぽく笑っている。次に行く時のお楽しみ、というわけだ。

 次があるって、こんなに嬉しいことなんだ。

 心がポカポカしてくる……。

 そうして初めての森歩きは平和に終わって、夕日が射し始めた頃に家へと帰ってきた。

 私達を降ろしたセーブルはいつもの大きさへと戻ると、玄関から入ってすぐの廊下で眠り始めた。

「俺は夕飯の支度を済ませるから、シアは物置から花瓶を探してポリアを活けてくれるか? 活けたらシアと俺の部屋に置いて欲しい」

 テオ様はリビングのテーブルへとポリアを出した。

 脱いだ上着とポーチは雑にポイッとソファへ投げ置いている。こういう動作は男の人って感じだ。

「わかりました」

 そう答えた私は洗面台で手を洗ってから物置部屋へ入った。ここには掃除道具以外に消耗品の買い置きや普段使わない雑貨が仕舞われている。

 見つけた花瓶に水を入れて、リビングのテーブルでポリアを活ける。浮き彫り模様がある乳白色の花瓶に、白色と紫色の小さな花がよく映えて可愛い。

 落とさないように気を付けながら、私とテオ様の部屋へとそれぞれ運んでいく。置き場所に悩んだけれど、物書き机の上にした。

「ひっくり返さないでね、リンクス」

 テオ様のベッドで寛いでいたリンクスに声を掛ける。……たぶん聞いてくれている、はず。

 本当のセーブルがあんな姿なら、リンクスも違った姿なのだろうか?

「リンクスも本当は大きいの?」

 本猫に直接訊いてみたけれど、リンクスはごろ寝で忙しいみたいだ。

 ポリアを広げていたテーブル上を片付けて食卓を整えていると、キッチンから複雑なトマトソースの香りがしてきた。

 テオ様はトマトが好きだから、テオ様が作る料理にはトマトを使った物が多い。味はいつもとても美味しい。

「シアー、配膳手伝ってくれー」

「はいっ」

 テオ様に返事をしてお手伝いをする。

 食欲をそそるミートボールのトマト煮込み。

 マスタードが隠し味のポテトサラダ。

 優しい味わいなキノコと玉ねぎとベーコンのスープ。

 ふんわりと温めた丸パン。

 面倒だと言いながらも手間をかけた料理を用意するのだから、テオ様って根はとても真面目なんだよね……。

「美味しいですっ!」

 このトマト煮込み凄い……! トマトソースに色んな野菜が溶け込んでいる!

 ミートボールに味がうんと染みていて、噛むと肉汁とソースがじゅわっとしてとても美味しい……!

「だろ?」

 テオ様が自慢げだ。ソースにパンを浸して食べている。

 うわ、それ絶対に美味しい……!

 早速私も真似をしてみる。

「……っ」

 うーん、間違いないお味だぁ……。幸せ……。

「リー、頼むから汚さないでくれよ?」

 テオ様の呟きに顔を上げて見ると、リンクスが小皿に取り分けたミートボールを食べていた。

 毛並みにトマトソースがついたら厄介だ。汚れたらお風呂に入れるんだろうか?

 食事を楽しんで後片付けを終えると、テオ様がお気に入りの茶葉でお茶を淹れてくれた。

 テオ様と並んでソファに座って、まったりとした時間を過ごす。

 何だか落ち着くなぁ……。

「先に風呂入って、早くおやすみ」

 小さく欠伸をしていたら、テオ様がそう言ってくれた。

「はぁい……」

 眠気を我慢して風呂場へ行き、お風呂に入る。

 この一ヶ月で慣れたけれど、温かなお湯に浸かれるのって幸せ……。

「んー……」

 湯船の中で腕を撫でるように擦ると肌がしっとりしてくる。気持ちいい……。

「……」

 右腕の奴隷印をそっと撫でる。

 これまで嫌なこともたくさんあったけれど……、今は本当に幸せだ。

 パシャパシャッとお湯で顔を洗って、お風呂から出た。

 リビングを覗くと、テオ様はソファで寝転がってくつろいでいた。

「テオ様、おやすみなさい」

「ああ。おやすみ、シア」

 こんな何気ないやりとりも幸せだ。

 自分だけの部屋があることも幸せだし、気持ちのいいベッドも、柔らかな毛布も幸せだ。

 ポリアの落ち着く香りがしてくる。

「今日は楽しかったなぁ……」

 毛布に体を馴染ませて無意識に呟いていると、私はいつの間にか幸せな眠りへと落ちていった。

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